本物と偽物
人間を人間たらしめるものは、何か。
御影征司は、その問いに明確な答えを持っていた。
「記憶だ」
黒い魔術陣が、旧第七記憶保管区の床を這うように広がっていく。
「人間は記憶によって自己を認識し、過去の経験によって人格を形成する。昨日の自分と今日の自分が同一であると信じられるのも、連続した記憶があるからだ」
御影は、透花を指差した。
「だが、その個体には、それがない」
玲司は、拳銃型デバイスを構えたまま動かなかった。
背後では、澪が透花の身体を支えている。少女の呼吸は浅く、顔色も悪い。記憶抽出こそ止まったものの、生命維持のための白魔術は解除できない状態だった。
「篠宮透花。その名前すら、我々が与えた識別情報にすぎない」
「……違う」
玲司の声は小さかった。
御影は構わず続ける。
「肉体は人工的に製造された。記憶は異なる並行世界から取得された。人格は、それらの情報を統合する過程で偶発的に発生したものだ」
壁一面の記憶媒体が、黒い光を帯びる。
御影の背後に、巨大な投影画面が現れた。
そこには、透明な培養槽に浮かぶ少女の姿が映っていた。
灰銀色の髪。
閉じられた瞳。
まだ誰の名前も知らない、眠ったままの透花。
画面の隅に文字が並ぶ。
《記憶保持実験体・第七系列》
《人格形成以前》
《初期記憶転写、開始》
「……やめろ」
玲司が呟いた。
「見せておくべきだろう。君たちが救おうとしているものの正体を」
画面が切り替わる。
幼い四人が、公園で遊んでいた。
玲司。
朔夜。
澪。
そして、透花。
透花が笑っている。
玲司の袖を引き、何かを話しかけている。
確かに存在した光景だった。
ただし、この世界ではない。
「その記憶の持ち主は、別の世界に存在した少女だ。ここにいる実験体ではない」
御影は淡々と言った。
「彼女が経験したと信じていた幼少期も、友人との約束も、すべて転写された情報にすぎない」
「……そんなの」
透花が、かすれた声を漏らした。
玲司は振り返った。
少女は投影画面を見つめていた。
何も思い出せないはずなのに、そこに映る自分の姿から目を離せずにいる。
「……あれ、私なの?」
澪が答えるより早く、御影が口を開いた。
「違う。君がそう認識するよう設計された、別の人間だ」
透花の肩が震えた。
「……別の、人……」
「君はその少女の人生を、自分のものだと誤認していただけだ」
「御影!」
朔夜が声を荒らげた。
負傷した右肩を庇いながら、左手のデバイスを向ける。
「それ以上、余計なことを言うな」
「余計なこと?」
御影は眉を上げた。
「事実を説明しているだけだ。君たちも、すでに研究記録を確認したはずだろう」
朔夜は言い返せなかった。
記録の内容は事実だった。
透花の身体が人工供物であることも。
その記憶が別世界の人間から転写されたことも。
否定できない。
だからこそ、腹立たしかった。
「……事実なら、何を言ってもいいってわけじゃないだろ」
朔夜は吐き捨てた。
御影は興味を失ったように視線を戻した。
「感情論だな」
玲司は、奥歯を噛みしめた。
感情論。
そう言われれば、そうなのかもしれない。
けれど、目の前で怯えている少女を見て、何も感じない方が正しいとは思えなかった。
「……過去が偽物だったら」
玲司は口を開いた。
「今の気持ちまで偽物になるのか?」
御影の視線が、玲司へ向いた。
「……何?」
「透花が怖がってるのも、悲しんでるのも……全部、作られたものだって言うの?」
玲司は一歩踏み出した。
「透花は、自分の過去が本物だって信じてた。僕たちと一緒にいたいって言ってた。それが間違った記憶から生まれた気持ちだったとしても……」
拳銃を握る指に力が入る。
「……今、透花が感じてることまで、嘘になるの?」
御影は、しばらく玲司を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「興味深い問いだ」
黒い魔術陣が、ゆっくりと回転する。
「だが、君は一つ勘違いしている」
「……何を?」
「感情もまた、記憶と経験によって形成される反応だ」
御影は、投影画面を操作した。
そこには透花の魔術回路が映し出された。
複雑に絡み合う記憶情報。
その中心で、無数の光が明滅している。
「特定の人物を見て安心する。過去の出来事を思い出して悲しむ。親しい相手と離れることを恐れる。いずれも蓄積された情報に基づく反応だ」
「……だから?」
「入力された情報が別人のものであるなら、その反応の由来も別人のものだ」
玲司は眉を寄せた。
「……それでも、感じてるのは透花だよ」
「そうだな」
意外にも、御影は否定しなかった。
「現在の反応が発生していることは認めよう。だが、それが独立した人格の証明になるとは限らない」
御影は玲司を見据えた。
「高度な魔術AIも、与えられた情報に基づいて応答する。感情に似た反応を再現することも可能だ。では、何をもって本物と区別する?」
『その問いには、明確な統一基準が存在しません』
ノアが割り込んだ。
御影の視線が、玲司のデバイスへ向く。
『ただし、判定基準が確立していないことは、人格が存在しない証拠にはなりません』
「……なるほど。君のAIは、随分と雄弁だな」
『必要な情報を提示しているだけです』
玲司は、僅かに息を吐いた。
ノアの言葉に救われた気がした。
けれど、御影の表情は変わらない。
「では、別の質問をしよう」
御影が右手を上げる。
黒い光が、玲司の足元へ伸びた。
反射的に後退しかけた瞬間、ノアが警告する。
『玲司様。精神干渉の予備術式を検出』
玲司は銃口を向け直した。
だが、御影は攻撃しなかった。
「久遠玲司。君自身の話だ」
「……僕?」
「君は別世界の自分の経験を読み込む。そのたびに、異なる人生の記憶が君の内部へ流入する」
玲司の心臓が跳ねた。
「そして、すでに自分自身の記憶を一部失っている」
御影は、静かに問いかけた。
「では君は、自分の記憶をすべて失っても、同じ人間でいられるのか?」
玲司は、答えられなかった。
◇
記憶を失う。
その恐怖を、玲司は知っていた。
何度も思い出そうとして、何も浮かばない時間。
確かに経験したはずなのに、自分のものだと思えない過去。
そして、《愚者の選択》(ロードアルカナ)を使ったときに流れ込んでくる、別世界の自分の人生。
知らない街。
知らない友人。
知らない戦場。
そこでは、自分が当たり前のように人を殺していたこともあった。
逆に、誰かを守るために命を捨てたこともあった。
どれも、自分だった。
けれど、今ここにいる自分ではない。
その境界が曖昧になるたびに、玲司は恐ろしくなった。
もし、いつか区別できなくなったら。
もし、澪や朔夜のことまで忘れてしまったら。
自分は、まだ久遠玲司なのだろうか。
「……答えられないか」
御影の声が、思考を断ち切った。
「当然だ。君自身が、記憶によって人格の連続性を維持している。その基盤が崩れれば、現在の君と同じ存在である保証はない」
玲司は唇を噛んだ。
否定したかった。
けれど、根拠が見つからない。
記憶がすべて失われても、同じ人間でいられる。
そんなことを、簡単には言えなかった。
「……オタクくん」
背後から、澪の声がした。
玲司は振り返る。
澪は透花を支えたまま、こちらを見ていた。
「無理に答えなくていいよ」
「……澪」
「あーしだって、全部忘れたらどうなるかなんて分かんないし」
澪は、少しだけ笑った。
「でもさ。分かんないことと、透花ちゃんが偽物ってことは、別じゃない?」
玲司は目を見開いた。
澪は続ける。
「透花ちゃん、さっき泣いてたじゃん。怖いって言ってたじゃん。それを見て、あーしは助けたいって思った」
透花が、澪を見上げる。
「……みお、ちゃん」
「うん?」
「……私、何も覚えてないのに……」
透花の声が震えた。
「……どうして、そんなに優しくしてくれるの?」
澪は、一瞬だけ困ったような顔をした。
それから、いつもの調子で答えた。
「だって、目の前で困ってる子を放っとけないじゃん」
透花は、目を瞬かせた。
「……それだけ?」
「それだけ」
澪は笑った。
「友達になるのに、昔から知ってる必要なんてないしね」
その言葉に、玲司は息を呑んだ。
そうだ。
自分たちは、透花と幼なじみではなかった。
彼女が語った思い出は、別世界のものだった。
けれど、それを知ったあとも、玲司は透花を助けたいと思った。
過去を取り戻してあげたいからではない。
約束を守らなければならないからでもない。
目の前で、透花が泣いていたからだ。
そして、彼女に生きてほしいと思ったからだ。
「……御影さん」
玲司は、再び前を向いた。
「僕は、さっきの質問には答えられない」
御影は、僅かに眉を上げた。
「ほう」
「記憶を全部失った僕が、今と同じ人間なのか……分からない」
玲司は、正直に認めた。
「でも、それと透花が偽物かどうかは、別の話だと思う」
「……どういう意味だ?」
「透花の過去が、別世界の誰かのものだったとしても」
玲司は、透花を見た。
少女は不安そうに、こちらを見つめている。
「……今、透花が何を考えて、何を望んでいるのか。それまで誰かのものだって、決めつけることはできない」
御影は黙っていた。
「僕たちが幼なじみじゃなかったとしても、今、友達になれない理由にはならない」
玲司は、静かに続けた。
「……透花の存在を証明するために、過去まで本物にする必要はないんだ」
御影の表情から、笑みが消えた。
「……君は、随分と都合のいい解釈をする」
「……そうかもしれない」
玲司は頷いた。
「でも、透花の気持ちを確かめる前に、偽物だって決めつけたくない」
御影は、ゆっくりと透花へ視線を移した。
「では、本人に尋ねてみよう」
黒い魔術陣が、微かに脈打った。
「篠宮透花」
名前を呼ばれた少女が、身体を強張らせる。
「君は何を望む?」
透花は、答えられなかった。
御影は続ける。
「過去を取り戻したいのか。それとも、自分が人工物であるという事実を忘れたいのか」
「……私……」
透花は俯いた。
何も覚えていない。
自分が何者なのかも分からない。
そんな状態で、何を望めばいいのか。
少女の指先が震える。
「……分からない」
御影は、静かに頷いた。
「当然だ。判断の基準となる記憶が失われているのだからな」
「……でも」
透花が、小さく声を上げた。
御影の言葉が止まる。
「……一つだけ」
少女は、胸元を押さえた。
「……一つだけ、分かることがある」
玲司は、透花を見つめた。
「……怖いの」
透花の声が震える。
「……また、あの機械に戻されるのが……怖い」
御影の眉が、僅かに動いた。
「それは生体防御反応だ。生命維持機能に付随する――」
「……違う!」
透花が、初めて声を荒らげた。
澪が驚いて顔を向ける。
透花自身も、自分の声に驚いたようだった。
けれど、言葉を止めなかった。
「……私、あそこに戻りたくない」
少女は、震える手で玲司の制服を掴んだ。
「……この人たちと、一緒にいたい」
玲司の胸が、強く締めつけられた。
「……理由なんて、分からない」
透花の瞳から、涙が零れる。
「……でも、そう思うの」
御影は、少女を見つめていた。
その表情には、怒りも驚きもない。
ただ、実験結果を観察する研究者の目だった。
「……なるほど」
御影は、静かに呟いた。
「記憶の大部分を失っても、選好反応は残存するか」
玲司は、拳銃を握りしめた。
透花が、必死に伝えた言葉。
それすら、御影にとっては観測結果でしかない。
「……もう、やめてください」
玲司は言った。
「透花は、実験道具じゃない」
御影は、ゆっくりと玲司へ視線を戻した。
「君は、彼女の希望を尊重すべきだと言うのだな」
「……はい」
「ならば、その希望を叶える責任も負えるのか?」
玲司は、息を呑んだ。
御影が右手を振る。
投影画面が切り替わった。
そこには、透花の生体情報が表示されていた。
《自律維持機能:低下》
《記憶回路負荷:危険域》
《生体崩壊進行:継続》
『玲司様。表示された数値は、先ほどの解析結果と概ね一致しています』
ノアが告げた。
御影は、淡々と続ける。
「記憶を抽出したことで負荷は一部減少した。だが、彼女の身体そのものが長期生存に適していない事実は変わらない」
玲司は、画面を見つめた。
「……治療する方法は?」
「外部維持装置による補助が必要だ。だが、現在の記憶回路を維持したままでは、いずれ限界を迎える」
御影は、冷たく告げた。
「君たちがここから連れ出したところで、彼女の寿命は延びない」
澪の表情が曇る。
朔夜も、何も言わなかった。
玲司は、唇を噛んだ。
透花を救いたい。
その気持ちだけでは、彼女の身体を治せない。
御影の言葉は残酷だった。
けれど、少なくとも身体の崩壊については、嘘ではなかった。
「……だったら」
玲司は、顔を上げた。
「方法を探します」
御影が、目を細める。
「……何?」
「記憶を消さずに、透花の身体を維持する方法を」
玲司は、静かに言った。
「今すぐ答えが見つからなくても……探します」
御影は、しばらく沈黙した。
そして、深く息を吐いた。
「……やはり、君は理解していない」
黒い魔術陣が、急激に拡大した。
床が震える。
壁一面の記憶媒体が、一斉に発光する。
『警告。高密度黒魔術反応を検出』
ノアの声が鋭く響いた。
「玲司、下がれ!」
朔夜が左手を突き出す。
青魔術、論理構築術式の防御陣が、玲司たちの前に展開した。
御影は、ゆっくりと両手を広げた。
「君たちは記憶を軽視している」
その声が、広間全体に響く。
「ならば、その重要性を身をもって理解してもらおう」
黒い光が、天井へ向かって伸びる。
玲司の視界に、無数の映像が浮かび上がった。
学院の教室。
幼い頃の公園。
朔夜と初めて出会った日。
澪と笑い合った放課後。
そして、知らないはずの戦場。
別世界の自分が経験した、無数の人生。
それらが、同時に流れ込んでくる。
「……っ!」
玲司は頭を押さえた。
『玲司様! 外部から記憶情報への干渉を確認!』
ノアの声が、遠く聞こえる。
御影は、静かに告げた。
「記憶とは、過去の記録であると同時に、現在の判断を支配するものだ」
玲司の視界が、黒く染まる。
「それを失えば、人間は何を信じる?」
朔夜が叫ぶ。
澪が、玲司の名前を呼ぶ。
透花が、怯えたように身を縮める。
けれど、その声が次第に遠ざかっていく。
玲司は、必死に拳銃を握りしめた。
自分が誰なのか。
何のためにここにいるのか。
その答えだけは、失いたくなかった。
御影の右手に、漆黒の魔術陣が完成する。
「深淵接触術式」
広間の光が、すべて消えた。
「――記憶支配領域、展開」
次の瞬間。
玲司の目の前から、朔夜の姿が消えた。
いや。
違う。
そこには、確かに誰かが立っている。
見慣れた制服。
負傷した右肩。
青く発光する拳銃型デバイス。
それなのに。
玲司は、その少年の名前を思い出せなかった。
「……君は」
自分の声が、震える。
「……誰?」
少年が、驚いたように目を見開いた。
そして、御影の笑い声が響いた。
「さあ、始めよう」
黒い光が、二人の間を隔てる。
「君たちの信じる『本物』が、どこまで耐えられるのか」
記憶を奪う魔術師との、二度目の戦いが始まった。




