嵐の前の静寂
枕元のスマホが光っている。通知ではない。画面が勝手に点灯し、消え、また点灯している。二秒間隔。規則的な明滅。バグかと思って手に取ると——アプリの通知ではなく、画面そのものが脈動していた。ダンジョンの同期振動が、電子機器にまで干渉し始めている。
リビングに出ると、テレビが勝手についていた。
ニュースキャスターの声が部屋に流れている。「各国政府がダンジョン管理体制の緊急見直しに着手。国連安保理が臨時会合を招集——」。画面の端に速報テロップが流れ続ける。「全世界47ダンジョンで同期振動が継続中」「フランス政府がダンジョン半径2キロの避難勧告」。
俺はソファに座り、ペットボトルの水を飲んだ。常温の水が喉を通る感触がやけにリアルだった。世界が激変しているのに、水の味は昨日と同じだ。
スマホの通知音が鳴った。凛からだ。
「一颯さん、至急ラボに来てください。アイリスが異常値を検出しました」
その声には、データ分析者が最も恐れるもの——説明のつかないパターンの発見——が含まれていた。
◇
凛のラボ。渋谷の雑居ビルの地下一階。
ドアを開けた瞬間、モニターの青白い光が目を刺した。凛は三台のディスプレイの前に座っていた。眼鏡のレンズにグラフの波形が映り込んでいる。コーヒーカップが三つ、全て空。48時間、ほとんど寝ていないのだろう。
「見てください」
凛がモニターの一つを指差した。画面には全47ダンジョンの振動データがリアルタイムで表示されている。波形が上下に揺れている。だがその振幅が——。
「大きくなってる」
「はい。48時間前と比較して、振幅が1.8倍です。しかも増加率が一定ではなく、加速しています。このペースだと——」
凛のキーボードを叩く指が止まった。画面に赤い警告表示が出た。
「72時間後に振幅が限界閾値を超えます」
「限界閾値って何だ?」
「わかりません。ただ、過去のデータにこの閾値を超えた事例がないんです。アイリスの予測モデルでも、閾値超過後の挙動は『算出不能』としか出ません。つまり——前例がない」
前例がない。営業用語で言えば「過去実績なし」。つまり見積もりも出せなければ、リスクの予測もできない。最も厄介な案件だ。
凛が別のモニターに切り替えた。こちらにはアイリスの深層解析結果が表示されていた。
「それともう一つ。振動パターンを周波数分析にかけたところ——情報が含まれていました」
「情報?」
「振動の周波数変動パターンが、ダンジョンの内壁文様と同じ符号体系で構成されています。つまり、この振動は——メッセージです」
凛が眼鏡を押し上げた。レンズの奥の目が、興奮と恐怖の両方で揺れていた。
「アイリスで解読を試みましたが、完全な解読には鑑定スキルが必要です。一颯さん、これを——読めますか?」
モニターに表示された波形パターン。数値の羅列。周波数スペクトルの色分けされたグラフ。俺には科学者の目はない。だが——鑑定の目がある。
鑑定を起動した。波形データに意識を集中させる。
┌──────────────────────────────────┐
│ <振動パターン解読> │
│ │
│ 発信元:ダンジョンコア(全47基・同期送信) │
│ │
│ メッセージ種別:警告 │
│ │
│ 内容: │
│ 「被験者の開示行為を確認。 │
│ 被験者による情報公開に対する │
│ 被験種族(人類)の反応を最終測定中。 │
│ │
│ 測定結果が基準値を下回った場合、 │
│ 試験の終了手続きを開始する」 │
│ │
│ ⚠ 現在の測定値:基準値の38% │
│ ⚠ 必要値:基準値の70%以上 │
│ ⚠ 測定期限:72時間 │
└──────────────────────────────────┘
38%。基準値の38%。
俺は息を呑んだ。鑑定ウィンドウの文字が網膜に焼きつく。「試験の終了手続き」。その言葉の意味が——重い。
「凛。ダンジョンは人類の反応を見てる」
「反応?」
「俺が真実を公開した。ダンジョンが宇宙から来た試験場だと。その情報に対して人類がどう反応するかを——ダンジョンのコアが測定してる。今のところ結果は38%。合格ラインの半分にも届いてない」
凛の顔から血の気が引いた。
「つまり——人類は試験に落ちかけている、ということですか」
「ああ。各国が利権争いをして、管理局が否定して、デモが起きて、陰謀論が飛び交って——それが全部、測定されてる。ダンジョンは人類の『反応の質』を見てるんだ。真実を告げられた時に、その種族がどう振る舞うか。協力するのか、争うのか、否定するのか。それが——試験の最終問題だった」
自分で言いながら、血が凍る思いだった。俺が真実を公開した。正しいと思ってやった。しかし人類の反応が基準を下回れば——ダンジョンは試験を終了する。
試験の終了が何を意味するのか。ダンジョンの崩壊か。それとも——もっと悪いことか。
「俺のせいだ」
声が出た。自分の声が、ひどく小さかった。
「俺が公開しなければ——この測定は始まらなかった」
「一颯さん、それは——」
「わかってる。わかってるけど——」
言葉が詰まった。正しいことをした。真実を伝えた。だがその結果が人類の失格だとしたら——俺は世界を救おうとして、世界を滅ぼしたことになる。
◇
午後二時。サードダンジョン、ゲート付近。
確認しなければならなかった。鑑定ウィンドウの情報が正しいのか。振動パターンの解読に誤りがないのか。直接——ダンジョンのゲートに行って、鑑定をかける必要があった。
ゲート前に立った瞬間、異変は明白だった。
冷気。ダンジョンのゲートから噴き出す空気が、異常に冷たい。通常のゲート付近は地下特有のひんやりとした空気が漂う程度だが、今は——息が白くなるほどの冷気が噴き出していた。周囲の管理局職員が防寒着を着込んでいる。4月の東京で、ゲート前だけが真冬だった。
そして足元の振動。かすかだが、確実に地面が揺れている。靴底を通じて伝わる、低周波の脈動。心臓の鼓動のような規則的なリズム。だがその間隔が——48時間前より短くなっていた。鼓動が速くなっている。ダンジョンの心拍数が上がっている。
千歳が駆け寄ってきた。管理局の制服の上に防寒ジャケットを羽織っている。息が白い。
「柊さん! 全世界のダンジョン周辺で異常が報告されています。地殻変動——正確にはダンジョン起因の微振動が、地表にまで影響を及ぼし始めました。アメリカのイエローストーン近郊のダンジョンでは、周辺の間欠泉が通常の三倍の頻度で噴出しています」
「千歳さん。俺、一つ聞いていいか」
「はい」
「10年前——被験者Alphaがガーディアンと対話した時。その後のダンジョンに、こういう変動はあったか?」
千歳の表情が曇った。
「記録を調べました。ありませんでした。Alphaの対話は途中で中断されたからです。今回のような全世界への公開は、初めてのケースです」
前例がない。だからダンジョンも——初めての判断を下そうとしている。
俺はゲートに向けて鑑定を起動した。
┌──────────────────────────────────┐
│ <ダンジョンゲート・緊急スキャン> │
│ │
│ ゲート状態:活性化(異常値) │
│ エネルギー出力:通常の340% │
│ 内部構造:全50層で再構成プロセス進行中 │
│ │
│ <管理システム通知> │
│ │
│ 「試験終了手続きを開始しました。 │
│ 被験種族の最終評価期間:72:00:00 │
│ 評価期間終了後、試験結果に基づき │
│ 試験場の処理方針を決定します」 │
│ │
│ 処理方針候補: │
│ A) 試験継続(評価値70%以上の場合) │
│ B) 試験終了・試験場回収(評価値70%未満の場合) │
│ │
│ ⚠ 「試験場回収」の詳細:情報制限中 │
└──────────────────────────────────┘
試験場回収。
その四文字が、鑑定ウィンドウの中で赤く点滅していた。回収。ダンジョンが——回収される。全世界47カ所のダンジョンが消えるのか。それとも「回収」にはもっと破壊的な意味が含まれているのか。
「情報制限中」。詳細は教えてもらえない。だが情報は存在する。ダンジョンは知っている。回収が何を意味するのかを。
冷気が首筋を撫でた。4月の東京で、俺は震えていた。
◇
夜。自宅のリビング。
全ての電気を消した。カーテンも閉めた。暗闇の中で、俺は一人で座っていた。
鑑定を起動した。
暗い部屋の中に、鑑定ウィンドウの光が浮かび上がった。青白い光が俺の顔を照らしている。壁に影が落ちる。ウィンドウの文字が——カウントダウンを刻み始めた。
┌──────────────────────────────────┐
│ <試験終了カウントダウン> │
│ │
│ 72:00:00 │
│ │
│ 現在の評価値:38% │
│ 必要値:70% │
│ │
│ ⚠ 評価値は被験種族の行動により変動します │
└──────────────────────────────────┘
72時間。3日。たった3日で、人類は試験の合否が決まる。
鑑定ウィンドウのカウントダウンが、暗い部屋で俺の顔を照らしていた。青白い光が目の下の隈を浮かび上がらせ、この数ヶ月で十は老けた男の顔を残酷に映し出していた。
72:00:00。
数字が、71:59:59に変わった。
カウントダウンが——始まった。
俺は暗闇の中で、青白い数字を見つめ続けた。正しいことをした。そう信じていた。だが正しさは——結果を保証しない。営業時代に嫌というほど学んだ教訓だ。正しい提案が通るとは限らない。正しいデータが人を動かすとは限らない。正しい真実が——人類を救うとは限らない。
71:59:58。
71:59:57。
時間が、削られていく。




