プロローグ:天からの落とし物
意識の端が、鋭い冷たさに削り取られた。
サキが最後に覚えていたのは、残業帰りのひどく冷え込む地下鉄のホームだった。黄色い線の内側で、ぼんやりとスマホの占いアプリを眺めていた。自分自身への、ほんの気休めのつもりだった。画面に表示された今日の運勢は『停滞』。変化を望むなら、思い切った行動を、と。
そんな無責任な定型文を鼻で笑い、電車を待つ群衆の、無個性で疲弊した背中を見つめていた。それが、彼女が知る「世界」の、最後にしてあまりにありふれた記憶だった。
次に感じたのは、暴力的なまでの硬質さだ。
身体の裏側を、ザラついた石の冷たさが刺す。耳の奥で、カチ、カチ、と規則的に時を刻むような、しかしどこか生物的な不気味さを孕んだ「音」が鳴り響いていた。
「……う、ん……」
重い瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、吸い込まれるような深淵の青――空だ。
だが、その空はサキの知るそれとは全く異なっていた。
空の至るところに、まるで巨大な硝子細工が空を侵食しているかのように、精緻で複雑な幾何学模様が浮かんでいた。白銀に輝くその模様は、静かに、しかし威圧的な脈動を繰り返している。それは、世界の真理を数式で書き換えたかのような、美しく、そしてこの世の道理を拒絶するほどに冷酷な意匠だった。
「……なに、これ……」
声に出そうとして、喉が焼けるように乾いていることに気づく。
それだけではない。
自分の肌に、布一枚の感触もないことに気づいた瞬間、サキの脳に戦慄が走った。
現代日本の窮屈な制服に身を包んでいたはずの彼女は、今、冷たい石畳の上に、生まれたままの姿で投げ出されていた。
「――いたぞ。また『欠片』だ」
頭上から、低く、湿った声が降ってきた。
サキは反射的に身を丸め、震える腕で胸を隠した。視線を向けると、そこには数人の男たちが立っていた。
彼らは奇妙な形の革鎧を纏い、腰には無骨な剣を下げている。まるで映画の撮影現場に迷い込んだような光景。だが、男たちの瞳に宿る色は、演技とは程遠い、乾ききった「事務的」なものだった。
周囲には、いつの間にか群衆が集まっていた。
中世ヨーロッパを彷彿とさせる、石造りの街並み。その軒先から、あるいは広場の噴水の影から、人々がサキを見下ろしている。
その視線に、憐れみはなかった。
あるのは「またか」という、道端に落ちたゴミを眺めるような、あるいは壊れた家畜を品定めするような、不快で冷酷な好奇心だけだ。
「……あ、あの、服を……」
サキは必死に声を絞り出した。だが、誰一人として助けの手を差し伸べようとはしない。
広場の中心には、巨大な時計塔のような柱が立っており、そこからも空と同じ幾何学模様が光を放っていた。その冷たい光の下で、サキの真っ白な肌はあまりにも無防備で、あまりにも異質だった。
「立ちなさい、無銘。ここは聖刻の秩序が及ぶ街、リグナ・ヴァリだ」
衛兵の一人が、サキの腕を容赦なく掴み上げた。
「いたっ……!」
爪が食い込む痛み。だが、衛兵は構わずに彼女を引きずり出す。
石畳に膝を擦り、皮膚が剥ける。血が滲むが、彼は歩みを緩めない。
「今月で三人目か。最近は、空の継ぎ目が緩んでいやがる」
「いいじゃねえか、転生者はいい値がつく。特に、若くて肌の綺麗なのはな」
衛兵たちの交わす会話の意味が、サキには分からなかった。
転生者。いい値。
ただ一つ、本能が告げているのは、自分がもはや「一人の人間」として扱われていないという、底知れぬ絶望的な事実だけだった。
サキは、自分が前世で副業としていた占いのことを思い出した。
客の生年月日を聞き、タロットをめくり、相手の未来を言葉で彩る。あの時の自分は、確かに誰かのために「意味」を生み出し、感謝されていたはずだった。
だが、今、この街を裸で歩かされる自分には、何の「意味」もない。
ただ、冷たい風に晒され、石畳を汚す「肉」の塊として、リグナ・ヴァリの街を引きずられていった。




