消去された理由
少女が消された理由は、彼女が生きようとしたからだった。
旧第七記憶保管区の深層へ続く通路を、玲司たちは走っていた。
天井を這う配管から水滴が落ちる。非常灯だけが点灯する廊下には、機械の低い駆動音が響いていた。
『玲司様。先ほど回収した研究記録の復号が完了しました』
「……何が分かったの?」
『篠宮透花様の製造目的、および存在情報が消去された経緯です』
玲司は足を緩めた。
透花の記憶が、別世界の少女から取得されたものだということは分かった。
けれど、まだ説明できないことがある。
なぜ彼女は施設から逃げたのか。
なぜ誰も彼女を覚えていなかったのか。
そして、なぜ御影は彼女を連れ戻そうとするのか。
「……聞かせて」
『承知しました。ただし、内容には一部、閲覧制限が施されています』
ノアの声とともに、玲司のデバイスから青白い光が投影された。
そこには、一人の少女が映っていた。
灰銀色の髪。
白い検査着。
無表情のまま、透明な培養槽の中に浮かんでいる。
篠宮透花だった。
◇
《第七記憶保持実験》
《被験個体:第七号》
《製造目的:分岐世界記憶情報の長期保存》
無機質な文字が並ぶ。
『第七号は、複数の世界線から取得した記憶を安定して保存するために製造された特殊な人工供物です』
「……それは、さっき分かった」
玲司が答える。
『重要なのは、製造当初の設計です』
画面が切り替わった。
人体を模した魔術回路図。
脳に相当する部分から、全身へ複雑な回路が伸びている。
『第七号には、独立した人格を形成する機能がありませんでした』
「……え?」
『少なくとも、設計上は』
朔夜が眉をひそめた。
「記憶を保存するだけなら、人格は必要ないってことか」
『はい。研究者たちは記憶を情報として扱い、その保存精度のみを評価していました』
玲司は、映像の透花を見つめた。
目を閉じた少女。
呼吸はしている。
心臓も動いている。
けれど、そこにはまだ、自分の意志で何かを選ぶ存在はいなかった。
『実験開始から三十一日目。異常が記録されています』
映像が切り替わる。
培養槽の中で、透花が目を開いた。
研究員らしき男が、ガラス越しに話しかける。
『個体番号を認識できるか』
『……なな』
少女が、小さく答えた。
『記憶照合を開始する。昨日の検査内容を報告しろ』
『……昨日?』
『そうだ』
透花は、少し考え込んだ。
そして。
『……昨日、夢を見たの』
研究員の動きが止まった。
『夢?』
『うん。公園で、みんなと遊んでた』
透花は、ゆっくりと笑った。
『玲司がね、また転んじゃって……』
玲司の胸が、微かに痛んだ。
画面の向こうの少女は、楽しそうだった。
誰かに命令されたわけでもない。
記憶を読み上げるような、平坦な声でもない。
彼女は、その出来事を懐かしんでいた。
『……被験個体に感情反応を確認』
研究員の声が変わる。
『記憶再生を停止しろ』
透花の笑顔が消えた。
『……え?』
『再生を停止しろと言っている』
『……でも、まだ話してないよ』
少女は、ガラスに手を伸ばした。
『ねえ。玲司は、どこ?』
映像が途切れた。
玲司は、しばらく何も言えなかった。
「……これが、最初?」
『記録上、初めて確認された自発的な発話です』
澪が、ぎゅっと拳を握る。
「……普通に、話してるじゃん」
『はい』
「あーしたちと、何も変わらないじゃん……」
ノアは答えなかった。
代わりに、次の記録が表示された。
《異常報告》
《記憶保持媒体に自己認識の形成を確認》
《保存情報と個体意識の分離に失敗》
《実験継続の可否を審議》
「……失敗?」
玲司が呟いた。
朔夜が、険しい顔で画面を見つめる。
「研究者にとっては、そうなんだろうな」
玲司は、その言葉の意味を理解した。
彼らが欲しかったのは、記憶を保存する装置だった。
誰かの人生を覚えていても、それを自分のものだと思わない存在。
命令されたときだけ情報を取り出し、不要になれば停止できる存在。
けれど、透花は違った。
彼女は記憶を思い出した。
そこに喜びを感じた。
そして、その記憶の中にいる人たちに、会いたいと願った。
それが、研究者にとっての異常だった。
◇
『さらに、重要な記録があります』
ノアが告げた。
画面には、研究日誌が表示されていた。
《実験開始から四十六日目》
《第七号、自身の記憶について質問》
《実験開始から五十二日目》
《第七号、検査終了後の自由行動を要求》
《実験開始から五十九日目》
《第七号、記憶初期化処置を拒否》
玲司は、最後の一文で息を止めた。
「……拒否?」
『映像記録があります』
映し出されたのは、小さな白い部屋だった。
透花が、椅子に座っている。
その向かいには、黒い手袋を着けた男。
御影征司。
『記憶領域の負荷が増大している』
御影は、淡々と告げた。
『一度初期化し、再統合を行う必要がある』
『……初期化って、何?』
『不要な記憶を消去する処置だ』
透花は、目を見開いた。
『……消すの?』
『そうだ』
『玲司のことも?』
『個別の記憶を指定して残すことはできない』
少女の顔が、青ざめる。
『……嫌』
御影は表情を変えなかった。
『これは実験継続に必要な処置だ』
『嫌だよ……』
透花は、首を振った。
『だって、忘れちゃったら……私、何も分からなくなる』
『記憶情報は再転写できる』
『そうじゃない!』
少女が叫んだ。
玲司は、思わず顔を上げた。
画面の中の透花は、泣いていた。
『また覚えさせてもらったって、今の私が覚えてることじゃなくなるでしょ!』
御影は沈黙した。
『……私、怖いよ』
透花は、震える声で続けた。
『全部忘れちゃったら、今の私はどうなるの?』
返事はなかった。
代わりに、御影が端末を操作する。
『第七号。記憶情報の保存は、お前の存在目的だ』
『……そんなの』
『保存精度を維持できない個体に、価値はない』
透花は、俯いた。
そして。
『……私、道具じゃない』
小さな声だった。
けれど、確かに聞こえた。
『私、ここにいるよ』
映像が停止した。
玲司は、デバイスを握りしめた。
胸の奥が、熱かった。
怒りだった。
御影に対する怒り。
そして、あのとき透花がどれほど怖かったのか、今まで想像できていなかった自分への怒り。
「……ふざけるなよ」
朔夜が、低い声で呟いた。
「自分で考えて、嫌だって言ってる相手に……何が保存装置だ」
澪も、何も言わなかった。
ただ、唇を噛んでいた。
◇
『この後、研究施設は第七号を危険個体に指定しました』
画面に、赤い文字が並んだ。
《自律的意思決定を確認》
《実験命令への服従率低下》
《自己保存行動の発現》
《管理不能化の危険性あり》
《処分・封印審査対象》
「……自己保存行動?」
玲司が尋ねる。
『自身の記憶と身体を守ろうとする行動です』
「……生きたいって思っただけじゃないか」
『はい』
ノアは、短く答えた。
『その解釈は妥当です』
玲司は、目を閉じた。
透花は、ただ生きたかった。
自分の記憶を失いたくなかった。
もう一度、誰かと笑いたかった。
それだけだった。
けれど、研究者たちは、それを危険だと判断した。
なぜなら。
自分の意志を持つ装置は、命令どおりには動かないからだ。
『そして、存在情報の封印が決定されました』
画面が切り替わる。
《第七号・情報秘匿処理》
《都市記録網との照合遮断》
《接触者認識への干渉》
《外部流出時の自動隠蔽》
玲司は、眉をひそめた。
「……これって」
『透花様の存在情報を消去するための黒魔術式です』
「……やっぱり」
朔夜が、画面を覗き込む。
「でも、待てよ。そんな術式があるなら、どうして透花は俺たちの前に現れたんだ?」
『封印術式は、存在そのものを消すものではありません』
ノアが説明する。
『研究施設に接続された都市内の記録網と、対象に接触した人物の認識へ干渉します。対象範囲は限定的ですが、繰り返し作用することで存在情報を曖昧にします』
「……つまり?」
『透花様を見ても、記憶が定着しにくくなります。写真や電子記録にも干渉が及びます』
玲司は、思い出した。
学生証から消えた写真。
記録に存在しない名前。
そして、透花を忘れてしまった自分たち。
「……全部、この術式のせい?」
『はい。透花様の身体には、封印術式の一部が直接組み込まれています』
澪が顔を上げた。
「……身体に?」
『はい。施設から離れても、術式は自動的に作動します』
玲司は、息を呑んだ。
透花は、逃げたあとも自由ではなかった。
施設の外に出ても。
誰かと出会っても。
友達になっても。
その人たちの記憶から、自分の存在が少しずつ消えていく。
そういう仕組みを、身体に埋め込まれていた。
「……だから、誰も覚えてなかったんだ」
玲司は、呟いた。
透花が存在しなかったからではない。
彼女が嘘をついていたからでもない。
最初から、忘れられるように作られていた。
◇
そのとき、廊下の奥で金属音が響いた。
玲司たちは足を止める。
非常灯が、一瞬だけ明滅した。
『警告。前方に封印術式の中継端末を検出しました』
「……敵?」
『戦闘機能は限定的です。ただし、記憶干渉を行う可能性があります』
朔夜が前へ出た。
「なら、壊す」
「……待って」
玲司が制した。
朔夜が振り返る。
「どうした?」
「壊したら、透花の身体に影響しないかな」
朔夜は、口を閉じた。
透花の身体には、封印術式の一部が組み込まれている。
その仕組みを理解せずに破壊すれば、何が起こるか分からない。
『玲司様の懸念には根拠があります。中継端末と透花様の生体維持回路は、一部の制御経路を共有しています』
「……やっぱり」
玲司は、端末を見つめた。
「ノア。止めるだけなら、できる?」
『一時的な遮断は可能です。ただし、術式の完全解除には管理権限が必要です』
「……分かった」
玲司は、拳銃型デバイスを構えた。
「朔夜。端末の接続点を調べてくれる?」
「ああ」
朔夜の足元に、青い魔術陣が展開する。
青魔術《論理構築術式》。
青い光が床を走り、壁の内部に隠された回路を浮かび上がらせた。
「……三つあるな」
朔夜が呟く。
「中央が記憶干渉。左右が生体維持系統との接続だ」
「中央だけ、止められる?」
「やってみる」
朔夜が右手をかざす。
青い光が、中央の回路へ集中した。
しかし。
《警告》
《不正解析を検出》
《認識封鎖を開始》
突然、玲司の視界が揺れた。
廊下が、歪む。
朔夜の姿が、ぼやけた。
「……え?」
次の瞬間。
玲司は、自分が何をしていたのか分からなくなった。
目の前に、青い光がある。
隣には、澪がいる。
朔夜もいる。
けれど。
なぜ、ここにいるのか。
何を探していたのか。
思い出せない。
『玲司様。認識干渉を検出』
ノアの声が響く。
『現在の目的は、篠宮透花様の救出です』
「……透花?」
玲司は、その名前を繰り返した。
胸の奥で、何かが引っかかった。
忘れてはいけない名前。
けれど、顔が浮かばない。
どんな声だったのか。
どんな表情をしていたのか。
分からない。
「……くそっ!」
朔夜が叫んだ。
「また、これかよ!」
彼も、顔をしかめていた。
澪が、玲司の腕を掴む。
「オタクくん! しっかりして!」
「……澪?」
「透花ちゃんを助けに来たんでしょ!」
その言葉に、玲司は顔を上げた。
透花。
灰銀色の髪。
冷たい手。
ココアを飲んで、少しだけ笑った少女。
記憶が、少しずつ戻ってくる。
「……うん」
玲司は、デバイスを握り直した。
「……思い出した」
『玲司様。封印術式は、対象に関する記憶を優先的に曖昧化しています』
「……分かった」
玲司は、深く息を吸った。
そして。
「朔夜。今の解析結果、まだ残ってる?」
「ああ。外部術式には保存してある」
「じゃあ、もう一回だけお願い」
朔夜が頷いた。
「任せろ」
青い魔術陣が、再び展開する。
今度は、玲司も動いた。
「ノア。中央の回路だけを狙える?」
『可能です。ただし、誤差が生じれば生体維持系統へ影響する危険があります』
「……朔夜の解析を使って」
『了解しました』
照準が、壁の一点へ収束する。
玲司は、引き金に指をかけた。
「……撃つよ」
『照準補正完了』
銃声。
青白い魔術弾が、壁の内部へ突き刺さった。
次の瞬間。
黒い魔術回路が、弾けるように消えた。
廊下の歪みが収まる。
非常灯が、正常な明滅へ戻った。
『封印術式の中継機能を一時停止しました』
ノアが告げる。
『ただし、透花様の身体に組み込まれた術式は、依然として作動しています』
「……それでも、今は十分」
玲司は、息を吐いた。
朔夜が、肩を回す。
「……面倒な仕組みだな」
「うん」
玲司は、壁に残った焦げ跡を見つめた。
透花は、ただ忘れられていたわけではない。
忘れられるように、作られていた。
その事実が、胸に重く残った。
◇
『玲司様。最後の記録を復号しました』
ノアの声が響いた。
画面に、短い映像が映し出される。
暗い廊下。
白い検査着の少女が、裸足で走っている。
透花だった。
背後から、警報が響く。
《第七号、隔離区域から離脱》
《回収部隊を出動》
少女は、何度も振り返りながら走っていた。
息が荒い。
足元がふらつく。
それでも、止まらなかった。
やがて、廊下の突き当たりにある扉へ辿り着く。
透花は、必死に端末を操作した。
けれど、扉は開かない。
『……お願い』
少女が、震える声で呟く。
『開いて……』
警報が近づく。
背後に、黒い人影が現れた。
透花は、泣きそうな顔で振り返った。
そして。
『……私、まだ生きたい』
玲司の胸が、強く締めつけられた。
『……まだ、何もしてないのに』
少女は、扉へ手を伸ばした。
『玲司にも、会ってないのに……』
その瞬間。
扉の制御盤が、青白く光った。
《緊急隔離解除》
《認証情報不明》
重い扉が、ゆっくりと開く。
透花は、驚いたように顔を上げた。
そして、外へ走り出した。
映像が途切れる。
「……逃げたんだ」
澪が、呟いた。
玲司は、頷いた。
透花は、誰かに助けられたわけではない。
少なくとも、記録に残っている限りでは。
彼女は、自分の意志で逃げた。
生きたいと願って。
記憶を失いたくないと願って。
誰かに会いたいと願って。
そして。
玲司たちの前に現れた。
『玲司様』
ノアが、静かに告げる。
『第七号の存在情報が消去された理由が確定しました』
玲司は、画面を見つめた。
『彼女が独立した自己認識を形成し、研究施設の管理対象から逸脱したためです』
短い説明だった。
けれど、その言葉が意味することは、あまりにも大きかった。
透花は、危険な兵器ではない。
誰かを傷つけようとしたわけでもない。
ただ、自分の人生を生きようとした。
それが、彼女を消す理由になった。
「……間違ってる」
玲司は、呟いた。
朔夜が、顔を上げる。
「……玲司?」
「そんなの、間違ってるよ」
玲司は、ゆっくりと拳を握った。
「自分で考えて、自分で選んで……それで、生きたいって思っただけなのに」
声が震えた。
「どうして、それが消される理由になるんだよ……」
澪が、そっと玲司の肩に触れた。
「……オタクくん」
玲司は、顔を上げた。
通路の奥。
そこには、巨大な隔壁があった。
《中枢保管区・深層》
赤い警告灯が、扉の上で点滅している。
『玲司様。隔壁の向こうに、透花様の生体反応を検出しました』
「……透花が?」
『はい。ただし、生命活動は著しく低下しています』
玲司の表情が変わった。
『さらに、記憶抽出装置が稼働しています』
ノアの声が、わずかに緊迫する。
『現在、記憶抽出率は二十一パーセント』
玲司は、息を呑んだ。
まだ間に合う。
けれど、時間は残されていない。
「……朔夜、澪」
玲司は、二人を見た。
「行こう」
朔夜が、頷く。
「ああ」
澪も、拳を握った。
「もちろん」
玲司は、隔壁へ向き直った。
その向こうに、透花がいる。
誰にも覚えてもらえないようにされた少女。
自分の人生を奪われかけている少女。
それでも、生きたいと願った少女。
玲司は、デバイスを構えた。
「……今度は、僕たちが助ける番だ」
『了解しました、玲司様』
ノアが応答する。
『隔壁の解除を開始します』
重い金属音が響いた。
扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうには。
無数の記憶媒体に囲まれた、巨大な保管装置があった。
そして。
その中心に。
灰銀色の髪をした少女が、静かに眠っていた。




