日常の輪郭
世界は変わったが、俺のモーニングルーティンは変わらなかった。
朝七時。目覚ましが鳴る前に目が覚める。営業マン時代に叩き込まれた習慣は、ダンジョン通訳者になっても抜けない。ベッドから出て、カーテンを開けて——東京の空を見る。晴れている。大崩壊以降、東京の空は驚くほど晴れることが多くなった。ダンジョンの共存モードが大気にまでいい影響を与えているのかもしれないと凛は言っていたが、科学的根拠はまだない。
着替えて、顔を洗って、久我山の店に向かう。
徒歩三分。相変わらずの裏路地。相変わらずの薄暗い店構え。相変わらずの「OPEN」の看板が斜めに傾いている。
「おはよう」
「……ん」
久我山の返事は相変わらず最小限だった。カウンターに座ると、何も言わずにコーヒーが出てくる。深煎りの苦みが口の中に広がって、湯気が朝の空気に溶けていく。店内にはいつもの金属油の匂いと、久我山が朝一番に磨いたらしい革装備の匂いが入り混じっている。
「今日の配信、何時からだ」
「十一時。ロンドンダンジョンとの中継」
「時差きついな」
「向こうは朝の三時に起きてくれてるから文句は言えない」
久我山がカウンターを拭きながら、ちらっとこちらを見た。
「……あのさ」
「ん?」
「いや。なんでもねえ」
口下手は相変わらずだった。でも一ヶ月前より柔らかくなった気がする。目尻の皺が少し増えた。笑っているのか、疲れているのか——たぶん両方だ。
コーヒーを飲み干して店を出る。次の目的地は——凛の研究室。
◇
ダンジョン通訳者の一日は忙しい。
世界中の四十七箇所のダンジョンを巡回し、知性体のメッセージを読み取り、人間側に翻訳して伝える。逆に人間側の研究成果や問いかけを知性体に届ける。
配信はその過程を生中継する。登録者数は一千万人を超えた。世界一の配信者だと言われたが、実感はない。数字が大きすぎると実感がなくなるのは核の間でも経験済みだ。
今日はロンドンダンジョンとの中継の前に、東京第一ダンジョンの定期チェックがある。凛と合流して、アイリスのデータと鑑定のデータを突き合わせる。毎週の恒例行事だ。
「柊さん、おはようございます」
凛の研究室は管理局ビルの地下二階にある。以前は影山の管轄下で予算も人員も限られていたが、大崩壊後に予算が十倍になったと聞いた。朝霧新局長の方針転換。研究第一。
「おはよう。昨日のデータ、気になるところがあったんだけど」
「十五層の壁面パターンの変化ですよね。私も気づいてました」
凛がモニターを操作する。アイリスが収集したダンジョン壁面の紋様データが画面いっぱいに展開された。俺の鑑定ウィンドウでも同じデータを読み取っている。
┌──────────────────────────────────┐
│ <東京第一ダンジョン:定期レポート> │
│ │
│ 共存モード:安定稼働中(30日経過) │
│ モンスター活動:対話型チャレンジに完全移行 │
│ 探索者活動:交流ミッション142件完了 │
│ │
│ 壁面紋様の変化:新規パターン検出(15F) │
│ →知性体からの新メッセージの可能性 │
│ │
│ 知性体の状態:覚醒(活動限界まで推定2〜7年) │
│ 感情パターン:穏やか(安定値) │
│ 孤独指数:44%→38%(改善継続中) │
└──────────────────────────────────┘
孤独指数、三十八パーセント。一ヶ月前は四十四パーセントだった。毎日少しずつ下がっている。人間との交流が、六千二百年の孤独を溶かしていく。
「良い傾向ですね」
「ああ。でも活動限界は気になる。残り二年から七年——」
「そこは私の研究テーマです。知性体の寿命延長、もしくは休眠からの安全な覚醒方法。世界中の研究者と連携しています」
凛がキーボードを叩く。眼鏡の奥の目が真剣だ。研究者の目。大崩壊以降、凛はダンジョン研究の第一人者として世界中から注目されている。論文の引用数は天文学的な数字になっているらしい。
「あ、そうだ」
凛が唐突に手を止めた。
「今日の午後、三島さんとダンジョン演習がありますよね」
「ああ。十五層の新パターンの確認も兼ねて」
「私も行きます。フィールドデータを取りたいので」
「了解」
営業マン時代、商談の前に社内ミーティングをするのと同じだ。チームで情報を共有し、方針を確認し、現場に出る。やっていることの規模は桁違いだが、本質は変わらない。人と人を繋ぐ仕事。
◇
午後。蒼真から電話が来た。
「柊。例の件、進んでる」
「クロノスの改革か」
「ああ。『交流推進組織』に看板は替えたが、中身を変えるのが大変だ。古参が抵抗しやがる」
蒼真の声は以前より穏やかになっていた。クロノスの新マスターに就任してからちょうど一ヶ月。戦闘ギルドを交流推進組織に変革するという無茶な挑戦の真っ只中だ。
「右腕のリハビリは?」
「七割回復。双剣はまだ無理だが、片手なら戦える。——まあ、もう戦う場面は減ったがな」
共存モードでモンスターは「敵」から「対話の相手」に変わり、戦闘は必要最小限になった。蒼真のような戦闘型探索者にとっては、ある意味で失業危機だ。
「失業するかと思ったが」
蒼真が鼻で笑った。
「意外とそうでもない。対話型チャレンジでも、モンスターの動きを読む力は必要だ。戦う力と読む力は紙一重だからな」
「悪くないじゃん」
「……お前に言われたくないが。まあ——悪くない」
電話を切った後、もう一つの電話。鷹取からだった。
「柊くん。新人研修の件でね」
鷹取は引退してから、新人探索者の教育プログラムを立ち上げていた。「Sランクの技術を次世代に」というコンセプト。本人はそんなかっこいい言い方はしなかったが。
「来週の研修に、ゲスト講師として来てくれないかな。鑑定スキルの実演を新人に見せたい」
「鑑定は俺しかできないスキルですよ。実演しても参考にならないんじゃ」
「技術じゃなくて、姿勢を見せたいんだよ。ハズレスキルでも折れなかった姿勢を」
鷹取らしい。穏やかだが圧がある。断る余地のない依頼の仕方。営業時代の上司もこういうタイプだった。
「行きます」
「ありがとう。——あ、それとね」
鷹取の声が一段柔らかくなった。
「三島くんのBランク昇格審査、来週だ。推薦文は俺が書いた」
「三島が——Bランクか」
「父親のリハビリを手伝いながら、毎日鍛錬を欠かさない。実力は十分だよ。あの子は——まっすぐだ」
電話を切って、窓の外を見た。東京の空が夕焼けに染まっている。ビル群の向こうに沈む太陽。営業マン時代、この時間はまだオフィスにいた。帰るのが怖くて——帰る場所がなくて。
今は違う。
帰る場所がある。行く場所もある。待っている人もいる。
◇
夕方。東京第一ダンジョンの演習を終えて、カーゴに戻った。
カーゴは俺の移動配信基地兼自宅だ。大崩壊の後、管理局から提供された特殊車両。中にはモニター、通信設備、寝袋、そしてコーヒーメーカー。久我山に笑われたが、コーヒーメーカーは俺にとって最重要装備だ。
凛がカーゴの助手席に座っていた。演習データの整理をしている。アイリスの端末の画面に数値とグラフが並んでいる。研究者の時間は永遠に終わらない。
「柊さん」
「ん?」
「今日の十五層のデータ、面白い傾向があるんです。ちょっと見てもらえますか」
凛が端末を差し出した。受け取って——指が触れた。凛の指先は冷たかった。研究室にこもりすぎだ。
「冷たいな。暖房つけろよ」
「研究に没頭すると忘れるんです」
「営業マン時代、客先に行く前に手を温める癖があった。冷たい手で握手すると印象が悪いから」
「……そうなんですか」
凛が微笑んだ。夕日がカーゴの窓から差し込んで、凛の横顔に柔らかな影を落としている。こういう時の凛は研究者ではなく、年相応の女性の顔をする。
カーゴの窓から夕日が差し込んでいた。橙色の光が車内を満たす。核の間のコアの光と同じ色だ。孤独ではない方の橙。繋がりの橙。
「凛」
「はい」
「さっきの十五層のデータだけど——」
「いや待って」
凛が素で割り込んだ。研究者モードが解除される瞬間。丁寧語が消えて、地の凛が顔を出す。
「データの話じゃなくて。——ちょっと、目を閉じてもらえますか」
「……なんで?」
「いいから」
目を閉じた。夕日の橙が瞼の裏に透ける。核の間の記憶がよみがえる。
「開けてください」
目を開けた。
凛が——眼鏡を外していた。
初めて見る。眼鏡なしの凛の顔。アイリスの分析レンズを兼ねた眼鏡はトレードマークで、研究中はもちろん、食事中も、移動中も、いつだってかけていた。凛にとって眼鏡は——武装だ。研究者としての鎧。世界を分析可能なデータに変換するためのフィルター。
それを外した。
素顔の凛がいた。夕日に照らされた横顔。切れ長の目。通った鼻筋。薄い唇が微かに震えている。眼鏡がない分、表情が剥き出しだった。綺麗だと思った。データでもグラフでもない、生身の——。
「これが——眼鏡なしの私です。データも分析もフィルターもない、素の私」
声が少し震えていた。凛にとって眼鏡を外すことは——服を脱ぐより勇気がいることなのかもしれない。
「……なるほどね」
営業トークは出なかった。商談のクロージングでもなく、ビジネス比喩も浮かばなかった。ただ夕日の橙色が車内を満たす中で、言葉を探す必要すらないことに気づいた。
ただ——笑った。
「知ってるよ。眼鏡の有無で凛は変わらない」
「……それ、フィードバックとしては不合格です」
「じゃあ言い直す。——綺麗だよ」
凛が赤くなった。データ分析では検出不能な色。夕日のせいか、羞恥のせいか、あるいは両方か。
「そういう分析困難な発言はやめてください」
「分析しなくていいんだよ、こういうのは」
夕日がカーゴの窓を橙色に染めている。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。分析も翻訳も必要ない、ただの——沈黙。営業マン時代には耐えられなかった沈黙。今は——心地いい。
鑑定を起動しなかった。この瞬間を数値に変換する必要はない。
スマホが鳴った。桐生からのメッセージ。
「柊さん、ノンフィクションの原稿、第一章のゲラが出ました。確認お願いします。タイトルは『ハズレスキルの通訳者——元営業マン、世界を繋ぐ』にしました」
笑った。悪くないタイトルだ。
凛が眼鏡をかけ直して——少しだけ、微笑んだ。
「……次は、分析の邪魔にならないタイミングでお願いします」
「善処します」
カーゴの外で、星が一つ、夕焼けの空に光り始めていた。




