救えなかった少女
救いたいと願うことと、救えることは違う。
久遠玲司がその違いを思い知るまで、残された時間はわずかだった。
隔壁の向こうには、巨大な円形の空間が広がっていた。
壁一面に並ぶ記憶媒体。天井から垂れ下がる無数の配線。そして中央には、黒い金属で組み上げられた巨大な保管装置が鎮座している。
その中心で、一人の少女が眠っていた。
「……透花!」
玲司は駆け出しかけた。
『玲司様、停止してください』
ノアの警告と同時に、床が赤く発光した。
玲司が反射的に飛び退く。直後、立っていた場所を黒い光が貫いた。
床材が音もなく消失する。
「……っ!」
「オタクくん、下がって!」
澪が玲司の腕を引いた。
保管装置の前で、巨大な影が立ち上がる。
人型だった。
ただし、その全高は四メートルを超えている。黒い装甲に覆われた胴体。左右に三本ずつ備えられた腕。顔に当たる部分には、赤い単眼が埋め込まれていた。
『警告。大型黒魔術式戦闘装置を確認』
「……守護者か」
朔夜がデバイスを構えた。
右肩を庇うように、左足を半歩前へ出す。
『対象識別開始』
守護者の単眼が三人を捉えた。
『久遠玲司。伊佐波朔夜。白瀬澪』
その声に、玲司は背筋を強張らせた。
『過去戦闘記録との照合完了』
装甲の隙間から、黒い光が漏れる。
『予測戦闘を開始する』
六本の腕が、一斉に動いた。
◇
「散れ!」
朔夜の声と同時に、三人が別方向へ跳んだ。
黒い魔術弾が床を抉る。
玲司は転がりながら拳銃を構え、守護者の単眼へ三発撃ち込んだ。
しかし、弾丸はすべて外れた。
違う。
外されたのだ。
守護者は玲司が引き金を引くより先に頭部を動かしていた。
『射撃軌道、事前予測されています』
「……僕の撃ち方を知ってるの?」
『過去の戦闘記録を参照していると推定されます』
玲司は舌打ちした。
朔夜が右側から踏み込む。
「だったら、こいつはどうだ!」
青い魔術陣が展開する。
《論理構築術式》
守護者の脚部に解析光が走った。
続いて緑色の光が床を這う。
《原生循環術式》
床材に混入された有機繊維が伸び、守護者の足首へ絡みついた。
だが。
『拘束行動、予測済み』
守護者は足を持ち上げるより先に、装甲から高熱を放出した。
緑の繊維が焼き切れる。
「……っ、これもか!」
直後、巨大な腕が朔夜へ振り下ろされた。
朔夜は左へ跳ぶ。
しかし、その先にはすでに別の腕が待ち構えていた。
「朔夜!」
玲司が叫ぶ。
朔夜は咄嗟に青い障壁を展開した。
衝撃。
障壁が砕け、朔夜の身体が床を滑った。
「……くそっ」
右肩を押さえながら、朔夜が立ち上がる。
澪が白い魔術陣を展開した。
「二人とも、こっち!」
《神話顕現術式》
柔らかな白い光が三人を包み込む。
しかし、守護者の単眼が澪へ向いた。
『白魔術防御展開を確認』
『突破角度、算出完了』
黒い魔術弾が、白い障壁の縁へ集中する。
一撃。
二撃。
三撃目で、障壁に亀裂が走った。
「……うそ、そこ狙うの!?」
澪が顔をしかめる。
玲司は歯を食いしばった。
攻撃も、防御も、連携も。
すべて知られている。
これまで自分たちが積み重ねてきた戦いが、そのまま敵の武器になっていた。
『玲司様。中央保管装置の記憶抽出率が上昇しています』
視界の端に数字が表示された。
《記憶抽出率:二十七パーセント》
玲司は、中央を見た。
透花の身体が、透明な拘束具に固定されている。
灰銀色の髪が、青白い光の中で揺れていた。
目は閉じられたまま。
その表情には、苦痛すら浮かんでいない。
「……透花」
その名前を口にした瞬間、天井のスピーカーから声が響いた。
『無駄な抵抗はやめたまえ』
御影征司だった。
『その装置には、君たちの戦闘記録を学習させてある。何度戦っても、同じ結果になる』
「……御影!」
『第七号の記憶抽出は、すでに最終段階へ移行している』
玲司は叫んだ。
「やめろ! 透花が死んじゃう!」
『身体は死なない』
御影は、淡々と答えた。
『記憶保持媒体としての機能を回復するだけだ』
「……それは!」
『人格が消えることを言っているのかね』
一瞬の沈黙。
『人格とは、記憶情報の統合過程で生じた副産物だ。保存情報を整理すれば、当然消失する』
玲司の手が震えた。
「……そんなの、殺すのと同じだ!」
『君の価値観では、そうなのだろう』
御影の声に、感情はなかった。
『だが、研究装置の故障を修復することを、私は殺人とは呼ばない』
通信が切れた。
玲司は、中央の透花を見つめた。
救わなければ。
今すぐ。
そう思った瞬間、守護者が動いた。
◇
黒い腕が、玲司の頭上へ迫る。
『玲司様、右へ回避を』
「……っ!」
玲司は右へ跳びかけた。
しかし。
守護者のもう一本の腕が、すでに右側へ伸びていた。
『訂正。右方向への回避は危険です』
「……分かってる!」
玲司は踏みとどまり、逆方向へ転がった。
腕が床を叩き割る。
砕けた破片が頬を掠めた。
『敵はノアの回避支援パターンも参照しています』
「……それじゃ、どうすれば」
『過去に存在しない判断を行う必要があります』
玲司は、息を呑んだ。
過去に存在しない判断。
その言葉に、朔夜の戦いが重なった。
訓練場で、自分自身の戦闘記録を模倣した敵と戦ったとき。
朔夜は、過去の技術を捨てた。
そして、今この瞬間に新しい戦術を組み立てた。
「……朔夜!」
玲司が叫ぶ。
「前と同じこと、できる!?」
朔夜は守護者の腕を避けながら、笑った。
「同じことをしたら、読まれるだろ!」
「……そうだった!」
「だから、今から考える!」
朔夜が左手でデバイスを構えた。
青い光が走る。
ただし、今度は守護者の動きを解析しなかった。
床を調べたのだ。
「……玲司! こいつ、床の下から魔力を供給されてる!」
『確認しました。守護者の主動力は中央保管装置とは別系統です』
「なら、供給を止めれば!」
『ただし、供給経路は六系統。すべて遮断するには時間を要します』
「……時間なら作る!」
朔夜が踏み込んだ。
守護者の単眼が彼を捉える。
『伊佐波朔夜。攻撃経路予測』
巨大な腕が動く。
朔夜は正面へ突進した。
そして、突然しゃがみ込んだ。
守護者の腕が頭上を通過する。
そのまま朔夜は、床に左手を叩きつけた。
緑色の光。
有機繊維が床下へ潜り込み、魔力供給管の周囲へ伸びる。
『拘束行動を検出』
守護者が脚部の熱を上げる。
だが、繊維は足を拘束していなかった。
床下の供給管を締め上げていた。
『魔力供給低下』
「……一つ!」
朔夜が叫んだ。
守護者の動きが、僅かに鈍る。
その隙に、玲司が走った。
「ノア! 敵の予測装置はどこ!?」
『頭部単眼の奥に記憶照合回路があります』
「……分かった!」
玲司は銃を構える。
だが、単眼はすぐに射線から外れた。
『射撃予測、成功』
「……撃たないよ!」
玲司は引き金を引かず、床へ滑り込んだ。
守護者の予測は、玲司が単眼を撃つというものだった。
しかし、彼の狙いは別にあった。
守護者の足元。
朔夜が露出させた魔力供給管。
玲司は、そこへ銃口を向けた。
「……ノア。青魔術の干渉弾!」
『了解しました』
銃声。
青い弾丸が床を貫く。
魔力供給管が破裂し、守護者の左脚から火花が散った。
『供給経路二系統、停止』
守護者が姿勢を崩す。
「……効いてる!」
玲司が顔を上げた。
しかし、その瞬間。
『戦術更新』
守護者の単眼が、赤く明滅した。
『未登録行動を記録』
六本の腕が、同時に展開する。
『次回予測に反映』
玲司の背筋が凍った。
そうだ。
この敵は、過去を参照するだけではない。
今の戦いも、記録している。
一度通じた手は、二度目には通じない。
◇
『玲司様。記憶抽出率、四十一パーセント』
ノアの報告が響いた。
「……もう、そんなに」
玲司は透花を見た。
中央の装置から、細い光の糸が無数に伸びている。
それらは透花の頭部から引き出され、周囲の記憶媒体へ流れ込んでいた。
その光景は、まるで少女の中から何かを少しずつ剥がしているようだった。
「……澪!」
玲司が叫ぶ。
「透花のところまで行ける!?」
澪は守護者の攻撃を避けながら頷いた。
「行ける! でも、あの子の身体、かなり危ない!」
『透花様の生体維持機能が低下しています。記憶抽出に伴う回路負荷が原因と推定されます』
「……じゃあ、お願い!」
「任せて!」
澪が中央へ走った。
守護者の単眼が、即座に彼女を追う。
『白瀬澪。保護対象への接近を確認』
黒い魔術弾が放たれる。
玲司が射撃で迎撃した。
二発。
三発。
最後の一発が、澪の足元へ迫る弾丸を撃ち落とす。
「……行って!」
「ありがと、オタクくん!」
澪が保管装置の基部へ滑り込む。
白い魔術陣が展開した。
「……お願い。少しだけ、持ちこたえて!」
《神話顕現術式》
白い光が透花の身体を包み込む。
保管装置の警告音が変わった。
《生体維持状態、一時安定》
玲司は安堵しかけた。
しかし、ノアが告げる。
『玲司様。白魔術《神話顕現術式》によって生命活動は安定していますが、記憶抽出そのものは停止していません』
「……え?」
『抽出回路は独立しています』
玲司は、唇を噛んだ。
澪は透花の命をつないでいる。
けれど、記憶は奪われ続けている。
ならば。
自分が止めるしかない。
「……ノア。記憶照合回路に、干渉できる?」
『可能性はあります。ただし、通常の射撃では装甲を突破できません』
「……分かってる」
玲司は、守護者を見上げた。
巨大な単眼。
その奥にある、記憶照合回路。
敵は玲司たちの過去を知っている。
ならば、その過去を利用している仕組みそのものを狂わせればいい。
「……僕の《技術読込》(スキルロード)を使えば?」
『玲司様。御影による偽記憶混入の危険があります』
「……うん」
玲司は頷いた。
「だから、使わない」
ノアが、一瞬沈黙した。
「僕の記憶じゃなくて……敵が読んでる記憶を、壊す」
『……理解しました』
ノアの声が変わる。
『敵の照合回路へ、偽の参照情報を送信するのですね』
「できる?」
『外部記録へのアクセス経路を確保できれば可能です。ただし、成功率は不明です』
「……それでいい」
玲司は、朔夜を見た。
「朔夜! あと一回、隙を作って!」
「……無茶言うな!」
朔夜が叫ぶ。
その右肩は、すでに限界に近かった。
額から汗が流れている。
それでも、彼は笑った。
「……けど、やってやる!」
赤い魔術陣が展開した。
《生命錬成術式》
左脚の筋肉が、一瞬だけ強化される。
朔夜は守護者へ向かって跳んだ。
敵の単眼が追う。
『伊佐波朔夜。近接攻撃を予測』
巨大な腕が振り下ろされる。
朔夜は避けなかった。
代わりに、床へ青い魔術陣を撃ち込んだ。
衝撃波。
朔夜自身の身体が、横へ弾き飛ばされる。
守護者の攻撃が空を切った。
そして、朔夜は空中で身体を捻る。
「……玲司!」
緑の光が、守護者の背後で爆ぜた。
床下の繊維が装甲の継ぎ目へ入り込み、頭部を一瞬だけ固定する。
「……今だ!」
玲司が走る。
銃口を、単眼へ向ける。
『射撃予測』
守護者が反応した。
しかし、玲司は撃たなかった。
「……ノア!」
『接続開始』
拳銃型デバイスから、青い光が伸びた。
守護者の単眼へ向かう、細い情報干渉線。
敵の記憶照合回路が、玲司の戦闘記録を読み込もうとする。
その瞬間。
ノアが、偽の参照情報を送り込んだ。
《久遠玲司・行動予測》
《右方向へ回避》
《射撃開始》
《対象:頭部》
だが、玲司は左へ踏み込んだ。
銃口を下げる。
狙いは、胸部の装甲。
守護者が、遅れて反応する。
『予測不一致』
玲司は引き金を引いた。
青い魔術弾が胸部へ命中する。
装甲が砕け、内部の回路が露出した。
「……もう一発!」
銃声。
露出した回路へ、二発目が突き刺さる。
『記憶照合回路、異常』
守護者の単眼が激しく明滅した。
『参照情報に矛盾』
『行動予測、失敗』
六本の腕が、ばらばらに動く。
そのうち二本が互いに衝突した。
朔夜が着地する。
「……今なら!」
「うん!」
玲司は、三発目を撃った。
青い魔術弾が、単眼の中心を貫いた。
赤い光が消える。
巨大な身体が、ゆっくりと傾いた。
そして。
轟音とともに、床へ崩れ落ちた。
◇
『守護者の機能停止を確認』
ノアが告げた。
玲司は、息を吐く間もなく走り出した。
「……透花!」
中央の保管装置へ駆け寄る。
澪は、両手をかざしたまま必死に白魔術を維持していた。
顔色が悪い。
額には汗が滲んでいる。
「……澪、大丈夫!?」
「……あーしは、平気」
澪は、無理に笑った。
「それより、透花ちゃん……」
玲司は、装置の中を覗き込んだ。
透花は、目を閉じていた。
唇は青白い。
呼吸は、浅い。
「……透花」
玲司は、透明な拘束具へ手を伸ばした。
『玲司様。拘束解除には管理権限が必要です』
「……じゃあ、どうすれば!」
『解除手順を解析中です』
そのとき。
天井のスピーカーから、再び御影の声が響いた。
『見事だ』
玲司は、顔を上げた。
『守護者を破壊するとは、予想以上だった』
「……御影!」
『だが、君たちは一つ勘違いしている』
保管装置の周囲で、赤い警告灯が点灯した。
《記憶抽出工程、最終移行》
玲司の血の気が引いた。
「……やめろ!」
『守護者は、君たちを倒すための装置ではない』
御影は、静かに告げた。
『抽出が完了するまで、時間を稼ぐための装置だ』
玲司は、息を呑んだ。
最初から。
勝つ必要など、なかったのだ。
御影にとっては、玲司たちが守護者と戦っている間に、透花の記憶を奪えればよかった。
『玲司様!』
ノアの声が鋭く響く。
『記憶抽出率、六十八パーセント!』
「……っ!」
玲司は、保管装置を見つめた。
透花の頭部から伸びる光の糸が、急速に増えていく。
澪が叫んだ。
「……やだ! これ以上は……!」
白い魔術陣が、激しく明滅する。
「……透花ちゃん! お願い、起きて!」
玲司は、拳銃を構えた。
「……ノア! 抽出回路を止める!」
『危険です。記憶抽出回路は透花様の生体維持回路と接続されています』
「……でも!」
『無差別に破壊すれば、生命活動が停止する可能性があります』
玲司の指が、引き金の上で止まった。
撃てない。
壊せない。
目の前で透花が奪われているのに。
何もできない。
そのとき。
透花の唇が、微かに動いた。
「……れい……」
玲司は、顔を上げた。
「……透花?」
少女の瞼が、ゆっくりと開く。
焦点の合わない瞳。
けれど、確かに玲司を見ていた。
「……玲司……?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……うん!」
玲司は、拘束具へ手を伸ばした。
「僕だよ! 迎えに来た!」
透花は、ほんの少しだけ笑った。
「……そっか」
声が、かすれている。
「……来て、くれたんだ……」
「うん。約束したから!」
玲司は、透明な拘束具に手を当てた。
「忘れてしまっても、見捨てないって……!」
透花の瞳が、揺れた。
「……約束……」
少女は、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。
「……あれ……?」
玲司は、息を止めた。
透花の表情から、笑みが消えていく。
「……玲司……?」
その声が、少しずつ遠くなる。
「……誰……だっけ……?」
玲司の心臓が、跳ねた。
「……え?」
透花は、困ったように首を傾げた。
「……ごめん……」
その瞳に、涙が浮かぶ。
「……名前……分かんない……」
玲司は、何も言えなかった。
目の前にいる。
手を伸ばせば、届く距離にいる。
なのに。
彼女の中から、自分が消えていく。
『玲司様。記憶抽出率、七十三パーセント』
ノアの声が、遠く聞こえた。
透花は、何度も瞬きをした。
「……あれ……?」
少女の視線が、玲司の顔を彷徨う。
「……私……」
何かを言おうとして、言葉が途切れた。
玲司は、必死に呼びかけた。
「……透花!」
少女が、顔を上げる。
「……透花?」
「……そうだよ。君の名前だよ!」
透花は、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
「……とう、か……」
けれど、その響きに覚えがないようだった。
玲司は、唇を噛んだ。
違う。
こんなはずじゃなかった。
助けに来たのに。
もう少しで、手が届くのに。
どうして。
「……ノア!」
玲司は叫んだ。
「何でもいい! 止める方法を探して!」
『解析を継続しています』
「……早く!」
『玲司様』
ノアの声が、静かになった。
『現在の条件では、記憶抽出を完全停止する手段を確認できません』
玲司は、息を呑んだ。
『ただし、拘束解除と生体維持を優先すれば、これ以上の損失を抑えられる可能性があります』
「……じゃあ、それを!」
『解除手順の解析を続行します』
玲司は、拳を握りしめた。
そのとき。
透花が、ぽつりと呟いた。
「……ねえ」
玲司は、顔を上げた。
「……なに?」
透花は、玲司を見つめていた。
その瞳には、もう懐かしさも、安堵もなかった。
ただ、見知らぬ相手を前にした戸惑いだけが浮かんでいる。
「……あなた……」
少女は、小さく首を傾げた。
「……誰?」
玲司の世界から、音が消えた。
守護者の残骸が軋む音も。
澪が必死に魔術を維持する声も。
朔夜が装置の解析を続ける音も。
何も聞こえなかった。
ただ、透花の言葉だけが、胸の奥に残った。
――あなた、誰?
玲司は、ゆっくりと口を開いた。
けれど。
声が、出なかった。
透花は、泣きそうな顔で玲司を見つめている。
彼女自身も、何が起きているのか分からないのだろう。
知らない場所。
知らない人たち。
自分の名前さえ、曖昧になっている。
玲司は、震える手を伸ばした。
透明な拘束具の向こう。
透花の指先が、微かに動く。
触れられない。
まだ、届かない。
玲司は、歯を食いしばった。
助けに来た。
そう思っていた。
けれど、間に合わなかった。
彼女が守ろうとした記憶を。
彼女が自分の人生だと信じていた思い出を。
玲司は、守れなかった。
それでも。
目の前の少女は、まだ生きている。
玲司は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「……まだ、終わってないよね」
『はい』
ノアが答える。
『透花様の生命反応は、維持されています』
玲司は、深く息を吸った。
そして、もう一度、少女を見つめた。
自分を知らない少女。
自分との約束を忘れた少女。
それでも。
彼女は、そこにいる。
「……分かった」
玲司は、拳銃を握り直した。
「……だったら、まだ助けられる」
透花は、不安そうに玲司を見つめていた。
玲司は、震える声で告げた。
「……待ってて」
その言葉が、彼女に届いたかどうかは分からない。
けれど、玲司はもう目を逸らさなかった。
失われた記憶は、戻らないかもしれない。
約束も、思い出も。
彼女が大切にしていた過去も。
それでも。
今、目の前にいる少女まで失うわけにはいかなかった。
玲司は、保管装置へ向き直った。
その奥で、赤い警告灯が点滅している。
《記憶抽出率:七十四パーセント》
数字は、まだ上昇していた。
時間は、残されていない。
けれど、玲司は引き金を引かなかった。
壊すだけでは、救えない。
そのことを、ようやく理解したからだ。
彼は、ノアの解析結果を待ちながら、透花の拘束具に手を添えた。
冷たい感触が、掌に伝わる。
その向こうで、少女が小さく震えていた。
玲司は、静かに呟いた。
「……今度こそ、君を見捨てない」
少女は、答えなかった。
ただ、見知らぬ少年の顔を、不安そうに見つめていた。
その瞳に、玲司の姿が映っていた。
けれど、そこに懐かしさはなかった。
それが、何よりも残酷だった。




