昨日と同じ教室
伊佐波朔夜は、誰よりも早く学院に来る。それは天城魔術学院の生徒なら誰でも知っていることだった。
午前六時十二分。東の空が白み始めた頃、第三訓練場には一人の少年がいた。朔夜は黒い訓練着の袖をまくり、右手に自動拳銃型の魔術デバイス、左手に記録端末を持っていた。
「……〇・一七秒」
術式の切り替えに要した時間だった。
赤魔術《生命錬成術式》、緑魔術《原生循環術式術式》、青魔術《論理構築術式》。三系統を連続して扱うことは容易ではない。魔術には適性があり、適性があっても術式の構築と制御、現象に応じた代償が必要になる。異なる系統を切り替える際のわずかな遅延は、実戦では致命的な隙となる。
朔夜は、その隙を嫌っていた。
「もう一回」
デバイスを構えると、銃身に赤い光が走った。脚部を包む術式が筋出力を強化し、朔夜の身体が加速する。十メートル先の訓練用人形。その直前で術式光が緑へ変わり、銃口から生まれた炎が人形の左側を塞ぐ。
さらに青。照準補助表示に人形の可動部と重心の推定位置が浮かび、再び赤へ。朔夜は踏み込み、人形の胸部へ拳を打ち込んだ。
鈍い衝撃音。人形が後方へ滑る。
「……〇・一六秒」
〇・〇一秒の短縮。しかし朔夜は眉を寄せた。
「緑から青への移行が遅いな」
炎の形成を完全に終えてから青魔術へ移行している。安全だが、実戦で相手が待つとは限らない。
「次は、炎の維持を切るタイミングを早める」
赤、緑、青、赤。何度も同じ動作を繰り返す。失敗すれば記録を確認し、原因を探して修正する。それが伊佐波朔夜の強さだった。
学院では天才と呼ばれている。三系統に適性を持ち、実技も座学も学年上位。しかし朔夜はその評価を好まなかった。才能だけで今の自分があるわけではない。
幼い頃、朔夜は弱かった。何もできず、誰かの後ろに隠れていた。そんな自分の前に立ってくれた少年がいた。
久遠玲司。
決して強くなく、喧嘩にも慣れていない。それでも逃げなかった少年。いつか玲司が誰かを守ろうとしたとき、今度は自分が隣に立てるように。その思いが、朔夜を努力へと駆り立てていた。
「……さて。あと二十回」
午前六時三十八分。朔夜が再びデバイスを構えたとき、入口で物音がした。
「……玲司?」
そこには、驚いた顔の親友が立っていた。
◇
玲司が早朝の学院へ来たのは、眠れなかったからだった。
三日前の夜、親友に殺されかけた。緑色の炎、赤い術式光、迫る拳。そして、あの冷たい言葉。
――ここで死んでもらう。
夢ではない。左肩には痛みが残り、肋骨周辺には大きな痣があった。救急搬送後の検査で骨折はなかったものの、打撲と筋損傷のため激しい運動を控えるよう指示されていた。
それでも学院へ来た。家にいても、考えることは同じだったからだ。
なぜ朔夜は自分を襲ったのか。そして、あの夜に流れ込んできた記憶は何だったのか。
『玲司。睡眠不足による集中力の低下が確認されています』
「……分かってる」
『昨夜の推定睡眠時間は二時間四十三分です』
「眠れなかったんだから、仕方ないよ」
『三日前の戦闘による心理的影響が考えられます。学院の医療部門への相談を推奨します』
「……うん」
腰のホルスターから聞こえるノアの忠告に返事をしながらも、玲司が向かったのは第三訓練場だった。そこに朔夜がいると知っていたからだ。
「珍しいな。こんな時間に来るなんて。自主練か?」
「……う、うん。えっと……」
玲司は言葉に詰まった。目の前の朔夜は、明るく気さくで人懐っこい、いつもの親友だった。三日前の冷たい表情とはまるで違う。
「……どうした? 顔色、悪いぞ」
朔夜が近づく。玲司は反射的に一歩下がった。
「……玲司?」
「ち、違うんだ。今のは……」
「……そっか」
朔夜は足を止め、それ以上近づかなかった。代わりに玲司の左肩へ視線を向ける。
「その傷、どうした?」
「……ちょっと、転んで」
「転んだ? それで、そんなに痛そうなのか?」
「……大丈夫だよ」
朔夜はしばらく見つめていたが、小さく息を吐いた。
「無理すんなよ。今日は実技演習があるけど、痛むなら見学した方がいい。先生にも言っとけよ」
「……分かった」
いつもと同じ笑顔だった。安心するはずなのに、玲司はどうしても怖かった。
「……玲司。一つ、聞いてもいいか?」
「……何?」
朔夜は少し迷ってから、静かに尋ねた。
「三日前の夜、お前、何してた?」
玲司の心臓が跳ねた。
「……え?」
「俺、あの日の夜の記憶がないんだ」
朔夜は困ったように笑った。
「夕方までは覚えてる。学院を出て、買い物して、それから……気づいたら病院だった。警備隊の巡回員に発見されたらしい」
玲司自身も、あの夜に救急搬送されていた。朔夜が発見されたのはその少し後だったという。しかし二人の間で何が起きたのか、詳細は明らかになっていない。
「俺のデバイスにも妙な記録が残ってる。赤、緑、青。全部使ってるんだ。しかも普段の訓練より、ずっと危ない出力で」
朔夜の笑みが消えた。
「……俺、あの日、誰かと戦ったのかもしれない。でも相手が誰なのか、何のために戦ったのかも覚えてない」
拳を握りしめる。
「……気持ち悪いんだよ」
その声には不安が滲んでいた。玲司は初めて気づいた。怖がっているのは自分だけではない。朔夜もまた、自分が知らないところで何をし、誰を傷つけたのかを恐れている。
「……朔夜」
言うべきだった。あの夜、自分を襲ったのは朔夜だったと。
しかし、玲司の脳裏に別の光景が浮かんだ。雨の降る街。死んだ自分を抱きしめ、泣いていた朔夜。
あれは何だったのか。もし、あの夜の朔夜が、今ここにいる朔夜とは違う何かだったとしたら。
「……僕も、よく分からないんだ」
嘘ではない。ただ、すべてを話したわけでもなかった。
「……そっか」
朔夜はそれ以上追及しなかった。その優しさが、玲司にはつらかった。
◇
午前八時十五分。天城魔術学院、高等部第二学年A組。
教室はいつもどおり騒がしかった。実技課題や昨夜の配信番組について話す生徒たち。机には教科書と携帯端末、壁際には魔術デバイスの安全管理用ラック。
何も変わらない朝だった。玲司以外の生徒にとっては。
「オタクくーん! おはよっ!」
白瀬澪が教室へ入ってきた。
「……お、おはよう」
「なにその顔。朝から元気なくない?」
「……ちょっと寝不足で」
「また夜更かし? もー、ちゃんと寝なきゃ駄目じゃん」
澪は呆れたように腰へ手を当て、玲司の肩を見た。
「しかも、まだ怪我治ってないんでしょ?」
「大丈夫だよ。もうそんなに痛くないし」
「ほんと?」
澪はじっと玲司を見つめた。
「……オタクくん。あーしに、何か隠してない?」
「……え?」
「だってさ、最近ずっと変だもん。三日前から、ずっと」
玲司は返事ができなかった。澪には転倒して怪我をしたと説明していた。彼女は信じたふりをしているが、何かを隠していることには気づいているのかもしれない。
「……ごめん」
玲司が呟くと、澪は驚いたように目を見開き、それから笑った。
「謝ることないって。話したくなったら、話してくれればいいよ」
澪は玲司の額を指先で軽く突いた。
「その代わり、無茶だけはしないこと。いい?」
「……うん」
「よろしい!」
澪が笑った瞬間、玲司の視界が揺れた。
――白い部屋。病院のベッド。動かない少女。
目の前の澪が、別の光景と重なる。白いシーツ、冷たくなった指先、閉じられた瞳。そして、誰かの泣き声。
「……っ!」
玲司は机に手をついた。
「オタクくん?」
澪の声が遠くなる。視界の端で赤い警告が点滅した。
『警告。脳波パターンに異常を検出。玲司、意識状態を確認してください』
「……だい、じょうぶ……」
「ちょ、全然大丈夫じゃないじゃん!」
澪の声で現実へ引き戻された。教室、机、窓から差し込む朝日。そして目の前には、心配そうな澪がいた。
生きている。笑っている。自分を見つめている。
「……澪」
「な、なに?」
「……何でもない」
「……もう。ほんっと、心配かけるんだから」
玲司は何も言えなかった。ただ、目の前の少女が生きていることを確かめるように、何度も見つめていた。
◇
その様子を教室の後方から見ていたのは、朔夜だった。
彼の携帯端末には、三日前のデバイス記録が表示されている。赤魔術《生命錬成術式》、緑魔術《原生循環術式》、青魔術《論理構築術式》。
すべて自分の術式構築履歴だった。しかし発動順序、出力設定、攻撃の選択には違和感があった。戦闘技術は確かに自分のものなのに、どこかが違う。
まるで、同じ技術を持つ別人が、自分の身体を使って戦ったような。
「……何なんだよ、これ」
画面を切り替えると、異常な魔術反応の記録が現れた。
黒。
赤でも緑でも青でもない、自分には扱えない別系統の反応。その発生時刻は、記憶が途切れた時間と一致していた。
朔夜は眉を寄せ、教室の前方へ目を向けた。玲司が澪と話している。幼い頃から見慣れた光景だった。
しかし玲司には傷があり、自分が近づくと反射的に距離を取る。何かを隠しているのは明らかだった。
「……玲司」
名前を口にすると、胸の奥が痛んだ。理由は分からない。ただ、ひどく嫌な予感がしていた。
自分は何かをした。取り返しのつかない何かを。
その確信だけが、記憶のない三日前の夜から消えなかった。
◇
午前九時。授業開始のチャイムが鳴り、生徒たちが席へ戻った。
「おはよう。全員、席につけ」
担当教員が出席を確認し、端末を操作する。大型ディスプレイに授業予定が表示された。
午前一限。魔術実技演習。対人戦闘訓練。
玲司はその文字を見つめた。いつもなら憂鬱になるだけの授業だった。優秀な生徒たち、思うように動かない身体、繰り返してきた敗北。
しかし今は違う。
脳裏に浮かぶのは三日前の戦闘。朔夜の拳、迫る炎、そして突然流れ込んできた未知の戦闘技術。
なぜ自分は、あんな動きができたのか。今日の演習で何か分かるかもしれない。
『玲司』
「……何?」
『三日前の戦闘記録を再解析しました。使用された身体操作技術は、既存の訓練履歴と一致しません』
「……そう」
『さらに、一部の動作には現在の身体能力では再現困難な運動負荷が確認されています』
玲司はわずかに震える左手を見つめた。
『本日の演習で同様の動作を意図的に再現することは推奨できません』
「……分かった」
玲司は頷いたが、視線はディスプレイから離れなかった。
「本日の演習は、各自の魔術適性と戦闘判断能力を評価する。対戦相手は事前に設定してある」
画面が切り替わり、対戦表が表示された。
久遠玲司。
その隣には、緑魔術を得意とする学年上位の生徒の名前があった。
「久遠、相手悪すぎだろ」
「また一方的にやられるんじゃね?」
教室に小さな笑い声が上がった。玲司は何も言わない。こういう言葉には慣れていた。
「……別に、そうとも限らないだろ」
後方から声がした。朔夜だった。
「玲司だって、いつまでも同じじゃない」
何気ない言葉に、玲司は振り返った。目が合うと、朔夜はいつものように笑った。
「頑張れよ、玲司」
「……うん」
その笑顔に、少しだけ救われた気がした。
まだ何も分からない。自分の力も、親友を襲った異変も、あの夜に見た無数の死の記憶も。
それでも玲司は、今日も学院に来た。
昨日と同じ教室。昨日と同じ友人たち。昨日と同じ日常。
ただ一つ違うのは、久遠玲司の中に、もう一人の誰かが眠っていることだった。
そして、その誰かが再び目を覚ますまで、残された時間はわずかだった。




