記憶の支配者
親友の名前が、思い出せない。
玲司の目の前には、見慣れた制服を着た少年が立っていた。
負傷した右肩。左手に握られた拳銃型デバイス。鋭い目つき。
知っている。
何度も一緒に戦った相手だ。
それなのに、名前だけが抜け落ちていた。
「玲司! しっかりしろ!」
少年が叫ぶ。
声にも聞き覚えがある。
だが、思い出せない。
「……君は、誰?」
口にした瞬間、少年の表情が凍りついた。
『玲司様! 認識情報の照合に異常が発生しています!』
ノアの声が響く。
『目の前の人物は伊佐波朔夜様です。玲司様の幼少期からの友人であり、現在の同行者です!』
「……伊佐波、朔夜」
玲司は名前を繰り返した。
知識としては理解できる。
けれど、名前と顔が結びつかない。
まるで初対面の相手について説明を受けているようだった。
「……なるほど」
広間の中央で、御影征司が微笑んだ。
「外部記録による補助か。確かに有効だが、それだけでは不十分だ」
御影が指を鳴らす。
黒い魔術陣が、玲司たちの足元から天井まで広がった。
『警告! 黒魔術、深淵接触術式の出力が急上昇!』
次の瞬間、床が爆ぜた。
「玲司、伏せろ!」
朔夜が飛び込んでくる。
玲司の襟を掴み、強引に引き倒した。
頭上を黒い閃光が通過する。
背後の記憶媒体が砕け散った。
「ぼさっとするな!」
「……ご、ごめん!」
朔夜は舌打ちした。
「謝るのは後だ!」
左手のデバイスが青く発光する。
青魔術、論理構築術式。
床に展開された魔術陣を解析し、黒い光の進路を予測する。
「右に三本! 次は上から来る!」
朔夜の警告に従い、玲司は横へ跳んだ。
黒い槍が床を貫く。
続けて、天井から無数の刃が降り注いだ。
玲司は銃口を上げる。
「生命錬成術式!」
赤い光が腕を包む。
強化された身体能力で床を蹴り、刃の隙間を抜ける。
そのまま御影へ向けて三発。
魔術弾が一直線に飛んだ。
しかし。
「遅い」
御影は、動かなかった。
玲司の弾丸が、何もない空間を通過する。
「……え?」
『玲司様! 目標座標に誤差が発生! 実際の御影征司は左方六メートルです!』
振り向いた瞬間、衝撃が腹部を打った。
「がっ……!」
玲司の身体が宙に浮く。
床を転がり、記憶媒体の台座に背中を叩きつけた。
「玲司!」
澪の声。
白い光が玲司の周囲に展開し、追撃の黒い刃を弾く。
「オタクくん、大丈夫!?」
「……う、うん……!」
玲司は立ち上がろうとした。
だが、視界が揺れる。
御影は、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「人間は、目で見たものをそのまま認識しているわけではない」
黒い光が、その指先に集まる。
「視覚情報を過去の経験と照合し、意味を与えている。ならば、その照合に使用する記憶を変更すればどうなる?」
玲司の目の前で、御影の姿が二つに分かれた。
三つ。
五つ。
十。
広間のあらゆる場所に、御影が立っている。
「見えているものが正しくても、認識する位置を誤らせることができる」
『視覚認識への干渉を確認。外部センサーとの不一致が拡大しています』
「……ノア、実際の位置は?」
『正面十二メートル。ただし、外部記録への干渉も確認されています。信頼度は低下中です』
玲司は歯を食いしばった。
これまで何度も、ノアの記録に助けられてきた。
だが、今回は違う。
御影は、記憶そのものを支配する魔術師だった。
◇
「玲司、下がれ!」
朔夜が前へ出た。
負傷した右肩を庇い、左手でデバイスを構える。
青い魔術陣が足元に展開した。
「論理構築術式――流体制御!」
空気が渦を巻く。
十体の御影をまとめて薙ぎ払うように、圧縮された風が放たれた。
幻影が消える。
残った一体へ、朔夜が踏み込んだ。
赤魔術による瞬間加速。
左拳を叩き込む。
だが。
「……っ!」
拳が止まった。
御影の顔が、別のものに変わっていた。
幼い玲司だった。
泣きそうな顔で、朔夜を見上げている。
『……朔夜、もう来ないで』
聞き覚えのない声。
それなのに、朔夜の胸を強烈な痛みが貫いた。
頭の中に、知らない光景が流れ込む。
夕暮れの公園。
泥だらけの自分。
背を向けて立ち去る玲司。
『お前とは、もう友達じゃない』
「……っ、違う!」
朔夜の拳が震えた。
その記憶は偽物だ。
以前、御影に植え付けられたものだと分かっている。
けれど、感情だけが言うことを聞かない。
胸の奥から、怒りが込み上げる。
見捨てられた。
裏切られた。
そんな事実はないはずなのに。
「どうした?」
御影の声が響いた。
幼い玲司の姿が消え、元の男へ戻る。
「目の前の敵を攻撃するだけだろう?」
「……黙れ!」
朔夜が引き金を引く。
青い魔術弾が放たれた。
しかし、御影は軽く身体を傾けただけで回避した。
「判断が遅れたな」
黒い鎖が、朔夜の足首に絡みつく。
「しまっ――」
身体が引き倒された。
負傷した右肩が床に打ちつけられる。
「ぐあっ!」
「朔夜!」
玲司が駆け出す。
御影は、その動きを見て微笑んだ。
「次は君だ」
玲司の視界に、別の記憶が流れ込んだ。
暗い廊下。
銃声。
倒れる朔夜。
そして、玲司自身の手に握られた拳銃。
自分が撃った。
自分が親友を殺した。
「……違う!」
玲司は頭を振った。
目の前の光景が消える。
だが、指先には銃を撃った感触が残っていた。
引き金の重さ。
反動。
硝煙の匂い。
あまりにも鮮明だった。
「……何なんだよ、これ……!」
「記憶とは、そういうものだ」
御影は淡々と告げた。
「事実である必要はない。本人が経験したと認識すれば、それは判断を左右する」
玲司は拳銃を構え直した。
しかし、狙いが定まらない。
御影の姿が揺れる。
撃てば朔夜に当たる気がした。
撃たなければ朔夜が殺される気がした。
どちらが本当なのか、分からない。
◇
「オタクくん!」
澪が駆け寄ろうとした。
その瞬間、黒い光が少女の足元を覆った。
「……え?」
景色が変わった。
そこは、学院の屋上だった。
夕焼けに染まった空。
冷たい風。
そして、フェンスの向こうに立つ玲司。
「……オタクくん?」
玲司は振り返らなかった。
「……ごめん、澪」
聞き慣れた声だった。
「僕、もう君とは一緒にいられない」
澪の胸が、強く締めつけられた。
「……何、言ってんの?」
「君を守るためには、離れるしかないんだ」
玲司が歩き出す。
追いかけようとした。
だが、足が動かない。
「待って!」
声が震える。
「待ってよ、オタクくん!」
玲司は振り返らない。
その背中が、夕焼けの中へ消えていく。
澪は、息を呑んだ。
知らない光景。
経験した覚えのない別れ。
なのに、どうしようもなく怖かった。
「……嫌だ」
少女の声が、震える。
「……あーしを、置いてかないで……」
その瞬間。
『白瀬澪様! 現在位置は旧第七記憶保管区です!』
ノアの声が響いた。
屋上の景色に亀裂が走る。
『表示されている映像は、外部記録と一致しません!』
「……ノア?」
『玲司様は現在、白瀬澪様の右前方八メートルにいます!』
澪は、はっとした。
そうだ。
自分は地下施設にいる。
透花を守るために、ここへ来た。
屋上の光景は、現実ではない。
けれど。
玲司に置いていかれる恐怖だけは、消えなかった。
「……っ!」
澪は、震える手を胸元へ当てた。
「神話顕現術式!」
白い光が、身体を包む。
屋上の幻影が砕けた。
目の前には、黒い鎖に拘束された朔夜。
御影を狙いながら動けない玲司。
そして、床に座り込んだ透花がいた。
「……っ、戻れた……!」
澪は息を切らした。
だが、御影は既に次の術式を展開していた。
「神話顕現術式による認識の安定化か。興味深い」
黒い槍が、澪へ向けられる。
「だが、維持できる時間には限界がある」
槍が放たれた。
澪は防御陣を展開する。
しかし、白い障壁が黒い光に侵食される。
「……っ、重い!」
玲司は、その光景を見た。
澪が危ない。
朔夜も動けない。
透花は立ち上がることすらできない。
自分が何とかしなければ。
その思いが、玲司を追い詰めた。
◇
『玲司様。敵術式の解析を継続中ですが、現状の戦闘能力では突破困難です』
「……分かってる!」
玲司は、拳銃を握りしめた。
御影は、こちらの動きを読んでいる。
視覚も記憶も信用できない。
ならば。
もっと速く。
もっと強く。
考えるより先に動けるだけの経験があれば。
玲司の脳裏に、一つの選択肢が浮かんだ。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界の自分を読み込む根源魔術。
《技術読込》(スキルロード)では足りない。
御影は、そこへ偽の経験を混入させられる。
だが、もっと深く接続すれば。
技術だけではなく、人格や経験そのものを読み込めば。
《存在読込》(オーバーロード)。
かつて、玲司が自分自身の記憶を失う原因となった能力。
「……これなら」
玲司は、デバイスを胸元へ引き寄せた。
魔術回路が、低く唸る。
『玲司様?』
「……ノア、接続準備を」
『接続対象を指定してください』
「……《存在読込》(オーバーロード)」
短い沈黙。
直後、ノアの声が鋭くなった。
『警告。現在の精神状態での《存在読込》(オーバーロード)は推奨できません』
「……でも、これしか……!」
『玲司様。その方法では、再び自己同一性が損なわれます』
玲司は、息を呑んだ。
『前回の記憶欠落は回復していません。さらに、現在は敵の記憶干渉領域内です』
「……それでも」
『読み込んだ人格情報が、玲司様自身の記憶と混同される危険があります』
玲司は、御影を見た。
男は余裕の表情で立っている。
朔夜は黒い鎖を引きちぎろうとしていた。
澪は透花を庇いながら、白い障壁を維持している。
誰も、余裕などなかった。
「……僕が、やらないと」
玲司の指が、起動操作へ伸びる。
その瞬間。
「玲司!」
朔夜の声が響いた。
黒い鎖に拘束されたまま、朔夜が叫ぶ。
「また一人で全部背負うつもりか!」
「……でも!」
「俺たちは何のためにここにいる!」
玲司は、動きを止めた。
「お前が全部解決するのを、黙って見てるためじゃねえ!」
朔夜は、歯を食いしばった。
負傷した右肩から血が滲んでいる。
それでも、目は逸らさなかった。
「俺を使え!」
「……朔夜」
「今のお前が俺を覚えてなくても構わねえ! 戦えることくらい、見りゃ分かるだろ!」
玲司の胸が、強く揺れた。
覚えていない。
親友の名前も、共有した時間も、曖昧になっている。
けれど。
目の前の少年は、玲司を助けようとしている。
自分が傷ついても、玲司を止めようとしている。
「……オタクくん!」
澪も叫んだ。
「こっちも忘れないでよ!」
白い障壁が、黒い槍を弾き返す。
「一人で無茶したら、あーし怒るからね!」
いつもの口調だった。
けれど、その声は震えていた。
澪も怖いのだ。
それでも、玲司を信じようとしている。
玲司は、ゆっくりと息を吐いた。
《存在読込》(オーバーロード)の起動操作から、指を離す。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「……接続、中止」
『了解しました』
魔術回路の唸りが止まった。
玲司は、拳銃を構え直した。
強い自分になる必要はない。
少なくとも、今この瞬間は。
自分より優れた技術を持つ仲間がいる。
自分にできないことを、任せられる相手がいる。
「……朔夜!」
玲司は叫んだ。
「僕には、今の敵の位置が分からない!」
「だったら俺が見る!」
「……澪!」
「何!?」
「透花を守って! それから、朔夜の認識を支えてほしい!」
「了解!」
御影が、僅かに眉を動かした。
「……ほう」
玲司は、拳銃を下ろした。
敵を狙うのではない。
床へ向ける。
「生命錬成術式!」
赤い魔術弾が、足元へ撃ち込まれた。
衝撃が床を伝わり、黒い鎖の周囲を砕く。
「朔夜!」
「分かってる!」
朔夜が左腕を振り抜いた。
青魔術、論理構築術式。
砕けた床の破片が、魔術制御によって浮き上がる。
同時に、緑色の光が走った。
緑魔術、原生循環術式。
床の亀裂から細い蔓が伸び、黒い鎖へ絡みつく。
「……っ、切れろ!」
朔夜が身体を捻る。
黒い鎖が軋み、一本が弾けた。
御影は、静かに手を上げた。
「無駄だ」
黒い槍が、朔夜へ向けられる。
だが。
「させない!」
澪の白魔術、神話顕現術式が、槍の進路へ割り込んだ。
白い光が弾ける。
衝撃で澪の身体が後退した。
それでも、障壁は消えない。
「……っ、朔夜! 今!」
「おう!」
朔夜が、残る鎖を引きちぎった。
そのまま床を蹴る。
御影へ向かうのではない。
玲司の隣へ。
「……何をするつもりだ?」
御影が呟いた。
朔夜は、玲司の肩を軽く叩いた。
「立てるか?」
「……うん」
「なら、動くぞ」
玲司は頷いた。
その瞬間、御影の周囲に無数の黒い魔術陣が展開する。
「面白い」
御影は、初めて楽しそうに笑った。
「記憶を失っても、連携しようとするか」
黒い光が、広間全体を覆っていく。
「だが、君たちが互いを信じる理由も、結局は過去の記憶に依存している」
玲司は、拳銃を握りしめた。
御影の言葉を否定する答えは、まだ見つかっていない。
けれど、一つだけ分かった。
自分の記憶が信用できなくても。
自分の判断が間違っているかもしれなくても。
誰かに、判断を委ねることはできる。
それは、これまでの玲司が選ばなかった戦い方だった。
「……朔夜」
「何だ?」
「……僕、まだ君のことを全部は思い出せない」
「知ってる」
朔夜は、短く答えた。
「……でも」
玲司は、目の前の少年を見た。
「今は、君を信じたい」
朔夜は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、不敵に笑った。
「だったら、信じろ」
青い魔術陣が、二人の足元に展開する。
「その代わり、お前もちゃんと動けよ」
「……うん!」
澪が二人の隣へ並ぶ。
「ちょっと、あーし抜きで盛り上がんないでよね」
「……ごめん」
「謝んなくていいから。ちゃんと三人で帰ろ」
玲司は、頷いた。
背後では、透花が不安そうに三人を見つめていた。
その手が、僅かに伸びる。
「……みんな」
少女の小さな声が聞こえた。
「……気をつけて」
玲司は、振り返った。
透花は何も覚えていない。
自分たちと過ごした時間も、名前も、ほとんど失っている。
それでも、三人を心配していた。
玲司は、小さく笑った。
「……大丈夫」
そう言って、前を向く。
御影の黒い魔術陣が、再び回転を始めた。
『玲司様。敵術式の出力は依然として高水準です。現状での正面突破は推奨できません』
「……分かってる」
玲司は、静かに答えた。
「一度、下がろう」
朔夜が頷く。
「賛成だ。今のままじゃ、まともに戦えねえ」
「透花ちゃんを先に逃がすね!」
澪が少女を抱き起こす。
御影は、四人の動きを見つめていた。
「……逃がすと思うか?」
黒い槍が、無数に展開する。
玲司は銃口を上げた。
「……逃げるんじゃない」
赤い光が、銃身を包む。
「次に勝つために、下がるんです」
引き金を引いた。
赤い魔術弾が床へ着弾し、粉塵が広間を覆う。
同時に、朔夜の青魔術が空気を操り、粉塵を巨大な壁のように押し広げた。
澪の白い光が、四人の周囲を包む。
御影の黒い槍が、粉塵を貫く。
だが、その先には誰もいなかった。
御影は、静かに目を細めた。
「……なるほど」
広間の奥。
非常通路へ向かう四人の足音が、遠ざかっていく。
御影は追わなかった。
ただ、黒い魔術陣を見下ろしていた。
そこには、玲司たちの行動記録が次々と蓄積されている。
「記憶を信用せず、他者へ判断を委ねる……か」
御影は、微かに笑った。
「だが、その判断さえ、いずれ記憶になる」
黒い光が、ゆっくりと収束していく。
「次は、そこを利用させてもらおう」
記憶保管装置が、低く唸った。
戦いは、まだ終わっていなかった。
そして玲司たちは、まだ知らない。
御影が支配しているのは、過去の記憶だけではない。
その記憶を根拠に選ばれる、次の行動までもが。
彼の術式の、予測対象だった。




