第15話:英雄を、二度と
旧国境要塞の大広間は、青白い光の、渦だった。
床一面に、巨大な術式盤。三本の剣を鎖が束ねた、あの意匠が、幾重にも重なり、脈打っている。ロゼの施設のものが、心臓一つだとすれば、これは――心臓を、十二、束ねた、化け物だった。
円環の縁に沿って、拘束された元勇者たちが、並んでいた。腕に管を刺され、体から、白い紋様を、噴きこぼしながら。その中に、オーウェンが、いた。
「オーウェンさん!」ノエルが、叫んだ。
術式盤の傍らに、ロゼ・ファルケが、立っていた。手元の書類挟みから、目も上げずに。
「また、あなたですか」ロゼは、静かに言った。「一つの施設を止めても、次があると、申し上げました。……ここは、その"次"の、規模です。執行官殿、あなた一人で、十二の心臓を、止められると?」
「止める」
カイは、腰の封印鎖を、解いた。
鎖が、生き物のように、空気を裂いて伸びる。十二の術式盤の、中心の中心へ。だが――鎖が、渦に触れた瞬間、カイは、膝が、揺らぐのを感じた。
封印を、こじ開ける力。それは、カイ自身が、常に、封じ込めているものと、同じ質の力だった。
渦が、呼んでいた。カイの、封じた力を。
――解け、と。
カイの腕に巻いた封印鎖の、一番奥の環が、かちり、と、緩んだ。彼の中で、十年、静かに眠っていた力が、渦に引かれ、目を覚まそうとする。視界が、白く、明滅した。この力を、解けば――ここにいる全員を、一瞬で、消せる。それほどの、暴走が、彼の中にも、眠っていた。
「――ぐ、」
カイの喉から、呻きが、漏れた。鎖を握る手が、震える。止めに来た者が、今、誰よりも、暴走に、近づいていた。
「先輩!」
ノエルの声が、渦を、貫いた。
「戻ってきてください! こっちです、私の、声のほうへ!」
ノエルが、カイの背に、両手で、しがみついた。小さな手だった。だが、その温度が、白く明滅する視界の中で、たった一つの、輪郭だった。
「先輩は、暴走なんて、しません! だって、全員の名前、覚えてる人が、力に呑まれるわけ、ないでしょう! ……戻って! 私が、背中に、いますから!」
カイの、緩みかけた環が――
かちり、と、締まった。
渦が、遠のいた。視界に、色が、戻る。背中に、ノエルの、震える体温が、あった。
「……ああ」カイは、荒く、息をついた。「悪い。少し、持ってかれた」
そして、彼は、腰を、落とした。
「ロゼ・ファルケ。あんたの言う通りだ。俺一人じゃ、十二の心臓は、重い。……だが、俺は、一人じゃない」
背中の、ノエルが、頷いた。
カイは、封印鎖を、渾身の力で、引いた。
鎖が、十二の術式盤の中心を、一息に、縫い止めた。噴き上がろうとする封印解除の力を、逆流させ、鎖の環へ、飲み込んでいく。赤と青の紋様が、悲鳴のように、軋み、割れ――
要塞が、光を、失った。
巨大な術式盤が、中心から、砕けた。円環に繋がれた十二人の元勇者から、無理やり引き戻されつつあった力が、一斉に、また、静かに、奥へと沈んでいく。管が、根元から、断ち切られた。
広間が、暗く、なった。
呻きが、止んだ。
十二人の英雄が、荒い息をつきながら、一人、また一人、意識を、取り戻していく。
「……救えた」
ノエルが、オーウェンの格子に、駆け寄った。
「オーウェンさん! また、遅くなって、ごめんなさい! 帰りましょう、今度こそ!」
「……お嬢さん、か」オーウェンが、掠れた声で、笑った。「しつこい、お人だ。……ありがたい、ことに」
*
ロゼは、逃げなかった。
砕けた術式盤の傍らで、割れた書類挟みの紙を、几帳面に、揃え直していた。そして、懐から、小さな通信の水晶を、取り出した。それは、既に、淡く、光っていた。
『――見事だ、執行官殿』
水晶から、乾いた声が、流れた。バルカの声だった。この一部始終を、遠くから、見ていたのだ。
『封印を解く力を、封印の鎖で、止める。実に、美しい。……ですが、気づきましたか。あの渦の中で、揺らいだのは、術式装置だけでは、なかったはずだ』
カイは、答えなかった。答えられなかった。
『この国で、最も危険な暴走リスクは。……その鎖の、下にある。あなた自身だ、執行官殿。十二の英雄より、あなた一人のほうが、よほど、恐ろしい』
バルカの声には、今夜も、悪意はなかった。ただ、乾いた、値踏みだけが、あった。
『今夜の"回収"は、失敗した。だが、私は、良いものを、見つけた。……次に回収すべき"資産"の、筆頭をね。楽しみにしていますよ、カイ・執行官殿』
水晶の光が、消えた。
ロゼは、揃えた書類を、胸に抱いた。そして、一礼して、暗い通路の向こうへ、去っていった。今夜も、彼女を裁く権限は、カイには、なかった。
バルカは、無傷だった。計画の、たった一つの施設を、止めただけ。そして、その代わりに――カイは、自分自身に、狙いを、つけられた。
*
夜明け前の、要塞の外。
救い出した十二人が、毛布にくるまり、白み始めた空の下に、座っていた。その中で、オーウェンだけが、立てずに、壁にもたれていた。二度、封印をこじ開けられかけた体は、もう、限界に近かった。
そして、木立の間から、白い装束の男が、現れた。ジルドだった。廃村を守り抜き、部隊を撒いて、ここへ来ていた。
「間に合ったか」ジルドは、オーウェンを、見た。「……この人は、療養院へ戻せば、また回収される。国家の手が届く限り、何度でも。分かっているだろう、カイ」
カイは、答えなかった。だが、その通りだった。執行局にも、国家にも、この老いた英雄を、守り切ることは、できない。
カイは、しばらく、白む空を、見ていた。それから、オーウェンの前に、膝を、ついた。
「オーウェン。……あんたを、国家の届かない場所へ、連れて行く者がいる」
カイは、ジルドを、目で示した。
「俺は、こいつのやり方を、認めない。間違ってると、思ってる。……だが、今の俺には、あんたを守れない。だから」
「行ってくれ」カイは、ジルドに、言った。「あんたの"救い"が、本物なら。……この人を、孫のところへ、返してやれ」
ジルドは、しばらく、カイを、見ていた。その目に、初めて、静かな、敬意のようなものが、宿った。
「……預かった」
ノエルが、進み出て、オーウェンの手に、木彫りの小鳥を、そっと、握らせた。
「約束、守れなくて、ごめんなさい。私が、孫さんのところまで、送れなくて。……でも、これだけは。ちゃんと、渡してください」
「渡すとも」オーウェンは、小鳥を、両手で、包んだ。「……あんたが、彫り直してくれた、翼だ。落として、欠けたのを。……ちゃんと、繋がってる。ありがとう、お嬢さん。あんたのおかげで、私は、二度、暗闇から、帰れた」
ノエルの目から、涙が、こぼれた。悔しさの涙でも、安堵の涙でもない。ただ、静かな、別れの涙だった。
ジルドが、オーウェンを、背に負った。元勇者たちが、一人、また一人、その後ろに、続いていく。
「なあ、カイ」
去り際、ジルドが、振り返った。
「今夜、私とお前は、同じ英雄を、救った。……なのに、明日にはまた、お前は"英雄殺し"に戻る。封印鎖を、握って。力を、罪だと、宣告して回る」
朝の光が、木立を、白く縁取り始めていた。
「カイ。力を罪とする、この世界を。……お前は、いつまで、執行し続けるつもりだ?」
カイは、答えなかった。
問いだけを残して、大賢者と、十二人の英雄の影は、白む森の奥へ、消えていった。オーウェンの背で、木彫りの小鳥が、朝日を、一度、きらりと、弾いた。
*
腰の無線が、鳴った。ヴェルナーの声だった。
『――カイ。生きているか』
「生きてます」
『バルカ様には、こう報告した。"執行局は、要塞で発生した、大規模な人為的暴走事案を、未然に鎮圧した"、と。……令状の対象、ジルド・ヴェレンティは、「発見できず、執行に至らず」だ』
カイは、無線を、握り直した。
「局長。それは――」
『私は、何も命じていない』ヴェルナーは、遮った。『お前が、勝手に、暴走事案を、止めた。書類は、そうなっている。……執行局は、暴走を止める機関だ。今夜、お前がやったのは、その、仕事だ』
灰色の霧の向こうで、初めて、局長が、楯に、なった。
令状に背いたカイを、暴走事案の鎮圧という名目で、庇っている。国家の駒だと思っていた上司が、たった今、執行局を――カイを、守る側に、立った。
「……局長は、どっちの、味方なんですか」
無線の向こうで、短い、沈黙があった。
『さあな』ヴェルナーの声は、また、平らに、戻っていた。『今夜は、庇えた。だが、次も庇えるとは、限らん。……バルカ様は、お前を、覚えた。カイ、これからは、お前自身が、狙われる。用心しろ』
通信が、切れた。
味方なのか、駒なのか。今夜、局長は、一度だけ、楯になった。だが、その本心は、やはり、灰色の霧の向こうに、あった。
*
王都へ戻る道は、長かった。
「先輩」ノエルが、隣で、ぽつりと、言った。「私たち、今夜、勝ったんでしょうか」
カイは、少し、考えた。
装置は、砕いた。十二人は、救った。だが、バルカは、無傷だ。ジルドの問いには、答えられなかった。そして、次に狙われるのは、自分自身。四つ巴の全ての手が、今、ようやく、同じ盤の上に、出そろった。まだ、何も、終わっていない。
「勝ってない」カイは、言った。「だが、負けても、いない」
彼は、東の空を、見た。夜が、明けていく。
「一人残らず、生きて、帰った。……今夜は、それで、十分だ」
ノエルは、その横顔を、見て、少しだけ、笑った。
背中を預けられる位置で、二人は、明けていく道を、並んで、歩いた。
軍務卿バルカが、次に「回収」を命じた資産の筆頭——それは、封印鎖の下に眠る、カイ自身の力だった。




