第30話:英雄を、二度と
夜明けが、砕けた施設の、瓦礫を、白く、照らしていた。
カイは、腰の封印鎖に、手を、当てた。最奥環は、締まっている。自分の、意志で。もう、緩んでは、いなかった。十年、この鎖に、自分を、縛りつけられている気が、していた。だが、今は、少しだけ、違った。縛られているのでは、ない。自分で、締めている。それだけの、違いが、こんなにも、軽かった。
「先輩」ノエルが、隣に、来た。「大丈夫、ですか」
「ああ」カイは、東の空を、見た。「……ノエル。渦の中に、飛び込んでくるのは、やめろ。危ない」
「やめません」ノエルは、きっぱりと、言った。「先輩が、渦の底にいる限り、私は、何度でも、飛び込みます。……それが、背中を、預けるってことでしょう?」
カイは、少しだけ、口の端を、緩めた。要塞の夜と、同じ、返し方だった。
*
王都へ戻ると、局長室に、ヴェルナーが、待っていた。
机の上に、ロゼの提出した、監督記録の、控えが、あった。そして、その隣に、バルカからの、新しい通達が。「暴走リスク予防措置令状は、装置の破損により、執行不能。措置を、取り下げる」――合法の檻は、砕けた術式盤と共に、無効に、なっていた。
「戻ったか」ヴェルナーは、平らに、言った。「……装置を、自分で、砕いたそうだな。封印を、緩められる寸前に。自分の意志で、止まった、と」
「局長」カイは、問うた。ずっと、問えずにいたことを。「あなたは、この令状のことを、最初から、知ってたはずだ。バルカの、本当の狙いも。……なぜ、俺に、教えなかった。なぜ、庇わなかった」
ヴェルナーは、しばらく、窓の外を、見ていた。灰色の霧の、向こうを。
「教えれば、お前は、逃げた」局長は、言った。「逃げれば、暴走リスク者として、追われ、いずれ、本当に、追い詰められて、暴走したかもしれん。……庇えば、執行局ごと、潰された。私は、どちらも、選べなかった」
「じゃあ、なぜ」
「お前が、自分で、答えを出すのを、待った」
ヴェルナーは、初めて、カイを、まっすぐに、見た。灰色の霧が、一瞬、晴れたように。
「カイ。私は、この十年、ずっと、迷ってきた。執行局を、国家の駒に、するのか。国家から、守る楯に、するのか。……お前を、差し出せば、局は、安泰だった。何度も、そう、思った」
局長の声が、低く、なった。
「だが、私は、決めた。私は、執行局を、守る。国家からも。ジルドからも。……そして、お前自身の、暴走からも。それが、私の言う"秩序"だ。英雄を、二度と、生まない。二度と、道具にも、させない。——それが、この局の、存在理由だ」
カイは、その言葉を、聞いた。要塞の夜、一度だけ楯になった、あの局長。猟犬にされたカレンを、資産から人へ、引き戻した、あの一手。全て、今の、この言葉に、繋がっていた。ヴェルナーは、味方だった。ずっと。灰色の霧の、向こうで。
「ただし」ヴェルナーは、また、平らな声に、戻った。「勘違いするな。私が、お前を守るのが、この国のためか、お前のためか。……それは、私にも、分からん時が、ある。私は、聖人では、ない。次に、局と、お前を、天秤にかける日が、来たら。……その時、私が、どちらを、取るかは。私にも、まだ、分からん」
完全な、味方では、なかった。だが、敵でも、なかった。局長は、初めて、その本心の、輪郭を、見せた。それは、白でも、黒でもない。だが、確かに、カイの、隣に、立つ、灰色だった。
「……それで、十分です」カイは、言った。「味方だと、分かれば」
*
軍務卿バルカ・オルデンは、失脚しなかった。
彼は、無傷だった。地位も、権力も、そのまま。だが、その手にあった、二つの、悲願が。エルシャの死を礎にした、計画の"母胎"は、記録の墓場と共に、焼けた。そして、暴走した英雄を制御する、"第0号の完成形"は、なるはずだった男が、自分の意志で、止まったことで、否定された。
十年、積み上げた計画の、いちばん深い根と、いちばん高い頂が。同じ月に、断たれた。バルカは、無傷のまま、大きく、後退した。次の一手を、また、一から、組み直すしか、なかった。
*
王都の外れ。
カイとノエルは、丘の上から、明けていく街を、見ていた。
「先輩」ノエルが、ぽつりと、言った。「ジルドさんが、去り際に、言ってた言葉。私、ずっと、考えてます」
――お前は、"止まる"と決めた。だが、世界は、まだ、力を罪と呼び続ける。次にお前が出会う、暴走した英雄は、"止まる"ことを、選べるのか?
「先輩は、止まれました。自分の意志で」ノエルは、街を、見た。「でも、エルシャさんは、止まれなかった。ハロルドさんも、リアムさんも、止まりたくても、止まれなかった。……先輩が見つけた"止めかた"を。他の英雄たちも、選べるように、なるでしょうか」
カイは、しばらく、考えた。
「分からん」カイは、正直に、言った。「だが……それが、たぶん、次の、俺たちの、仕事だ。封印して回るだけじゃ、ない。暴走しかけた英雄が、自分で、止まれるように。その、手伝いを、する。……ジルドの言う解放でも、バルカの言う制御でもない。第三の道を」
「救う、方法ですね」ノエルが、笑った。目が、潤んでいた。「私が、ずっと、探してた」
「ああ」カイは、頷いた。「お前の、理想が。少し、形に、なりそうだ」
朝の光が、二人を、照らした。バルカは、無傷だ。ジルドは、去った。四つ巴は、まだ、盤の上に、ある。何も、終わって、いない。だが、カイの中で、十年、止まっていた時間は、確かに、動き始めていた。
「帰るぞ」カイは、背を、向けた。「局へ。次の、暴走が、待ってる」
「はい!」
背中を、預けられる位置で、二人は、明けていく街へ、並んで、歩いた。英雄を、二度と、生まないために。そして――英雄が、二度と、止まれずに、死なないために。
その頃、王都から遠く離れた辺境の村で、一人の元勇者が、震える手で、剣を執った。——それは、止まりたくても、止まれなかった、次の英雄だった。




