260.
明け方。長屋の入り口が騒がしくなる。
うとうとしていた燐は「今帰ったよっての、やる?」と楽しそうに目を細め囁く佐助に小さく頷き布団から出た。
「帰って来たみたいだね」
燐と滝はほぼ同時に戸を開け顔を見合わせると、それぞれの夫を迎えに長屋の入り口へ歩く。
「はぁー、まぁたやってるよ」
視線の先には白む空を背に走って来た男に抱き着くお浜がいた。
「ほぉら続きは家でおやんな」
滝の声に一瞬離れたお浜だが、すぐ夫の手を握り、幸せそうな笑みを浮かべた。
「滝さんだって迎えに来たんだろ?」
「アタシは今更だよ」
一緒にやったら良いだろと言うお浜に顔を顰める滝。
新婚さんのラブラブっぷりって全世界共通なのかと燐は秘かに思う。
「何だ遠慮すんな滝。ほれ、まだ抱えられるぞ?」
「何言ってんだいな、もぅ」
両手を広げ歩いてくる五郎の言葉に滝は頬を染めつつ溜息を洩らす。
燐は五郎の後ろに佐助を見付けると小さく手を振った。
「おかえりなさい」
「ん。帰ったよ」
燐の側に寄った佐助は寒くないかと燐に自分の羽織を掛けると皆で歩き出した。
「そんじゃぁまた」
「寝過ごすようなら迎えに行くからなー」
軽く挨拶を交わしながら、それぞれ家の戸を開ける。
夫たちは一息つく間もなく、背負った荷の補充をし、再び城の普請へ向かうため、長居はできない。
「大変だよね」
「んー。まぁ皆はそうだろうけど」
家に戻り、風呂敷を広げ道具を確認していた佐助は、睡眠時間ほとんどないよねと心配そうに呟く燐を見上げる。
「まぁそれでも戻って来てぇってこったろ?」
最初は普請の職人たちようにと休憩小屋があるのに、何故数刻女房に会うために山を越えるのか不思議だった。
佐助は土塗れの道具に視線を移し、手入れしながら続ける。
「夜に纏めて火点けられるとか、殺されるとか。そういうの警戒してると思ってたんだけどさ」
戦の炎は確実に佐助たちが居る場所へ近付いてきていて、城の普請と言われつつ抜け穴を掘らされている自分たちがいつ処分されるかも分からない。
だが、夫たちは自分たちの懸念よりも惚れた女のことを気に掛ける方が先だと毎度話すことを燐に告げた。
「俺は分身が出せるけど、出せなくっても燐ちゃん見に帰って来てぇかな」
夜更けに一人、不安気に布団に小さく丸まっていた姿を思い出した佐助は、夫たちも同じような心境なのだろうと小さく笑む。
「ご飯、食べるよね?」
慌てたような燐の声に顔を上げた佐助は、そそくさと土間に降りる燐の背を見て、急がなくて良いと声を掛けた。
「そんな腹減ってねぇし、」
時間が無いと先に言ったからかと佐助は言葉を切ると、手入れ中の道具をその場に置き、土間へ降りる。
「あ、じゃっ寝る?布団っ」
佐助の近付く気配に燐は鍋をかき混ぜる手を止め、奥の部屋へ行こうと勢い良く振り返り、いつもと配置の違うものに躓き、体勢を崩した。
「っと、え、っと…へーき?」
よろける燐は佐助に抱き留められていると分かると、佐助の胸元で視線が定まらないまま泳ぐ。
耳まで真っ赤な燐の様子に佐助は困惑しつつ声を掛けた。
燐は自分の醜態に更に顔が熱くなるのを感じながら、距離を取ろうと緩く佐助の胸を両手で押す。
「ちょ、っと…色々と今ダメ。無理で、すみません」
「あ、ぅ…ん」
燐は佐助の腕から逃れると、一旦冷静になろうと奥の部屋へ引っ込んだ。
残された佐助は燐の行動に暫くその場に立ち尽くす。
「ええっと…」
自分が何かしたのだろうか?佐助は自分の行動を振り返ろうと、先程の燐の真っ赤な顔を思い出すと、息苦しさに思わず胸元を握った。
「なんか、良く分かんねぇけど」
強く胸元を握っていた佐助は、項まで真っ赤だった燐を思い出すと、胸の内があわだまで埋まり、思わず息を吐きその場に屈む。
「何だこれ?…今回は顔近付けてもねぇのに」
燐の顔を思い浮かべただけで、以前感じた早駆の後のような動悸が襲う。
燐の熱が移ったように熱くなる頬に佐助は手を当てながら、燐が居るであろう奥の部屋を見つめた。
「飯も食ってるし、普段より寝てんのに…何でだ?」
自分でも分からない自身の胸の内と体の不調に佐助は小さく首を傾げた。
「気を付けんだよー」
滝は手慣れた手つきで火打ち石を取り出すと、カチカチと小さな音を立てながら道中の安全を祈るように打ち鳴らした。
「やりてぇなら、今日の帰りにでも持ってこよっか?」
時代劇で見たことある!と頬を染める燐を見た佐助は、先ほどのぎこちなさがほんの少し和らいだ気がし、胸の奥が静まるのを覚え燐の耳元に顔を寄せ囁く。
「火打ち石。道中の無事を願って打つもんだよ」
「そうなんだ」
佐助の説明に感嘆の声を洩らす燐。佐助は燐の様子に苦笑しながら「行ってくる」と短く声を掛け軽く片手を上げる。
自然に返せた自分の声に、燐もほっと胸が緩み先程の強張りがほどけ小さく手を振り返した。
「無事で帰って来とくれよ」
最後まで離れがたいのかお浜に体を寄せながら手を握っていたお浜の夫が、頭を緩く撫で先に歩く一行に駆け足で追いつく様子を女たちは見送った。




