第29話:ほんとうの止めかた
ノエルが、渦の底の、カイの背に、両手で、しがみついた。
要塞の夜と、同じ、小さな手だった。だが、あの夜より、ずっと、強く。
「解かないで、ください」ノエルの声が、震えていた。「先輩は、先輩のままで、いてください! 力なんて、要りません! 全員の名前、覚えてる先輩のままで――!」
「駄目だ、お嬢さん」ジルドの声が、静かに、割って入った。魔杖の光は、まだ、カイの最奥環に、添えられている。「それは、優しさという名の、呪いだ。この男を、また、十年、罪の鎖に、縛りつける気か。……力を、解き放てば、彼は、自由になれる。エルシャの、望んだ姿に」
「自由なんかじゃ、ありません!」ノエルが、叫んだ。「暴走の力に、呑まれるのが、自由ですか! それは、また、誰かを、殺すかもしれない力です! 先輩が、いちばん、それを、恐れてる!」
二つの声が、渦の中で、ぶつかった。
解かないで、と。解き放て、と。ノエルの、繋ぎとめる声と、ジルドの、解放へ誘う声。カイは、渦の底で、その二つの、間に、いた。緩んだ最奥環に、手を、かけたまま。
*
――ほんとうの、止めかたを、みつけて。
エルシャの、声が、蘇った。
カイは、十年、その言葉を、探してきた。ジルドは、「殺さず救う方法」だと、言った。ノエルは、「あなたのままでいること」だと、言う。バルカは、「制御された力」だと、言う。
だが、どれも、違う気が、した。渦の底で、白く明滅する視界の中で、カイは、ようやく、気づいた。
エルシャは、あの日、二つのことを、言った。「わたしを、ここで、止めて」と。「いつか、ほんとうの止めかたを、みつけて」と。
"止めて"。彼女は、自分を、止めてくれ、と、願った。暴走を。呑まれることを。……ならば、"ほんとうの止めかた"も、同じ、言葉のはずだ。
止める。何を。――暴走を。誰が。
「……分かった」
カイは、掠れた声で、言った。緩んだ最奥環を、握りしめる。
「エルシャ。あんたの言った、"ほんとうの止めかた"が、やっと、分かった」
「解き放つ、ということか、カイ」ジルドが、身を、乗り出した。
「違う」
カイは、渦の底で、ゆっくりと、顔を、上げた。
「力を、解き放って、全てを、消すことでも、ない。力を、罪だと、封じ続けることでも、ない。……力に、呑まれかけた、この瞬間に。俺自身が。俺の意志で。"止まる"と、決めることだ」
カイの手が、緩んだ最奥環を、引いた。
「解かされるんじゃない。解くんでもない。……止まる。俺が、俺の力を、"使わない"と、他の誰でもない、俺自身が、選ぶ。それが、エルシャの、探してくれと言った、止めかただ」
「先輩……」
「エルシャは、あの日、暴走に、呑まれた。止まりたくても、止まれなかった。だから、俺に、"止めて"と、頼むしか、なかった」カイの声が、震えた。「だが、俺は、止まれる。彼女が、できなかったことを。……力を、封じる鎖じゃない。俺の、意志で。俺は、ここで、止まる」
*
かちり、と。
緩みかけた最奥環が――カイ自身の手で、締まった。
渦が、逆流した。装置に、こじ開けられていた封印が、外からの力ではなく、内側からの、意志で、閉じていく。カイの中で目を覚ましかけた、十年分の力が、また、静かに、奥へと、沈んでいった。今度は、ノエルの声に、繋ぎとめられてでは、なく。誰かに、締め直されてでも、なく。
カイが、自分で、止まった。
術式盤が、悲鳴のように、軋んだ。カイの封印を緩めるための力が、行き場を失い、逆流し、装置そのものを、内側から、割っていく。青白い術式盤が、中心から、砕けた。
バルカの、"最高傑作"を、作るための装置が。カイ自身の、意志で、粉砕された。
施設の、隅の水晶から、乾いた声が、漏れた。『――なるほど』バルカの声には、初めて、微かな、動揺が、あった。『暴走の中で、自我を保つどころか。……自らの意志で、暴走を、拒んだ、と。これは、想定外だ。第0号の完成形は、制御できない。制御される前に、自分で、止まってしまう』
水晶の光が、消えた。バルカは、無傷だ。だが、その悲願――暴走した英雄を制御する、十年越しの計画は、今、その完成形になるはずだった男の、たった一つの選択で、根こそぎ、否定された。エルシャの死を礎にした計画は、致命の傷を、負った。
*
ジルドは、しばらく、渦の消えた施設の中央に、立っていた。魔杖の光を、静かに、下ろして。
「……止まる、と、自分で決める、か」ジルドが、呟いた。敗北でも、勝利でもない、奇妙な、顔で。「私は、解放を、説いた。バルカは、制御を、企てた。だが、お前は、そのどちらでも、なかった。……力を、罪ともせず、資産ともせず。ただ、"使わない"と、自分で、選ぶ」
「ジルド」
「面白い」ジルドは、初めて、心から、笑った。「十年、私は、お前の"封印"を、力を罪とする、後ろ向きな諦めだと、思っていた。……だが、今のは、違った。あれは、諦めでは、ない。意志だ。お前は、力に、呑まれもせず、力から、逃げもしなかった」
ジルドは、白い装束を、翻した。
「私の思想は、変わらない。力を罪とする世界は、間違っている。それは、まだ、思う」ジルドは、去り際、振り返った。「だが――お前の、"止まる"という答えは。少し、私に、宿題を、くれた。エルシャの言葉の、私が、まだ、掴んでいなかった、半分を」
その背が、崩れた天井の、月光の中へ、消えていった。思想戦の、決着は、つかなかった。だが、二人とも、以前とは、違う問いを、抱えて、別れた。
施設に、残されたロゼが、砕けた術式盤を、見つめていた。書類挟みを、抱いたまま。動かずに。
「……ロゼ・ファルケ」カイは、立ち上がった。「あんたの、令状は、装置ごと、砕けた。もう、俺の封印は、緩められない」
ロゼは、答えなかった。氷の瞳が、砕けた術式盤を、じっと、見ていた。そして、初めて、その唇が、微かに、動いた。
「……これは」ロゼは、掠れた声で、呟いた。誰にでもなく。「本当に、国家の、合理、なのでしょうか」
カイは、その言葉を、聞いた。だが、ロゼは、すぐに、いつもの、氷の顔に、戻った。書類を、揃え直し、一礼して、暗い通路へ、去っていった。今夜も、彼女を、裁く権限は、カイには、なかった。だが、あの氷に、初めて、亀裂が、入った音を、カイは、確かに、聞いた。
カイの答え――「解き放つ」でも「封じ続ける」でもなく、力に呑まれかけたその瞬間に、自分の意志で「止まる」と決めること。エルシャが、できなかったこと。彼女が探してくれと願った、「ほんとうの止めかた」でした。
バルカの十年越しの計画は致命傷を負い、ジルドは新しい問いを得て去り、ロゼの氷に亀裂が入りました。次話、第2部の最終話。局長ヴェルナーの本心が、ついに――。
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