偽物の幼なじみ
四人で撮ったはずの写真には、確かに四人が写っていた。
夕暮れの公園。錆びたブランコ。滑り台の前に並んだ子供たち。
幼い玲司と朔夜。二人の肩に腕を回して笑う澪。そして、その隣で少し照れくさそうに微笑む、灰銀色の髪の少女。
篠宮透花。
ずっと探していた少女が、そこにいた。
「……透花」
玲司は、思わず端末へ手を伸ばした。
『玲司様。記録への直接接触は推奨しません』
ノアの警告に、指が止まる。
「……ごめん」
中央記録室には、天井まで届く記憶媒体が何百本も並んでいた。透明な円筒の内部を青白い光が流れ、床には無数の魔術回路が張り巡らされている。
その中央で、古い映像が繰り返されていた。
「これ、あの公園じゃん」
澪が画面を覗き込む。
「あーしたちが小さい頃、よく遊んでたとこ」
「ああ。遊具の配置も一致してる」
朔夜が答える。
「……でも、俺たちは三人で遊んでたはずだ」
玲司も同じだった。
公園は覚えている。ブランコも、夕焼けも。
けれど、透花だけがいない。
彼女の立っている場所には、いつも誰もいなかったはずだ。
『記憶媒体の照合が完了しました』
ノアの声とともに、画面に文字が現れる。
《記憶保持実験体 第七号》
《個体識別名:篠宮透花》
《記憶原本照合率:99.87%》
「……原本?」
玲司が呟く。
『この記録は人工的に生成された架空の映像ではありません。実在した人物の記憶を抽出し、保存したものと判断されます』
「じゃあ、透花の話は本当だったんだ!」
澪が声を上げる。
玲司の胸にも、安堵が広がりかけた。
透花は嘘をついていなかった。
あの公園で遊んだことも、四人で過ごした日々も、確かに存在した。
しかし。
『ただし、重大な不整合があります』
ノアの声が、その安堵を遮った。
『映像内の都市構造が、現在の歴史記録と一致しません』
「……どういうこと?」
『映像を拡大します』
公園の背景が大きく映し出された。
遠くに見える高層建築。
その屋上には、巨大な円環状の構造物があった。
玲司は眉をひそめた。
「……こんな建物、あった?」
「いや」
朔夜が即答する。
「少なくとも、俺たちの街にはない」
『建築記録にも存在しません。さらに、映像内の交通網、学院の校章、周辺地形に複数の相違を確認しました』
画面が切り替わる。
別の記憶。
小学校の教室。
四人が机を囲んでいる。
黒板の上には、見慣れた学校名。
だが、その下に掲げられた校章は、玲司の知るものとは違っていた。
「……同じ学校なのに」
玲司は呟いた。
「少しずつ、違う」
朔夜が端末を操作する。
「記録の改竄じゃないのか?」
『改竄痕は検出されません。むしろ、映像全体が一貫した歴史情報を持っています』
「一貫した……歴史?」
『はい。現在の世界とは異なる歴史です』
玲司の背筋に、冷たいものが走った。
異なる歴史。
その言葉には、覚えがあった。
何度も触れてきた。
何度も、その力に頼ってきた。
「……まさか」
右手の魔術回路が、微かに熱を帯びる。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界の自分が経験した技術と記憶を読み込む、玲司の根源魔術。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「ノア。この記録って……」
『玲司様の根源魔術との関連を確認中です』
画面に新しい文字が現れた。
《記憶取得元:分岐世界群》
《主記憶原本:世界線識別番号・第七二四系列》
玲司は、息を呑んだ。
◇
「……別世界?」
澪が、信じられないという顔で画面を見つめた。
「じゃあ、ここにいるあーしたちじゃなくて……別の世界のあーしたちってこと?」
『その可能性が極めて高いと判断します』
「待てよ」
朔夜が口を挟む。
「それなら、透花が知ってた昔の出来事も全部……」
『別世界における実際の経験だったと考えられます』
玲司は、何も言えなかった。
透花が話してくれた思い出。
四人で雨宿りした日。
澪が初めて自分を「オタクくん」と呼んだ日。
朔夜を助けた帰り道。
そして。
――もし、みんなが私を忘れても。
――玲司だけは、絶対に忘れないって。
あの約束。
玲司は、無意識に拳を握った。
「……じゃあ」
声が震えた。
「僕は、透花と約束してないんだ」
誰も答えなかった。
画面の中では、幼い玲司が透花に何かを話しかけていた。
透花が笑う。
それを見た澪が、二人をからかうように肩を叩く。
朔夜は呆れた顔で、少し離れた場所に立っている。
ありふれた日常。
何でもない一日。
けれど、今の玲司たちには存在しなかった時間。
「……オタクくん」
澪が、そっと声をかけた。
玲司は答えられなかった。
頭では理解できる。
透花は別世界の記憶を持っていた。
その記憶を、自分自身の過去だと信じていた。
だから、自分たちを幼なじみだと思っていた。
けれど。
それなら、あの懐かしさは何だったのだろう。
透花の声を聞いたとき。
彼女の笑顔を見たとき。
初めて会ったはずなのに、ずっと昔から知っているような気がした。
あれまで、偽物だったのか。
『玲司様』
ノアが静かに呼びかける。
『追加の照合結果があります』
玲司は顔を上げた。
『過去に玲司様が《愚者の選択》(ロードアルカナ)を発動した際の魔術波形と、当該記憶媒体の情報構造に一致を確認しました』
「……どういうこと?」
『玲司様が感じた既視感は、根源魔術を介して流入した別世界の記憶断片に由来する可能性があります』
玲司は、ゆっくりと画面を見た。
幼い自分。
透花の笑顔。
懐かしい夕焼け。
それらは、自分の記憶ではなかった。
少なくとも。
この世界の自分が経験したものではない。
「……そうだったんだ」
玲司は、小さく呟いた。
透花を見て懐かしく感じたのは、かつて彼女と過ごしたからではない。
別世界の自分が、彼女を知っていたからだ。
それだけのことだった。
なのに、胸が苦しかった。
◇
「……まだ、決めつけるのは早い」
朔夜が言った。
玲司は顔を上げる。
「透花の記憶が別世界のものだとしても、それだけじゃ分からないことがある」
「……何が?」
「どうして、その記憶が今の透花に入ってるのかだ」
朔夜は端末へ視線を戻した。
「そもそも、別世界の人間の記憶なんて、普通は手に入らないだろ」
玲司は頷いた。
その通りだった。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)は、玲司自身にも完全には理解できていない特殊な根源魔術だ。
別世界の情報を取得する技術が、一般に確立されているわけではない。
それを、この施設は研究していた。
「ノア。記憶の取得方法は分かる?」
『関連記録を検索します』
端末の画面が切り替わる。
《分岐世界情報観測実験》
《記憶抽出・転写試験》
《人工供物型記憶保持媒体》
無機質な文字が、次々と表示された。
『この施設では、異なる世界線から取得した記憶情報を、人工供物の魔術回路へ転写する実験が行われていました』
「……透花が、その実験体?」
『はい』
玲司は、画面を見つめた。
透花の身体が人工供物であることは、すでに知っている。
けれど、その理由までは知らなかった。
魔術の代償として消費するためではない。
別世界の記憶を保存するため。
そのためだけに、彼女は作られた。
「……ひどい」
澪が呟いた。
「あの子、普通に笑ってたのに。怖がったり、怒ったり……あーしたちと何も変わらなかったのに」
玲司は、あの日の透花を思い出した。
温かいココアを両手で包んでいた姿。
知らない自分たちに、必死に昔の話をしてくれた姿。
忘れないでほしいと、泣きそうな顔で頼んできた姿。
彼女は、自分の人生を信じていた。
それが別の世界の記憶だと、知らないまま。
『さらに、記憶媒体には複数の取得元が存在します』
ノアの声が響く。
画面に、いくつもの識別番号が並んだ。
《第七二四系列》
《第一一九系列》
《第三〇六系列》
《第五八一系列》
「……一つじゃない?」
『はい。中心となる記憶原本のほかに、複数の世界線から取得された断片が保存されています』
朔夜が眉をひそめる。
「つまり、透花の中には、何人分もの記憶があるってことか?」
『正確には、複数の世界線における記憶情報です。同一人物に相当する記録が含まれているかどうかは、まだ確定できません』
玲司は、画面に並ぶ番号を見つめた。
別世界の記憶。
複数の人生。
それらを一つの身体に押し込めたら、どうなるのだろう。
自分でさえ、《存在読込》(オーバーロード)を使うたびに、自分が誰なのか分からなくなりかけた。
透花は。
最初から、そんな記憶を抱えて生まれたのか。
「……ノア」
『はい』
「透花は、自分が人工供物だって知ってたのかな」
『不明です。ただし、本人が語った記憶と、現在の身体の製造記録には大きな時間的隔たりがあります』
「……そう」
玲司は、唇を噛んだ。
彼女が知っていた幼少期。
それは、この身体が作られるよりも前の出来事だった。
透花が覚えている子供時代を、この身体が生きたことはない。
その事実が、あまりにも残酷だった。
◇
突然、端末から電子音が鳴った。
《記憶原本再生権限を確認》
《主記憶・最終記録を再生します》
「……最終記録?」
玲司が呟いた直後、映像が切り替わった。
夕焼けの公園。
先ほどと同じ場所だった。
けれど、今度は写真ではない。
映像が動いている。
『もう帰るの?』
幼い透花が、少し不満そうに言った。
『だって、暗くなるし』
幼い玲司が答える。
『お母さんに怒られるよ』
『玲司って、ほんと真面目だよね』
『……透花だって、怒られるでしょ』
『私は大丈夫!』
少女は胸を張った。
その後ろで、幼い澪が笑っている。
『はいはい。じゃ、あーしたち先に帰るからね!』
『おい、澪! 待てって!』
朔夜が追いかける。
二人が公園の出口へ向かって走っていく。
残されたのは、玲司と透花だった。
『……ねえ、玲司』
『何?』
『もしさ』
透花は、ブランコに腰掛けた。
足先で地面を蹴る。
『みんなが私のこと、忘れちゃったらどうする?』
幼い玲司が首を傾げた。
『……どうして?』
『何となく』
『変なの』
『いいから、答えてよ』
透花は、少しだけ頬を膨らませた。
玲司は困ったように考え込む。
そして。
『……僕は、忘れないよ』
少女が顔を上げる。
『ほんと?』
『うん』
『絶対?』
『……絶対』
透花は、嬉しそうに笑った。
『じゃあ、約束ね』
小さな小指が差し出される。
玲司も、小指を伸ばした。
二人の指が、そっと絡まる。
『……約束』
映像が止まった。
静寂。
玲司は、画面を見つめたまま動けなかった。
あの約束は、本当にあった。
透花が作り話をしていたわけではない。
ただ。
約束したのは、自分ではなかった。
「……オタクくん」
澪の声が、遠く聞こえた。
玲司は、ゆっくりと口を開いた。
「……僕じゃ、ないんだね」
誰も答えなかった。
「透花が待ってたのは……あの世界の僕なんだ」
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
透花は、ずっと信じていた。
自分たちは幼なじみで、昔から一緒にいて、玲司が約束を覚えているはずだと。
でも。
彼女が会いに来た玲司は、この世界にはいない。
少なくとも、今ここにいる玲司ではない。
「……じゃあ、僕は」
玲司は、拳を握った。
「何なんだろう」
透花の知っている玲司ではない。
約束を交わした玲司でもない。
それなのに、彼女の言葉を信じた。
助けたいと思った。
そして、今も探している。
その気持ちさえ、別世界の記憶に影響されたものなのだろうか。
「……玲司」
朔夜が声をかけた。
玲司は、顔を上げられなかった。
すると。
「違うでしょ」
澪が、少し強い声で言った。
玲司は顔を上げる。
澪は、まっすぐこちらを見ていた。
「あの子が知ってたのが別世界のオタクくんだったとしてもさ」
「……うん」
「今、あの子を助けようとしてるのは、誰?」
玲司は答えられなかった。
「ここまで来たのは、誰?」
「……僕たち」
「でしょ?」
澪は、少しだけ笑った。
「あーしたち、あの子と一緒にココア飲んだじゃん。心配して、喧嘩して、約束もした」
玲司は、息を呑んだ。
「それって、別世界の出来事じゃないよね?」
そうだった。
透花と出会った教室。
彼女が倒れた日。
冷たい手を握った夜。
そして。
忘れてしまっても、見捨てないと約束したこと。
それらは、確かにこの世界で起きた出来事だった。
別世界の玲司ではない。
今の自分が、選んだことだった。
「……うん」
玲司は、小さく頷いた。
「そうだね」
朔夜が肩をすくめる。
「そもそも、俺たちが幼なじみじゃなかったとしても、今さら何が変わるんだよ」
「……朔夜」
「俺は、透花が何者なのか知りたい。それだけだ」
朔夜は、端末へ視線を戻した。
「それに、あいつが嘘をついてなかったって分かっただけでも、十分だろ」
玲司は、画面を見た。
止まった映像の中で、幼い透花が笑っている。
彼女は、確かに存在した。
別の世界で。
そして、今の透花も、確かに存在している。
この世界で。
同じ記憶を持っているからといって、同じ人間なのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど。
少なくとも、今の透花が泣いていたことは、本当だ。
玲司は、静かに息を吐いた。
「……探そう」
澪が頷く。
「うん」
「透花を、見つけよう」
朔夜も頷いた。
「ああ」
◇
『玲司様。追加の記録を検出しました』
ノアの声が響いた。
『主記憶原本とは別に、個体の製造後に記録された情報が存在します』
「……製造後?」
『はい。透花様の現在の身体に関する記録です』
画面に、新しい項目が表示された。
《記憶統合試験》
《自己認識形成過程》
《個体行動記録》
玲司は、眉をひそめた。
「……自己認識?」
『詳細は暗号化されています。ただし、研究記録の一部に、通常の人工供物とは異なる反応が記されています』
朔夜が端末を操作する。
「解除できるか?」
『時間を要します。現在、記録室の管理権限が外部から制限されています』
「御影か」
朔夜が舌打ちした。
そのとき。
記録室の照明が、一斉に赤く変わった。
《警告》
《未承認の記憶照合を検出》
《記録保護処理を開始します》
「……まずい!」
朔夜が叫ぶ。
床の魔術回路が黒く染まった。
記憶媒体の光が、次々と消えていく。
『玲司様。記録消去が始まりました』
「止められないの?」
『管理権限が不足しています』
玲司は、端末を見た。
画面には、透花の名前が残っている。
その下に、消去進行率が表示された。
《12%》
《18%》
《27%》
「……ノア!」
『はい』
「全部は無理でも、必要な情報だけ保存して!」
『優先順位を指定してください』
玲司は、一瞬だけ迷った。
記憶原本。
別世界の四人の思い出。
透花が信じていた過去。
それらは、確かに大切なものだった。
けれど。
今、必要なのは。
「……透花の身体の記録」
玲司は、はっきりと言った。
「どうして作られたのか。どうして今、消えようとしてるのか」
画面の数字が上がる。
《43%》
「それと……」
玲司は、拳を握った。
「今、透花がどこにいるのか」
『承知しました』
ノアが応答する。
『該当情報の抽出を開始します』
青い光が、玲司のデバイスへ流れ込んだ。
《61%》
《74%》
《88%》
『抽出完了』
その直後。
画面が、真っ黒になった。
記憶媒体の光が消える。
記録室に、重い静寂が落ちた。
「……間に合った?」
澪が尋ねる。
『一部の記録を確保しました』
ノアが答えた。
『ただし、重大な問題があります』
「……何?」
『透花様の個体情報に、現在進行中の処理が確認されました』
玲司の胸がざわついた。
「……処理?」
『はい』
ノアの声が、わずかに低くなる。
『記憶情報の抽出準備です』
玲司は、息を呑んだ。
『抽出対象は、篠宮透花様の現在の記憶領域』
画面に、最後の文字が表示される。
《記憶初期化準備》
《実行権限者:御影征司》
《対象個体:第七号》
《現在位置:中枢保管区・深層》
玲司は、デバイスを握りしめた。
透花は、まだ生きている。
けれど。
その記憶が、今まさに奪われようとしていた。
「……行こう」
玲司は、振り返った。
「透花が、全部忘れてしまう前に」
三人は、記録室を飛び出した。
背後で、最後の記憶媒体が砕ける。
その破片には、もう何も映っていなかった。
ただ一つ。
玲司の胸には、透花の笑顔が残っていた。
別世界の誰かが覚えていた笑顔ではない。
自分の目で見た、あの少女の笑顔が。
今度こそ、それを失わせないために。
玲司は、暗い通路を駆け抜けた。




