黒く染まる生命
最初に聞こえたのは、骨の砕けるような音だった。
天城魔術学院の正門から、およそ百メートル。夕暮れの街路を黒い影が駆け抜け、アスファルトが陥没する。街路樹が根元から折れ、人間の形をした何かが伊佐波朔夜へ跳躍した。
「澪を連れて下がれ!」
朔夜が叫ぶ。同時に、右手の自動拳銃型魔術デバイスが赤く発光した。赤魔術、生命錬成術式。生体機能へ干渉し、筋力や神経伝達速度、骨格強度を引き上げる魔術系統。足元に赤い術式が展開される。朔夜は敵の距離、速度、着地点を一瞬で把握した。
「――遅い」
左足を半歩引く。怪物の腕が空を薙ぎ、背後の街路灯をへし折った。朔夜は懐へ潜り込み、赤い術式光を右腕へ集中させる。
「はっ!」
拳が腹部へ突き刺さり、巨体が吹き飛ぶ。
「……っ?」
手応えがおかしい。まるで水の入った袋を殴ったように、衝撃が内部で分散していた。怪物は街路樹へ激突したが、すぐに起き上がった。陥没した腹部が膨らみ、骨が鳴る。裂けた皮膚が黒い糸状の組織で縫い合わされていく。
「……再生した?」
久遠玲司は呆然と見つめた。
『対象の組織再構築を確認。通常の赤魔術による治癒反応とは一致しません』
腰のホルスターからノアの声が響く。
「……じゃあ、何なんだよ、あれ」
『不明です』
短い返答が、玲司の不安を大きくした。
◇
怪物は人間に似ていた。だが、腕は膝より長く、指は六本。関節の位置も異常だった。何より、その顔には目も鼻も口もない。滑らかな皮膚に黒い術式が浮かんでいるだけだった。人工供物。本来は意識を持たない生体資源として管理される存在。それがなぜ動き、人間を襲うのか。
「……オタクくん」
白瀬澪が玲司の袖を掴んだ。指先が震えている。
「あれ……何?」
「……分からない」
玲司は答えた。恐ろしかった。今すぐ逃げ出したかった。それでも、怪物の背後には逃げ遅れた人々がいた。歩道に倒れた男性。転倒した自転車のそばで泣く子供。怪物の頭部が二人へ向く。
「ノア! 通常弾、装填!」
『了解。緊急防衛用カートリッジを使用します』
玲司はデバイスを抜いた。サクリファイス・カートリッジの残量は六発。
「こっちだ!」
魔術弾が怪物の肩を撃ち抜く。黒い組織が飛び散り、顔のない頭部が玲司へ向いた。
『警告。対象の注意が玲司へ移行』
「……それでいい」
声は震えていた。怪物が地面を蹴る。玲司は後退したが、遅かった。異常な速度で伸びる黒い指が視界を覆う。
「玲司!」
身体が横へ押し飛ばされた。朔夜が赤魔術で加速し、玲司を攻撃範囲から引きずり出したのだ。
「馬鹿! 何やってんだ!」
「……ご、ごめん」
「謝るな! 死ぬぞ!」
朔夜の声には焦りが滲んでいた。三日前、自分を殺そうとした親友。その同じ手が、今は自分を助けていた。胸の奥で何かが軋んだ。
◇
「玲司、下がってろ」
朔夜のデバイスが青く発光する。青魔術、論理構築術式。情報と術式構造を解析する魔術系統。半透明の術式図が浮かび、怪物の筋肉、再生速度、攻撃軌道を解析する。
「……なるほど」
予測線に合わせて身体を動かす。しかし、突然その線が消えた。
「――っ!?」
怪物の肘が異常な方向へ曲がり、関節が増える。朔夜は咄嗟に赤魔術で反射速度を引き上げた。黒い腕が頬を掠め、血が流れる。
「……見えてる位置と、実際の位置が違う」
観測するたび、身体構造が変わっている。
「……黒魔術か」
玲司の背筋が冷えた。三日前、朔夜を覆っていた黒い術式と同じものだった。
「……朔夜」
「分かってる。普通の魔術じゃない」
朔夜はカートリッジを切り替えた。緑魔術、原生循環術式。自然現象へ干渉する魔術系統。
「――燃えろ」
緑色の魔術光を伴う炎が怪物を取り囲む。火線が退路を塞ぎ、炎の揺らぎが怪物の動きを映した。
「……そこか」
青魔術の予測は不安定でも、熱や空気の流れから実体の位置を推定できる。
「……青だけじゃ駄目なら、緑で確かめればいい」
朔夜は赤魔術を起動した。解析、制圧、突破。三系統が淀みなく繋がる。玲司は拳を握った。自分なら混乱して倒されるだろう。だが朔夜は、戦いながら対処法を見つけている。何年も積み重ねた訓練が、その判断を支えていた。
◇
緑の炎が退路を塞ぎ、青魔術が変動を解析する。赤魔術で加速した朔夜が怪物の懐へ潜り込んだ。
「――はあっ!」
右拳が胸部へ突き刺さる。続けて左肘、右膝、強化された回し蹴り。怪物が地面へ叩きつけられ、アスファルトが砕けた。
「……やった?」
澪が呟く。
『警告。対象の生命活動、継続中』
土煙の中で黒い腕が動いた。折れた脚、潰れた胸部が再生する。しかも、以前より大きく歪な姿へ変貌していた。
「……冗談だろ」
胸部から黒い組織が溢れ、生きた泥のように傷口を塞ぐ。
『対象の再生速度が上昇。通常攻撃による完全な無力化は困難と推定されます』
このままでは、朔夜のカートリッジが尽きる。そのとき、子供の泣き声が聞こえた。怪物がそちらを向く。
「ノア! 術式核を探して!」
『了解。対象の魔術構造を再解析します』
玲司の視界に青い補助線が浮かぶ。しかし、黒い術式は絶えず変動していた。
『警告。術式構造が継続的に変動しています』
「……それでもいい! 何か、中心があるはずなんだ!」
怪物の腕が子供へ伸びる。
「こっちを見ろ!」
朔夜が割り込み、怪物の頭部を殴った。反撃が脇腹を掠め、制服に血が滲む。
「……朔夜!」
「いいから、探せ! 俺が止める! お前は倒す方法を考えろ!」
玲司は必死に術式を見つめた。しかし情報が多すぎる。ノアの解析も追いつかない。考えろ。逃げるな。その瞬間、視界が揺れた。
◇
――知らない空。
灰色の雲。崩れた建物。硝煙の匂い。玲司は高層ビルの屋上にいた。いや、誰かの記憶を見ていた。手には狙撃銃。スコープの向こうに敵影がある。距離八百メートル。風速秒速四メートル。気温十二度。呼吸を止め、心拍を数える。撃つ。銃弾が敵の頭部を撃ち抜いた。景色が変わる。別の戦場、別の銃、別の敵。何度も、何度も引き金を引く。そして気づいた。記憶の持ち主は、久遠玲司だった。だが、自分ではない。知らない人生を歩んだ、もう一人の自分。長い年月で身につけた呼吸、姿勢、照準、指の動き。それらが脳内へ流れ込む。
――違う。
今必要なのは、遠距離射撃の技術ではない。狙うべき場所と、撃つべき瞬間。その二つを見極める技術だった。
◇
『玲司! 意識状態に異常を検出!』
ノアの声で我に返る。朔夜が戦っていた。緑の炎、赤い術式光、青い解析線。すべてがゆっくり見える。時間が遅くなったのではない。玲司の認識が変わっていた。怪物の胸部。心臓よりわずかに右。黒い光が集中している。術式核。あれを壊せばいい。だが核は体内で位置を変え続けている。普通に撃っても当たらない。玲司は観察した。そして気づく。怪物が大きな攻撃を行う直前だけ、核の位置が固定される。ほんの一瞬。だが、別世界の玲司は、その一瞬を撃ち抜く方法を知っていた。
「……朔夜! 三秒だけ、動きを止めて!」
朔夜は驚いたが、すぐに頷いた。
「……分かった!」
理由も聞かず、玲司を信じた。青で読み、緑で塞ぎ、赤で踏み込む。朔夜は必要な瞬間だけ、それぞれの魔術を最大限に使った。炎が怪物の退路を塞ぐ。怪物が逃れた先へ朔夜が踏み込んだ。
「――今だ!」
強化された拳が胸部へ突き刺さる。怪物が仰け反り、黒い術式が一点へ集中した。核の位置が固定される。
『玲司、照準補助を開始』
玲司は両足を開き、重心を落とした。その瞬間、右肩に激痛が走る。
「……っ!」
現在の身体は、狙撃手として鍛えられた肉体ではない。記憶だけが先へ進もうとしていた。
『警告。右肩関節への過負荷を検出。射撃姿勢の維持は推奨できません』
「……分かってる」
完全には再現できない。それでも、今、この一発だけ。玲司は照準を黒い核へ合わせた。
『目標座標、確定。命中予測、算出完了』
呼吸を止める。そして、引き金を引いた。
◇
銃声。
魔術弾が胸部を貫通し、内部の術式核へ到達する。
――ぱきん。
ガラスが割れるような小さな音。怪物が大きく震えた。黒い術式が暴走し、腕が痙攣する。
「……っ!」
朔夜が後退した。次の瞬間、怪物の身体が内側から崩壊した。長い腕、歪んだ脚、顔のない頭部。すべてが黒い砂となって崩れ落ちる。風が吹き、灰が消えた。
『対象の魔術反応、消失。脅威の無力化を確認しました』
玲司は立ち尽くした。撃った。そして、当たった。それだけだった。
「……終わった?」
直後、右肩に激痛が走る。
「……っ!」
膝が折れ、視界が揺れた。頭の奥で、知らない記憶が蠢く。灰色の戦場。狙撃銃。倒れる敵。
――撃て。
――迷うな。
――次を狙え。
「……違う」
自分はそんな人間ではない。誰かを殺すために銃を握ったことなどない。それなのに指先には、何百回も引き金を引いた感覚が残っていた。震える手が、自分のものではないように感じられた。
◇
「玲司!」
朔夜が駆け寄り、澪も続いた。
「オタクくん! 大丈夫!? どこか痛いの!?」
「……うん。ちょっと、肩が」
「ちょっとって顔じゃないじゃん……!」
朔夜は玲司の右腕を確認した。肩の筋肉は異常に緊張し、手首も震えている。
「……玲司。今の射撃、いつ覚えた?」
答えられなかった。練習した記憶はない。それでも、撃ち方を知っていた。
「……分からない」
朔夜は黙った。疑われているのだろうか。気味悪がられているのだろうか。
「……俺はな」
朔夜が口を開いた。
「今みたいな射撃姿勢を、何千回も練習した」
「……え?」
「最初はまともに撃てなかった。腕が震えるし、反動も制御できない。だから毎日練習した」
その声に怒りはなかった。
「お前が何をしたのかは知らない。でも、身体が追いついてない」
「……身体?」
「ああ。筋肉の使い方も、関節の角度も、呼吸も、長い時間をかけて身につける技術だ」
玲司は痛む肩を見つめた。
「でも、お前の身体は慣れてない。だから無理が出てる」
朔夜は少し表情を緩めた。
「……別に、責めてるわけじゃない。ただ、心配なんだよ」
その言葉が胸に染み込んだ。
「お前、昔からそうだろ。誰かが困ってると、自分のことなんか考えずに飛び込む」
朔夜は苦笑した。
「……そういうところ、全然変わってない」
玲司は親友を見つめた。三日前、自分を殺そうとした朔夜。だが今、目の前にいるのは、強くて真面目で、少し不器用な、いつもの優しい親友だった。
「……ありがとう」
「礼を言うのはこっちだろ」
「……え?」
「お前が撃たなきゃ、俺はあいつを倒せなかった」
朔夜は笑った。
「助かったよ、玲司」
胸の奥に温かいものが広がった。自分にも、できることがあった。朔夜の役に立てたことが、何より嬉しかった。
◇
サイレンが響き、都市防衛局の車両が到着した。隊員たちは現場を封鎖し、負傷者の救助を始める。玲司たちも事情聴取を受けることになった。その間も、頭の奥では知らない記憶が蠢いていた。狙撃銃。灰色の戦場。そして、最後に見えた少女。白い髪。血に染まった制服。冷たくなった手。その顔は、白瀬澪だった。
「……っ!」
玲司は隣を見た。澪がいた。いつもの制服、いつもの髪型、いつもの笑顔。朔夜と話している。生きている。確かに、ここにいる。あれは夢か、幻覚か。それとも誰かの記憶なのか。
『玲司。先ほどの戦闘記録について、報告があります』
「……何?」
『あなたの射撃動作に、未登録の運動制御パターンを確認しました』
「……未登録?」
『はい。現在の身体能力および訓練履歴からは、再現困難な技術です。また、通常の身体強化術式では説明できない神経活動も確認しました』
「……それって」
『現時点では、原因不明です』
玲司は目を閉じた。なぜ知らない技術を使えるのか。なぜ知らない記憶が流れ込むのか。なぜ、その記憶の中で澪が死んでいたのか。何一つ分からなかった。ただ、一つだけ確かなことがある。あの夜から、自分の中で何かが変わり始めていた。
◇
同時刻。
天城市北部、旧研究区画。地下施設の一室で、白衣の男が端末を見つめていた。画面には戦闘記録が表示されている。伊佐波朔夜。赤魔術、緑魔術、青魔術の複合運用。そして、久遠玲司。未登録の射撃技術。異常な神経活動。未知の術式反応。男は満足そうに笑った。
「……なるほど」
玲司の射撃映像を繰り返し再生する。構え、呼吸、照準、引き金を引く瞬間。すべてが異常なほど洗練されていた。
「……反射読込。第一段階は、順調だな」
画面に黒い文字列が表示される。
《観測対象:久遠玲司》
《根源魔術:愚者の選択》
《発現段階:反射読込》
男は文字列を見つめ、静かに笑った。
「……だが、まだ足りない」
画面が切り替わる。白瀬澪の顔写真。男の笑みが消えた。
「……今度こそ」
小さく呟く。
「今度こそ、間に合わせなければ」
その声には、深い疲労が滲んでいた。まるで、何度も同じ結末を見てきた者のように。男は端末を閉じた。地下施設に静寂が戻る。そして、次の実験が静かに始まろうとしていた。




