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名前を呼んで


 名前を呼べば、振り向いてくれる。

 そんな当たり前のことが、どれほど幸福だったのか。

 久遠玲司は、目の前の少女を見て、初めて知った。

「……透花」

 透明な拘束具の向こうで、灰銀色の髪の少女が顔を上げた。

 けれど、その瞳に懐かしさはない。

「……それ、私の名前?」

 玲司は答えようとして、喉を詰まらせた。

 ほんの数分前まで、彼女は自分の名前を呼んでいた。

 迎えに来てくれたことを喜んでいた。

 それなのに、今はもう何も覚えていない。

『玲司様。記憶抽出率、七十六パーセント』

 ノアの報告が、無情に響く。

「……ノア、拘束具の解除は?」

『管理権限の解析率、九十一パーセント。あと少しです』

「……急いで」

『最優先で処理しています』

 玲司は拳銃型デバイスを握りしめた。

 中央保管装置の周囲では、赤い警告灯が点滅している。床には巨大な守護者の残骸が転がり、焦げた金属の臭いが漂っていた。

 その向こうで、澪が白魔術を維持している。

「……っ、はぁ……!」

 白い魔術陣が揺らぐ。

 澪の顔色は悪かった。

「澪、もう限界なんじゃ……」

「平気、平気……!」

 澪は笑おうとした。

 けれど、口元が震えている。

「あーし、まだいけるから。オタクくんは透花ちゃんをお願い」

 玲司は頷いた。

 澪が維持しているのは、透花の生命活動だ。

 記憶を奪われても、彼女が生きていられるように。

 だが、その白い光だけでは記憶の抽出を止められない。

「……朔夜!」

「分かってる!」

 朔夜は保管装置の側面に取りつき、青魔術《論理構築術式(ロゴス)》で制御回路を解析していた。

 負傷した右肩を庇いながら、左手だけで術式を操作している。

「抽出回路と生体維持回路が絡み合ってる。無理に切れば、透花の身体まで止まるぞ!」

「……じゃあ、どうすれば!」

「今、調べてる!」

 朔夜の声には苛立ちが混じっていた。

 玲司の顔を見るたびに湧き上がる、偽りの記憶による怒り。

 それはまだ消えていない。

 それでも朔夜は、玲司の隣で戦っていた。

 玲司は唇を噛んだ。

 記憶を奪われても、人は選べる。

 朔夜は、それを証明している。

 ならば。

 透花だって。

『玲司様。管理権限の解析が完了しました』

「……!」

『ただし、抽出回路の停止には別の認証が必要です。現時点では拘束解除のみ可能です』

「……それでいい!」

『承知しました。解除を実行します』

 保管装置から、短い電子音が鳴った。

 透花の手首を固定していた透明な拘束具が、ゆっくりと開く。

 続いて足首。

 胸部。

 最後に、頭部へ接続されていた細い端子が外れた。

 《被験体固定、解除》

 玲司は、装置の中へ飛び込んだ。

「……透花!」

 少女の身体が、前へ倒れる。

 玲司は咄嗟に受け止めた。

 軽い。

 驚くほど軽かった。

 腕の中の身体は冷たく、呼吸も浅い。

「……大丈夫?」

 透花は、ぼんやりと玲司を見上げた。

「……あなたは、誰?」

 玲司の胸が、強く締めつけられた。

 その言葉を聞くのは、二度目だった。

 けれど、慣れることなどできなかった。

「……僕は」

 名前を告げようとした瞬間。

 玲司の脳裏に、一つの光景が蘇った。

     ◇

 血の臭いがする。

 崩れた地下研究都市。

 砕けたコンクリート。

 そして、目の前に立つ朔夜。

 彼は、玲司を見ていた。

 けれど、その表情には、いつもの自信も、親しみもなかった。

 玲司は、彼の名前を思い出せなかった。

 ずっと一緒にいたはずなのに。

 何度も助けられたはずなのに。

 目の前の少年が、誰なのか分からなかった。

 《存在読込》(オーバーロード)。

 別世界の自分を読み込んだ代償。

 失われた記憶の空白に、玲司は恐怖した。

 名前が分からない。

 思い出せない。

 けれど、目の前の少年が悲しそうな顔をしていることだけは分かった。

 自分が何か、大切なものを壊してしまったのだと。

 そして今。

 透花が、同じ場所に立っている。

 あのときの自分と。

 同じ恐怖の中に。

     ◇

「……ごめんなさい」

 透花の声で、玲司は我に返った。

 少女は、玲司の腕の中で震えていた。

「……私、何も分からなくて」

「……うん」

「ここがどこなのかも……あなたが誰なのかも……」

 透花の瞳から、涙が零れる。

「……怖い」

 玲司は、何も言えなかった。

 思い出してほしい。

 自分の名前を。

 四人で過ごしたと信じていた日々を。

 ココアが好きだったことも。

 寒がりだったことも。

 忘れないでほしい。

 そう願ってしまう。

 けれど、それは玲司の願いだった。

 今の透花が求めているのは、失われた過去ではない。

 目の前の恐怖から、誰かに助けてほしいということだ。

「……大丈夫」

 玲司は、ようやく声を出した。

「僕は、君を傷つけない」

 透花が顔を上げる。

「……本当?」

「……うん」

 玲司は頷いた。

「僕は久遠玲司。君を助けに来たんだ」

「……れいじ」

 透花は、その名前を繰り返した。

 初めて聞く言葉のように。

「……変な感じ」

「……え?」

「知らない名前のはずなのに……」

 透花は、胸元を押さえた。

「……なんだか、泣きそうになる」

 玲司は息を呑んだ。

 記憶は失われた。

 けれど、すべてが消えたわけではないのかもしれない。

 そう思った瞬間。

『警告。記憶抽出処理が継続しています』

 ノアの声が響いた。

「……まだ!?」

『抽出回路は拘束解除後も対象の魔術回路に遠隔接続されています』

 玲司は、透花の首筋を見た。

 皮膚の下に、黒い術式が浮かび上がっている。

 細い線が脈打つように明滅していた。

「……これが……!」

『対象の記憶回路に埋め込まれた接続術式です』

 玲司は拳銃を構えかけた。

 だが、撃てない。

 透花の身体に直接刻まれた術式だ。

 破壊すれば、彼女自身を傷つける。

「朔夜! こっちの術式を見て!」

 朔夜が駆け寄る。

 青い光が透花の首筋を照らした。

「……なるほどな」

 朔夜の表情が険しくなる。

「本体側の接続点を切ればいい。ただし、抽出済みの記憶までは戻らない」

「……それでもいい」

 玲司は即答した。

「これ以上、奪わせたくない」

「……分かった」

 朔夜は左手を伸ばした。

 青い魔術陣が、透花の周囲に展開する。

「澪! 生命維持を続けろ!」

「……うん!」

 白い光が強まった。

 朔夜は、透花の魔術回路を慎重に解析していく。

「……接続点は三つ」

 青い線が、空中に浮かぶ。

「一つ目……切断!」

 短い音。

 黒い術式の一部が消えた。

 透花が小さく呻く。

「……っ!」

「……ごめん、少しだけ我慢して」

 玲司が声をかける。

 透花は、彼の服を掴んだ。

「……離れないで」

「……うん」

 玲司は、その手を握った。

「離れないよ」

「二つ目……!」

 朔夜が術式を操作する。

 黒い線が、また一つ消えた。

『記憶抽出速度、低下』

 ノアが報告した。

 玲司は、透花を抱きしめる腕に力を込めた。

 あと一つ。

 それだけだ。

 しかし。

 突然、保管装置から警告音が鳴り響いた。

 《不正干渉を検出》

 《抽出回路、強制再接続》

 黒い術式が、透花の首筋で激しく明滅した。

「……っ、ああっ!」

 透花が悲鳴を上げる。

「透花!」

「……痛い……!」

 少女の身体が震える。

 朔夜が歯を食いしばった。

「……くそっ! 向こうから接続を戻してきやがる!」

『玲司様。中央保管装置が自動復旧処理を開始しています』

「……止められないの!?」

『装置側の制御を遮断する必要があります』

 玲司は、保管装置を見た。

 黒い金属の柱。

 その内部で、赤い光が脈打っている。

 記憶を奪うための機械。

 透花を、ただの保存媒体として扱う装置。

 玲司は拳銃を構えた。

「……ノア。装置の制御核を教えて」

『中央支柱の下部、青く点滅している箇所です』

「……分かった」

 玲司は透花を澪へ預けた。

「澪、お願い」

「……任せて」

 澪が少女を抱き寄せる。

 玲司は、保管装置へ走った。

 背後で朔夜が叫ぶ。

「玲司! 制御核だけを狙え! 生体維持系まで壊すな!」

「……うん!」

 玲司は足を止めた。

 銃口を、青い光へ向ける。

 だが。

 その指が、僅かに震えた。

 外せば。

 透花が死ぬかもしれない。

 自分の判断で。

 また誰かを失うかもしれない。

『玲司様』

 ノアの声が響いた。

『射撃補正を行います』

「……ノア」

『玲司様は、狙ってください』

 玲司は、息を吸った。

 そして。

 引き金を引いた。

 銃声。

 青い魔術弾が、保管装置の制御核へ吸い込まれる。

 一瞬の静寂。

 次の瞬間、青い光が砕け散った。

 《制御核、機能停止》

 《記憶抽出処理、中断》

 玲司は、息を止めた。

『記憶抽出の停止を確認しました』

 ノアの声が響く。

 玲司は、ゆっくりと銃口を下ろした。

「……止まった……?」

『はい。ただし、透花様の生体維持機能は依然として不安定です』

 背後で、朔夜が叫んだ。

「玲司! 最後の接続点を切るぞ!」

「……うん!」

 玲司は駆け戻った。

 朔夜の青魔術が、最後の黒い線を捉える。

「……これで!」

 光が弾けた。

 透花の首筋から、黒い術式が消える。

『遠隔接続、遮断』

 ノアが告げた。

 玲司は、その場に膝をついた。

 終わった。

 少なくとも、これ以上記憶を奪われることはない。

 けれど。

 透花の失われた記憶は、戻らなかった。

     ◇

「……ねえ」

 透花の声がした。

 玲司は顔を上げる。

 少女は澪に支えられながら、こちらを見つめていた。

 その瞳には、まだ不安が残っている。

「……私、何か大切なものを忘れたの?」

 玲司は、答えられなかった。

 透花は、自分の胸元を押さえた。

「……ここが、変なの」

 小さな手が、心臓の辺りを握りしめる。

「……何か、あったはずなのに」

 声が震える。

「……すごく大切で……絶対に忘れたくなかったことが……」

 玲司は、静かに近づいた。

 透花の前に膝をつく。

「……うん」

 彼は頷いた。

「君には、大切な思い出があった」

 透花の瞳が揺れる。

「……誰との?」

「……僕たちとの」

 玲司は、澪と朔夜を見た。

「僕と、澪と、朔夜」

 透花は、二人へ視線を向ける。

 澪が、涙を堪えるように笑った。

「……あーし、白瀬澪。よろしくね、透花ちゃん」

 朔夜も、短く頷いた。

「伊佐波朔夜だ」

 透花は、二人の顔を見つめた。

 けれど、何も思い出せない。

「……ごめんなさい」

 少女が、俯いた。

「……せっかく、教えてくれたのに」

 玲司は、首を振った。

「……謝らなくていいよ」

「……でも」

 透花の声が、震える。

「……私、何もない」

 玲司は、息を呑んだ。

「……名前も、思い出も……」

 少女の瞳から、涙が零れる。

「……自分が何者なのかも、分からない」

 透花は、必死に言葉を探していた。

 けれど、見つからない。

 自分を説明するための言葉が。

 自分の人生を証明するための記憶が。

 何一つ、残っていない。

「……ねえ」

 透花は、玲司を見上げた。

 その瞳は、涙で濡れていた。

「……私、誰だったの?」

 玲司は、胸を締めつけられた。

 答えは、知っている。

 彼女が人工供物として製造されたこと。

 別世界の記憶を保存するために生まれたこと。

 彼女が幼なじみだと信じていた思い出が、この世界のものではなかったこと。

 それらは、すべて事実だった。

 けれど。

 それだけで、彼女を説明できるのだろうか。

 玲司は、透花を見つめた。

 初めて出会った日のことを思い出す。

 知らないはずの自分の名前を呼んだ少女。

 昔からの友達のように笑った少女。

 冷たい手を隠して、平気なふりをしていた少女。

 病院へ行くことを怖がっていた少女。

 ココアを飲むと、少しだけ嬉しそうに笑った少女。

 そのすべてが、目の前にいる彼女だった。

 たとえ、過去の記憶が誰かのものだったとしても。

 彼女が感じた喜びや悲しみまで、誰かのものだったわけではない。

 玲司は、ゆっくりと口を開いた。

「……篠宮透花」

 少女が、顔を上げる。

「……とうか?」

「……うん」

 玲司は頷いた。

「君が教えてくれた名前だよ」

 透花は、何度もその名前を繰り返した。

「……しのみや……とうか……」

 まるで、初めて言葉を覚える子どものように。

 けれど、何も思い出せない。

「……私、本当にその名前だったの?」

「……うん」

「……どうして、分かるの?」

 玲司は、少しだけ笑った。

「君が、僕に教えてくれたから」

 透花は、目を見開いた。

「……私が?」

「……そうだよ」

 玲司は、ゆっくりと手を差し出した。

「君は、自分の名前を教えてくれた。僕たちと一緒にいたいって言ってくれた」

 透花の指先が、僅かに動く。

「……でも、私……覚えてない」

「……うん」

「……本当かどうか、分からないよ」

「……そうだね」

 玲司は、否定しなかった。

 自分自身も、記憶を失ったことがある。

 思い出せない恐怖を知っている。

 誰かに教えられた過去を、信じていいのか分からなくなる苦しさも。

 だからこそ、簡単に大丈夫だとは言えなかった。

 玲司は、透花の手を取った。

 冷たい。

 あの日と同じ、冷たい手だった。

「……君の過去がどんなものだったとしても」

 透花が、玲司を見つめる。

「……今、ここにいる君は、本物だよ」

 少女の瞳が、大きく揺れた。

「……本物……?」

「……うん」

 玲司は、手を握り直した。

「君が怖いと思ったことも、悲しいと思ったことも、僕の手を握ってくれたことも」

 声が、少しだけ震える。

「……全部、今の君が感じたことだから」

 透花は、黙っていた。

「……だから、過去を思い出せなくてもいい」

 玲司は続けた。

「君が誰だったのか分からなくても、今ここにいる君を、僕は見捨てない」

 透花の唇が、震えた。

「……どうして?」

 玲司は、少しだけ困ったように笑った。

「……約束したから」

「……約束?」

「……うん」

 玲司は頷いた。

「忘れてしまっても、見捨てないって」

 透花の瞳から、涙が溢れた。

「……私、覚えてないよ」

「……うん」

「……そんな約束、知らない」

「……それでもいい」

 玲司は、静かに答えた。

「僕が覚えてるから」

 透花は、声を上げて泣き始めた。

 それは、失われた記憶を取り戻した涙ではなかった。

 何も思い出せないまま。

 自分が誰なのかも分からないまま。

 それでも、目の前の誰かが自分を見捨てないと言ってくれた。

 ただ、それだけのことだった。

 玲司は、少女の手を離さなかった。

 澪が、そっと二人の隣に座る。

「……ねえ、透花ちゃん」

 透花が、涙に濡れた顔を上げた。

「……なに?」

「今度、一緒にココア飲も」

「……ココア?」

「うん。あーし、甘いやつ好きなんだ」

 澪は、いつものように笑った。

「透花ちゃんも、きっと好きだと思うよ」

 透花は、少しだけ首を傾げた。

「……飲んだこと、あるのかな」

「あるかもね」

 澪は、優しく答えた。

「でも、覚えてなくても、また飲めばいいじゃん」

 透花は、目を瞬かせた。

「……また?」

「そ。何回でも」

 澪は、透花の頭をそっと撫でた。

「好きなものなんて、これから増やしてけばいいんだから」

 透花は、しばらく黙っていた。

 そして、小さく頷いた。

「……うん」

 朔夜が、二人から少し離れた場所で息を吐いた。

「……お前ら、感動してるところ悪いけどな」

 玲司が顔を上げる。

「……朔夜?」

「まだ、ここから出られると決まったわけじゃないぞ」

 その言葉に、玲司は我に返った。

 そうだ。

 守護者は倒した。

 記憶抽出も止めた。

 けれど、御影はまだどこかにいる。

 そして、この施設そのものが、彼の支配下にある。

『玲司様。施設内の魔力流量が変化しています』

 ノアが告げた。

「……どういうこと?」

『中央保管装置の停止に伴い、別系統の黒魔術回路が起動しています』

 玲司は、周囲を見回した。

 壁一面の記憶媒体が、次々と赤く発光していく。

 床に刻まれた術式が、黒い光を放ち始めた。

「……何か、来る」

 朔夜がデバイスを構えた。

 澪は透花を庇うように立ち上がる。

 玲司も、ゆっくりと拳銃を構えた。

 そのとき。

 背後から、拍手が聞こえた。

 乾いた音だった。

 一度。

 二度。

 三度。

「……実に興味深い」

 低い声が、広間に響いた。

 玲司は振り返った。

 崩れた守護者の向こう。

 暗い通路の入口に、一人の男が立っていた。

 灰色のスーツ。

 黒い手袋。

 そして、感情の読めない瞳。

「……御影」

 玲司が、その名前を口にする。

 御影征司は、ゆっくりと歩き出した。

「記憶抽出装置を停止させたか。予想以上の成果だ」

 その声には、僅かな感心が混じっていた。

「だが、君たちは肝心なことを理解していない」

 御影の視線が、透花へ向けられる。

 少女が、怯えたように玲司の背中へ隠れた。

「……その個体は、記憶保存のために製造された人工供物だ」

「……だから何だよ」

 朔夜が低く言った。

 御影は、彼を一瞥した。

「記憶こそが、その存在を定義する唯一の要素だということだ」

 玲司は、拳銃を握りしめた。

「……違う」

「何が違う?」

「……透花は、記憶だけじゃない」

 御影は、僅かに眉を上げた。

「ほう」

「……今、ここにいる。怖がってる。泣いてる。自分が誰なのか分からなくても、それでも生きようとしてる」

 玲司は、透花を庇うように一歩前へ出た。

「……それだけで、十分だよ」

 御影は、しばらく黙っていた。

 そして、静かに笑った。

「……なるほど」

 その笑みには、温かさがなかった。

「君は、記憶を失っても人格は残ると主張するのか」

 玲司は答えなかった。

 御影は、黒い手袋をはめた右手を持ち上げた。

 指先に、黒い魔術陣が浮かび上がる。

「ならば証明してみろ」

 空気が、冷たくなる。

 床の術式が、一斉に発光した。

 朔夜が身構える。

 澪が透花を抱き寄せる。

 玲司は、拳銃の照準を御影へ合わせた。

 御影は、透花を指差した。

「記憶を失った人間に、何が残るというのか」

 その言葉が、広間に響いた。

 玲司は、答えられなかった。

 自分自身も、記憶を失う恐怖を知っている。

 別世界の自分を読み込むたびに、自分が何者なのか分からなくなる危険を抱えている。

 もし、すべての記憶を失ったら。

 自分は、今と同じ人間でいられるのだろうか。

 その問いに、まだ答えはない。

 けれど。

 玲司は、背後を振り返った。

 透花が、彼を見つめていた。

 不安そうに。

 それでも、彼の服を掴んだまま。

 玲司は、その手に自分の手を重ねた。

 そして、御影へ向き直る。

「……分からない」

 玲司は、正直に答えた。

「記憶を全部失ったら、何が残るのか。僕には、まだ分からない」

 御影の口元が、僅かに歪む。

「ならば――」

「……でも」

 玲司は、その言葉を遮った。

「分からないからって、何も残らないって決めつけるのは違うと思う」

 御影の瞳が、細くなる。

「……ほう」

「……僕は、確かめたい」

 玲司は、拳銃を構え直した。

「透花が、これから何を好きになって、何を選んで、どう生きていくのか」

 その声は、もう震えていなかった。

「……それを、見届けたい」

 御影は、静かに笑った。

「……では、試してみよう」

 黒い魔術陣が、広間全体へ広がっていく。

 記憶媒体が、一斉に起動した。

 無数の黒い光が、天井へ向かって伸びる。

 玲司は、透花の手を離した。

 けれど、振り返らなかった。

「……澪。透花をお願い」

「……うん」

 澪が頷く。

「オタクくんも、無茶しないでよ」

「……分かってる」

 朔夜が、玲司の隣へ並んだ。

「……行くぞ」

「……うん」

 二人は、御影を見据えた。

 記憶を奪う魔術師。

 過去を支配し、人の存在を定義しようとする男。

 その前に、三人は再び立ちはだかる。

 玲司は、静かに息を吸った。

 過去は、変えられない。

 失われた記憶も、簡単には戻らない。

 けれど。

 未来まで、奪わせるつもりはなかった。

 黒い光が、広間を覆う。

 そして。

 新たな戦いが、始まろうとしていた。

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