信じる理由
非常通路の隔壁が閉じた瞬間、玲司は壁に背中を預けた。
「……はぁ、はぁ……っ」
肺が焼けるように痛い。
御影との戦闘で受けた傷は浅くない。腹部には鈍痛が残り、右腕の感覚も少しおかしかった。
それでも、最も恐ろしいのは身体の痛みではなかった。
目の前にいる少年の名前を、まだ自然には思い出せないことだった。
「玲司、こっちだ」
少年が手招きする。
伊佐波朔夜。
ノアに教えられた名前だ。
頭では理解している。けれど、彼と過ごした日々を思い浮かべようとすると、記憶の輪郭が崩れてしまう。
「……うん」
玲司は短く答えた。
朔夜は何も言わず、通路の奥へ進んだ。
その背中を見つめながら、玲司は考える。
もし、ノアがいなかったら。
もし、目の前の少年が自分の親友だと教えてくれるものが、何一つ残っていなかったら。
自分は、彼を信じられるのだろうか。
◇
四人が逃げ込んだのは、旧第七記憶保管区の補助制御室だった。
壁には古い監視装置が並び、中央には巨大な作業台が設置されている。
朔夜が扉の制御盤を操作した。
「隔壁は閉鎖した。長くは持たねえだろうけど、少しは時間を稼げる」
『御影征司の魔術反応は中枢保管区に留まっています。現時点で追跡反応はありません』
「追ってこない、か」
朔夜は顔をしかめた。
「余裕ぶってやがる」
澪は透花を椅子に座らせた。
「透花ちゃん、気分どう?」
「……少し、寒い」
「そっか。ちょっと待ってね」
澪が白魔術を展開する。
淡い光が透花の身体を包み、冷えきった指先に僅かな血色が戻った。
『篠宮透花様の生体反応は依然として不安定です。身体の魔術回路に継続的な負荷を確認しています』
「……あと、どれくらい?」
玲司が尋ねる。
『現在の状態で長時間の戦闘に巻き込まれた場合、急激な機能低下が予測されます。正確な残存時間は算出できません』
玲司は唇を噛んだ。
御影を倒さなければ、透花を救うことはできない。
しかし、正面から戦っても勝てない。
あの男は、こちらの記憶を読み、行動を予測している。
何より、記憶を書き換えられた瞬間、自分たちは敵と味方の区別すら失ってしまう。
「……どうすれば」
玲司が呟くと、朔夜が作業台に腰を下ろした。
「まず、敵が何をしてるのか整理しようぜ」
「……え?」
「強い相手に勝つ方法なんて、いつも同じだ。できることと、できないことを分ける」
朔夜は左手のデバイスを作業台へ置いた。
「ノア。さっきの戦闘記録、残ってるか?」
『一部が改竄されています。ただし、隔離保存した観測値は参照可能です』
「十分だ。出してくれ」
空中に、立体映像が展開した。
御影との戦闘。
玲司が発砲した瞬間、御影は銃弾の軌道から外れている。
朔夜が攻撃する直前には、黒い魔術陣が既に防御位置へ移動していた。
澪の障壁が展開されるより早く、その薄い部分を狙って攻撃が集中している。
「……全部、読まれてる」
玲司が呟いた。
「そうだな」
朔夜は頷いた。
「けど、未来が見えてるわけじゃねえ」
「……どういうこと?」
「俺たちが過去に何をしたか。それを元に、次に何をするか予測してるんだ」
朔夜は映像を一時停止した。
「ここ。俺が踏み込む直前、御影はもう回避してる。でも、俺が途中で足を滑らせた時は、反応が一瞬遅れてる」
『確認しました。想定外の姿勢変化に対し、敵の防御術式に〇・二秒の再演算が発生しています』
「ほらな」
朔夜は笑った。
「予測してるなら、外れることもある」
玲司は映像を見つめた。
確かに、御影は完璧ではなかった。
自分たちの動きが過去の戦闘記録と一致している間は、ほとんど先回りされていた。
けれど、偶然生まれた動きには対応が遅れている。
「……だったら、過去にない動きをすれば」
「そういうことだ」
朔夜は指を鳴らした。
「覚えてる戦い方を、いったん捨てる」
◇
「……でも、それって難しくない?」
澪が首を傾げた。
「戦い方って、今まで練習してきたことの積み重ねでしょ?」
「難しいさ。だから工夫する」
朔夜は立ち上がり、左手でデバイスを構えた。
「例えば、俺は普段、青魔術で敵の動きを解析してから赤魔術で踏み込む。御影もそれを知ってる」
青い光が銃口に集まった。
「なら、解析結果を玲司に渡して、俺は別の動きをする」
「……僕に?」
「ああ。お前が敵を狙って、俺が動きを変える。相手がどっちを優先して予測するか、分からなくなるだろ」
『理論上は有効です。ただし、敵が連携行動そのものを学習する可能性があります』
「だったら、連携の形も固定しない」
朔夜は作業台の上に三つの小さな金属片を置いた。
「俺が前衛。玲司が後衛。澪が防御。そういう役割も、状況に合わせて入れ替える」
「……僕が前に出ることもある?」
「当然」
「……澪も?」
「当然だろ」
「えっ、あーしも前衛やるの!?」
澪が目を丸くした。
朔夜は真顔で頷いた。
「敵を殴れとは言ってねえ。白魔術で視界を遮ったり、敵の術式を押し返したり。できることはあるだろ」
「あー、そういうことね」
澪は胸を撫で下ろした。
「朔夜が急にスパルタになったのかと思った」
「俺は元からこうだ」
「自覚あるんだ」
軽口が交わされる。
玲司は、そのやり取りを黙って聞いていた。
不思議だった。
二人の過去は、まだ曖昧だ。
それなのに、目の前で話している姿には、どこか安心できるものがあった。
澪が玲司へ視線を向ける。
「オタクくん?」
「……え?」
「何ぼーっとしてんの?」
「……いや、その」
玲司は言い淀んだ。
けれど、今聞かなければ、きっと後悔する。
「……二人に、聞きたいことがあるんだ」
朔夜と澪が、同時に顔を向けた。
「もし、僕との思い出が全部消えたら」
玲司は、ゆっくりと言葉を続けた。
「それでも、僕を信じてくれる?」
沈黙。
玲司は思わず目を伏せた。
困らせてしまったかもしれない。
こんな状況で、答えのない質問をするべきではなかった。
だが。
「今のお前を見て決める」
朔夜は即答した。
玲司が顔を上げる。
「……え?」
「だから、今のお前を見て決めるって言ったんだ」
朔夜は肩をすくめた。
「昔のお前がどんな奴だったかなんて、覚えてなきゃ判断材料にならねえだろ」
「……でも、もし僕が」
「お前が俺を助けようとしてるなら、俺も助ける。逆に、誰かを傷つけようとしてたら止める」
朔夜は、まっすぐ玲司を見た。
「それだけだ」
玲司は言葉を失った。
「思い出があるから信じるんじゃねえ。今のお前が信じられる奴だから、信じるんだよ」
胸の奥が、熱くなった。
玲司が何か言おうとすると、澪が横から顔を覗き込んできた。
「あーしも同じ。今のオタクくんが好きなんだから」
「……っ!?」
玲司の顔が、一瞬で赤くなる。
「み、澪!?」
「何その反応」
「い、いや、今のは……!」
「友達として、って言わなきゃ駄目?」
澪は悪戯っぽく笑った。
しかし、すぐにその表情を緩めた。
「……でもさ」
声が、少しだけ小さくなる。
「あーし、さっき怖かったんだ」
玲司は黙って聞いた。
「オタクくんが、あーしを置いていく夢みたいなの見せられて。絶対にそんなことないって思いたかったのに、すっごく怖くて」
澪は自分の手を見つめた。
「昔のこと、全部覚えてるはずなのにね」
「……澪」
「だから、分かったの。覚えてるだけじゃ、安心できないんだなって」
澪は玲司の手を取った。
その手は、少し震えていた。
「でも、今こうして手を握ってくれてるなら、あーしはそれを信じたい」
玲司は、握られた手を見つめた。
温かかった。
記憶の中の誰かではない。
今、目の前にいる澪の手だった。
「……うん」
玲司は、小さく頷いた。
「……ありがとう」
◇
「……いいな」
小さな声が聞こえた。
三人が振り返る。
椅子に座っていた透花が、膝の上で手を握りしめていた。
「……私も、そういうのが欲しかった」
澪が近づく。
「透花ちゃん?」
「……覚えてないこと、ばっかりだから」
透花は俯いた。
「何が本当だったのかも、よく分からない。私が誰なのかも……」
声が震える。
「……でも、みんなを見てると、少しだけ安心する」
玲司は、少女の前に膝をついた。
「……透花」
少女が顔を上げる。
「……僕も、今は覚えてないことが多いんだ」
「……うん」
「だから、君に昔のことを教えてあげられない」
透花の表情が、僅かに曇った。
「……でも」
玲司は続けた。
「君が寒そうにしてたら、温かくしてあげたいと思う」
透花が瞬きをする。
「君が怖がってたら、一緒にいたいと思う。困ってたら、助けたいと思う」
玲司は、自分の胸に手を当てた。
「それは、誰かに教えられた記憶じゃない。今の僕が思ってることなんだ」
「……今の、玲司が?」
「……うん」
透花は、しばらく玲司を見つめていた。
そして、恐る恐る手を伸ばす。
「……じゃあ」
その指先が、玲司の袖を掴んだ。
「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
玲司は頷いた。
「……もちろん」
透花は、小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、玲司は思った。
記憶がどこから来たのか。
過去が本物だったのか。
それは、確かに大切なことだ。
けれど、目の前の少女が笑っているという事実まで、偽物になるわけではない。
◇
『玲司様。御影征司の術式解析に進展がありました』
ノアの声に、玲司は顔を上げた。
「……何か分かった?」
『敵術式は、対象者の記憶を参照して行動予測を行っています。ただし、予測精度は記録済みの行動との一致率に依存します』
空中に、戦闘記録が表示される。
『未経験の行動や、外部から与えられた即時判断に対しては、予測処理が遅延する傾向があります』
朔夜が笑った。
「やっぱりな」
「……じゃあ、僕たちが考えた方法は」
『有効である可能性があります。ただし、戦闘中に新たな行動記録を取得されれば、予測精度は上昇します』
「つまり、同じ手は何度も使えねえ」
朔夜はデバイスを持ち上げた。
「なら、毎回変えればいい」
玲司は頷いた。
「……ノア。御影の術式に、弱点はある?」
『術式の演算には、記憶保管装置との接続が必要です。特に予測結果と実際の行動に矛盾が生じた場合、補正処理が発生します』
「……補正処理?」
『誤った記憶情報を修正し、対象者の行動を再評価する処理です』
玲司は考えた。
御影は、過去の記憶を利用して未来の行動を予測している。
ならば、予測が外れた瞬間、術式には矛盾が生じる。
その矛盾を処理する間に、僅かな隙ができる。
「……そこを狙えば」
『理論上、術式の防御応答を一時的に遅延させられます』
朔夜が頷く。
「俺が即興で動いて、予測を外す」
「……僕が術式の補正を見つける」
「で、あーしが認識のズレを抑える!」
澪が続けた。
「白魔術でみんなの認識を安定させれば、御影の嘘に引っ張られにくくなるはず!」
『白魔術、神話顕現術式による認識安定化は、先ほどの戦闘でも一定の効果を確認しています。ただし、継続使用による負荷に注意が必要です』
「分かってる。無理はしない」
澪は頷いた。
玲司は、三人の役割を頭の中で整理した。
自分は、敵の術式を見つける。
朔夜は、過去にない動きを作る。
澪は、三人が見ている現実を繋ぎ止める。
誰か一人が欠けても成立しない。
だからこそ、御影には予測しにくい。
「……一つ、お願いしてもいい?」
玲司が言うと、朔夜が顔を向けた。
「何だ?」
「……戦ってる途中で、僕が間違ったことを言ったら」
玲司は、一度言葉を切った。
「……僕の指示に従わないでほしい」
朔夜が眉を上げる。
「……どういう意味だ?」
「御影に記憶を書き換えられたら、僕はまた間違った判断をするかもしれない」
玲司は、二人を見た。
「だから、その時は二人で判断してほしい」
澪が首を傾げる。
「オタクくんは、それでいいの?」
「……うん」
玲司は頷いた。
「僕は、二人を信じたいから」
朔夜は一瞬だけ黙った。
それから、笑った。
「任せろ」
澪も頷く。
「あーしも。オタクくんが変なこと言い出したら、ちゃんと止めるから」
「……うん」
玲司は、小さく笑った。
◇
その時だった。
『警告。中枢保管区の魔術反応が変化しています』
ノアの声が鋭くなる。
『新たな人工供物型戦闘端末の起動を確認』
「……新しい敵?」
『はい。ただし、通常の戦闘端末とは構造が異なります』
空中に、施設の監視映像が表示された。
暗い広間。
巨大な記憶保管装置。
その前に、一人の少年が立っていた。
玲司は、息を呑んだ。
「……え?」
黒い制服。
右手に握られた拳銃型デバイス。
そして。
自分と、まったく同じ顔。
「……僕?」
映像の中の少年が、ゆっくりと顔を上げる。
その目は、玲司を見ていなかった。
ただ、何もない空間を見つめている。
『対象の魔術回路に、玲司様の戦闘記録との高い一致を確認しました』
ノアが告げた。
『過去に《愚者の選択》(ロードアルカナ)で読み込まれた戦闘経験が、外部媒体に再構成されています』
朔夜が舌打ちした。
「……今度は、お前の偽物かよ」
玲司は、映像から目を離せなかった。
自分と同じ顔をした少年。
けれど、その立ち姿は違う。
無駄がない。
迷いがない。
銃の握り方も、呼吸の間隔も。
玲司がまだ身につけていない技術を、当然のように使いこなしている。
『推定戦闘能力は、現在の玲司様を大幅に上回ります』
「……そう、だろうね」
玲司は、静かに答えた。
別世界の自分。
自分よりも多く戦い、自分よりも多くの経験を積んだ存在。
かつてなら、その力を羨んでいたかもしれない。
その経験を読み込めば、自分も強くなれると考えたかもしれない。
けれど、今は違う。
「……行こう」
玲司は立ち上がった。
朔夜が頷く。
「準備はできてる」
「透花ちゃんは、あーしが守るね」
澪が少女の手を握る。
玲司は、もう一度だけ二人を見た。
記憶は、まだ戻っていない。
それでも、胸の奥にあった不安は、少しだけ小さくなっていた。
過去の自分が何をしたのか。
別世界の自分が、どれほど強かったのか。
それは、今の自分が選ぶ理由にはならない。
「……今度は」
玲司は、拳銃型デバイスを握りしめた。
「僕たちで、勝とう」
朔夜が笑った。
「当たり前だ」
澪も、いつものように笑う。
「オタクくん、頼りにしてるからね!」
玲司は頷いた。
四人は、再び中枢保管区へ向かって歩き出す。
その先に待っているのは、過去の自分が積み重ねた戦闘経験を持つ敵。
記憶だけで戦うなら、勝ち目はない。
けれど。
今、この瞬間に何を選ぶかまでは。
まだ、誰にも決められていなかった。




