記憶の迷宮
少女の笑顔が、剥がれ落ちた。
灰銀色の髪が黒く染まり、白い肌に亀裂が走る。
その奥から現れたのは、顔のない人影だった。
「――伏せろ!」
朔夜の叫びと同時に、黒い刃が廊下を薙いだ。
玲司は澪の肩を抱いて床へ飛び込む。
頭上を刃が通過した。
背後の窓が砕け、夕焼けの空に無数の亀裂が走る。
「うわっ、ちょっと! いきなり何なの!」
「記憶迷宮の防衛機構だ!」
朔夜が左手を突き出す。
青い術式が展開され、迫る二撃目を半透明の障壁が受け止めた。
衝撃。
障壁にひびが入る。
「玲司、撃て!」
「う、うん!」
拳銃型デバイスを構える。
照準の先には、少女の姿を失った黒い人影。
引き金を引いた。
青白い魔術弾が胸部を貫く。
しかし。
命中したはずの人影は、何事もなかったように立っていた。
『玲司様。対象に物理的実体を確認できません』
「……幻影?」
『視覚情報だけではありません。聴覚、触覚、平衡感覚に対する同時干渉です』
「つまり、全部偽物ってこと?」
澪が尋ねる。
『いいえ。干渉によって現実の危険を誤認する可能性があります。現在、どの情報が実在するか判別不能です』
「それ、いちばん困るやつじゃん!」
黒い人影が腕を振り上げた。
玲司は反射的に銃口を向ける。
その瞬間、視界が白く染まった。
◇
気づけば、教室にいた。
小学校の教室だった。
低い机。
色褪せた掲示物。
窓際に置かれた朝顔の鉢。
すべてが、記憶のどこかに引っかかる。
「……ここは?」
返事はない。
朔夜も澪も消えていた。
玲司は教室を見回した。
黒板には、白いチョークで日付が書かれている。
その数字を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
――知っている。
この日を、知っている。
けれど、何があった日なのか思い出せない。
「玲司」
背後から声がした。
振り返る。
そこにいたのは、小学生の朔夜だった。
まだ背が低く、今より少し幼い顔。
その右手には、擦り傷がある。
「……朔夜?」
「早く来いよ」
少年は笑った。
「今日は、お前に見せたいものがあるんだ」
玲司は思わず一歩踏み出した。
『玲司様。警告します』
ノアの声が響く。
『現在の映像は、施設によって生成された記憶投影です』
「……分かってる」
分かっている。
けれど。
目の前の少年は、あまりにも本物だった。
声も。
表情も。
笑い方まで。
「どうした?」
幼い朔夜が首を傾げる。
「置いてくぞ?」
その言葉に、玲司の胸が痛んだ。
何かを思い出しそうになる。
手を伸ばせば、失った記憶が戻るのではないか。
そんな期待が、頭をよぎった。
少年が教室の扉を開く。
その向こうには、暗い廊下。
玲司は、ゆっくりと足を進めた。
『玲司様。進行方向に異常な魔術反応を検出しています』
「……少しだけ」
『推奨しません』
「……ごめん」
玲司は扉をくぐった。
そして。
世界が変わった。
◇
雨が降っていた。
激しい雨だった。
玲司は、瓦礫の上に立っていた。
周囲には崩壊した建物。
焦げた地面。
砕けた魔術デバイス。
そして。
足元に、誰かが倒れていた。
「……え?」
黒い髪。
見慣れた制服。
右肩から流れる赤い血。
「……朔夜?」
返事はなかった。
玲司は駆け寄った。
膝をつく。
肩を揺する。
「朔夜……?」
少年ではない。
今の朔夜だった。
顔色は青白く、胸は動いていない。
「……嘘だ」
玲司は震える手で首筋に触れた。
脈がない。
冷たい。
その感触が、指先から全身へ広がった。
「……どうして」
記憶が流れ込んでくる。
戦闘。
崩落。
朔夜の叫び。
自分が間に合わなかった瞬間。
それは、玲司が経験したことのない出来事だった。
なのに。
確かに覚えている。
雨の匂いも。
血の温度も。
最後に聞いた声も。
「……僕が」
玲司は、動かない朔夜を抱き起こした。
「僕が、もっと早く……」
『玲司様!』
ノアの声が割り込む。
『対象の記憶情報は、玲司様の現在の経験と一致しません!』
「……でも」
『これは投影です!』
分かっている。
分かっているはずなのに。
目の前の朔夜は、確かに死んでいた。
玲司の脳裏に、一つの選択肢が浮かぶ。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界の経験を読み込めば。
もっと強い自分になれば。
今度こそ、助けられるかもしれない。
――もっと深く。
どこからか声がした。
――存在そのものを読み込め。
玲司の右手に、黒い魔術回路が浮かび上がる。
《存在読込》(オーバーロード)。
危険な術式。
別世界の自分の経験と人格を、深く取り込む力。
使えば、今度こそ何かを失うかもしれない。
けれど。
目の前には、死んだ朔夜がいる。
「……僕は」
玲司の指が震えた。
『玲司様。現在の朔夜様は生存しています』
ノアが告げる。
『外部記録において、三十七秒前まで生体反応を確認しています』
「……生きてる?」
『はい』
玲司は顔を上げた。
雨が降っている。
腕の中の朔夜は冷たい。
それでも。
今ここにいる朔夜が、本物とは限らない。
「……そうだ」
玲司は、ゆっくりと手を離した。
「僕が助けたいのは……」
倒れた親友を見つめる。
「今、生きている朔夜だ」
黒い魔術回路が消えた。
その瞬間。
雨が止まった。
瓦礫が砕ける。
朔夜の身体が、無数の黒い粒子となって崩れていく。
そして。
玲司は、再び暗い廊下に立っていた。
『玲司様。認識干渉の第一段階を突破しました』
「……第一段階?」
玲司は息を呑んだ。
まだ終わっていない。
その証拠に。
廊下の奥から、誰かの悲鳴が聞こえた。
◇
「――玲司!」
朔夜の声だった。
玲司は走り出した。
角を曲がる。
そこには、血のついた床と、折れた魔術デバイスが落ちていた。
その先。
朔夜が、壁に背を預けていた。
左手には青い術式。
右肩の固定具は外れ、傷口から血が滲んでいる。
「朔夜!」
「来るな!」
鋭い声。
玲司は足を止めた。
朔夜の視線は、玲司ではなく、その背後に向けられていた。
振り返る。
そこには、もう一人の朔夜が立っていた。
同じ顔。
同じ制服。
同じ魔術デバイス。
ただし。
その目には、冷たい殺意が宿っていた。
「……また、お前か」
朔夜が呟く。
玲司は息を呑んだ。
別世界の人格に干渉され、朔夜が玲司を襲撃した日。
あのときの記憶が、目の前に再現されていた。
もう一人の朔夜が笑う。
「お前は、また同じことをする」
「……黙れ」
「玲司を殺そうとしただろ?」
「黙れ!」
青い光が弾けた。
朔夜の術式が、偽物へ向かって放たれる。
しかし。
偽物は、まったく同じ術式を展開した。
二つの青い光が衝突する。
爆発。
朔夜が後方へ吹き飛んだ。
「朔夜!」
玲司は駆け寄ろうとした。
その瞬間、偽物が口を開く。
「こいつは、お前を裏切る」
玲司の足が止まった。
「一度やったことは、またやる」
偽物の声が、廊下に響く。
「お前は、そんな奴を信じるのか?」
玲司は、朔夜を見た。
朔夜は歯を食いしばっていた。
怒り。
恐怖。
そして、深い後悔。
御影によって植え付けられた偽の記憶も、まだ完全には消えていない。
朔夜は、自分が再び玲司を傷つけることを恐れている。
「……玲司」
朔夜が、かすれた声で言った。
「俺から離れろ」
「……え?」
「また、お前を傷つけるかもしれない」
玲司は、何も言えなかった。
目の前の親友は、震えていた。
戦うことを恐れているのではない。
自分自身を、信じられなくなっている。
玲司は、ゆっくりと歩き出した。
「……朔夜」
「来るなって言ってるだろ!」
「……うん」
玲司は頷いた。
「でも、僕は行くよ」
偽物が笑った。
「愚かな選択だ」
黒い刃が放たれる。
玲司はデバイスを構えた。
引き金を引く。
魔術弾が刃を撃ち落とす。
「……僕は」
玲司は、朔夜の前に立った。
「今の朔夜を信じる」
朔夜が目を見開く。
「……お前」
「過去に何があったとしても」
玲司は、偽物へ銃口を向けた。
「今、僕を守ろうとしてくれてるのは、朔夜だから」
偽物の表情が歪んだ。
その瞬間。
「……ふざけんな」
背後から声がした。
朔夜だった。
「俺の顔で、好き勝手言いやがって」
左手に、三色の光が灯る。
青。
緑。
赤。
青魔術《論理構築術式》が、敵の術式を解析する。
緑魔術《原生循環術式》が、床の亀裂から蔓を伸ばす。
赤魔術《生命錬成術式》が、左腕の筋肉を一時的に強化した。
「玲司!」
「うん!」
玲司が撃つ。
偽物が回避する。
しかし、その足首を緑の蔓が絡め取った。
朔夜が踏み込む。
強化された左拳が、偽物の胸を貫いた。
黒い影が砕け散る。
静寂。
朔夜は、荒い息を吐いた。
「……悪い」
「……何が?」
「また、迷惑かけた」
玲司は首を振った。
「……僕も、さっき同じようなものを見たから」
「……何を?」
「朔夜が死んでしまった世界」
朔夜が目を見開く。
玲司は、少しだけ笑った。
「……怖かった」
朔夜は、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうか」
小さく頷いた。
「じゃあ、さっさとここを抜けるぞ」
「……うん」
玲司は頷いた。
そのとき。
『玲司様。澪様の生体反応を検出しました』
ノアの声が響く。
『ただし、位置情報が不安定です』
「……澪!」
二人は、廊下の奥へ走り出した。
◇
扉を開けた瞬間。
玲司は、足を止めた。
そこには、見覚えのない家があった。
小さなリビング。
古いソファ。
食卓には、四人分の食器。
窓の外には、静かな住宅街が広がっている。
「……ここは?」
玲司は呟いた。
知らない家だった。
それなのに、どこか懐かしい。
まるで、誰かの記憶の中に入り込んだような感覚。
リビングの中央。
澪が、一人で立っていた。
「……澪?」
返事はなかった。
澪は、食卓を見つめていた。
四つの椅子。
四つの食器。
けれど。
そこには、誰もいない。
「……また、いなくなっちゃった」
澪が呟いた。
玲司は、息を呑んだ。
いつもの明るい声ではなかった。
小さく、震える声。
「あーしだけ、残っちゃった」
澪は、ゆっくりと振り返った。
その目には、涙が浮かんでいた。
「……オタクくん?」
「……うん」
玲司は頷いた。
「僕だよ」
澪の表情が、わずかに緩む。
しかし。
次の瞬間。
彼女の背後に、黒い影が現れた。
影は、玲司の姿をしていた。
「……澪」
偽物の玲司が、静かに告げる。
「もう、帰らないよ」
澪の顔が凍りついた。
「……やめて」
「朔夜も、透花も、みんないなくなった」
「……やめてって」
「君だけが、ここに残る」
澪は耳を塞いだ。
玲司は、すぐに駆け出した。
「澪!」
偽物が振り返る。
その顔は、玲司とまったく同じだった。
「お前も、いつか彼女を置いていく」
玲司は足を止めなかった。
「……そうかもしれない」
偽物の表情が変わる。
「……何?」
「僕は、未来のことを全部知ってるわけじゃない」
玲司は、澪の前に立った。
「でも」
澪の手を取る。
冷たい。
震えている。
「今、ここにはいる」
澪が顔を上げた。
「……オタクくん」
「……一緒に帰ろう」
その言葉に、澪の瞳が揺れた。
しばらくして。
「……ほんと、ずるい」
澪は、小さく笑った。
「あーしが泣いてるときに、そういうこと言うんだもん」
玲司は困ったように笑う。
「……ごめん」
「謝んないでよ」
澪は、玲司の手を強く握り返した。
「……ありがと」
その瞬間。
白い光が、澪の周囲に広がった。
白魔術《神話顕現術式》。
祝福の術式が、リビング全体を包み込む。
偽物の玲司が、苦しげに顔を歪めた。
「……なぜ」
澪は、涙を拭った。
「決まってんじゃん」
白い光が強まる。
「あーしは、あーしの知ってるオタクくんを信じるから!」
光が弾けた。
偽物の玲司が消える。
リビングの壁が崩れ、床が砕ける。
そして。
三人は、再び暗い通路に立っていた。
◇
『玲司様。認識干渉の第三段階を突破しました』
ノアの声が響く。
玲司は、荒い息を整えた。
「……これで、終わり?」
『いいえ。施設全体の記憶投影は継続しています』
朔夜が舌打ちした。
「きりがないな」
澪が周囲を見回す。
「ねえ、これって、どうやったら抜けられるの?」
玲司は考えた。
この施設は、記憶を利用して空間を偽装している。
ならば。
記憶に頼らず、実際の構造を調べればいい。
「……ノア」
『はい』
「今までの移動記録、残ってる?」
『一部に欠損がありますが、外部保存領域に物理的な移動情報を保持しています』
「……朔夜」
「ああ。考えてることは分かる」
朔夜が頷いた。
「青魔術で、実際の壁と床を解析するんだな」
「うん」
玲司はデバイスを構えた。
「ノア。外部記録を朔夜の解析式へ接続して」
『承知しました』
青い光が、三人の足元に広がった。
朔夜の術式が、床を這う。
ノアの記録が、その上に重なる。
視覚情報。
触覚情報。
移動距離。
魔術反応。
それらを照合し、実際の施設構造を浮かび上がらせる。
すると。
目の前の廊下が、二重に見え始めた。
一つは、記憶が作り出した偽物。
もう一つは、金属製の通路。
「……見えた!」
朔夜が叫ぶ。
「右側の壁だ! そこが本当の通路になってる!」
玲司は頷いた。
「澪、お願い!」
「任せて!」
澪が両手を広げる。
白い光が、三人を包んだ。
記憶干渉によって揺らぐ認識を、一時的に安定させる。
玲司は、右側の壁へ走った。
そこには、何もない。
ただの壁。
けれど。
ノアの記録と朔夜の解析は、そこに通路があると示している。
「……行くよ!」
玲司は、壁へ飛び込んだ。
次の瞬間。
身体が、すり抜けた。
視界が反転する。
暗闇。
冷たい金属の床。
そして。
巨大な扉。
三人は、記憶迷宮の外へ出ていた。
『玲司様。空間認識の正常化を確認しました』
玲司は、深く息を吐いた。
「……よかった」
朔夜が壁に手をつく。
「……二度と入りたくないな」
「それ、あーしも同感」
澪が苦笑する。
しかし。
玲司は、すぐに表情を引き締めた。
目の前の扉。
その中央には、黒い文字が刻まれていた。
《記憶保管区・中枢記録室》
「……ここだ」
玲司は呟いた。
この先に、透花の記憶がある。
彼女が何者なのか。
なぜ、自分たちを知っていたのか。
その答えが。
この扉の向こうにある。
玲司は、ゆっくりと手を伸ばした。
扉が、静かに開く。
その奥には。
無数の記憶媒体が、青白く輝いていた。
そして。
中央の端末に、一つの名前が表示されていた。
《篠宮透花》
玲司は、息を呑んだ。
『玲司様。対象の記憶情報を確認しました』
ノアの声が響く。
『ただし、記録には重大な不整合があります』
「……不整合?」
『はい』
画面に、古い映像が浮かび上がる。
公園。
夕焼け。
四人の子供たち。
その中に。
灰銀色の髪をした少女がいた。
玲司は、画面から目を離せなかった。
少女は、確かに笑っていた。
そして。
その隣には、幼い自分がいた。
「……どうして」
玲司は呟いた。
記憶にない。
けれど。
確かに、自分がそこにいる。
ノアが、静かに告げた。
『玲司様。この記録には、現在の世界の歴史情報と一致しない箇所が存在します』
玲司は、画面を見つめた。
そして。
ゆっくりと、拳を握った。




