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第一章:無銘の降臨

サキが引き立てられたのは、広場の突き当たりに位置する、街で最も巨大で重厚な石造りの建物だった。

入り口には、剣と秤を組み合わせたような意匠の旗が掲げられている。


『聖刻審問所』。

建物の中は、外の喧騒を遮断したような静寂に包まれていた。

高い天井からは、空の模様を模したシャンデリアが、無機質な青白い光を落としている。床は磨き抜かれた黒大理石で、サキの泥だらけの脚が、そこに汚らわしい線を引いていく。


「……連れてまいりました。本日の『漂着物』です」

衛兵が、巨大なカウンターの前にサキを突き飛ばした。

サキは床に手をつき、荒い息を吐きながら顔を上げた。


カウンターの向こうには、灰色のローブを纏った老人が座っていた。

彼は羽ペンをインクに浸し、事務的な手つきで分厚い帳面を捲っている。老人の背後の壁には、巨大な幾何学模様の円盤が掛かっており、それが緩やかに回転するたびに「キィ、キィ」と神経を逆撫でするような音を立てていた。

審問員と呼ばれるその老人は、サキを一度も見ることもなく、ただ羽ペンを動かしながら問いかけた。


「……名、年齢、前世の職業を」

「……サ、サキ……24歳です……。事務をやっていて……休みの日は占いを……」


サキは震える声で答えた。占いをやっていたからだろうか、彼女にはこの老人の周囲に漂う空気が、ひどく澱んで見えた。だが、今の彼女にはそれを「予兆」として捉える余裕などない。ただ、寒さと羞恥心に耐えるのが精一杯だった。


「サキ。サ・キ、か。……ふむ、意味を持たぬ音節だな」

審問員は冷淡に呟くと、ようやく顔を上げた。その瞳は濁っており、人間というよりも、計算機の中身を覗き込むような無機質さに満ちていた。


「この世界『アイテ・レガリア』において、お前のような転生者は『欠片フラグメント』と呼ばれる。魂の純度は高いが、こちら側の理を持たぬ、ただの材料に過ぎん」

「材料……?」


「そうだ。お前には名前の権利がない。お前が何者であったかなど、この街の礎にはなり得ない。……しかし、その肌と年齢。……そして『占い』による直感の素養。……価値はある」

老人は、帳面の一頁に赤いインクで大きく丸をつけた。


「この街の管理法に基づき、お前の所有権を施設へ譲渡する。リグナ・ヴァリにおいて、無銘の女が生きていく唯一の道だ」

「ゆ、譲渡……? 勝手に決めないでください! 私は、帰りたいんです!」


サキが必死に叫んだ。だが、審問員の眉一つ動かない。

彼は卓上にあった、重厚な金属製の印章を手に取った。


「帰る場所など、もうない。お前は空から落ちた瞬間に、かつての世界の『理』からは切り離された。ここでは、聖刻アイテに従う者のみが存在を許される」

老人は、サキの目の前に一枚の書類を突き出した。


そこにはサキには読めない文字――おそらくはこの世界の言葉で、何らかの契約事項が並んでいる。

そして、その最下部。そこには、一つの紋章が既に刻まれていた。

欠けた三日月を抱く、白い百合の花。


「『沈黙の百合亭』……。それがお前の新しい家だ。そこで、客の欲望を飲み込むための道具として働け。それがお前に与えられた、唯一の生存許可証だ」

「……っ!」


サキが拒絶の言葉を発する前に、審問官の手にした印章が、書類の上に叩きつけられた。

『ドン』という、鈍い音が廊下に響く。


それはサキの人生が、一人の「人間」から「商品」へと、不可逆的に変換された音だった。

「連れて行け。……衣服は施設の者が用意する。今はそのままでいい。裸を見せるのも、それはそれで趣があるだろう」


審問官の言葉に、衛兵たちが下卑た笑い声を上げながらサキを掴んだ。

「いや、やめて! 放して!」


サキの叫びは、石造りの廊下の冷たい壁に反射し、虚しく消えていった。

「無銘の降臨」は、こうして終わった。

希望など微塵もない、リグナ・ヴァリという檻の中。


しかし、その地獄の門番である男の胸の中には、彼女たちがまだ気づくはずもない、静かな、けれど苛烈な炎が灯り始めていた。


サキは、自分が「占い」の才能を通じて、いつかこの世界の「運命」を書き換える力を得るなど、今は夢にも思っていない。


ただ、衛兵の荒い息遣いと、これから自分を待ち受けているであろう底知れぬ恐怖に、身体を震わせるしかなかった。


リグナ・ヴァリの街の石畳は、どこまでも冷たく、サキの流した最初の一滴の涙さえ、吸い込むことなく弾き飛ばしていた。


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