努力の残響
努力は、裏切らない。
そんな言葉を、久遠玲司は信じていなかった。
努力しても報われないことはある。才能という言葉で片づけられる差が、この世界には確かに存在する。
だからこそ、伊佐波朔夜を尊敬していた。
三系統の魔術を自在に操る、学院屈指の天才。けれど玲司は知っている。朔夜が誰よりも早く訓練場へ向かい、遅くまで術式の研究を続けていることを。
朔夜の強さは、才能だけで作られたものではない。彼が積み重ねてきた時間そのものだった。
では、その努力も経験も、何も積み重ねていない人間が突然手に入れてしまったら。
それを、強さと呼んでいいのだろうか。
◇
午前零時四十一分。
玲司の部屋には、まだ明かりが灯っていた。
机には魔術デバイスと教科書、書き込みだらけのノートが開かれている。
――近接格闘。
――戦場での回避行動。
――精密射撃。
「……やっぱり、おかしいよね」
『何がでしょうか』
「僕が使った技術、全部」
『その点については、すでに異常と判断しています』
「……もう少し、言い方ってないのかな」
『事実を正確に伝えることを優先しました』
玲司は苦笑し、表情を引き締めた。
「……ノア。もう一度、戦闘記録を比較してくれる?」
『了解しました』
青白い光が広がり、三つの映像が浮かぶ。
朔夜に襲われた夜。学院での魔術実技演習。そして、黒魔術によって変異した人工供物との戦闘。
画面の中にいるのは、すべて自分だった。同じ顔、同じ身体、同じ魔術デバイス。
けれど、動きだけが違っていた。
『第一の記録では、近接格闘に特化した運動制御を確認しています』
朔夜の拳を受け流す玲司。相手の力が集中する場所を避け、わずかな接触で軌道を変えている。
『第二の記録では、敵の術式発動間隔を利用した戦場移動が確認されました』
炎が発生する前から、安全な経路を知っているような動き。
『第三の記録では、精密射撃に必要な姿勢制御、呼吸調整、照準修正を確認しています』
人工供物の術式核を撃ち抜く玲司。呼吸も姿勢も、普段とは違っていた。
「……僕、こんなこと習ってない。練習したこともない」
『記録上、そのとおりです』
「なのに、できた」
『正確には、部分的に再現できた、です。運動制御の精度に対して身体能力が不足しています』
玲司は右肩へ視線を落とした。固定帯は外れたが、まだ痛みが残る。
「……つまり、身体は強くなってない。でも、頭の中にはやり方がある」
『その表現が最も近いと考えられます』
技術を知っているのに、習ったことがない。経験した覚えがないのに、身体が動く。
その瞬間に流れ込む、灰色の戦場や硝煙の匂い。夢にしては鮮明すぎた。
「……ノア。一つ、変なこと言ってもいい?」
『内容によります』
「……またそれ?」
玲司は小さく笑い、躊躇いながら尋ねた。
「……別の世界って、あると思う?」
『並行世界の存在を仮定する理論はあります。ただし、確定的な観測結果はありません』
「……もしさ。僕と同じ名前で、同じ顔をした人間が、別の世界にいたら」
玲司は拳を握った。
「その人が違う人生を送っていて……その経験を、僕が使ってるんだとしたら」
馬鹿げた話だと思った。それでも、ほかに説明がつかない。
『仮説としては成立します』
「……え?」
『ただし、検証可能な証拠が不足しています』
「……否定しないの?」
『否定できる根拠もありません』
ノアは三つの戦闘記録を重ねた。
『各技術には長期間の訓練による特徴と、異なる運動習慣が認められます。しかし、玲司自身に訓練履歴はありません』
「……うん」
『複数の異なる経験が外部から供給されていると仮定すれば、この不一致を説明できる可能性があります』
「……別の世界の、僕から」
『その可能性を排除することはできません』
知らない戦場。知らない技術。知らない記憶。
そして、何度も見た澪の死。
もし、すべて別の世界で起きたことなら。
「……じゃあ、僕が見た澪も、本当に……」
玲司は口を閉じた。
別の世界で澪が死んでいる。そんな可能性を認めたくなかった。
『玲司。現時点では仮説に過ぎません。未確認の事実を確定したものとして扱うべきではありません』
「……分かってる」
けれど、不安は消えなかった。
◇
翌日の放課後。
天城魔術学院、第三訓練場。
玲司は入口の前に立っていた。右肩にはまだ痛みがあり、医療班から強い負荷を伴う実技は禁止されている。
今日は基礎動作の確認だけを行う予定だった。
「……本当に、いいのかな」
「何がだ?」
「……っ!」
振り返ると、朔夜が立っていた。片手に訓練用デバイス、もう片方にスポーツドリンクを持っている。
「なんだよ。そんな驚くことか?」
「……ご、ごめん」
「それより、肩の痛みは?」
「……だいぶよくなったよ。軽い運動なら大丈夫って」
「なら、無理するなよ。ほら、入るぞ」
玲司は、その背中を追った。
◇
訓練場には模擬標的が並び、床には防護術式、壁には衝撃吸収結界が施されていた。
今日は朔夜が使用申請を出し、二人だけで利用できるようにしていた。
「……わざわざ、ありがとう」
「気にすんな。俺も練習したかったし」
朔夜は玲司へ向き直った。
「それに、俺も気になってるんだよ。お前の動き」
「……うん」
「人工供物と戦ったときの射撃も、実技演習の動きも普通じゃなかった」
「……自分でも、よく分からないんだ」
「だろうな。分かってたら、あんな無茶な動きしないだろ」
朔夜は苦笑した。
「だから今日は、お前が何をできるのか、何ができないのか、ちゃんと分ける」
「……お願い、朔夜」
「ああ。任せろ」
◇
「まず、構えてみろ」
玲司は訓練用デバイスを構えた。両足を肩幅に開く、学院で習った基本姿勢だ。
「普段はこんな感じだよな。じゃあ、あのときの射撃を思い出してみろ」
玲司は目を閉じた。
黒く変異した人工供物。その胸部の術式核。
引き金を引く直前、見えた景色。
灰色の戦場。崩れた建物。遠くの敵影。手の中にある長い銃。
呼吸を止める。肩を固定する。照準を合わせる。
無意識に足の位置と肩の角度が変わり、銃口が安定した。
『警告。未登録の運動制御パターンを検出』
「――そこまで」
朔夜が玲司の手首を掴んだ。
「今の姿勢、十秒維持できるか?」
「……うん」
玲司は構え続けた。
一秒、二秒、三秒。
五秒を過ぎたところで、右肩に痛みが走った。
「……っ」
「痛いか?」
「……右肩が、少し」
「やっぱりな。もう下ろしていい」
朔夜は玲司の肩を指差した。
「肩甲骨を固定しすぎてる。精密射撃には向いてる姿勢だけど、今のお前の筋肉じゃ長く維持できない」
「……そうなんだ」
「それに重心が後ろすぎる。反動を受ける前提なんだろうけど、今のデバイスには必要ない」
「……一回見ただけで分かるの?」
「射撃姿勢の研究も結構やったしな。一年の頃、青魔術の照準補助を調整してたんだ」
玲司は黙り込んだ。
朔夜は一年以上前から、そんな研究を重ねていたのだ。
「……朔夜って、すごいね」
「なんだよ、急に」
「……僕は今の動きがどうしてできたのかも分からないのに、朔夜は問題点まで分かるんだなって」
朔夜はしばらく玲司を見つめた。
「……お前、勘違いしてるぞ」
「……え?」
「俺だって最初から分かったわけじゃない。何百回も失敗した。姿勢を変えて、撃って、記録を見て、また修正して」
その声には、懐かしさが混じっていた。
「それを繰り返して、ようやく分かるようになったんだ」
玲司は何も言えなかった。
「お前が今やった動きは確かにすごい。でもな」
朔夜は玲司の目を見た。
「技術を知ってることと、使えることは違う」
玲司は息を止めた。
「俺は、それを身体に覚えさせるために何年もかけた。お前の頭にどれだけすごい技術があっても、身体がついてこなきゃ意味がない」
「……うん」
「だから、まずはお前の身体でできることから始めようぜ」
玲司は少し肩の力を抜いた。
「……ありがとう」
「礼は、ちゃんと上達してからでいい」
◇
訓練は地味だった。
派手な魔術も強い攻撃もない。ただ歩き、止まり、方向を変え、構える。
「右足、もう少し前」
「……こう?」
「違う。重心が高い」
「……こうかな」
「そう。そこから左に動いてみろ」
玲司はゆっくり身体を動かした。
「今のは悪くない。でも、踏み込みが少し遅い」
「……やっぱり」
「焦るなって。俺だって最初はこんなもんだったぞ」
「……嘘だ。朔夜、昔から運動神経よかったじゃん」
「まあ、それは否定しないけど」
朔夜は得意げに笑い、すぐに表情を戻した。
「でも戦闘技術は別だ。身体が動くだけじゃ勝てない」
玲司はもう一度構えた。
さっきより安定している。けれど、違和感があった。
頭の中には、もっと滑らかで速く、正確な動きがある。
動けるはずだと、何かが囁く。
玲司は無意識に踏み込みを強めた。
「――止まれ!」
朔夜の声に、玲司は動きを止めた。
「今、何しようとした?」
「……えっと」
自分でも分からない。ただ、もっと速く動ける気がした。
「お前、頭の中の動きに身体を合わせようとしてる」
「……それって」
「危ないぞ。筋肉も関節も急に強くなるわけじゃない。今の踏み込み、最後までやってたら膝を痛めてた」
玲司は膝を見つめた。
「……ごめん」
「謝るな。ただ覚えとけ」
朔夜は真剣な表情で続けた。
「どれだけすごい技術でも、今のお前が使えなきゃ意味がない」
「……うん」
その言葉は、胸の奥に深く残った。
◇
訓練が終わる頃には、外は暗くなっていた。
玲司はベンチに座り、朔夜からスポーツドリンクを受け取った。
「……ありがとう」
しばらく沈黙が続く。
「……朔夜」
「ん?」
「……僕、ちょっと怖いんだ」
「……何が?」
「……自分の力が」
玲司はボトルを握りしめた。
「今まで何もできなかったのに、急に知らないことができるようになって。でも、それが僕の力なのか分からない」
声が震えた。
「……誰かの経験を、勝手に使ってるみたいで。それって、ずるいのかな」
朔夜は黙って聞いていた。
「……ずるいかどうかは知らねえけど、少なくとも俺はそう思わない」
「……え?」
「お前が何を使ってるのか、俺には分からない。でも、あの人工供物と戦ったとき」
朔夜は玲司をまっすぐに見た。
「お前は、逃げなかっただろ」
玲司は息を止めた。
「怖かったはずだ。怪我もしてた。でも、お前は俺を助けようとした」
朔夜は少し笑った。
「それは、誰かから借りたもんじゃないだろ。お前が、自分で決めたことだ」
玲司は俯いた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
朔夜は昔からそうだった。玲司が自分を弱いと思っていても、彼の中にある何かを信じてくれていた。
「……ありがとう、朔夜」
「……別に、礼を言われることじゃねえよ」
朔夜は照れくさそうに笑い、立ち上がった。
「ほら。今日はもう帰るぞ」
「……うん」
玲司も立ち上がった。
その瞬間、頭の奥で何かが揺れた。
知らない記憶。知らない景色。知らない誰かの声。
――お前は、まだ選べていない。
玲司は、はっと顔を上げた。
だが、訓練場には誰もいない。
「玲司? どうした?」
「……何でもない」
玲司は慌てて首を振り、朔夜の後を追った。
あの声は、いったい誰のものだったのだろう。
◇
夜。
玲司は自室の机に向かっていた。
ノートには、今日の訓練で指摘された問題が並んでいる。
――筋力不足。
――重心移動の遅れ。
――踏み込み直前の余計な緊張。
――身体能力に合わない姿勢制御。
どれも地味な問題だった。
けれど、今の自分に必要なことだった。
「……ノア。今日の訓練、どうだった?」
『身体への負荷は概ね許容範囲内でした。ただし、後半に一度、過剰な運動指令を検出しています』
「……うん。朔夜に止められた」
『適切な判断です』
玲司は小さく笑った。
「……やっぱり、朔夜はすごいね」
『伊佐波朔夜の戦闘技術は、学院内でも非常に高い水準にあります』
玲司はペンを取り、ノートの一番下に書き加えた。
――今の僕にできること。
別の世界の自分が、どれだけ強かったとしても。どれだけ多くの戦場を生き抜いていたとしても。
今の自分は、まだ弱い。
朔夜のように長い時間をかけて、技術を磨いてきたわけではない。
けれど。
だからこそ、今から積み重ねればいい。
誰かの経験を借りるだけではなく、今の自分自身の経験を。
「……ノア。明日も、練習しようと思う」
『医療班の指示を守る範囲であれば、問題ありません。ただし、睡眠時間の確保を優先してください』
「……分かってるよ」
玲司は少し笑い、ノートを閉じた。
窓の外では、夜の街が静かに光っている。
その光の向こうに、まだ知らない戦いが待っていることを、玲司は知らなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
借りた経験は、確かに力になる。
けれど。
その力をどう使うかは。
今ここにいる自分が、決めなければならない。




