エピローグ——次の配信で会いましょう
大崩壊から三ヶ月。
東京第三ダンジョン。通称サードダンジョン。俺が配信者として初めて潜ったダンジョンで、ダンジョン通訳者としてのホームグラウンド。毎週土曜日の定期配信は、ここから始まる。
「はい、みなさんこんにちは。柊一颯です。今日もサードダンジョン定期配信、やっていきましょう」
カメラに向かって片手を上げた。配信開始から三秒。コメントが流れ始める。
【待ってました】
【マコト:定時配信確認。今日の注目ポイントは?】
【ドクター:バイタルモニター接続完了。本日も健康です】
【おっさんの土曜配信が生きがい】
【シロ:アイリスデータリンク接続完了です。本日もよろしくお願いします】
凛のコメント。「シロ」は凛の配信用ハンドルネームだ。以前は裏方だったが、大崩壊以降はダンジョン研究の広報も兼ねて、コメント欄で解説役をやっている。
そして——隣に凛がいた。
物理的に。画面の中に。今日は現地同行だ。アイリスの端末を携え、白衣の上にダンジョン用のプロテクターを着けている。眼鏡の奥の目が真剣だ。研究者の目。
「今日は白河凛研究員にも同行してもらっています。十五層の壁面パターンの変化について、リアルタイムで解説してもらう予定です」
「よろしくお願いします。あ、コメントでは『シロ』です。改めて——どうぞよろしく」
【シロ先生だ!】
【研究者の生解説つきとか贅沢すぎない?】
【眼鏡美人】
「それから——」
後ろを振り返った。
「後方警護はうちのエースです」
三島大輝が——ビシッと敬礼した。
「三島っす! Bランク探索者の三島大輝っす! 今日もよろしくお願いするっす!」
【三島くんBランク昇格おめ!!!】
【敬礼キターーー!】
【毎回律儀に敬礼するの好きwww】
【マコト:Bランク昇格審査、首席通過だったそうだ。鷹取推薦】
「はいはいはい、元気がよろしい。じゃあ行きますか」
ダンジョンに入った。
◇
共存モードのサードダンジョンは、三ヶ月前とは別世界だった。
壁面が淡い橙色に光っている。以前は暗闇だった通路が、今は温かい光で満たされている。足元は滑らかに整備され、結晶の壁面には美しい紋様が浮かんでいる。知性体が描いた模様。六千二百年の記憶が、芸術になって通路を彩っている。
そして——モンスター。
三層の角を曲がった先に、ウルフ型のモンスターが座っていた。以前なら即座に襲いかかってきたはずの個体。だが今は——尻尾を振っていた。
犬だ、犬にしか見えない。
体長は一メートル半ほどで、蒼い毛並みと琥珀色の瞳をしている。通路の壁面から漏れる橙色の光が毛並みに反射して、微かに青紫色の光沢を帯びていた。俺たちの姿を認めると耳をぴんと立てて、尻尾を左右に振り始めた。ぱたぱたと床を叩く音が、穏やかな通路に心地よく響く。
「対話型チャレンジ、開始されましたね」
凛がアイリスの端末を操作する。モンスターのデータがリアルタイムで表示された。
┌──────────────────────────────────┐
│ <対話型チャレンジ:ウルフ型モンスター> │
│ │
│ 種別:共存形態(非攻撃型) │
│ チャレンジ内容:追跡ナビゲーション │
│ →モンスターについていくと隠しエリアに案内 │
│ │
│ 感情パターン:友好的・好奇心旺盛 │
│ 尻尾の振動数:毎分120回(犬の「嬉しい」に相当) │
│ │
│ 備考:撫でることが可能です │
└──────────────────────────────────┘
「撫でることが可能です」。鑑定ウィンドウが余計な一文を追加してくる。コアの茶目っ気だろう。
「……先輩、俺撫でていいっすか?」
三島が目を輝かせていた。Bランク探索者が犬に興奮するな。
「どうぞ」
三島がウルフ型モンスターの頭を撫でた。モンスターが目を細めて、さらに激しく尻尾を振った。三島の手を舐めた。体育会系の後輩と犬型モンスター。絵面が微笑ましすぎる。
【かわいい】
【ダンジョンモンスターを撫でる時代が来るとは】
【三島くんとわんこの相性良すぎ】
【マコト:対話型チャレンジの報酬は隠しエリアの探索データ。ゲームで言えばサブクエストだな】
「一颯さん、十五層に向かいましょう。壁面パターンの変化が気になります」
凛の声で正気に戻った。そうだ、今日のメイン目的は十五層だ。ウルフ型モンスターが先導するように歩き出した。案内してくれるらしい。
十五層まで、驚くほどスムーズだった。モンスターたちはすれ違うたびに道を空け、中には会釈するような仕草をする個体もいた。ダンジョンが——生きている。敵意ではなく好意に満ちた空間。
十五層の壁面。
凛が言っていた新しいパターンがあった。従来の紋様とは異なる、新しい文字列のような模様が壁面に浮かんでいる。橙色の光が文字の輪郭をなぞり、ゆっくりと明滅している。
鑑定ウィンドウが自動で起動した。
┌──────────────────────────────────┐
│ <壁面紋様:新規メッセージ(知性体直筆)> │
│ │
│ 「他ノ同胞ガ目覚メル時 │
│ 再ビ試練ガ来ル │
│ シカシ今度ハ │
│ 汝ハ一人デハナイ」 │
│ │
│ 発信者:ダンジョンコア(東京第三) │
│ 記述日:本日 │
│ 対象:Reader(柊一颯) │
│ │
│ 付記:46体の休眠中同胞の覚醒予測時期は │
│ 現時点では算出不能 │
└──────────────────────────────────┘
他の同胞が目覚める時、再び試練が来る。しかし今度は、汝は一人ではない。
核の間で聞いた言葉と同じだ。コアがもう一度、壁面に刻んでくれた。リマインダーのように。あるいは——約束のように。
微笑んだ。カメラに向かって——いや、壁面の紋様に向かって。
「知ってます」
壁面の光がふわりと強くなった。
「だってみんなが見てますから」
配信のコメント欄を指さした。画面の向こうの——何百万人を。
【泣く】
【知ってます、は強い】
【マコト:新メッセージの記録完了。これは世界中の研究者に共有すべきデータだ】
【シロ:紋様のパターン分析、開始します。結晶構造が新しい情報を含んでいます】
【ダンジョンさん、こっちも一人じゃないよ!】
凛が隣でアイリスの端末を操作しながら、小声で言った。
「いいデータが取れました。……あと、いい画が撮れてましたよ。壁面に微笑みかける一颯さんの表情」
「それは研究データじゃなくて配信のサムネイル用だろ」
「両方です」
凛が眼鏡越しにちらっと笑った。
◇
探索を終えて、ダンジョンの入り口に戻ってきた。
夜だった。入った時は昼だったのに、五時間以上も潜っていたことになる。共存モードのダンジョンは快適すぎて時間を忘れる。営業マン時代、いい商談は時間を忘れるものだと教わったが、同じ原理かもしれない。
ゲートの前で機材を片付けながら、カメラに向き直った。
配信の締め。いつもの——恒例の挨拶。
「えー、みなさん」
コメントが一瞬だけ静かになった。みんな知っている。この前置きの後に来る言葉を。
「今日の配信はこのへんで」
【えー】
【もう終わり?】
【毎回思うけどもっと見たい】
「次の配信は来週土曜。場所は——」
一拍、間を置いた。営業プレゼンの技術だ。重要な情報の前には沈黙を入れる。聴衆の注意を引きつける。
「まだ秘密です」
【えっ】
【秘密? いつもと違う場所?】
【マコト:海外ダンジョンの可能性あり。最近の柊の渡航スケジュールから推測するに——】
【マコト推測すんなwww】
「ちょっとすごいところに行きます。楽しみにしていてください」
笑った。配信者としての笑顔。元営業マンとしての笑顔。ダンジョン通訳者としての笑顔。全部同じ顔だ。三年前のリストラされた男の顔ではもうない。でも根っこは変わっていない。自虐的で、不器用で、コーヒーがないと動けない。
「では——次の配信で会いましょう」
手を振った。
配信を切った。
赤い録画ランプが消えた。カメラのレンズに自分の顔が映り込んでいる。三十六歳の、少しだけ疲れた、でも悪くない顔。
「お疲れ様っす、先輩!」
三島がタオルを差し出してくれた。受け取って首に掛けた。
「お疲れ。今日もいい配信だった」
「俺、全然映ってなかったっすけど」
「後方警護は映らないのが仕事だよ」
「なるほどっす」
三島が納得している。素直でいいやつだ。
凛がデータの整理を終えてこちらに歩いてきた。
「一颯さん。来週の『秘密の場所』、まだ教えてもらえませんか?」
「言ったら秘密じゃなくなる」
「私は配信スタッフです。事前準備が必要です」
「……正論だな」
凛の理詰めには勝てない。いつも。
「来週はね——」
言いかけて、やめた。代わりに空を見上げた。
夜空に三日月が浮かんでいた。
細い月。雲一つない空に、くっきりと光っている。三ヶ月前、核の間から帰還した朝の空は朝日だった。今夜は月だ。どちらも同じ空。俺たちの空。
無意識に鑑定を起動していた。眼鏡のレンズ越しに三日月を見上げる。目に入るもの全てを鑑定してしまう職業病で、探索者になる前はなかった癖だ。月明かりがレンズの表面で微かに屈折して、視界の端に虹色の残光が揺れている。
鑑定ウィンドウが展開された。
┌──────────────────────────────────┐
│ <鑑定対象:地球衛星・月> │
│ │
│ 分類:天然衛星 │
│ 直径:3,474km │
│ 地球からの平均距離:384,400km │
│ 表面温度:鑑定範囲外 │
│ │
│ 備考:知性体の同胞の到達記録あり │
│ 詳細:権限不足により閲覧不可 │
│ │
│ ※Readerの鑑定範囲を超えています │
│ ※より高次の権限が必要です │
└──────────────────────────────────┘
心臓が跳ねた。読み返した、三回。
「知性体の同胞の到達記録あり」。
月に。あの月に。知性体の同胞が——到達している。
「詳細:権限不足により閲覧不可」。
俺のReader Lv.4では見えない情報がある。月に関する何か。知性体の同胞に関する何か。より高次の権限——Lv.5? そんなものが存在するのか。
鑑定ウィンドウの青い光が、夜空の三日月に重なっている。青い光と白い月光。鑑定レンズのフレームが三日月を額縁のように切り取っている。
笑った。
声を出して笑った。肩が震えるほど。隣で凛が怪訝な顔をしている。後ろで三島が首を傾げている。
「先輩? どうしたんすか?」
「いや——」
眼鏡を外した。三日月が裸眼に映った。鑑定なしの、ただの月。美しくて、遠くて、冷たくて——何かを隠している月。
眼鏡をかけ直した。鑑定ウィンドウが再び月を捉える。「権限不足により閲覧不可」。その文字が挑発的に光っている。
「……次のネタ、決まったな」
「え?」
凛が目を丸くした。
「来週の配信。場所は秘密って言ったけど——やっぱりもう少し先の話になるかもしれない。もっと大きな話になりそうだ」
「一颯さん、何を見たんですか。いや待って、鑑定ウィンドウに何が——データを共有してください。アイリスで分析します」
凛のいつもの早口が戻ってきた。研究者の血が騒いでいる。
「明日。明日ちゃんと説明する。今日は——」
三日月を見上げた。
「今日は月が綺麗だな、って話だよ」
「…………」
凛が無言になった。眼鏡の奥の目が——少しだけ赤くなった。
「それ——夏目漱石ですか」
「営業マンは文学もたしなむんだよ」
「嘘ですね。配信で使えると思っただけでしょう」
「……否定はしない」
三島が横から割り込んだ。
「え、なんすか? 月がどうしたんすか? 夏目漱石? 俺、国語苦手なんすけど」
「大人になったらわかるよ」
「俺もう大人っすけど! 二十二っすよ!」
凛が小さく噴き出した。三島が不満そうな顔をした。俺は笑った。
三人で笑った。ダンジョンのゲートの前で。夜空の下で。三日月の光の下で。
この瞬間を、鑑定する必要はなかった。
ウィンドウを閉じた。数値も分析も感情パターンも必要ない。ただの夜。ただの月。ただの仲間。ただの——日常。
リストラされた営業マンが手に入れた、かけがえのない日常。
ポケットの中でスマホが震えた。通知を見た。桐生からのメッセージ。
「柊さん。本の帯のコピー、決まりました。『ハズレは、ハズレじゃなかった——』。どうですか?」
返信を打った。
「悪くない。でも一つだけ直してほしい。『ハズレは、ハズレじゃなかった』じゃなくて——『ハズレでも、繋がれる』で」
送信した。
空を見上げた。三日月が笑っているように見えた。鑑定ウィンドウが起動しかけたが——意志の力で止めた。今はいい。今は鑑定しなくていい。
明日からまた忙しくなる。月の秘密。知性体の同胞。新しい謎。新しい冒険。
でも今夜は——ただの夜だ。
隣で凛がデータを整理している。後ろで三島が伸びをしている。遠くで久我山の店の灯りが点いている。どこかで蒼真が腕のリハビリをしている。どこかで鷹取が新人に説教をしている。どこかで影山が贖罪の論文を書いている。どこかで桐生が原稿を直している。
みんなが——いる。
ダンジョンの地下では、コアが穏やかに脈動している。橙色の光で。孤独ではない色で。波音のリズムで。六千二百年の孤独が、少しずつ、少しずつ溶けていく。
俺は眼鏡をかけ直して、三日月に向かって小さく呟いた。
「次の配信で——会いましょう」
誰に向けた言葉かはわからない。視聴者に。コアに。月に。これから出会う、まだ見ぬ知性体に。あるいは——三年前の、リストラされたばかりの、視聴者三人の配信をやっていた自分に。
大丈夫だよ。お前は一人じゃない。
夜風が吹いた。春の匂いがした。三月の東京。桜はまだ咲いていない。でももうすぐだ。
もうすぐ——咲く。




