存在しない経験
人間は、自分が経験したことしか覚えていない。
当たり前の話だ。昨日の夕食を思い出せないのは記憶が曖昧だから。知らない国の風景を夢に見るのも、過去の知識が組み合わさった結果だと説明できる。
けれど。
もし、見たこともない景色を懐かしいと思ったら。一度も握ったことのない武器の扱い方を、指先が覚えていたら。
もし、誰かの死を思い出し、その悲しみだけが本物だったとしたら。
それは、いったい誰の記憶なのだろう。
◇
午後九時十三分。
久遠玲司の自室には、青白い光だけが灯っていた。
机の上の魔術デバイスから投影された画面には、数時間前の戦闘映像が映っている。黒く変異した人工供物。三系統の魔術を切り替えて戦う朔夜。そして、その背後で銃を構える玲司自身。
『再生を停止しますか?』
「……ううん。もう一回、お願い」
『了解しました。ただし、これで十四回目です』
「そんなに見た?」
『正確には十三回と、途中停止が六回です』
「……ごめん」
『謝罪は不要です。私も原因を特定できていませんので』
人工供物との戦闘後、玲司は都市防衛局の医療班による検査を受けた。右肩の筋線維損傷と前腕の炎症。神経系にも一時的な興奮反応が認められたが、明らかな器質的異常はなかった。
入院は不要。ただし、当面の魔術実技は禁止された。
身体の傷は休めば治る。だが、医療班にも説明できないことがあった。
なぜ、あの射撃ができたのか。なぜ、知らない戦場の光景が見えたのか。
「ノア。僕の動き、もう一度詳しく見せて」
『了解。戦闘記録の比較解析を開始します』
画面が三分割された。
三日前、朔夜に襲われた夜。学院での魔術実技演習。そして今日の人工供物との戦闘。
『まず、こちらをご覧ください』
朔夜の拳が玲司の胸へ迫る。直後、玲司は身体を捻り、拳の軌道を逸らした。
『相手の肩甲骨の移動、重心の偏位、踏み込み足の角度を利用した回避です』
「……そんなの、考えてなかったよ」
『問題は、玲司がこの技術を習得していないことです』
続いて実技演習の映像。炎の隙間を縫い、相手へ接近する玲司。
『こちらは術式発動間隔を観測し、危険領域の形成前に移動しています。戦場での回避行動に近いものです』
最後は人工供物への射撃。足の位置、肩の角度、呼吸、引き金を引く指。
『精密射撃に特化した技術です。しかし、三つには共通する問題があります』
「……何?」
『それぞれ、異なる身体操作の習慣を持っています』
ノアは三つの姿勢を並べた。
『近接格闘では右足を軸にしていますが、実技演習では左足を基準に方向転換しています。射撃時には、さらに別の姿勢制御が見られます』
「……一人の人間が、いろんな技術を覚えることだってあるよね」
『もちろんです。しかし、通常は基本的な身体操作に一定の共通性が残ります』
ノアの声がわずかに低くなる。
『玲司の場合、その共通性が極端に乏しいのです』
玲司は画面を見つめた。
同じ顔。同じ制服。同じ身体。
なのに、まるで別々の人間が動かしているようだった。
「……僕、身体強化の魔術が使えるようになったんだと思ってた」
『通常の赤魔術に見られる生体強化反応は確認されていません』
「……じゃあ」
『むしろ、先に高度な運動指令が発生し、それを実行しようとして身体に過負荷が生じています』
玲司は固定帯に包まれた右肩を見た。
――お前の身体は、その動きに慣れてない。
朔夜の言葉が蘇る。
玲司は強くなったわけではない。身体は何も変わっていない。
変わったのは。
「……僕の、頭の中?」
『現時点では、その可能性が高いと考えられます』
玲司は椅子に深くもたれた。
読みかけの教科書。学院の年間行事予定。澪から誕生日にもらった置物。
何も変わらない自分の部屋。
それなのに、自分の頭の中だけが知らない場所へ繋がっている気がした。
◇
「……ノア。もう一つ、聞いてもいい?」
『質問内容によります』
「……そこは普通に、いいよって言ってほしかった」
『先月の「魔術デバイスにも夢はあるのか」という質問については、現在も回答を保留しています』
「……それ、まだ覚えてたんだ」
『記録しています』
玲司は小さく笑った。だが、次の言葉を口にするには勇気が必要だった。
「……人間って、経験してないことを思い出すことがあるのかな」
『夢や記憶の再構成によって、未経験の出来事を記憶として認識することはあります。ただし、それによって未知の高度な運動技能を再現できるという説明には根拠がありません』
「……僕、見たんだ」
『何をでしょうか』
「知らない街とか、戦場とか。行ったこともないのに、そこにいたことがある気がするんだ」
玲司は目を閉じた。
灰色の空。瓦礫。硝煙。手の中の狙撃銃。
そして、引き金を引いた感触。
「……僕が、そこにいたんだ。何年も、銃を撃ってきたみたいに」
天城市で生まれ育ち、朔夜と出会い、澪と一緒に帰った。そんな普通の人生しか知らない。
戦争に参加したことも、人を撃ったこともない。
それでも、あの記憶の中で玲司は確かに生きていた。
戦い、そして誰かを失っていた。
「もし、僕の中に……僕じゃない誰かの記憶があったら」
『その場合、まず確認すべきことがあります』
「……何?」
『玲司が、現在の自分自身を認識できているかどうかです』
ノアは静かに続けた。
『あなたの名前は?』
「……久遠玲司」
『年齢は?』
「十七歳」
『所属は?』
「天城魔術学院、高等部二年」
『最も親しい友人は?』
「……朔夜と、澪」
『ありがとうございます。現時点で基本的な自己認識に異常は認められません』
「……そんな簡単なことで分かるの?」
『完全には分かりません。しかし、今後も同じ質問に答えられるかを確認することには意味があります』
玲司は小さく笑った。
「……変な感じ。ノアに、僕が僕かどうか確かめてもらうなんて」
『必要であれば、何度でも確認します』
机の上のデバイスが青く光る。
『私は玲司の行動記録を保持しています。少なくとも、これまでのあなたが何を選び、何をしてきたかについては証言できます』
その言葉に、玲司は少し救われた気がした。
「……ありがとう、ノア」
『どういたしまして。ただし、睡眠時間が不足した場合、明日の授業中に居眠りする確率は高くなります』
「……もう少し、いい雰囲気のまま終わらせてほしかったな」
『健康管理も私の業務ですので』
玲司は声を出して笑った。
けれど、その笑い声が消えたあとも、胸の奥の不安は残っていた。
◇
翌日の放課後。
天城魔術学院の正門前は、いつもより人が少なかった。
人工供物の暴走事件を受け、放課後活動の一部が中止され、通学路には警備術式と監視端末が追加されていた。
それでも、夕暮れの街は普段と変わらない。
「オタクくーん!」
振り返ると、澪が小走りで近づいてきた。
「お待たせ! ちょっと先生に捕まっちゃってさー」
「……ううん。僕も今来たところだから」
「出た。待ち合わせの定番台詞。それ、十分くらい待ってたやつでしょ?」
「……五分くらい」
「ほらー!」
澪は楽しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、玲司の胸が痛んだ。
昨日、人工供物との戦闘後に見た光景。
死んでいる澪の姿。
だが、目の前の澪は生きている。笑っている。
「……オタクくん? どしたの? あーしの顔、なんかついてる?」
「……ううん。何でもないよ」
「ふーん? ま、いっか。帰ろ帰ろ!」
二人は並んで歩き出した。
「そういえばさー。朔夜くん、今日も朝から訓練してたらしいよ」
「……うん。知ってる」
「ほんと、あの人って休まないよねー。三系統使えるだけでもすごいのに」
「……朔夜は、努力家だから」
昨日の戦闘で、朔夜は青魔術《論理構築術式》で敵を解析し、緑魔術《原生循環術式》で動きを制限し、赤魔術《生命錬成術式》で突破した。
何度も訓練し、失敗し、修正してきたからこその技術。
だからこそ、玲司は自分が突然使えるようになった技術を恐ろしく感じていた。
「……オタクくん」
澪が不意に声を落とした。
「最近、何かあった?」
「……どうして?」
「前より考え事してる時間増えたし、たまにすっごく怖い顔する。何かを思い出してるみたいな」
玲司の心臓が強く鳴った。
「でもさ、あーしには何も言ってくれないじゃん?」
「……それは」
「別に全部話せって言ってるわけじゃないけど……ちょっと寂しいかなって」
玲司は言葉を失った。
澪はいつも明るい。けれど、その笑顔の裏にある気持ちを、自分はどれだけ知っているのだろう。
「……ごめん」
「いやいや! 謝らせたいわけじゃないって!」
澪は慌てて手を振った。
「たださ、オタクくんが困ってるなら、あーしも何かしたいなーって」
夕日に照らされた澪の横顔が、ひどく眩しかった。
「……ありがとう、澪。でも、今はまだ、うまく説明できないんだ」
「……そっか。じゃ、説明できるようになったら教えて?」
「……約束する」
「よし! それまではあーしが勝手に心配してるから!」
「……勝手に?」
「そ。幼なじみ特権ってやつ!」
玲司は思わず笑った。
いつもどおりの帰り道。いつもどおりの会話。
そのはずだった。
◇
交差点を渡ったところで、玲司は足を止めた。
突然、周囲の音が遠ざかる。
車の走行音も、人々の話し声も、水の底から聞こえるように曖昧になった。
「……え?」
少し先には澪がいる。
夕日に照らされた、いつもの後ろ姿。
なのに。
次の瞬間、景色が変わった。
空が赤い。
夕焼けではない。燃えている。
建物が崩れ、道路が裂け、灰が舞っていた。
そして、玲司の腕の中には澪がいた。
血に染まった制服。冷たい指先。閉じられた瞳。
その身体は、ひどく軽かった。
玲司は何かを叫んでいた。何度も、何度も、澪の名前を呼んでいた。
――澪。
――お願いだから。
――僕を置いていかないで。
胸が張り裂けそうだった。
世界が終わってしまったような絶望。
その悲しみも、後悔も、喪失感も、あまりに鮮明だった。
けれど、そんな経験をしたことは一度もない。
「――オタクくん!」
声が響き、景色が戻った。
夕暮れの交差点。行き交う人々。
そして、目の前には澪がいた。
「ちょ、どうしたの!? 顔、真っ青だよ!」
「……み、お……?」
「うん。あーしだけど? なに、幽霊見たみたいな顔して」
玲司は震える手を伸ばしかけた。
確かめたかった。澪が本当に生きて、ここにいることを。
だが、途中で手を止める。
「……ごめん。ちょっと、立ちくらみ」
「ええ!? 大丈夫!?」
「……うん。もう平気」
「平気って顔じゃないじゃん!」
澪が玲司の腕を掴んだ。
その瞬間、息が止まった。
温かかった。
さっきまで腕の中にあった冷たい身体とは違う。
生きている人間の温度だった。
「……オタクくん?」
「……ごめん。少しだけ、こうしててもいい?」
「……え?」
「……ちょっとだけ」
澪は目を丸くしたが、やがて表情を和らげた。
「……うん。いいよ」
澪は玲司の腕を離さなかった。
二人は交差点の端に立ったまま、しばらく動かなかった。
街の灯りが一つずつ点き始める。
その間、玲司はただ、澪の手の温かさを確かめていた。
◇
その夜、玲司は再びノアを起動した。
『こんばんは、玲司』
「……こんばんは」
『本日は予定より早く帰宅していますね』
「……ちょっと、疲れちゃって。身体状態を確認してくれる?」
『了解。心拍数、やや高値。体温、正常範囲。右肩の炎症反応は軽減傾向です』
玲司は机の上のデバイスを見つめた。
「……今日、また見たんだ」
『何をでしょうか』
「……澪が、死んでるところ」
ノアは黙った。
「知らない街で、知らない服を着てて……でも、澪だった」
『映像の記録は残っていますか?』
「……分からない」
『確認します』
短い沈黙のあと、ノアが告げた。
『本日十七時四十二分、神経活動に異常な変動を確認しました』
「……それって」
『通常の記憶想起とは異なる反応です。さらに、これまでの戦闘時に観測された異常反応と部分的に一致しています』
「……戦闘のときと?」
『はい。未知の技術を使用した際と、今回の記憶異常には共通する特徴が認められます』
玲司は椅子に座り込んだ。
知らない技術。知らない戦場。知らない人生。
そして、知らないはずの澪の死。
それらが、すべて繋がっている気がした。
「……ノア。もし、僕が見てるものが、ただの夢じゃなかったら……どうすればいいんだろう」
ノアは少し間を置いて答えた。
『まず、事実を確認しましょう』
「……事実?」
『何を見たのか。いつ、どのような状況で起きたのか。そして、現在の行動にどのような影響を与えているのか』
玲司は黙って聞いていた。
『分からないことを、分からないまま恐れる必要はありません。私は記録を続けます。玲司は、今の自分が何を感じ、何を考えているのかを教えてください』
「……うん」
玲司はノートを開き、真っ白なページにペンを走らせた。
――知らない戦場。
――知らない技術。
――知らない記憶。
――澪の死。
四つの言葉を書き、その下にもう一つ加えた。
――僕は、誰なんだろう。
答えはまだ分からない。
けれど、少なくとも今の自分はここにいる。
澪も朔夜も、生きている。
それだけは確かだった。
窓の外では、夜の街が静かに光っていた。
そして、その光の向こうで。
誰かが玲司の記録を見つめていた。
◇
天城市北部。旧研究区画の地下施設。
薄暗い部屋に、複数の映像が浮かんでいた。
久遠玲司。伊佐波朔夜。白瀬澪。
三人の顔写真と、玲司の神経活動を示す波形。
白衣の男が端末を操作していた。
「……やはり、始まったか」
画面に二つの文字列が表示される。
《戦闘経験の読込:確認》
《記憶情報の混線:初期兆候》
「……いい傾向だ」
男は満足げに笑った。
だが、次の映像を見た瞬間、その表情が変わる。
白瀬澪。
彼女の顔写真の下に、赤い文字が浮かんでいた。
《観測対象:白瀬澪》
《生存予測:未確定》
男は、しばらく画面を見つめた。
「……まだ、間に合う」
その声は、祈りのようだった。
あるいは、何度も失敗してきた者が、自分自身へ言い聞かせる言葉のようでもあった。
男が端末を閉じる。
暗闇に、最後の文字列だけが残った。
《次段階観測:開始》
その夜、久遠玲司はまだ知らなかった。
自分の中に流れ込む記憶が何を意味しているのか。
なぜ、知らない世界で澪が死んでいるのか。
そして、その記憶を必要としている者が、どこかにいることを。
ただ一つ、確かなことがあった。
玲司が経験したことのない人生は、確かに彼の中に存在していた。
そして、やがてその記憶が、彼の運命を大きく変えることになる。




