戦場の東京
東京の空が灰色に煙っている。ゲートから溢れ出したモンスターと自衛隊の交戦が続き、破壊された建造物から立ち上る粉塵が太陽を遮っていた。大崩壊から6時間。東京は戦場になっていた。
ゲート周辺の市街地では、自衛隊の装甲車が交差点にバリケードを組み、その後方から探索者ギルドの精鋭が迎撃態勢を敷いている。だがゲートから流出する深層モンスターは止まらない。20層以下の個体が地上に現れるのは史上初の事態だった。通常の探索者が相手にするのは5層から10層のモンスターだ。深層個体の戦闘力は文字通り桁が違う。
その戦場の地下——サードダンジョン15層で、久我山修は走っていた。
元Bランク。引退から5年。体力は全盛期の6割。だが足は覚えている。ダンジョンの通路を駆ける感覚。壁面の脈動を読み、モンスターの気配を察知する野生の勘。10年前に磨いた技術は——錆びてはいても、消えてはいなかった。
古い長剣を振るう。革の柄が手に馴染む。何百回も振った感触。ブランクを差し引いても、15層のモンスター程度なら捌ける。だが暴走状態の個体は通常より凶暴化していた。制御を失った獣。予測不能の動きが連続する。
甘い臭いがした。モンスターの体液だ。異質な、果物が腐ったような甘さ。久我山が斬り伏せた蟲型モンスターから流れ出した青い液体が、通路の床に広がっている。靴底が青い液体を踏むたびに、ぬるりとした感触が足裏に伝わった。吐き気を堪える。現役時代にはなかった反応だ。体は正直だな、と久我山は自嘲した。
「三島——!」
久我山の声が15層の通路に反響した。返事はない。暗闘が声を飲み込む。壁面の脈動が不規則に乱れ、通路全体が痙攣するように震えている。ダンジョンそのものが苦しんでいるかのようだった。
通信機が使えない。ダンジョンの暴走で内部の電磁環境が完全に狂っていた。目視で探すしかない。久我山は鼻で笑った。ハイテクが使えないなら足で稼ぐ。営業と同じだ——柊がよく言っていた言葉を、なぜか思い出した。
15層の分岐路。右か左か。久我山は壁面に手を当てた。脈動を感じる。右の通路の脈動がわずかに乱れている。何かが通った痕跡。人間か、モンスターか。壁の表面がぬるく湿っていた。生き物の体温に近い温度。ダンジョンが生きている——その事実を、指先が思い出させる。
右に走った。
3分後。通路の先に光が見えた。モンスターの発光ではない。人工的な光。スマートフォンのライトだ。
「三島!」
「久我山さん——!」
三島大輝が通路の壁に背を預けて座っていた。左肩から血が滲んでいるが、致命傷ではない。右手に剣を握ったまま。その周囲に4体のモンスターの残骸が転がっている。一人で戦い抜いたのだ。あの細い腕で。ファンボーイと呼ばれていた若者が、単独で4体の暴走モンスターを倒している。
「立てるか」
「はい。軽傷です。それより久我山さん、聞いてください。モンスターが——おかしいんです」
三島の目が異様に輝いていた。恐怖ではない。興奮。何かを発見した人間の目だ。先輩の背中を追いかけるだけだった少年の目ではない。自分の足で立ち、自分の目で見て、自分の言葉で報告する——探索者の目だった。
「暴れてるんじゃない。帰ろうとしてるんです」
◇
凛のラボに三島の報告が届いたのは、久我山が三島を連れて地上に脱出してから30分後だった。
久我山は右脚を負傷していた。脱出途中の7層で遭遇した深層モンスターとの交戦で、三島を庇って膝に直撃を受けた。古い長剣が折れた。10年間手入れし続けた相棒が、最後の仕事を終えて逝った。カーゴの店主に戻るには問題ない程度の怪我だが——もう一度ダンジョンに潜るのは無理だろう。次世代に託す男の、最後の出撃だった。
「久我山さん……剣が……」
「いいんだ。あいつも引退だ。俺と一緒にな」
久我山が笑った。痛みを堪えた、しかし晴れやかな笑み。やるべきことをやった男の顔だった。
三島の報告を聞いた凛が、アイリスのデータと照合した。
「三島くんの観察は正しい。モンスターの移動パターンを分析した結果——彼らは無秩序に暴れているんじゃない。ダンジョンの外に『出されている』」
アイリスの画面にモンスターの移動軌跡が赤い線で描かれた。一見するとランダムな動きに見えるが、パターンが浮かび上がる。全てのモンスターがゲートに向かって移動している。ダンジョンの内部から外部へ。まるで——建物から住人が追い出されるように。
「コアが試験終了処理で全モンスターの制御を手放した。制御を失ったモンスターはダンジョン内部に留まる理由がなくなり、最も開けた空間——つまりゲートの外に向かっている」
凛の声が淡々とデータを読み上げる。だが指先がキーボードの上で一瞬止まった。
「帰還行動。彼らは元々、ダンジョンの外の生物なのかもしれない。コアに制御されてダンジョン内に閉じ込められていた存在が、制御を失って——帰ろうとしている」
「帰る場所なんてないのに」
俺は呟いた。モンスターにとってのダンジョンの外は、人間の世界だ。帰還先がない帰還行動。行き場のない生き物が街に溢れ出している。
三島が俺を見た。左肩の応急処置をしながら、真っ直ぐな目で。
「先輩。俺——15層で見たんです。モンスターが壁に体をぶつけてた。何度も何度も。最初は攻撃かと思った。でも違った。あいつら——壁の向こうに行こうとしてた。ダンジョンの外じゃなくて、もっと深い階層に。帰りたい場所は外じゃないのかもしれない」
その言葉が胸に刺さった。モンスターにも帰る場所がある。制御を失って暴れているのではなく、帰る場所を探してもがいている。50層で見たガーディアンの虹色の光を思い出した。あの知性体がモンスターを「測定装置」として使っていた。道具として。試験が終わった今、道具は廃棄されるのではなく——解放されたのだ。だが解放された先に、居場所がない。
営業時代に見た光景が重なった。リストラされた同僚たちの姿。会社に尽くし、成果を出し、必要とされていた人間が、ある日突然「不要」になる。行き場を失った人間の目と、壁に体をぶつけるモンスターの姿が——どこか似ている気がした。
だが今は感傷に浸っている場合じゃない。
◇
「配信を再開する」
俺は宣言した。凛が機材を準備する間、深呼吸を三回。カメラの前に座った。
配信開始。
視聴者数が一瞬で跳ね上がった。380万。前回の真実配信を遥かに超える数字。世界中が情報を求めていた。ニュース番組がダウンし、SNSが過負荷で停止する中、俺の配信だけがダンジョンの内部情報をリアルタイムで提供できる唯一のチャンネルだった。
「現在の状況を報告する。全世界47箇所のダンジョンが同時に暴走状態にある。原因はコアの試験終了処理による制御解除。モンスターは無差別に暴れているのではなく、ダンジョン外への移動——帰還行動を取っている。つまり、攻撃が目的ではない。ただし帰還過程で人間との衝突は不可避だ」
コメント欄が多言語で埋まった。英語、中国語、韓国語、スペイン語、アラビア語——自動翻訳を通じて世界中の視聴者が俺の言葉を受け取っている。画面が各国の文字で埋め尽くされ、スクロールが追いつかないほどの速度でコメントが流れていく。
【マコト: 帰還行動——それが正しいなら、モンスターの移動ルートを予測して避難経路を設定できる。各ゲート周辺の避難計画を再構築すべきだ】
【ドクター: 深層モンスターの体液には毒性があります。交戦した方は必ず除染を。曝露から6時間以内なら中和可能】
【シロ: 全ゲートのモンスター流出速度をリアルタイム集計中。データを共有します】
コメント欄が——戦術情報の共有プラットフォームに変わっていた。各国の専門家が情報を持ち寄り、視聴者同士が翻訳し、現場の探索者がフィードバックを返す。俺の配信が世界規模の指揮所になっていた。
「東京サードダンジョン周辺の避難者は南西方向へ移動してくれ。モンスターの移動軌跡から北東方向にゲートが拡張する可能性が高い。凛、データを」
「送った。画面に重ねて表示する」
アイリスの分析データが配信画面に重なった。ヒートマップ形式でモンスターの移動予測が表示される。赤い帯が街路に沿って伸び、安全な避難経路が緑色で示される。この情報を見た現場の自衛隊や探索者が即座に動く。
リアルタイム。双方向。世界規模。
営業時代の俺が見たら笑うだろう。プレゼン資料を作り込んでクライアントの前でスライドをめくっていた男が、今は世界380万人に向けてモンスターの戦術情報をライブ配信している。だが本質は同じだ。見えたものを伝える。それだけだ。
配信を続けながら、俺は前線の映像も確認していた。東京の東部戦線で——見覚えのある白い髪が舞っていた。
神代蒼真。
Aランク探索者。鷹取誠一郎の部下——否、元部下。蒼真は今、誰の命令でもなく前線にいた。双剣が深層モンスターを斬り裂く映像が、別のストリーマーの配信で流れている。蒼真の戦闘は芸術的だった。だが背後に回り込もうとするモンスターの数が多すぎる。一人では限界がある。
配信中のインカムが鳴った。暗号化された直接回線。
「柊」
蒼真の声だった。息が荒い。戦闘の残響が背後にこだましている。風切り音。剣で何かを弾く甲高い金属音。
「蒼真。無事か」
「無事だ。だが伝えることがある」
蒼真の声が一瞬途切れた。何かを斬る音。そして再び。
「鷹取が動いた」
声の温度が変わった。戦闘の興奮ではない。冷たい怒り。
「この混乱に乗じて管理局の実権を握ろうとしてる。政府の緊急対策本部に自分を長として提案した。影山局長は大崩壊の対応に追われて政治的な動きに対処できない。今なら——通る」
風切り音が強くなった。蒼真が移動している。走りながら話している。
「俺の配信を見たのか。最深層への対話——」
「ああ。お前が世界を救う鍵なら、その功績を管理した者が次の世界のリーダーになる。鷹取はそう計算してる。あの人は昔からそうだ。盤面を読むのが誰より速い」
蒼真の声に、かすかな悲しみが混じった。かつての師への——複雑な感情。
「止めに行く」
「蒼真——」
「元Sランクの流儀ってやつを、見せてもらう必要がある」
通信が切れた。
俺はインカムを握ったまま、数秒間動けなかった。鷹取誠一郎。クロノス代表。元Sランク。あの男が——この混乱の中で動いている。
配信のコメント欄が流れ続けている。世界が崩壊する中で、人々は情報を求め、助け合い、戦っている。
【マコト: 柊さん、蒼真選手がクロノス本部に向かった模様。前線の映像から消えた】
【シロ: ……鷹取代表の政治的動き、こちらでも情報を追っています。公開データだけでも不自然な点が複数】
【ドクター: 大崩壊の最中に権力闘争ですか。人間という生き物は……】
【モンスターより人間の方が怖いまである】
【蒼真がんばれ! 鷹取を止めろ!】
俺はコメント欄から目を離した。蒼真が鷹取のもとに向かった。元Sランクと現Aランク。師弟が——衝突する。
だが俺にできることは、ここで情報を発信し続けることだけだ。自分の役割を全うする。それが今の俺にできる最善だと——営業時代から叩き込まれた原則が、胸の中で静かに響いていた。
その裏で——権力のゲームが進行していた。




