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魔術実技演習

魔術師の強さは、才能だけでは決まらない。術式の構築速度、代償の管理、戦況判断、肉体制御、そして実戦経験。それらを積み重ねた者だけが、戦場で生き残る。


 天城魔術学院の実技教官、榊原宗一郎(さかきばらそういちろう)は常々そう教えていた。しかし久遠玲司には、その言葉が少し残酷に聞こえた。


 努力をしていないわけではない。授業後も訓練場に残り、基本術式を練習し、ノアに戦闘記録を解析してもらう。それでも結果が出ない。昨日できたことが今日はできず、焦るほど術式が乱れる。


 そして隣には、いつも伊佐波朔夜(いざなみさくや)がいた。誰よりも努力し、結果を出す親友。尊敬すると同時に、自分との差を思い知らされる存在だった。


 そんな二人が、同じ訓練場に立っていた。


     ◇


「本日の演習は、一対一の模擬戦闘だ」


 午前九時三十分。天城魔術学院、第二屋内訓練場。直径八十メートルの円形フィールドには衝撃吸収機構と青い観測陣が埋め込まれ、周囲を階段席が囲んでいた。


 榊原教官が生徒たちを見渡す。


「勝敗は模擬弾の有効命中、規定以上の損傷判定、または戦闘不能で決める。実弾は禁止。出力制限を解除すれば即失格だ。複数系統の適性者は登録済みの系統のみ使用を認める。適性による有利不利も含めて実戦だ」


 玲司は黒い自動拳銃型デバイスを見下ろした。内部には演習用サクリファイス・カートリッジが三発装填されている。


『安全制御、模擬弾生成機構ともに正常。残存カートリッジ三発』

「……ありがとう、ノア」

『なお、左肩には筋損傷が残存しています。高負荷の行動は推奨しません』

「分かってるよ」

『三日前にも同様の返答がありましたが、結果として負傷しました』

「……事情が違うと思う」

『事情の相違は認めます。ただし負傷という結果は変わりません』


 反論できずにいると、背後から声がした。


「玲司、調子はどうだ?」

「……あんまり良くないかな」

「正直だな」


 朔夜が笑う。玲司の身体がわずかに強張ったが、朔夜は何も言わなかった。


「今日の相手は緑魔術《原生循環術式(アニマ)》の上位適性者だ。炎の出力も構築速度も高い。正面から撃ち合うなよ」

「……知ってる」

「ただ、炎を広げるとき発動位置を固定する癖がある。足元をよく見ておけ」

「……そんなところまで分かるの?」

「前の演習で見たからな。相手の動きは、見ておいて損はない」


 戦う前から相手を分析する。その積み重ねが朔夜の強さだった。


「……ありがとう」

「礼は勝ってからにしろ」


 朔夜が拳を突き出す。玲司は一瞬ためらい、自分の拳を合わせた。その接触に痛みはなかった。


     ◇


「第一試合。久遠玲司、前へ!」


 対戦相手は篠宮蓮(しのみやれん)。緑魔術《原生循環術式(アニマ)》を得意とする上位適性者で、細身の身体に長銃型デバイスを携えていた。


「よろしく、久遠」

「……よろしくお願いします」

「そんなに緊張しなくてもいいって。模擬戦なんだから」


 悪意のない気遣いが、玲司には少し情けなかった。


「オタクくーん! 頑張ってー!」


 観戦席では白瀬澪が手を振っていた。


「負けてもいいけど、怪我はしないでよー!」

「……応援なのかな、それ」

『安全性を重視した合理的な応援と判断します』

「ノアまで……」


 苦笑した玲司の前で、フィールドの表示が切り替わる。


 READY


 START


「――《原生循環術式(アニマ)》、起動」


 篠宮の長銃が緑色に輝き、床に三つの炎が生まれた。渦を巻きながら玲司へ迫る。


『前方より熱源三。左右に拡散中』

「分かってる!」


 玲司は右へ跳び、最初の炎をかわした。着地と同時に障壁を展開する。二つ目の炎が衝突し、光の壁が揺れた。


『防御負荷は許容範囲内。ただし連続被弾は推奨しません』


 玲司は障壁の陰から模擬弾を放った。しかし篠宮は身体をわずかに傾けて回避する。続く二発、三発も外れた。


「久遠、照準が素直すぎるよ。銃口を向けてから撃つまでが長い」


 分かっている。それでも焦るほど動きが遅くなる。


「じゃあ、今度はこっちから行くよ」


 篠宮が銃口を下げ、緑色の術式光が床へ流れ込んだ。


『警告。広範囲術式の構築を検出』


 玲司が後退した瞬間、足元から炎が噴き上がった。横へ転がれば、その先にも炎。後方にも炎が立ち上がる。


 篠宮は追い回しているのではない。玲司の逃げ道を先回りして奪っていた。緑魔術による広範囲制圧。戦場そのものを支配する戦い方だった。


『退避可能領域、残り三十二パーセント。現在の回避行動を継続した場合、約十一秒後に退路が消失します』

「……そんなに?」


 篠宮が銃口を向ける。


「そろそろ終わりにしようか」


 緑の光が収束し、炎が一本の槍となる。玲司は防御術式を準備したが、カートリッジの残量は少ない。防げても一度きりだった。


 逃げ道はない。撃っても当たらない。勝てるはずがない。


 脳裏に三日前の夜が蘇る。朔夜の拳、逃げ道を塞ぐ炎、青魔術による行動予測。そして、死の直前に流れ込んだ記憶。


 ――拳を見るな。


 あの声が聞こえた気がした。視界が揺れ、炎の向こうに別の景色が重なった。


     ◇


 崩れかけた建物。煤けた壁、砕けた窓、床に散らばる薬莢。誰かが銃を構え、炎を操る魔術師と対峙していた。


 見たこともない場所。会ったこともない敵。経験したこともない戦闘。


 それなのに、玲司には次に何が起こるのか分かった。


 炎を広げる術式には発動の起点がある。起点を固定したまま範囲を拡張すれば、炎の流れに規則が生まれる。その規則を読めば、炎の隙間を通り抜けられる。


 見るべきは炎ではない。術者の銃口、指、呼吸。そして発動の瞬間。


 ――今だ。


 意識が現実へ戻った。


     ◇


 篠宮の銃口が光り、炎の槍が放たれた。


 玲司は前へ踏み込んだ。


「……え?」


 篠宮が目を見開く。炎へ向かって走る玲司。しかし、その身体は真正面から半歩だけ左へずれていた。


 炎の槍は発動直後、わずかに右へ流れる。篠宮の術式の癖だった。


 玲司はその流れを発動前から読んでいた。炎が頬をかすめる。熱い。しかし直撃ではない。


『警告。運動制御パターンに異常を検出。玲司、現在の動作は――』

「後で!」


 篠宮が慌てて銃口を下げ、足元へ炎を発生させようとする。しかし玲司には、その動きも見えていた。


 右足、左足。身体を低くし、炎が生まれる直前に発動位置を通過する。


「……なんで!?」


 玲司自身にも分からなかった。ただ身体が動く。どうすればいいのか、知らないはずなのに知っている。


 篠宮が後退する。玲司はその動きに合わせて銃口を向けた。


 狙うのは現在の位置ではない。次に移動する場所。


 篠宮の右足が地面を蹴る。玲司は引き金を引いた。青白い模擬弾が飛び、左へ動いた篠宮の胸部へ命中する。


 HIT


 WINNER:久遠玲司


 静寂が落ちた。篠宮は自分の胸を見下ろし、玲司も銃を構えたまま動かなかった。


「……え?」


 玲司自身が、誰よりも勝利を理解できていなかった。


     ◇


「……おい、今の見たか?」

「久遠が篠宮に勝った?」

「炎の発動位置、完全に読んでなかったか?」


 観戦席がざわめいた。実技成績の低い玲司が上位適性者に勝った。それも偶然ではない。炎の流れを読み、相手の移動先へ正確に撃ち込んだのだ。


「……玲司」


 朔夜はフィールドを見つめていた。最初の玲司はいつもどおりだった。照準は遅く、回避も大きい。しかし途中から踏み込みの角度、重心移動、視線の置き方が熟練者のものへ変わった。


 相手の攻撃を避けるだけでなく、次の攻撃へ繋げる位置を最初から選んでいる。


 何度も玲司の訓練を見てきた朔夜だからこそ分かった。あれは、今までの玲司ではない。


「……何をしたんだ?」


     ◇


「久遠」


 榊原教官が呼び止めた。


「今の回避行動について説明できるか? 篠宮の術式発動位置を何を根拠に予測した?」


 玲司は言葉に詰まった。戦闘中は確かに分かっていた。しかし今は、その感覚が夢のように曖昧になっている。


「……すみません。自分でも、よく分からなくて」

「分からない?」

「……はい」


 榊原は端末を確認し、しばらく考え込んだ。


「勝利は認める。ただし、後で戦闘記録を提出しろ。それと、負傷しているなら無理はするな」

「……分かりました」


 フィールドを降りると、澪が駆け寄ってきた。


「オタクくん! すごいじゃん! 勝ったじゃん!」

「……僕も、びっくりしてる」

「何それ!」


 澪の笑顔につられて玲司も笑った。しかし左肩に鋭い痛みが走り、顔をしかめる。


「……っ」

「オタクくん?」

「……大丈夫」

「またそれ! 大丈夫じゃないときに大丈夫って言うの、禁止!」


 澪は玲司を観戦席へ連れていった。その途中、ノアが声をかけた。


『先ほどの戦闘中、一時的な脳波異常と、通常の運動学習では説明できない身体操作の変化を検出しました』

「……脳波?」

『未知の情報処理が発生した可能性があります』


 玲司は黙り込んだ。知らない技術、流れ込む記憶、三日前の戦闘。すべてが繋がっている気がした。


     ◇


「第二試合。伊佐波朔夜、前へ!」


 朔夜が立ち上がる。フィールドへ向かう途中、玲司と目が合った。


「お疲れ、玲司。すごかったな、今の」

「……ありがとう」

「後で、少し話そう」


 玲司の胸が跳ねたが、朔夜はそのまま歩いていった。


 対戦相手は赤城大和(あかぎやまと)。赤魔術《生命錬成術式(アルス・カルニス)》を得意とする近接戦闘型の生徒だ。大柄で筋肉質、身体強化の出力は学年上位だった。


「伊佐波、今日は遠慮しないからな」

「いつも遠慮してるみたいな言い方だな」

「してるわけないだろ」

「じゃあ、今日も本気で頼む」


 赤城は苦笑した。


「強いくせに、全然偉そうにしないよな」

「偉そうにしたところで、強くなるわけじゃないからな」

「……そういうところが腹立つんだよ」


 二人が距離を取る。


 READY


 赤城の全身を赤い術式光が包んだ。筋出力、骨格強度、反射速度が強化される。一方、朔夜は静かにデバイスを構えた。


 START


 赤城が踏み込む。赤い残光が走り、拳が朔夜の顔面へ迫った。


 しかし朔夜は、わずかに首を傾けただけだった。


「……っ!」


 赤城が左拳を放つ。朔夜は半歩下がる。右、左、踏み込み、回し蹴り。すべて紙一重で外れた。


「赤城の攻撃、全然当たってないぞ」

「朔夜、ほとんど動いてなくないか?」


 玲司は息を呑んだ。朔夜は攻撃を見てから避けているのではない。動作が始まる前に予測している。


 青魔術《論理構築術式(ロゴス)》。


 淡い青い光がデバイスを走る。筋出力、関節角度、重心移動、魔術反応を解析し、次の動きを予測する。しかし解析だけでは身体は動かない。朔夜は何千回、何万回と訓練を重ね、その予測を動作へ繋げていた。


「……くそっ! 逃げてばっかりじゃ勝てねえぞ!」


 朔夜は答えず、デバイスを下げた。緑色の光が走り、赤城の右側に細い炎の壁が立ち上がる。


「……っ!」


 赤城が反射的に左へ踏み込む。その瞬間、朔夜のデバイスが青く輝いた。移動先が予測と一致する。


 そして、赤。


 脚部を強化した朔夜が一気に加速し、赤城の背後へ回り込んだ。


「……なっ!」


 赤城が振り向くより早く、朔夜の拳が背中へ軽く触れた。


 HIT


 WINNER:伊佐波朔夜


 試合開始から十八秒。


「……マジかよ」

「いい踏み込みだった」

「慰めんな」

「慰めてない。最初の一撃はかなり速かった」

「……お前、ほんと嫌な奴だな」

「よく言われる」


 二人は笑い合い、拳を合わせた。


     ◇


「……やっぱ、朔夜は別格だな」


 観戦席で誰かが呟いた。赤城の身体強化出力は高く、単純な力比べなら朔夜も苦戦したかもしれない。しかし朔夜は力比べを選ばなかった。青魔術で読み、緑魔術で移動先を制限し、赤魔術で仕留める。すべてが無駄なく繋がっていた。


 玲司は親友を見つめた。自分も篠宮に勝った。しかし、それは知らない誰かの経験によるものだった。再現できるかも分からない。


 一方、朔夜は自分の行動を理解し、何度でも再現できる。それこそが努力で身につけた技術だった。


「……すごいな」

「ん? 朔夜のこと?」


 隣から澪が顔を覗き込む。


「……うん」

「まあ、あれはすごいよねー。でもオタクくんだってすごかったじゃん」

「……僕は、たまたまだよ」

「またそういうこと言う。あーし、そういうの嫌い」

「……え?」

「頑張ったことまで、たまたまで片づけちゃうの」


 玲司は言葉を失った。


「朔夜は朔夜。オタクくんはオタクくんでしょ? 比べる必要ないって」


 澪が笑う。その笑顔を見るたび、玲司は知らない記憶を思い出しそうになる。失ったはずの何か。胸の奥に小さな痛みが走った。


     ◇


 演習終了後、玲司は訓練場の隅でノアと記録を確認していた。端末には篠宮との戦闘が立体映像で再現されている。


『再生速度を二十五パーセントに設定します』

「……これ、本当に僕?」

『記録上は間違いありません』

「でも、こんな動き、したことないよ」


 ノアは玲司の通常時の反応速度、筋出力、関節可動域、運動学習履歴を表示した。


『現在の運動能力では、先ほどの動作を安定して再現することは困難です。特に重心移動は、長期間の訓練を積んだ熟練者のものと類似しています』


 玲司は自分の手を見つめた。そんな訓練は積んでいない。


「……ノア。自分では経験してないのに、経験したみたいに動けることって、あるのかな」

『既知の運動学習理論では説明困難です。ただし魔術による情報干渉は否定できません』

「……情報干渉?」

『青魔術による情報処理補助や、特殊な根源魔術による認知変化などが考えられます』

「……根源魔術」


 通常の魔術体系とは異なる、個人固有の特殊な魔術。玲司は自分にそんな力があるとは思っていなかった。


『三日前の戦闘と本日の演習には、共通する異常が確認されています』


 画面に二つの戦闘記録が並んだ。どちらもある瞬間を境に動作が変化し、その直前に未知の脳波反応が発生していた。


「……同じだ」

『はい。未知の現象が戦闘能力へ影響している可能性があります』


 自分の中に何かがある。それは疑いようがなかった。しかし正体も、要求される代償も分からなかった。


     ◇


「……玲司」


 振り返ると朔夜が立っていた。


「少し、いいか?」


 玲司が頷くと、朔夜は隣へ腰を下ろした。


「今の試合、すごかったな。でも気になったことがある。お前、あの動き、いつ覚えた?」


 玲司は答えられなかった。


「炎を避けた踏み込みは難しい。発動位置を読むだけじゃなく、重心も正確に動かさないと抜けられない。それに、お前の身体はあの動きに追いついてなかった」

「……え?」

「最後の踏み込み、左膝が内側に入ってた。関節に負担がかかる。技術は完成されてたのに、身体と噛み合ってなかった」


 玲司は膝を見た。確かに痛みが残っている。


「……どうして、そんなことまで分かるの?」

「俺も昔やったからな。頭では分かってるのに、身体が追いつかないってやつ」


 朔夜は自分の手を見つめた。


「何百回も、何千回も失敗した。だから分かるんだよ」


 朔夜は立ち上がった。


「今のお前が何をしたのかは知らない。でも、身体を壊したら意味ないからな。無理すんなよ」

「……うん」


 玲司はその背中を見送った。朔夜はあの夜のことも、隠し事についても聞かなかった。ただ心配してくれた。その優しさが、少し苦しかった。


     ◇


 午後零時四十分。学院の食堂。


 玲司、澪、朔夜の三人は窓際の席に座っていた。澪が楽しそうに話し、朔夜が相槌を打ち、玲司が少し遅れて加わる。いつもの日常だった。


「それにしても、今日の二人すごかったねー。朔夜は相変わらずだし、オタクくんはまさかの大金星!」

「……まさかって」

「いや、褒めてるんだって!」

「玲司の勝ち方は、俺も予想してなかった。特に最後の射撃は見事だった」


 玲司が照れて視線を落とした、そのとき。


 食堂の大型ディスプレイが緊急ニュースへ切り替わった。


 【速報】魔術研究都市・天城で人工供物輸送車両が襲撃


『本日午前、天城市北部の研究区画において、人工供物を輸送していた車両が何者かに襲撃されました』


 画面には側面が裂け、黒い焦げ跡の残る輸送車両が映っていた。


『複数の魔術反応が確認され、都市防衛局が捜査中です。人工供物の一部が所在不明となっており、周辺地域への立ち入りが制限されています』


「……人工供物?」


 朔夜が呟いた。


 人工供物は、魔術の代償に利用される生体資源だ。厳格な管理下で製造・輸送され、一般市民が直接触れる機会はほとんどない。それが都市内部で襲撃された。


「……なんか、怖いね」

「……うん」


 澪の言葉に玲司が頷く。一方、朔夜は車両の破損箇所を凝視していた。歪んだ金属、黒い焦げ跡、奇妙な術式痕。


 三日前、自分のデバイスに残っていた黒い魔術反応。その波形が脳裏をよぎる。


「……まさかな」

「ん? 朔夜、何か言った?」

「いや、何でもない」


 朔夜は笑ったが、その表情は硬かった。


 玲司もニュースから目を離せなかった。三日前の記憶、朔夜を襲った黒い術式、今日目覚めた未知の戦闘技術。それらがどこかで繋がっている気がした。


 窓から穏やかな昼の光が差し込み、生徒たちはいつもどおり笑い合っている。しかし、その日常の外側ではすでに何かが動き始めていた。


 人工供物の失踪。黒魔術の痕跡。そして玲司の中に眠る未知の力。


 すべてが一つの事件へ収束しようとしていることを、まだ誰も知らなかった。


 ただ一人、遠くから観測する男を除いては。


     ◇


 天城市北部。廃棄された研究施設の地下。


 薄暗い部屋の中央に巨大な培養槽があった。白い液体の中には、人間に似た何かが浮かんでいる。


 人工供物。自我を持たない生体資源。


 しかし、その身体は異常だった。長すぎる腕、人間とは異なる関節、皮膚の下を這う黒い線。そして顔のあるべき場所には、何もなかった。


「……適合率、上昇」


 白衣の男が端末を確認する。表示されているのは黒魔術《深淵接触術式(アビス)》の反応だった。術式が人工供物の内部へ深く侵食している。


「……これなら、使える」


 男が笑う。培養槽の中で長い腕が持ち上がり、黒い泡が浮かんだ。


 端末には文字列が表示されている。


 《世界線干渉実験・第二段階》


 その下には、観測対象の名前。


 久遠玲司。


「……さあ、次の試練だ」


 培養槽の中で、異形の人工供物が目を開いた。存在しないはずの瞳が、黒い液体の奥で輝く。


 そして、ガラスに一本の亀裂が走った。

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