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黒い魔術師


 その男は、最初から玲司を待っていた。

     ◇

 午後五時四十二分。

 天城市、第七研究区画。

 夕暮れに染まった道路を、久遠玲司は一人で歩いていた。

 両側には研究棟が立ち並び、頭上には無人輸送用の軌道が走っている。普段なら職員や搬送車両で賑わう区域だが、今は奇妙なほど静かだった。

 人工供物の輸送車両が襲撃されてから三日。

 事件現場周辺は、いまだ立入制限が続いている。

「……やっぱり、何も残ってないか」

 玲司は道路脇の焦げ跡を見下ろした。

 数時間前、学院から許可された範囲で現場を見学した際、気になるものを見つけていた。

 黒い染み。

 それは先日、朔夜とともに倒した異形の人工供物に刻まれていた術式と、よく似ていた。

 しかし、今は跡形もない。

『現場の清掃記録を確認しました。午後三時十分、汚染物質の除去作業が完了しています』

 腰のホルスターから、落ち着いた声が響く。

 黒い自動拳銃型の魔術デバイス。

 そこに搭載された固有AI、ノアだった。

「……そうなんだ」

『なお、玲司様。現在地は学院への報告済み調査範囲から外れています』

「……少しだけ、気になって」

『好奇心は理解します。しかし、先日の人工供物との戦闘で生じた筋肉損傷は、完全には回復していません』

「分かってる。もう帰るよ」

 玲司は踵を返した。

 そのときだった。

『警告』

 ノアの声が変わった。

『前方に未登録の魔術反応を検出』

 玲司は足を止めた。

 道路の向こう。

 夕日を背に、一人の男が立っていた。

 黒い外套。

 深く被ったフード。

 右手には、細長い杖状の魔術デバイス。

 男は、玲司を見ていた。

「……久遠玲司」

 知らない声だった。

 しかし、その男は玲司の名前を知っていた。

「……あなたは?」

「ようやく会えたな」

 男はゆっくりと歩き出した。

「いや、正確には初対面ではないか」

 玲司の背筋に、冷たいものが走った。

「……どういう意味ですか」

「お前は知らない。それだけのことだ」

 男が立ち止まる。

 距離、約十五メートル。

「少し、確かめさせてもらおう」

 杖の先端が、黒く輝いた。

『高密度魔術反応! 玲司様、回避してください!』

「……っ!」

 玲司は反射的に横へ跳んだ。

 直後。

 先ほどまで立っていた場所のアスファルトが、音もなく裂けた。

 遅れて、破砕音が響く。

 路面に深い溝が刻まれていた。

「……なっ」

 玲司は息を呑んだ。

 何が飛んできたのか、見えなかった。

「……避けたか」

 男が呟く。

「まずは反射から、というわけだな」

 玲司はホルスターから銃を抜いた。

「……何をするんですか!」

「心配するな」

 男は杖を軽く振った。

「今すぐ殺すつもりはない」

 次の瞬間。

 玲司の左頬を、何かが掠めた。

 熱い痛み。

 指先で触れると、血がついていた。

「……っ!」

「ただし、死ぬつもりで避けろ」

 男が笑った。

「そうでなければ、意味がない」

     ◇

『対象の術式を解析中』

 ノアの声が、玲司の耳へ届く。

『黒魔術《深淵接触術式(アビス)》に類似する反応を検出。ただし、既知の術式構造と一致しません』

「……黒魔術?」

 玲司は銃を構えた。

 学院では、黒魔術について詳しく教えられない。

 認識への干渉。

 観測結果の改変。

 人格や存在状態への接触。

 危険性が高く、多くの術式が研究制限の対象となっている。

 その程度の知識しかなかった。

「……知識はあるようだな」

 男が言った。

「ならば、これが何かも分かるか?」

 男の足元に、黒い術式が広がった。

 円形の魔法陣。

 その輪郭が、一瞬だけ二重に見える。

 玲司は照準を合わせた。

「……動かないでください!」

 男は答えない。

 代わりに、ゆっくりと右手を上げた。

 玲司は引き金を引いた。

 乾いた銃声。

 魔術弾が男の胸を捉える。

 はずだった。

「……え?」

 弾丸は、男の身体をすり抜けた。

 背後の道路標識に命中し、青白い火花を散らす。

 玲司は目を見開いた。

 男は、そこに立っている。

 確かに、そこにいる。

 なのに。

「……外れた?」

『弾道計算上、命中しているはずです』

 ノアが即答した。

『対象の観測座標に異常があります』

「……観測座標?」

「見えているものが、すべて正しいとは限らない」

 男が言った。

 そして、杖を振る。

 黒い閃光。

 玲司は後方へ跳んだ。

 しかし。

 衝撃が、右脇腹を打った。

「……がっ!」

 身体が横へ吹き飛ぶ。

 玲司は道路に転がり、咳き込んだ。

 攻撃は正面から来た。

 そう見えた。

 なのに、右側から殴られた。

「……どうして」

 男は、ゆっくりと近づいてくる。

「位置を見誤る。それだけで、戦闘は成立しなくなる」

 玲司は歯を食いしばった。

 立ち上がる。

 銃を構える。

 しかし、手が震えていた。

 先日の人工供物との戦闘でも、似たことがあった。

 見えている位置と、実際の位置が違う。

 朔夜は炎で影を作り、実体のずれを見抜いた。

 だが、今は朔夜がいない。

 玲司一人では、同じことができない。

「……だったら」

 玲司は銃口を下げた。

 視界の端で、知らない光景が揺れた。

 瓦礫。

 銃声。

 崩れた建物。

 そこで、自分と同じ顔をした男が戦っている。

 敵の位置を見失いながらも、足音と着弾位置から相手を追い詰めていく。

 ――見るな。

 ――聞け。

 知らない思考が、玲司の頭に流れ込んだ。

 玲司は息を止めた。

 次の瞬間。

 身体が、勝手に動いた。

     ◇

 男の杖が振られる。

 玲司は、攻撃が見える前に走り出していた。

 左へ二歩。

 急停止。

 右へ一歩。

 背後でアスファルトが砕ける。

 男の目が、わずかに細くなった。

「……ほう」

 玲司は銃を構えた。

 だが、男の身体を狙わない。

 足元。

 路面に落ちる影。

 そして、攻撃の直前に生じる空気の揺らぎ。

 引き金を引く。

 一発。

 二発。

 三発。

 弾丸が、男の周囲を通過する。

 男は動かなかった。

「……無駄だ」

 玲司は答えない。

 四発目。

 今度は、男の左側へ。

 その瞬間。

 黒い外套の裾が、わずかに揺れた。

 玲司は目を見開いた。

 そこだ。

 銃口を右へずらす。

 引き金。

 魔術弾が、男の肩を掠めた。

 布が裂ける。

「……!」

 初めて、男が後退した。

『命中を確認』

 ノアが告げる。

『ただし、玲司様の運動制御に異常を検出。未登録の射撃姿勢です』

 玲司は、自分の手を見た。

 知らない構え方。

 知らない呼吸。

 知らない射撃技術。

 なのに、身体が覚えている。

「……僕は」

 その瞬間。

 頭の奥が、激しく痛んだ。

「……っ!」

 視界が歪む。

 知らない街。

 知らない仲間。

 知らない戦争。

 血まみれの自分。

 そして。

 倒れている澪。

「……っ、あ……!」

 玲司は膝をついた。

『警告。神経活動に急激な変化を確認』

 ノアの声が遠くなる。

『玲司様、応答してください』

 玲司は、必死に呼吸を整えた。

 今、何を見た?

 あれは、誰の記憶だ?

 自分は、あんな場所に行ったことがない。

 澪が死ぬところなんて、見たことがない。

 なのに。

 どうして、あんなにも鮮明なのか。

「……やはり」

 男の声がした。

「ただの身体強化ではないな」

 玲司は顔を上げた。

 男は、興味深そうにこちらを見ていた。

「戦闘経験の流入。運動制御の変化。神経負荷の増大」

 男は、静かに言った。

「……なるほど。まだ、自覚はないか」

「……何を」

 玲司は、かすれた声で尋ねた。

「……何を知ってるんですか」

 男は答えなかった。

 代わりに、杖を構え直した。

「もう少し、確かめよう」

 黒い術式が、再び広がった。

     ◇

 攻撃が、速くなった。

 先ほどまでは、一本の黒い閃光だった。

 今度は三本。

 正面。

 左。

 そして、背後。

「……っ!」

 玲司は咄嗟に身を伏せた。

 頭上を黒い光が通過する。

 しかし、背後からの衝撃を避けきれない。

 肩を打たれ、道路へ転がった。

『左肩に打撲。継続戦闘は推奨できません』

「……分かってる」

 玲司は立ち上がった。

 息が荒い。

 カートリッジの残量も減っている。

 男は、まったく疲れていないように見えた。

「……なぜ、反撃しない」

 男が尋ねた。

 玲司は、顔を上げた。

「……え?」

「お前には、まだ使えるものがあるはずだ」

 その言葉に、玲司は息を呑んだ。

 男は続ける。

「さっきの技術だけではない。もっと深く、もっと遠くへ手を伸ばせ」

「……何を言って」

「お前の中には、まだ眠っているものがある」

 男の声が、低くなる。

「それを引き出せ」

 玲司は、銃を握りしめた。

 そのとき、ようやく気づいた。

 この男は、自分を殺そうとしていない。

 最初から、そうだった。

 急所を狙わない。

 逃げ道を完全には塞がない。

 こちらが新しい動きを見せるたびに、攻撃方法を変える。

 まるで。

 実験をしているように。

「……僕を」

 玲司は、ゆっくりと言った。

「……試してるんですか」

 男の動きが止まった。

「……ほう」

「……僕が、どこまで戦えるか」

 玲司は、男を見据えた。

「……それを調べてるんでしょう」

 男は、しばらく黙っていた。

 そして。

「……正解だ」

 あっさりと認めた。

 玲司の背筋が冷えた。

「……どうして」

「必要だからだ」

「……何に?」

「いずれ分かる」

 男は杖を下げた。

「ただし、今のお前では足りない」

 玲司は、拳を握りしめた。

「……足りないって」

 声が震えた。

「……何のために、僕をこんな目に遭わせるんですか!」

 男は答えない。

 玲司は、さらに一歩踏み出した。

「人工供物の事件も、あなたが関係してるんですか!」

 その瞬間。

 男の表情が、わずかに変わった。

 玲司は見逃さなかった。

「……やっぱり」

 男は、静かに息を吐いた。

「……余計なことまで知り始めたか」

 黒い術式が、再び杖へ集まる。

 玲司は身構えた。

 しかし。

「オタクくん!」

 聞き慣れた声が、夕暮れの道路に響いた。

     ◇

 玲司は振り返った。

「……澪?」

 道路の向こうから、白瀬澪が走ってきた。

 肩で息をしながら、玲司の姿を見つける。

「ちょっと! 何やってんの!」

 澪は駆け寄ってきた。

 そして、玲司の頬の傷を見て、表情を変えた。

「……え」

 血。

 汚れた制服。

 震える右手。

 そのすべてを見て、澪は言葉を失った。

「……オタクくん」

「……来ちゃ駄目だ!」

 玲司は叫んだ。

「……逃げて!」

 しかし、澪は動かなかった。

 玲司の前へ、一歩出る。

「……何なの、あんた」

 黒い外套の男を睨みつけた。

「あーしの友達に、何してんの」

 男は、答えなかった。

 ただ。

 澪を見た。

 その瞬間。

 空気が変わった。

 男の動きが、完全に止まった。

「……まさか」

 低い声。

 先ほどまでの余裕が、消えていた。

 男は、澪を見つめていた。

 まるで。

 ありえないものを、目の前にしたかのように。

「……なるほど」

 男が呟いた。

「だから、あの方は……」

 言いかけて、口を閉ざした。

 玲司は、息を呑んだ。

「……あの方?」

 男は答えない。

 澪が、玲司の前に立ったまま言った。

「……オタクくん、下がって」

「……でも」

「あーしが何とかする、って言いたいとこだけど」

 澪は、少しだけ笑った。

 しかし、その指先は震えていた。

「……さすがに、これは無理かも」

 玲司は、澪の肩を掴んだ。

「……駄目だ」

 そして、彼女の前へ出た。

「……僕が、守る」

 男は、その様子を見ていた。

 長い沈黙。

 やがて。

「……そうか」

 男が、静かに言った。

「ようやく、最初の扉を開いたか」

 玲司は、目を見開いた。

「……何?」

 男は、答えなかった。

 黒い術式が、足元に広がる。

『警告。空間観測値に異常』

 ノアが告げた。

『対象の存在座標が不安定化しています』

「……待って!」

 玲司は叫んだ。

「……あなたは、何者なんですか!」

 男は、振り返らなかった。

「……いずれ、また会う」

 黒い術式が、男の身体を包む。

「そのとき、お前は今よりも強くなっているはずだ」

「……どうして、そんなことが分かるんですか!」

 男は、少しだけ笑った。

「……そうなるように、仕向けるからだ」

 玲司の背筋が凍った。

 次の瞬間。

 男の姿が、消えた。

 黒い光だけが、夕暮れの道路に残る。

 そして、それもすぐに消えた。

     ◇

 しばらく、誰も動かなかった。

 遠くで、都市警備局のサイレンが聞こえる。

 玲司は、銃を下ろした。

 手が震えていた。

「……オタクくん」

 澪が、そっと声をかける。

「……大丈夫?」

 玲司は、頷こうとした。

 しかし。

 足に力が入らなかった。

「……っ」

 膝が折れる。

 澪が、慌てて身体を支えた。

「ちょっと! 大丈夫じゃないじゃん!」

「……ごめん」

「謝んなくていいから!」

 澪は、玲司の肩を支えながら、近くのベンチへ座らせた。

「……ほんと、無茶ばっかり」

 その声は、少しだけ震えていた。

 玲司は、俯いた。

「……僕、何もできなかった」

 澪は、首を振った。

「……そんなことない」

「……でも」

「オタクくん」

 澪は、玲司の顔を覗き込んだ。

「あーし、ちゃんと見てたよ」

 玲司は、目を上げた。

「……あの人、すごく怖かった」

 澪は、正直に言った。

「でも、オタクくんは逃げなかった」

「……それは」

「……あーしを、守ろうとしてくれたんでしょ」

 玲司は、答えられなかった。

 澪は、少しだけ笑った。

「……ありがと」

 その言葉に、玲司の胸が痛んだ。

 守れたわけではない。

 敵が勝手に撤退しただけだ。

 それでも。

 澪が、今ここにいる。

 生きている。

 その事実だけが、玲司を支えていた。

『玲司様』

 ノアの声が響いた。

『先ほどの戦闘記録について、報告があります』

「……何?」

『対象の黒魔術反応と、先日の人工供物に刻まれていた術式との間に、複数の共通構造を確認しました』

 玲司は、息を呑んだ。

「……つまり」

『同一の術式体系に由来する可能性が高いと判断します』

 玲司は、夕暮れの道路を見つめた。

 黒い外套の男。

 人工供物の異形化。

 そして、自分の中に流れ込む、知らない記憶。

 すべてが、繋がっている。

 だが。

 何のために?

 誰が?

 そして。

 なぜ、澪を見た瞬間、あの男は動揺したのか。

「……ノア」

『はい』

「……僕の中で、何が起きてるんだろう」

 少しの沈黙。

 そして。

『現時点では、断定できません』

 ノアは、静かに答えた。

『ただし、通常の身体強化魔術では説明できない現象が発生しています』

 玲司は、銃を見下ろした。

 知らない技術。

 知らない記憶。

 知らない自分。

 それらは、どこから来るのか。

 玲司は、まだ知らなかった。

 自分の中に眠る力の名前を。

 そして。

 その力を目覚めさせるために、誰かが何年も前から準備を進めていたことを。

     ◇

 同じ頃。

 天城魔術学院、第二訓練棟。

 伊佐波朔夜は、一人で訓練場に立っていた。

 右手に赤い光。

 左手に緑色の炎。

 足元には、青い解析陣。

 三系統の術式が、ほとんど遅延なく切り替わる。

 朔夜は、最後の模擬標的を撃ち抜いた。

 そして、息を吐く。

「……まだ、遅いな」

 額には汗が滲んでいた。

 誰もいない訓練場。

 朔夜は、再びデバイスを構えた。

 そのとき。

 通信が入った。

『緊急連絡。第七研究区画にて未登録の魔術戦闘を確認』

 朔夜は、動きを止めた。

『関係者の一人として、久遠玲司のデバイス識別信号を検出』

「……玲司?」

 朔夜の表情が変わった。

 すぐに、デバイスを操作する。

 戦闘記録の一部が、画面に表示された。

 黒い術式。

 歪む空間。

 そして。

 玲司の射撃姿勢。

「……何だ、これ」

 朔夜は、画面を凝視した。

 先日の人工供物との戦闘でも、同じことを感じた。

 玲司の動きが、突然変わる。

 昨日までできなかったことを、まるで何年も訓練したかのように実行する。

 だが。

 身体が、追いついていない。

「……お前」

 朔夜は、小さく呟いた。

「……何をしてるんだよ」

 画面には、玲司の戦闘記録が残っていた。

 その中に、ひとつだけ気になる情報があった。

 黒魔術の術式波形。

 朔夜は、それを見つめた。

 そして。

 自分のデバイスに保存されている、ある夜の記録を開いた。

 記憶の欠けた夜。

 玲司を傷つけたかもしれない、あの夜。

 そこに残っていた術式波形と。

 今回の黒魔術反応。

 二つを重ね合わせる。

 解析結果が、表示された。

 朔夜は、息を呑んだ。

「……一致してる?」

 完全ではない。

 だが、明らかに共通する構造があった。

 朔夜は、拳を握りしめた。

 玲司の傷。

 自分の記憶欠落。

 そして、黒魔術。

 偶然ではない。

 何者かが、関わっている。

「……玲司」

 朔夜は、デバイスを握り直した。

「……今度は、俺が守る」

 誰もいない訓練場で、彼は静かに決意した。

 玲司の身に何が起きているのか。

 自分が、あの夜に何をしたのか。

 すべてを、確かめる。

 たとえ、その先に。

 自分自身の知らない真実が、待っていたとしても。

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