いつもと違う帰り道
人は死ぬ瞬間、これまでの人生を走馬灯のように見るという。楽しかった思い出、後悔した出来事、もう二度と会えない誰かの顔。それらが、ほんの一瞬で脳裏を駆け巡るらしい。
だが、もし死の間際に見たものが、自分の人生ではなかったとしたら。
知らない街。知らない戦場。知らない誰かの死。そして、何度も繰り返される、たった一人の少女の最期。
それは誰の記憶なのだろう。誰が生き、誰が敗れ、その痛みを覚えているのだろう。
その夜、一人の少年が死にかけた。彼を殺そうとしたのは、誰よりも信頼していた親友だった。
そして少年は、まだ知らない。自分の中に眠る力が、無数の敗者たちの人生と繋がっていることを。
◇
「オタクくーん。聞いてる?」
夕暮れの通学路に少女の声が響いた。久遠玲司は目の前で揺れる白い指に気づき、顔を上げた。
「……え?」
「もー。さっきから三回くらい呼んでるんですけど?」
白瀬澪は呆れたように頬を膨らませ、玲司の顔を覗き込んだ。
「ご、ごめん。ちょっと考え事してて」
「どうせ明日の実技演習のことでしょ?」
「……なんで分かったの?」
「分かるって。何年オタクくんの幼なじみやってると思ってんの」
澪は得意げに胸を張った。二人が通う天城魔術学院から駅へ続く歩道には、帰宅途中の生徒たちが行き交っている。街路樹の向こうには魔術研究都市・天城の高層建築群が並び、外壁には術式光が走り、上空では警備用魔術機械が巡回していた。
魔術が科学と同じように社会へ組み込まれた現代。適性と教育さえあれば誰でも魔術師を目指せる。ただし、適性があることと優秀であることは別だった。
「明日の演習、また朔夜と比較されるんだろうなって」
「出た。オタクくんの悪い癖」
「だって、朔夜はすごいよ。赤魔術も緑魔術も青魔術も使えるし、成績だって学年トップクラスだし」
伊佐波朔夜。玲司の親友であり、学院高等部二年でも指折りの実力者。
赤魔術《生命錬成術式》。
緑魔術《原生循環術式》。
青魔術《論理構築術式》。
三系統を高い水準で使いこなす。
しかし、その強さを支えるのは才能だけではない。誰よりも早く訓練場に現れ、授業後も術式研究を続ける。同じ動作を何千回と繰り返す朔夜の努力を、玲司は誰よりも知っていた。だからこそ尊敬していた。
「だからって、オタクくんが駄目ってことにはならなくない?」
「……そうかな」
「そうだって。あーしはオタクくんのいいところ、いっぱい知ってるし」
「たとえば?」
「んー……困ってる人を見ると、放っておけないところ?」
「それ、長所なのかな」
「長所だよ。すっごく」
いつになく真剣な声に玲司が返事を迷っていると、腰のホルスターから電子音が鳴った。
『心拍数の上昇を検出しました』
「……ノア?」
『原因として、白瀬澪との会話による心理的緊張が推測されます』
「余計な分析しなくていいから!」
「えっ、オタクくん、あーしと話すと緊張するの?」
「ち、違うって!」
『否定発言と生体反応の間に不一致を確認』
「ノア!」
澪がお腹を抱えて笑った。ノアは玲司の魔術デバイスに搭載された固有AIだ。戦闘補助や術式管理、身体状態の監視を担う頼れる相棒だが、時折余計なことまで口にする。
「あははっ。ノアちゃん、相変わらず容赦ないね」
『事実を報告したまでです』
「もー、オタクくんってば分かりやすいんだから」
玲司は困ったように視線を逸らした。夕陽が二人の影を長く伸ばす。幼なじみにからかわれ、親友の活躍を少し羨ましく思う。そんな何でもない日常がどれほど大切だったのか、玲司が思い知るのはもう少し後のことだった。
◇
午後八時四十七分。玲司は一人、再開発地区を歩いていた。澪とは駅前で別れたが、忘れ物を取りに学院へ戻ったせいで遅くなったのだ。建設途中のビルと工事用防護壁が続く通りに、人影はない。
『玲司。周辺の魔術反応に異常を検出しました』
「……異常?」
『前方三十二メートル。高密度の術式反応を確認。警戒を推奨します』
街灯の下に誰かが立っていた。黒い学院制服、見慣れた背格好、少し癖のある黒髪。
「……朔夜?」
親友の姿に玲司は安堵した。
「なんだ、びっくりした。こんなところで何して――」
「玲司」
冷たい声だった。朔夜は玲司の顔を見ているのに、彼自身を見ていないようだった。
「お前は、ここにいちゃいけない」
「え?」
「悪いな」
朔夜が右手を上げる。握られた自動拳銃型デバイスの術式が緑色に発光した。
『警告。緑魔術《原生循環術式》の発動を検出』
「待って、朔夜。何を――」
「ここで死んでもらう」
銃口から緑の光が弾け、炎が生まれた。
「――っ!」
玲司は反射的に横へ飛んだ。炎が直前まで立っていた場所を走り抜け、防護壁を黒く焦がす。
朔夜が、本気で自分を攻撃した。
『敵性行動を確認。防御術式の展開を推奨』
「敵じゃない!」
叫んだ瞬間、朔夜の姿が消えた。いや、速すぎたのだ。全身を赤い術式光が駆け巡る。赤魔術による筋出力増強、神経伝達速度の向上、骨格と腱の強化。
『接近速度、予測値超過――』
警告より早く、拳が玲司の腹部へ突き刺さった。
「がっ――!」
身体が吹き飛び、金属柵へ激突する。肺から空気が押し出され、膝が崩れた。なぜ朔夜が自分を攻撃するのか、何も理解できなかった。
『玲司、応答してください。肋骨損傷の可能性があります。デバイスを抜いてください』
玲司は震える手で黒い自動拳銃型デバイスを抜いた。内部には、魔術の代償を人工供物由来の資源で供給するサクリファイス・カートリッジが装填されている。通常魔術には現象に応じた代償が必要だ。しかし玲司には、朔夜のような技量も適性もなかった。
『使用可能な防御術式を選択。残存カートリッジ三発』
「防御……展開!」
銃口の前に薄い障壁が生まれた。だが朔夜の拳が触れた瞬間、砕け散る。玲司は横へ転がり、続く一撃を逃れた。拳が金属柵をひしゃげさせる。
「朔夜! 僕だよ! 玲司だ!」
返事はない。朔夜のデバイスが青く光った。
『青魔術《論理構築術式》を検出。対象、行動予測を開始』
玲司が右へ逃げようとすると、朔夜はすでに逃げ道を塞いでいた。左には緑魔術の炎の壁。熱に押し戻されたところへ蹴りが飛び、肩を直撃した。
「うああっ!」
アスファルトに叩きつけられる。緑魔術で逃げ道を塞ぎ、青魔術で動きを読み、赤魔術で仕留める。長年の訓練によって完成された朔夜の戦い方だった。
玲司は何度もその訓練を見学し、模擬戦で負け、その強さに憧れていた。だが今、その強さが自分を殺そうとしている。
『玲司。対象の攻撃は致死的です。反撃を推奨します』
「……できるわけ、ないだろ」
引き金に指がかかる。反撃しなければ死ぬ。それでも、目の前にいるのは親友だった。
「朔夜……頼むから……目を、覚ましてよ」
その声は届かなかった。
◇
赤い光が視界を覆った。朔夜が踏み込む。玲司は動けなかった。左肩は上がらず、肺が痛み、指先の感覚も薄れていた。
『玲司! 回避してください!』
赤魔術で強化された拳が迫る。まともに受ければ、今度こそ終わる。
そのときだった。
――違う。
頭の中で、知らない誰かが言った。
――拳を見るな。肩を見ろ。
時間が遅くなったように感じた。朔夜の右肩が動き、重心が移り、腰が回転する。そのすべてが見える。
――攻撃の始まりは、拳じゃない。
突然、視界が切り替わった。薄暗い地下室。血の染みた床。巨大な男が拳を振り下ろす。誰かが半歩ずれ、相手の腕に手を添えた。力を受け止めず、方向を変え、重心を崩す。何千回も繰り返したかのように、身体がその動作を覚えていた。
景色が戻る。朔夜の拳が目の前にある。
玲司は動いた。
右足を引き、肩を落とし、左手で拳の軌道を逸らす。拳が頬をかすめ、背後の金属柵が砕けた。
「……え?」
自分でも何をしたのか分からない。なのに身体は止まらなかった。伸びきった朔夜の腕に自分の腕を重ね、足を差し入れ、重心を崩す。
『警告。未登録の運動制御パターンを確認』
朔夜は赤魔術で強化した脚力によって体勢を立て直し、左拳を放った。しかし玲司は避けた。知らないはずの避け方を、知っていた。
どこへ動けばいいのか。どの角度なら衝撃を逃がせるのか。すべてが分かった。
『玲司。現在の動作は登録済み訓練履歴と一致しません』
「僕だって……分からない!」
朔夜のデバイスが緑色に光る。その瞬間、また知らない記憶が流れ込んだ。燃える街。崩れた建物。炎を操る術者の懐へ飛び込む誰か。
術式完成直前の、最も危険で無防備な一瞬。
――今だ。
玲司は前へ踏み込んだ。
「なっ……!」
朔夜の表情が初めて変わる。玲司は手首を掴んで銃口を逸らした。炎が夜空へ噴き上がる。
朔夜が赤魔術を再起動する。圧倒的な速度。身体能力では追いつけない。それでも次の動きは分かった。
玲司は攻撃をかわし、足を引っかけ、体重を乗せた。朔夜がアスファルトへ倒れる。玲司はすぐに距離を取り、デバイスを構えた。
『対象の体勢崩壊を確認。ただし身体強化術式は継続中』
朔夜がゆっくりと顔を上げる。
「……やっぱり。やっぱり、お前だったのか」
「……朔夜?」
その声には憎しみと悲しみ、そして深い後悔があった。玲司の知る親友とは違う。けれど、どこかで玲司を知っているような声だった。
「何を……言って――」
突然、朔夜の身体が跳ねた。
「が……あああああっ!」
赤い術式光が乱れ、皮膚に蜘蛛の巣のような黒い線が浮かぶ。
『警告。異常な術式干渉を検出』
「ノア、これって……!」
『黒魔術《深淵接触術式》に類似。ただし術式構造の照合に失敗。分類不能です』
黒い線が首から顔へ広がる。玲司が駆け寄ろうとした瞬間、世界が裏返った。
◇
雨が降っていた。
見知らぬ光景が玲司の意識に流れ込む。誰かが少年を抱きしめていた。黒髪、見慣れた制服、見慣れた顔。
――久遠玲司。
死んでいたのは、玲司自身だった。
「……なんでだよ」
亡骸を抱いて泣いているのは朔夜だった。今より大人びており、制服は破れ、全身に傷を負っている。
「なんで、お前が……! 俺が……俺が守るって……!」
声が途切れ、景色が崩れた。
意識が再開発地区へ戻る。朔夜は倒れ、黒い術式も赤い光も消えていた。
『対象の意識消失を確認。生命反応は安定しています』
「……生きてる?」
『はい』
玲司はその場に座り込んだ。親友は生きている。それだけで十分だった。
少なくとも、その瞬間までは。
突然、頭の奥で何かが弾けた。
「――あ、ぐっ!」
知らない記憶が雪崩のように流れ込む。雨の街。瓦礫に埋もれた少女。病室で止まった心電図。燃える都市。崩壊する橋。砕けたデバイス。
そして、どの景色にも彼女がいた。
白瀬澪。
いつも笑っている幼なじみ。彼を「オタクくん」と呼ぶ少女。
その澪が、死んでいた。
何度も。何度も。何度も。
「……やめろ」
ほんの数時間前まで澪は笑っていた。駅前で手を振り、明日また会おうと言っていた。
「……やめてくれ……!」
記憶の中で誰かが澪の名を叫び、何度も手を伸ばしていた。それでも、どの世界でも彼女は死んだ。
最後に見えたのは白い病室だった。ベッドに横たわる澪の手を、誰かが握っている。澪はかすかに微笑んだ。
『……泣かないでよ、オタクくん』
その声を聞いた瞬間、玲司の意識は暗闇へ落ちた。
◇
遠くでサイレンが聞こえた。
『玲司。玲司、応答してください』
「……ノア?」
『意識の回復を確認しました』
玲司が目を開けると、街灯が滲んでいた。全身が痛む。少し離れた場所では、朔夜が安定した呼吸を続けていた。
「……ノア。僕、何をしたの?」
しばらく沈黙があった。
『解析できません。あなたは未習得の身体操作技術を使用しています』
「……どういうこと?」
『格闘術の動作体系が、戦闘中に少なくとも二度変化しています』
玲司は震える手を見つめた。何年も訓練した武術家のように、戦場を生き延びた兵士のように、あの手は動いていた。
「……どうして?」
『不明です。ただし、偶然の反射では説明できません』
夜風が吹き、焦げた金属の匂いがした。憧れていた親友が自分を殺そうとした。そして、知らない誰かの技術で生き延びた。
何も分からない。ただ一つ、忘れられないことがあった。
――澪が、死んでいた。
玲司は震える手で携帯端末を取り出し、澪とのメッセージ画面を開いた。
『オタクくん、ちゃんと帰ってね!』
数時間前の、いつもどおりの言葉。玲司は何度も読み返し、返信を打った。
『澪、今大丈夫?』
数秒後、既読がついた。
『どしたの? あーしなら元気だよー』
胸の奥が熱くなった。
澪は生きている。今、この世界で、ちゃんと生きている。
玲司は端末を握りしめた。理由も分からないまま涙がこぼれる。ただ、もう二度とあんな光景を見たくない。それだけは、はっきりしていた。
◇
同時刻。再開発地区を見下ろす高層建築の屋上に、黒い外套をまとった男が立っていた。
視線の先には、倒れた朔夜と座り込む玲司。手元の観測端末には、複雑な解析結果が表示されている。
――世界線干渉反応。
――外部記憶接続。
――身体制御情報の異常上書き。
――第一段階、正常起動。
「……ようやく、始まったか」
喜びも興奮もない声だった。長い旅の果てに、ようやく目的地へ一歩近づいた者のような疲労だけが滲んでいた。
男が端末を切り替えると、一人の少女の写真が映った。夕陽を背に無邪気に笑う白瀬澪。
長い沈黙のあと、男は呟いた。
「……今度こそ。今度こそ、間違えるなよ」
少年に向けた言葉なのか、自分自身に向けたものなのか。答える者はいなかった。
男は天城の夜空を見上げ、静かに目を閉じた。
「……お前を、死なせない」
◇
その夜、久遠玲司は初めて、自分ではない自分の記憶を見た。
それは遠い世界で生き、戦い、傷つき、何かを守ろうとして敗北した者たちの記憶だった。
彼らは英雄ではない。勝者でもない。何かを失い、それでも最後まで足掻いた、無数の敗者たち。
玲司はまだ知らない。自分の中に眠る力の名前も、その力が要求する代償も。そして、あの少女の死が、決してただの悪夢ではなかったことも。
無数の可能性から、別の自分を選び取る根源魔術。
その名は――
《愚者の選択》。
これは、英雄になれなかった者たちが、たった一つの未来を取り戻すために、もう一度戦う物語である。




