出陣前夜
電子音が鳴る。ピンポーン。大崩壊で半壊したビルの谷間に、その音はやけに場違いなほど平和だった。
蛍光灯の白い光が歩道に漏れ出している。割れたアスファルトの隙間から雑草が伸び、その先にコンビニの光。ガラス窓には養生テープがバツ印に貼られ、ひび割れを押さえていた。それでも営業している。棚には弁当が並び、コーヒーマシンが低い音を立てている。
店員の女性が「いらっしゃいませ」と言った。
マスク越しの声。疲れた目。でも——ちゃんと笑っている。世界が半分壊れた夜に、コンビニの店員は笑顔で客を迎えていた。
俺は缶コーヒーを一本取った。ブラック。営業時代から変わらない、唯一の贅沢。レジに向かう途中、窓の外を見た。半壊したビルの間を、消防車がサイレンを鳴らして走っていく。赤い回転灯が瓦礫の壁に反射して、揺れる赤い光の波紋を作った。
レジで会計を済ませた。百五十円、電子マネーのピッという音。店員の手元には消毒液のボトルが置いてあって、レジ台の角には「営業時間を短縮しております」と手書きのメモが貼られていた。
「お気をつけて」
店員がそう言った。マニュアル通りの台詞だろう。でも今夜、その言葉には百五十円以上の重みがあった。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。三月の風はまだ冷たく、缶コーヒーのプルタブを引くと金属がこすれる小さな音がした。一口飲んだ。苦い、いつもの味だ。街灯が半分以上消えた通りに、コンビニの光だけが長方形の明かりを路面に落としている。
歩いた。
半壊した商店街を抜ける。シャッターが潰れた八百屋の前で、猫が一匹、瓦礫の上に座っていた。三毛猫。欠伸をしている。世界の危機も猫には関係ないらしい。営業先で断られた日も猫は気ままだったことを思い出す。あの頃と変わらない。世界の側が変わっただけだ。猫に近づくと、にゃあ、と鳴いた。短く、ぶっきらぼうに。人間に興味はないが、一応は挨拶してやるという態度。嫌いじゃなかった。
その先に消防署があった。シャッターが全開になっていて、中では消防士たちが仮眠を取っている。折りたたみ椅子に腰かけたまま壁にもたれて眠る者、防火服を着たまま床に横になる者。何時間も出動し続けて、束の間の休息を貪っているのだろう。一人だけ起きている若い消防士が、無線機を握ったまま天井を見上げていた。目が合った。会釈を交わした。言葉は要らなかった。お互い、やるべきことがある夜だ。
交差点を曲がると、公園が見えた。避難所として使われているらしく、テントが並んでいる。簡易トイレの列。配給所の看板。自衛隊のテントに赤十字のマーク。その入口で若い母親が子供を抱いていた。毛布に包まれた小さな体。すやすやと眠っている。母親の目は起きていた。暗闇の中で、子供を守るように——ただ、起きていた。
俺は立ち止まった。
明日、ダンジョンの最深層に潜る。大崩壊を止めるために。世界を救うために——と言えば格好はつく。だが本当のところ、俺が守りたいのは何だ。
コンビニの店員。猫。子供を抱く母親。消防士。瓦礫の中でも日常を回そうとしている、名前も知らない人たち。
何者かになりたかった。リストラされてから、ずっと。鑑定というハズレスキルを掴んで、ダンジョン配信を始めて、フォロワーが増えて、仲間ができて。それでも——何者かになれた実感はなかった。
今、わかる。何者かになる必要はなかったのだ。
あの店員が明日もレジに立てるように。あの母親が明日も子供を抱いて眠れるように。それだけでいい。それだけのために、俺は明日ゲートに入る。
缶コーヒーを飲み干した。空き缶をリサイクルボックスに入れる。営業時代の癖で、分別は正確にやる。アルミ缶はアルミ缶のところへ。世界が壊れかけても、分別はする。そういう日常を守るために戦うのだから。
◇
カーゴの扉を開けた。
深夜だが灯りが点いている。作業台のLEDライトが白い光を落とし、その下で三島大輝が装備の手入れをしていた。布で金属を磨く、しゃり、しゃりという音が静かな店内に響いている。
「柊さん」
三島が顔を上げた。手元にあるのは防護チョッキのバックル。細かい砂を布で丁寧に取り除いている。
「眠れないのか」
「眠る気がないんです」
三島が笑った。照れた笑いではなく、落ち着いた笑みだった。磨いていた金具を布の上に静かに置き、両手を膝の上に乗せる仕草が、半年前にダンジョン前でうずくまっていた青年とは別人のように見える。
久我山の作業椅子を借りて座った。三島の向かい側。作業台のLEDが二人の間に白い島を作り、その外側は暗い。店の棚に並ぶ装備品が、暗がりの中で金属の鈍い光を放っていた。
「三島」
「はい」
「明日のことだが——」
「覚悟なら、とっくにできてます」
三島が磨いていた布を置いた。手が止まる。でも、震えてはいなかった。
「正直に言います。半年前、俺は柊さんの弟子になりたかった。鑑定という力に惹かれて、ダンジョンの秘密を知りたくて。でも今は——違います」
「違う?」
「弟子じゃない。チームメイトです」
三島の目がまっすぐ俺を見た。作業台のライトが瞳を照らしている。そこに映っているのは——対等な覚悟だった。
「柊さんが最深層に行く。俺は途中まで一緒に行って、できることを全部やる。弟子だから付いていくんじゃない。チームの一員として、自分の役割を果たしに行くんです」
沈黙が落ちた。布が擦れる音は止まっている。LEDの電源ユニットが低い周波数でうなっているのが聞こえた。店の外を風が吹き抜ける音。遠くでパトカーのサイレンが尾を引いて消えていく。
三島が手元のバックルを持ち上げた。磨き上げられた金属面に、作業灯の光が小さく映り込んでいる。
「久我山さんに教わったんです。装備を磨くのは性能のためじゃない。明日帰ってくるって、自分に約束するためだって」
久我山らしい。あの男は装備に命を預ける職人だ。だが同時に——装備を通じて、人の心を整える術も知っている。三島はそれを受け取ったのだ。
心地よい沈黙だった。言葉が要らない種類の。
「……生意気になったな」
「柊さんの影響です」
「それは褒め言葉か」
「はい」
三島が笑った。俺も笑った。暗い店の中で、作業台の灯りだけが二人の間にある。それで十分だった。
◇
配信部屋に戻った。
最後の個人配信。明日からは全世界同時配信に切り替わる。だから今夜は——いつもの小さな部屋で、いつものカメラの前で、いつもの俺として話す。最後の夜。
カメラの赤いランプが点灯した。小さな配信部屋に、機材のファンが低く唸る音と、窓の外から届く遠い車のエンジン音だけが満ちている。
「——よう。夜遅くにすまない」
コメント欄が動き始めた。深夜にもかかわらず、古参リスナーたちが一人また一人と集まってくる。
【マコト:待ってた。明日の作戦、概要は把握してる】
【ドクター:体調は? 無茶してないだろうな】
【シロ:同接4万。この時間にしては異常値です】
シロ——凛だ。隣の部屋にいるくせにコメント欄に書き込んでいる。いつものことだが、今夜はその几帳面さが少しだけ温かかった。
「明日の配信は全世界同時になる。37言語の字幕がつく。とんでもないことになると思う」
コメントが加速した。
【マコト:歴史が動く瞬間だな】
【ドクター:俺は配信の前にAEDの位置を確認しておく】
【名無し:初期から見てる。あの頃は同接100人だったのに】
【名無し:ハズレスキルの配信者が世界救うとか漫画かよ】
「そうだよな。漫画だよ」
俺は笑った。自分でも笑えた。リストラされた元営業マンが、ダンジョン配信で小銭を稼いでいたのが始まりだ。それが半年で、世界の命運を握る作戦の中心にいる。漫画だ。安い居酒屋で愚痴っていたあの夜の自分に教えたら、酔いが一発で醒めるだろう。
「でもな——漫画だろうと何だろうと、明日は本番だ」
カメラを見た。レンズの向こうに何万人もの視聴者がいる。でも今夜は、一人一人に話しかけるように。
「初期から見てくれてるやつ。途中から来たやつ。今日初めて見てるやつ。全員に言いたいことがある」
一呼吸。
「ありがとう」
コメント欄が一瞬、止まった。数万人が同時に息を呑んだような静寂。
「鑑定しか持ってない俺が、ここまで来れたのは——お前らが見てくれてたからだ。配信のコメントに助けられたこと、何度もある。マコトの戦略分析は実際の作戦に使った。ドクターの医療知識で命拾いした。シロのデータ解析は——まあ、今は隣の部屋にいるけどな」
コメント欄が動き始めた。静寂の後の、静かな波。
【名無し:こっちこそありがとう】
【名無し:最初の配信から見てた。あの頃のgdgd鑑定が懐かしい】
【マコト:感傷に浸るのは明日全部終わってからにしろ。今は戦略の最終確認だ】
【ドクター:マコト、お前が一番泣いてるだろ】
【マコト:うるせえ】
画面が滲んだ。目の奥が熱い。営業マン時代、クライアントの前で泣いたことは一度もなかった。どんな理不尽な叱責にも、どんな理不尽なリストラ通告にも。でも今、小さな配信部屋のカメラの前で——少しだけ、目元を拭った。
【シロ:……聞こえてます】
凛のコメントだけ、句読点がちゃんとしていた。いつも通りだ。
「明日の配信はたぶん今までで一番すごいことになります」
カメラのレンズを見つめた。
「だから——全員、見届けてください」
配信を切った。赤いランプが消える。部屋が暗くなった。
◇
ベランダに出た。
夜風が吹いている。三月の冷たい空気が肺を満たした。東京の夜景は半分消えている。大崩壊で電力が不安定になったエリアが暗く、まだ電気が通っているエリアとのコントラストが鮮明だった。光と闇のモザイク。どちらが東京の本当の姿なのか——たぶん、両方だ。
鑑定眼鏡をかけた。レンズが暗闇の中で静かに光った。普段の青白い光ではない。金色だ。コアからの直接通信が始まって以来、鑑定の色が変わった。
東の空を見た。サードダンジョンの方角。
振動が来た。
足元からではない。空気を通じて伝わってくる微弱な波動。規則的なリズム。収縮と弛緩。まるで——心臓の鼓動のように。
ドクン。ドクン。ドクン。
ダンジョンが脈打っている。地球の深部から湧き上がるようなリズムが、夜風に混じって俺の鼓膜を震わせた。手すりに置いた缶コーヒーの空き缶が、微かに震えている。振動が金属を伝って、かちかちと小さな音を立てていた。
自分の心臓に手を当てた。
同期していた。ダンジョンの鼓動と、俺の心拍が同じリズムを刻んでいる。鑑定がコアと繋がっている証拠だ。十年前、藤堂真理もこの鼓動を感じたのだろうか。彼女のペンダントから届いた最後のメッセージが脳裏をよぎる。意識が薄れていく——その切迫した言葉。明日、俺はこの鼓動の源へ向かう。藤堂が辿り着いた場所へ。
金色のレンズ越しに東京の夜を見た。半壊した街並みの中で、それでも灯っている光。コンビニの蛍光灯。避難所のテント。消防車の赤い回転灯。名前も知らない人たちが、それぞれの持ち場で夜を耐えている。
守るべきものは、ここにある。
眼鏡を外した。レンズの金色の残光が、闇の中で数秒だけ尾を引いた。明日が来る。嵐が来る。でも——準備はできた。
ベランダの手すりを握った。冷たい金属の感触。夜風が止み、東京の上空に薄い雲がかかった。その雲の向こうで星が一つ、瞬いている。
ダンジョンの鼓動は、夜通し続いていた。




