影山の決断
崩壊といっても物理的なものではない。人間の限界という意味だ。七階建ての管理局ビルの三階に設置された対策本部。百人以上の職員が三交代で詰めているはずだが、今この瞬間に意識がまともに機能しているのは半分もいないだろう。机に突っ伏して仮眠を取る者。充血した目でモニターを睨み続ける者。電話を耳に押し当てたまま壁にもたれて眠っている者。
電話が鳴りやまない。ひっきりなしに。自衛隊との連絡、各国政府からの問い合わせ、避難民の対応、モンスター被害の報告——全てが同時に押し寄せている。疲弊した職員の声が重なり合い、対策本部の空気は重く淀んでいた。コーヒーの焦げた匂いと、人間の疲労の匂い。換気が追いついていない。
俺は対策本部の隅で、状況を把握していた。影山から提供されたゲストIDで入館を許可されている。ここに来た理由はひとつ。最深層に到達するためには、管理局のリソースが不可欠だからだ。
深層マップ。特殊装備。循環系統のアクセスコード。影山が十年間にわたって蓄積してきた極秘データ。それなしには、最深層への到達は不可能に近い。
だが——そのデータの提供は、影山にとって十年間の隠蔽を全面的に認めることを意味する。
◇
局長執務室は対策本部の騒がしさとは対照的に、不気味なほど静かだった。
分厚い防音扉の向こうに、影山総司が座っていた。デスクの上には書類が山積みになり、モニターには被害状況のリアルタイムデータが流れている。だが影山の視線は——壁に掛かった一枚の写真に向けられていた。
管理局の創設記念写真。若い頃の影山が、同僚たちと並んで写っている。その写真の端に——藤堂真理の姿もあった。管理局の所属探索者として、笑顔で写っている。
千歳が執務室のドアを閉めた。俺の隣に立って、影山と向き合う。
「局長。柊さんが最深層に到達するには、管理局の深層データが必要です」
千歳の声は事務的だった。だがその目は真剣で、影山を真っ直ぐに見つめていた。朝霧千歳。管理局の若手官僚。だがこの三十六時間で、彼女は誰よりも冷静に動いていた。避難誘導の指揮、自衛隊との連携調整、情報統制——それら全てをこなしながら、俺をここに連れてきた。
「深層データを公開するということは——」
「プロジェクト・アポスル。被験者Alpha。藤堂真理の件。全てが世に出ます」
千歳が畳みかけた。影山の顔が強張った。デスクに置いた手が拳に変わり、書類の端を握り潰す。
「私の解任だけでは済まない。管理局そのものの信頼が——十年間積み上げてきた全てが瓦解する」
「もう崩壊しています」
千歳が淡々と言った。窓の外でまたサイレンが鳴る。何台目かもうわからない。救急車か消防車か、もう区別がつかない。
「三十六時間で死者二百七十三名。負傷者四千名超。世界全体では——数えきれません。大崩壊を止められるのは柊さんだけ。そのために必要なデータを出し渋って被害が拡大したら、管理局は信頼失墜どころか存在意義を失います」
影山が目を閉じた。壁の写真を見ることができなくなったように。
沈黙が流れた。対策本部の電話が防音扉を透かして微かに聞こえる。世界が助けを求めている音。
「影山さん」
千歳の声が変わった。官僚の声ではなく——一人の人間としての声。
「あなたはずっと正しいことをしたかったはずです」
影山が目を開けた。千歳を見た。二人の間に張り詰めた空気が流れる。上司と部下ではなく、人間と人間としての対峙。
「十年前、藤堂さんの件を隠蔽したのは——世界の秩序を守るためでした。パニックを防ぎ、ダンジョン管理を安定させるために。それは間違いなく、あなたなりの正義だった」
千歳が一歩前に出た。ヒールの音がカーペットに吸い込まれる。
「でも今は違います。隠すことが人を殺す状況になった。正しいことの意味が変わったんです。あの壁の写真の藤堂さんも——きっとそう思うはずです」
影山の肩が震えた。壁の写真に視線が吸い寄せられる。十年前の藤堂真理が笑っている。この場所で、この写真の前を何千回通り過ぎてきたのだろう。その度に何を思ったのだろう。
影山の手がデスクの上で握りしめられた。指の関節が白くなる。十年間——この男は一人で全てを背負ってきた。藤堂真理の失踪。鋼一郎の消息不明。プロジェクト・アポスルの真実。それらを胸の奥に沈めて、管理局長という仮面を被り続けた。
営業時代に、似たような場面を見たことがある。大きな不正を抱えた取引先の担当者が、ようやく上司に報告する決心をする瞬間。あの時の表情と——今の影山の表情は、どこか似ていた。重荷を下ろす恐怖と、下ろした後の解放感が混在する顔。
「柊」
影山が俺を見た。銀縁の眼鏡の奥の目が——初めて、官僚ではなく個人の目になっていた。
「全てのデータを提供する。深層マップ。循環系統のアクセスコード。特殊装備の仕様書。プロジェクト・アポスルの全記録。十年間隠してきた——全てだ」
影山の声が震えた。だがそれは弱さの震えではなかった。鎖を断ち切る音だった。
「公式謝罪声明も出す。私個人の責任として。管理局は——新しい体制で再出発すべきだ」
千歳が小さく頭を下げた。その目にも光るものがあった。
◇
影山が俺に直接電話をかけてきたのは、その三十分後だった。
俺は管理局のロビーで凛とオンライン通話中だった。データ転送の準備をしているところだった。ポケットの携帯が鳴る。画面に表示された名前は「影山総司」。
出た。
「柊か」
影山の声に驚いた。今まで聞いたことのない声だった。抑揚のない官僚口調が消えている。感情を押さえ込まない、素の声。低く、少し掠れていて——疲れているが、どこか晴れやかだった。
「深層マップのデータ転送を開始した。君のアナリストに直接送る。暗号化キーはこの後のメールで」
「影山さん——」
「それと、鷹取にも連絡した」
予想外の言葉だった。鷹取。クロノスの代表。管理局とは犬猿の仲だったはずの男。
「鷹取も全面協力すると言っている。クロノスのAランクチームを君の支援に回す。自衛隊との連携も鷹取が政治力でまとめる」
一瞬、耳を疑った。影山と鷹取が——手を組む。十年間対立してきた管理局とクロノスが。そしてそこに加わるのは、影山が元々敵視していた俺。三すくみが初めて同じ方向を向く。
営業時代の競合三社合同プロジェクトを思い出した。あの時は利害が一致するまでに半年かかった。今回は——世界が滅びかけるという最悪の状況が、たった三十六時間で不可能を可能にした。皮肉な話だ。
「これが——最初から正しかったんだろうな」
影山がぽつりと言った。独り言のように。
「藤堂が深層に降りた時、俺がやるべきだったのは隠蔽じゃなかった。全てを公開して、世界中の力を結集して藤堂を助けるべきだった。十年遅れたが——今からでもやる」
電話の向こうで、影山が深く息を吐いた。十年分の息。
「柊。お前に託す。藤堂を——いや、世界を。頼んだ」
通話が切れた。
俺は携帯を見つめた。画面に通話終了の表示。三分十七秒。十年間の沈黙を破るのに、たった三分十七秒しかかからなかった。
ロビーの自動販売機の横に立って、俺は天井を見上げた。管理局の天井は無機質な白。蛍光灯の光が冷たい。だがその冷たさが、今は心地よかった。頭を冷やせる。
藤堂真理。久我山修。三島鋼一郎。影山総司。鷹取誠一郎。それぞれが十年間、それぞれの形で真実と向き合い——あるいは目を逸らしてきた。その全ての糸が、今この瞬間に俺の手の中に集まっている。
元営業マンの俺の手に。ハズレスキルだと笑われた鑑定の使い手の手に。
重い。だが——逃げる気はなかった。
◇
凛のラボに戻ると、既にデータの洪水が始まっていた。
十七面モニターの全てが管理局から送られてきたデータで埋まっている。深層マップ。階層構造図。モンスター分布データ。循環系統の配管図。アクセスポイントの座標。十年分の観測記録。
「凛、統合状況は」
「アイリスに取り込み中。データ量が膨大すぎて整理に時間がかかる——けど、深層マップの統合はもう始めてる」
凛の指がキーボードの上を走る。目が画面を行き来し、データの海を泳いでいる。アイリスの処理能力をフル稼働させて、管理局の極秘データを既存のダンジョンマップに重ね合わせていく。
モニターの中央に、ダンジョンの3D立体構造が浮かび上がった。上層から深層へ。1層から50層までの既知の構造が青い線で描画される。見慣れた形。俺が何度も潜ったダンジョンの構造だ。
そしてその下に——管理局だけが把握していた未知の領域が、次々と姿を現した。51層。55層。60層。データの解像度が落ちていくが構造は続いている。70層。80層。管理局の探査プローブが到達した最深部のデータ。90層。
構造が膨張していく。画面に収まりきらない巨大さ。アイリスが自動でスケールを調整し、ズームアウトしていく。既知の50層分が画面の上部にどんどん小さく押しやられていき、その下に広がる未踏領域の規模が視覚的に圧倒してくる。
俺は鑑定を起動してモニターのデータを読み取った。
┌──────────────────────────────────┐
│ <深層構造解析> │
│ │
│ 確認済み階層:200+ │
│ 構造タイプ:可変(動的生成) │
│ コア位置:非固定(移動中) │
│ 移動パターン:不規則 │
│ │
│ ⚠ 最深層の定義が存在しない │
│ ⚠ 階層は現在も生成され続けている │
│ ⚠ コア追跡には循環系統経由が唯一の現実的手段 │
└──────────────────────────────────┘
「嘘……」
凛が息を呑んだ。キーボードを叩く手が止まった。
モニターに表示されたダンジョンの全体像。それは俺たちの想像を遥かに超えていた。
「最深層は100層じゃない」
凛の声が掠れた。データを確認し直す目が震えている。
「深さに上限がない。データ上は200層以上の構造が示唆されている。しかも——コアが固定位置にない。移動してる」
3Dマップの最深部で、金色の光点が揺らいでいた。位置が定まらない。一秒ごとに座標がずれていく。まるで生き物のように。
「階層構造自体がダイナミックに変化している。コアを中心に階層が生成され続けている——ダンジョンは今も成長してるんだ」
凛がモニターを見上げた。底なしの深淵が、画面の中で脈動していた。金色の光点がゆっくりと移動し、その軌跡が尾を引いている。生き物の動きだ。心臓が体内を巡る血液のように、コアがダンジョンの中を動いている。
成長し続けるダンジョン。移動するコア。固定されない最深層。
「でも——循環系統を使えば追える」
凛が鑑定ウィンドウの最後の一行を指差した。
「循環系統はダンジョンの血管みたいなもの。コアがどこに移動しても、血管は必ずコアに繋がっている。追跡は可能だけど——道のりは想像以上に長くなる」
俺はモニターの中の金色の光点を見つめた。あの光が藤堂真理と融合したガーディアンの位置。そしてその遥か下で——三島鋼一郎の微弱な生体信号が瞬いている。
百層どころではない。底なしの深淵。だがその深淵の果てに、助けを待つ人がいる。
最深層に到達するという計画は——想定よりも遥かに困難なものになりそうだった。




