人工供物の失踪事件
人間の形をしているからといって、人間とは限らない。少なくとも、現代の魔術社会ではそう考えられていた。
人工供物。それは魔術を行使する際の代償を、人間の生命や身体に求めないために開発された技術だった。
魔術は無から奇跡を生み出せない。炎の生成、肉体強化、物理法則への干渉には、必ず相応の代償が要求される。代償律。現代魔術の根幹をなす原則だ。
かつて魔術師は自らの血肉や他者の生命を代償としていた。しかし魔術工学の発展により、自我も意識も持たない人工培養組織をサクリファイス・カートリッジへ封入する技術が確立された。魔術師は自身の身体を直接損なわず、一定範囲の魔術を使えるようになったのである。
ただし人工供物は厳格に管理され、製造・保管・輸送にも規制がある。未加工の人工供物を個人が所有することは、原則として認められていない。
だからこそ、天城市北部で発生した輸送車両襲撃事件は、魔術研究都市全体を揺るがしていた。
◇
午後一時十五分。天城魔術学院、高等部二年A組。
「人工供物が盗まれたって、結構やばくない?」
「闇市場で売るとか?」
「未加工のやつなんて、専門設備がなきゃ使えないだろ」
昼休み明けの教室では事件の話題が飛び交っていた。
久遠玲司は携帯端末で速報を確認していた。写真には横転した輸送車両と、現場を封鎖する都市防衛局の隊員が映っている。
「……変だな」
『何がでしょうか』
腰のホルスターからノアが応じた。
「この車、外から襲われたんだよね?」
『報道ではそのように説明されています』
「でも、ここ……」
玲司は車両側面を拡大した。厚い装甲板が外側へめくれ上がっている。まるで内部から何かが突き破ったようだった。
『画像を解析します。装甲板の一部に、内側から外側への変形を確認』
「……やっぱり」
『ただし原因の特定は困難です。内部爆発や術式干渉など、複数の可能性があります』
玲司は画面を見つめた。三日前、朔夜の身体に浮かんだ黒い術式。今回の事件との関連を示す証拠はない。それでも嫌な予感が消えなかった。
「オタクくん」
顔を上げると、白瀬澪が机に頬杖をついていた。
「また難しい顔してる。ずっとそのニュース見てるじゃん」
「……ちょっと気になって」
「怖い事件だけど、オタクくんが考えても仕方なくない? それに今日は十分頑張ったでしょ」
澪は玲司の左肩を見た。
「怪我してるんだから、少しは休みなって」
「……うん」
玲司が端末を閉じると、澪は声を落とした。
「……ねえ、三日前のことなんだけど。本当に転んだだけ?」
「……え?」
「オタクくん、あーしに嘘つくとき、絶対目を逸らすじゃん」
玲司は反射的に視線を逸らした。
「……ほら」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないんだけど。何かあったなら、ちゃんと言ってよ」
玲司は答えられなかった。
あの夜、朔夜に殺されかけた。そう伝えれば、澪は親友を疑うだろう。三人の日常が壊れてしまうかもしれない。
それに、あの夜の朔夜が本当に朔夜だったのか、玲司自身にも確信がなかった。親友の身体を、別の何かが動かしていた。そんな非現実的な可能性さえ頭を離れない。
「……まだ、うまく説明できないんだ」
澪はしばらく黙り、やがて笑った。
「……そっか」
「……怒らないの?」
「怒ってほしい?」
「……いや」
「じゃあ、怒んない」
澪は玲司の額を軽く突いた。
「でも約束して。一人で全部抱え込まないこと。あーし、オタクくんが困ってるのに、何も知らないままなのは嫌だから」
その真剣な声に、玲司の胸が苦しくなった。
白い病室。冷たくなった指先。閉じられた瞳。
知らないはずの記憶が、また脳裏をよぎる。
「……澪」
「ん?」
「……ありがとう」
「……何それ。急に素直じゃん」
澪が照れくさそうに笑った。そのとき、教室の扉が開いた。
◇
「全員、席につけ」
榊原宗一郎教官が入ってきた。いつもより険しい表情に、生徒たちが静まる。
「人工供物輸送車両の襲撃事件について、学院から連絡がある」
教卓のディスプレイに天城市の地図が表示され、北部研究区画が赤く塗られた。
「現在、都市防衛局が捜索中だ。この区域への立ち入りは禁止。周辺への不要不急の外出も控えろ。当面は学院施設の一部を制限し、放課後の自主訓練にも教員の許可を必要とする」
不満の声が上がったが、榊原は続けた。
「これは単なる窃盗事件ではない。現場では通常の魔術犯罪と異なる反応が確認されている。詳細は捜査中だが、未確認の魔術現象が発生している可能性がある」
教室の空気が変わった。
未確認の魔術現象。それは既知の体系では説明できないか、既存の術式が異常な方法で使用されたことを意味する。いずれにせよ、危険性を予測できない。
「……先生。それって黒魔術とかですか?」
生徒の質問に、榊原は一瞬表情を変えた。
「現時点で、特定の系統と断定できる情報はない」
玲司は自分の手を見つめた。三日前、朔夜の身体を這っていた黒い術式。ノアにも分類できなかった反応。
もし、事件現場に同じものが残されていたとしたら。
「……玲司」
振り返ると、伊佐波朔夜が真剣な顔でこちらを見ていた。
朔夜も同じことを考えているのかもしれない。玲司はそう思った。
◇
午後三時二十分。授業を終えた三人は、混雑する廊下を昇降口へ向かっていた。
「まさか自主練まで禁止になるとはな」
朔夜が残念そうに呟く。
「朔夜、今日も残るつもりだったの?」
「ああ。朝の訓練で修正したいところがあったから」
「えー、朝もやってたのに?」
「朝は朝だろ」
「いや、そういう問題?」
澪は呆れて笑った。
「ほんっと練習好きだよね」
「好きっていうか、必要だからな。できないことがあるなら、できるようになるまで練習するしかない」
玲司は黙って聞いていた。
朔夜は本当にそれを実行している。だから強い。一方、自分が篠宮に勝てたのは、突然流れ込んだ知らない経験のおかげだった。
あの瞬間は相手の動きも踏み込む位置も理解できた。しかし今、その感覚は残っていない。もう一度勝てるかと問われれば、自信がなかった。
「……どうした、玲司?」
「……ううん。何でもない」
朔夜は眉を寄せたが、追及しなかった。
そのとき、廊下の向こうから榊原教官と警備担当者二人が早足で歩いてきた。三人とも険しい表情をしている。
「……何かあったのかな」
澪が呟いた。すれ違いざま、玲司の耳に会話の断片が届く。
「……輸送車両の内部から……」
「……未加工の個体が……」
「……研究区画の外へ出た可能性が……」
玲司は足を止めた。
「……個体?」
未加工の人工供物が輸送されること自体は珍しくない。しかし、もしそれが何らかの異常を起こしていたとしたら。
『玲司。周辺の魔術通信に緊急警戒信号を確認しました』
「……緊急警戒?」
『都市防衛局が北部研究区画周辺の警戒レベルを引き上げています』
窓の外では警備用魔術機械が飛んでいた。一機、二機、三機。普段より明らかに多い。
「……なんか、嫌な感じ」
澪の言葉に玲司も同意した。
理由は分からない。ただ、何かが近づいている気がした。
◇
午後四時十分。天城市北部、旧研究区画。
廃棄された地下施設に警告音が響き、赤い非常灯が通路を照らしていた。奥の実験室には、白濁した液体で満たされた巨大な培養槽がある。
内部に浮かぶのは、人間に似た形の人工供物だった。
しかし、長すぎる腕、不自然な関節、皮膚の下を這う黒い線。そして顔のあるべき場所には、何もなかった。
白衣の男が端末を操作している。表示された術式は、黒魔術《深淵接触術式》。人工供物の内部へ深く侵食していた。
「……適合率、七十八パーセント」
数値が上昇する。七十九、八十、八十一。
「……順調だ」
培養槽の中で長い腕が持ち上がり、黒い泡が浮かんだ。
端末には《世界線干渉実験・第二段階》と表示されている。その下に記された観測対象は、久遠玲司。
「……そろそろ、次の段階へ進もうか」
男が操作すると、黒い術式光が脈動した。人工供物が激しく痙攣する。
皮膚が裂け、新たな組織が膨れ上がる。骨が伸び、筋肉が増殖し、関節があり得ない方向へ折れ曲がった。
それでも声は上がらない。自我も、痛みを感じる意識も存在しないからだ。
「……いい」
適合率は八十五、八十八、九十一と上昇する。
そして、九十四パーセント。
「……これなら十分だ」
その瞬間、培養槽のガラスに亀裂が走った。
長い腕が伸び、ガラスに触れる。
――砕いた。
轟音とともに白濁した液体が床へ流れ、破片が飛び散る。警告音が激しく鳴る中、男は一歩後退した。
しかし、その表情に恐怖はない。むしろ期待に満ちていた。
人工供物が立ち上がる。異常に発達した筋肉、黒い術式の走る皮膚、顔のない頭部。
それはもはや生体資源ではなく、何かを破壊するために作られた異形だった。
男が端末を操作すると、地上へ続く隔壁が開いた。
「……行け」
異形が歩き始める。重い足音が通路に響いた。
端末には最後の指示が表示されていた。
《観測対象:久遠玲司》
《目的:根源魔術の再発現》
《条件:生命危機》
「……今度は、どんな力を見せてくれる?」
男は静かに笑った。
◇
午後四時三十二分。天城魔術学院、正門前。
秋の風が街路樹を揺らしていた。玲司、澪、朔夜の三人は帰宅しようとしていた。
「ねえねえ、今日さ。駅前の新しいクレープ屋、寄ってかない?」
「……クレープ?」
「そう! 昨日オープンしたんだって! しかも今日まで半額!」
澪は端末に表示した色とりどりのクレープを見せた。
「ほら、めっちゃおいしそうじゃない?」
「……うん」
「朔夜も行くでしょ?」
「まあ、今日は自主練できないしな」
「やった! じゃあ決まり! 三人で――」
澪の言葉が途切れた。
遠くから低い警報音が聞こえた。音は次第に大きくなり、街路灯の警告灯が赤く点滅し始める。交差点のディスプレイも一斉に切り替わった。
【緊急警報】
【天城市北部にて未確認魔術災害が発生】
【周辺住民は速やかに屋内へ避難してください】
「……え?」
澪が息を呑む。朔夜の表情が変わった。
「玲司、澪。学院へ戻るぞ」
玲司が頷いた、その瞬間。
『警告。高密度の魔術反応を検出』
「……ノア?」
『北北東、距離約四百八十メートル。未知の術式反応が急速に接近しています。推定移動速度、時速六十キロメートル以上』
朔夜がデバイスを引き抜いた。
「……何か来る」
澪が玲司の袖を掴む。
「……オタクくん」
その顔には不安が浮かんでいた。
玲司は無意識に澪の前へ立った。なぜそうしたのか、自分でも分からない。ただ、守らなければならないと思った。
直後、遠くの交差点で爆発音が響いた。黒煙が立ち上り、人々の悲鳴が聞こえる。そして煙の向こうから、何かが現れた。
人間に似た形。異常に長い腕。黒い術式が走る皮膚。顔のない頭部。
それがゆっくりと顔を上げた。存在しないはずの瞳が、玲司を捉える。
『警告。対象の魔術反応を解析不能』
朔夜が一歩前へ出た。赤い術式光が身体を包み込む。
「……玲司」
「……うん」
「澪を頼む」
玲司が頷こうとした、その前に。異形の人工供物が地面を蹴った。轟音。アスファルトが砕け、黒い影が一直線に迫る。
朔夜のデバイスが青く光った。緑の炎が生まれ、赤い術式が筋肉を強化する。三系統の魔術が、ほぼ同時に起動した。
そして伊佐波朔夜は、異形の怪物へ向かって踏み込んだ。
その背後で、久遠玲司の心臓が激しく脈打っていた。
まただ。あの夜と同じ。何かが始まろうとしている。
玲司の視界の奥で、知らない誰かの記憶が静かに目を覚まそうとしていた。




