帰還——英雄たちの朝
帰り道は、行きの百倍楽だった。
共存モードに移行したダンジョンは——優しかった。循環系統が俺を緩やかに押し上げていく。エレベーターのように。いや、もっと原始的で、もっと温かい。母親の手のひらで持ち上げられるような感覚。結晶の壁面が柔らかい橙色に光り、通路を照らしている。もう暗闇はない。
鑑定ウィンドウのナビゲーションも穏やかだった。金色の矢印が「こっちだよ」と案内してくれるが、迷う余地もないほど道は明確で、危険は皆無で。あれほど緊迫していた深層が、今は散歩道のようだった。
「凛、聞こえるか」
「——聞こえます! 通信回復してます! 柊さん、バイタルデータ全部取れてます、大丈夫ですか、怪我は——」
凛の声がクリアに戻っていた。途切れもノイズもない。共存モードで通信妨害がなくなったのだ。早口でまくし立てる凛の声に、不覚にも安堵の息が漏れた。
「怪我なし。空腹あり。コーヒー飲みたい」
「この状況でコーヒーの話ですか」
凛の声が呆れと安堵の混じった響きに変わったのが、通信越しでもわかった。
「営業マンはカフェインで動く生き物だからな」
【柊さんブレないwww】
【世界救った直後にコーヒー要求】
【マコト:帰路の通信が完全回復。共存モードの恩恵は想像以上だ。ダンジョン全域の環境が根本的に変化している】
90層、85層、80層——登る速度が速い。循環系統がエスカレーターのように俺を運んでくれる。壁面の結晶が通り過ぎるたびに橙色の光で挨拶するように瞬く。
75層に差しかかった時——足が止まった。
いや、循環系統が止めてくれた。
壁面の結晶の中に——人影があった。
三島鋼一郎。
前回見た時は結晶に完全に包まれ、仮死状態で保護されていた。だが今——結晶が溶け始めていた。共存モードへの移行で、保護の必要がなくなったのだ。結晶の表面にひび割れが走り、中から温かい空気が漏れている。
「凛、75層。鋼一郎さんの結晶が——」
「データ取れてます。バイタルサイン検出。微弱ですが——生体反応あり。生きています」
生きている。十年間、結晶に包まれて——生きていた。
結晶が砕けた。静かに、ガラスが割れるような激しさではなく、氷が溶けるような穏やかさで。橙色の光を帯びた破片が床に散らばり、結晶の内側から温かく湿った空気がゆっくりと漏れ出してくる。十年という歳月を凍結していた繭が、役目を終えて崩れていく。その中から——男が現れた。
大柄な体躯。日に焼けた肌。白髪混じりの短髪。三島大輝の面影がある。いや逆だ。三島が父親に似ているのだ。
三島鋼一郎が——目を開けた。
「——ここは」
かすれた声。十年ぶりの発声だ。喉が動くこと自体が奇跡のようだった。
「三島鋼一郎さん。俺は柊一颯です。あなたの息子、三島大輝に頼まれて——迎えに来ました」
鋼一郎がゆっくりと首を回し、周囲を見た。結晶の壁面が橙色に光る通路。十年前に飲み込まれた時とは、まるで違う景色のはずだ。
「……大輝。あいつは——」
「元気ですよ。Bランク探索者になりました。真っ直ぐで、馬鹿正直で、体育会系で——あなたに似てます」
鋼一郎が——笑った。
乾いた唇が裂け、皺だらけの顔に笑みが広がった。十年分の眠りから覚めた男の、最初の表情が笑顔だった。
「——あいつ、まだ敬礼してるか」
「しますね。やたらビシッと」
「俺が教えた。探索者に敬礼なんか要らないんだが——あいつが軍人みたいでかっこいいって言うから」
声がかすれて途切れた。体力が残っていない。十年間の仮死状態から目覚めたばかりだ。
「無理しないでください。ここからは俺が——」
「待て」
鋼一郎が俺の腕を掴んだ。骨と皮だけの手。だが握力は驚くほど強かった。
「藤堂は——真理は」
一瞬、言葉に詰まった。60層で見つけた結晶繭。藤堂真理の最後の言葉。
「……60層で、見つけました。結晶に保護された状態で。ただ——」
首を横に振った。
「生体反応は——ありませんでした」
鋼一郎が目を閉じた。長い沈黙。結晶の壁面が橙色に脈動し、二人を包んでいる。
「——そうか」
それだけ言って、鋼一郎はもう一度目を開けた。涙は流さなかった。十年間の眠りの中で、覚悟はできていたのかもしれない。あるいは——涙を流す水分が、体に残っていなかったのかもしれない。
「帰ろう」
俺は鋼一郎を背負った。軽い。体重が信じられないほど落ちている。でも温かかった。生きている人間の体温。
【三島くん見てるか お父さん目覚めたぞ】
【泣く。もう泣くしかない】
【10年ぶりの生還。医学的にありえないだろこれ】
【ドクター:結晶保護による仮死状態からの回復……前例はないが、バイタルは安定方向だ。すぐに医療チームを手配する】
【三島大輝のコメントまだ? 絶対泣いてるだろ】
三島のコメントは来なかった。たぶん——画面の前で泣いていて、文字が打てないのだろう。あいつらしい。
◇
40層で護衛部隊と合流した。
蒼真が最初に駆け寄ってきた。双剣を鞘に収め、俺の顔を見て——何も言わず、背中の鋼一郎を見て、小さく頷いた。
「悪くない」
蒼真の最上級の賛辞だ。40層の通路は共存モードの橙色の光で満たされていて、部隊員たちの顔を柔らかく照らしている。戦闘態勢で張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいくのがわかった。
クロノス部隊長が蒼真に敬礼した。三島とは違う軍隊式の正確な敬礼で、蒼真は一瞬だけ面食らったような顔をして——それから不器用に敬礼を返した。似合わないのが似合っている。
管理局の隊長が俺の前に立った。背筋を伸ばし——深く頭を下げた。
「柊一颯さん。日本ダンジョン管理局を代表して——感謝申し上げます」
「頭を上げてください。俺がやったのは話しただけです。営業マンは——話すのが仕事なので」
【そこで営業マンに帰結するのがこの男】
【管理局が頭下げてるの初めて見た】
【マコト:この部隊の出口までの所要時間を計算中。現在のダンジョン状態なら2時間以内】
鋼一郎を蒼真に預けた。蒼真は何も言わず受け取り、Aランクの身体能力で軽々と背負った。
そして——三島が来た。
走ってきた。通路の奥から全力で。部隊の間を掻き分けて、転びそうになりながら。
「親父——」
声が裏返っていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、走ってきた勢いのまま蒼真の背中に張り付いている鋼一郎の手を掴み、両手で握りしめた。大きな手が、やせ細った父の手を包み込んでいる。
「親父。大輝っす。わかるっすか。大輝っすよ」
鋼一郎が目を開けた。息子の顔を見た。十年分の時間が、その視線の中に凝縮されていた。
「……でかくなったな」
「当たり前っす。十年っすよ。十年」
「敬礼は——まだやってるか」
三島が泣きながら笑った。ぐちゃぐちゃの顔のまま、右手で——ビシッと敬礼した。
「やってるっす。毎日」
鋼一郎が微笑んだ。力のない、でも温かい微笑み。
「俺が教えたやつだ」
「知ってるっす」
蒼真が黙って鋼一郎を三島に渡した。三島が父を背負った。百八十を超える長身の息子の背中に、やせ細った父が乗る。重さはほとんどないはずだ。でも三島の目から涙が止まらなかった。背中の温かさ。十年間夢に見た温かさ。
俺は黙って見ていた。言葉はいらない。この場面に営業トークは必要ない。
◇
地上に出た瞬間——朝日が目を焼いた。
大崩壊の間、東京の空は暗雲に覆われていたと聞いた。ダンジョンの暴走が大気にまで影響を与え、三日三晩、太陽が見えなかったと。
それが——晴れた。
雲一つない空に、朝日が昇っていた。低い角度の光がゲートの出口から射し込み、俺たちを逆光で照らした。長い影が地面に伸びる。一人、二人、三人——護衛部隊の全員の影が、朝日の中に描かれている。
まぶしくて目を細めた。地下の結晶の光とは違う。自然の光。太陽の光。温かくて、まぶしくて、目が痛い。でもいい。この痛みは——生きている証だ。
ゲートの前に人がいた。
凛が最初に目に入った。白衣姿のまま——走ってきた。研究者にあるまじき全力疾走。アイリスの端末を抱えたまま、ゲートの前で立ち止まって、俺を見て——。
「——おかえりなさい」
声が震えていた。凛の声が震えるのを聞いたのは初めてだった。
「ただいま」
その後ろに久我山がいた。腕を組んで仁王立ち。ぶっきらぼうな表情。でも目が赤い。
「遅え。コーヒー冷めたぞ」
「淹れ直してくれ」
「……しょうがねえな」
桐生がカメラを構えていた。記者魂は健在だ。でもファインダーから目を離して、小さく笑った。
「いい写真が撮れましたよ、柊さん。一面トップです」
朝霧がスーツ姿で控えていた。管理局次長——いや、もうすぐ新局長か。丁寧に一礼した。
「お疲れ様でした。世界が変わりました」
「俺が変えたんじゃないです。みんなが変えたんです」
「それを言えるところが、あなたの価値です」
ゲートの脇に——鷹取が立っていた。壁に背を預けて、腕を組んで。Sランク探索者の威圧感は健在だが、表情は穏やかだった。俺と目が合って——小さく、本当に小さく頷いた。
それだけ。言葉はなかった。鷹取らしい。
少し離れた場所に止まった黒い車の後部座席で、影山が窓越しにこちらを見ていた。穏やかな表情だった。十年分の重荷を下ろした顔。贖罪は終わっていないが——始まってはいる。小さく会釈した。俺も会釈を返した。
そしてゲートの外——数千人の市民が集まっていた。警察の規制線の向こう側に。朝日の中に。誰もが空を見上げている。晴れた空を。三日ぶりの太陽を。
歓声が上がった。
俺たちの姿を認めた市民が——叫んだ。拍手した。泣いた。名前を呼ばれた。「柊さん」「一颯」「おっさん」「ありがとう」。
配信のカメラはまだ回っていた。同接数を見て——息を呑んだ。
【同接500万。配信開始以来最高値】
五百万人。核の間の三千万には及ばないが——五百万人が、この帰還を見ている。
三島が隣で父を背負ったまま、泣き笑いの顔で立っていた。朝日が二人のシルエットを金色に縁取っている。
カメラに向き直った。レンズの向こうに五百万人がいる。世界中のリビングに、スマホの画面に、オフィスのモニターに。
「えー、みなさん」
声が出た。いつもの配信の声。元営業マンの、少し低くて、少し自虐的で、でもどこか温かい声。
「無事帰ってきました。怪我なし。空腹あり。コーヒーは——」
久我山の方をちらっと見た。久我山が呆れた顔で親指を立てた。
「——これから淹れてもらえるそうです」
【久我山さんwww】
【コーヒーがこの配信のMVP】
「みんなのおかげです。ありがとうございました」
深く頭を下げた。朝日が背中に当たって温かかった。
顔を上げて——笑った。
「……でも配信はまだまだ続きます。ダンジョン通訳者の仕事、始まったばかりなので。次回もぜひ——見に来てください」
朝日の中で。晴れた空の下で。仲間たちに囲まれて。
元営業マンの新しい一日が——始まった。




