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地下に残された記憶

 人間は、どれだけの記憶を失えば、別人になるのだろう。

 名前を忘れたときか。

 顔を忘れたときか。

 それとも、大切だったという事実さえ忘れてしまったときか。

 久遠玲司には、その答えが分からなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 机の上に残された紙片。

 そこに書かれた名前を、彼はまだ覚えていない。

『篠宮透花を忘れるな』

 自分の筆跡だった。

 けれど、誰に向けて書いたのか、思い出せない。

 それでも玲司は、その紙を制服の内ポケットへしまった。

 忘れないためではない。

 もう忘れてしまった誰かを、見つけるために。

     ◇

「……つまり、夢で見た場所に行くってこと?」

 学院の旧資料室。

 澪は机に広げられた地下構造図を見下ろし、眉を寄せた。

「うん」

「いやいや、オタクくん。さすがに危なくない?」

「危ないと思う」

「即答しないでよ!」

 玲司は苦笑した。

 しかし、すぐに表情を引き締める。

「でも、ほかに手掛かりがないんだ」

 図面の中央には、二週間前に崩壊した地下研究都市があった。

 その外縁部。

 崩落した区画からさらに北へ伸びる、一本の細い通路。

 終点には、現在の都市管理図に存在しない施設が記されていた。

 《旧第七記憶保管区》。

「名前からして、ろくでもない施設だな」

 朔夜が腕を組んだ。

 右肩には、まだ固定具が残っている。

 前日の戦闘で負った傷は深く、医師からは安静を命じられていた。

「朔夜、無理しなくても……」

「今さら何言ってんだ」

 朔夜は玲司を見た。

「お前が行くなら、俺も行く」

「でも、肩が」

「動く方の腕がある。それに、術式解析なら問題ない」

 そこで一度、言葉を切る。

「……それと、俺にも確かめたいことがある」

 朔夜は机の紙片へ視線を落とした。

「その名前を見たとき、妙な感じがした」

「妙な感じ?」

「ああ。知らない名前のはずなのに、忘れちゃいけない気がする」

 澪も小さく頷いた。

「あーしも。なんか、胸の奥がもやもやする」

 玲司は二人を見つめた。

 記憶はない。

 それでも、何かが残っている。

 御影によって書き換えられた朔夜の記憶も、完全には元に戻っていなかった。

 その苦しさを知っているからこそ、玲司は二人を巻き込みたくなかった。

 けれど。

「……ありがとう」

 それ以上、断る理由が見つからなかった。

『玲司様。地下施設への侵入経路を三つ確認しました』

 ノアの声とともに、机上の立体図が切り替わる。

『第一経路は崩落により通行不能。第二経路は都市防衛局の封鎖区域に該当します』

「第三は?」

『旧研究都市の排熱設備に接続された保守通路です。現時点で封鎖の記録はありません』

 朔夜が顔をしかめた。

「つまり、誰も管理していないってことか」

『その可能性があります』

「……嫌な予感しかしないな」

「じゃあ、決まり!」

 澪が勢いよく立ち上がった。

「あーしたちで、その子を見つけよう」

 玲司は頷いた。

 知らない少女。

 忘れてしまった少女。

 それでも、自分は彼女と約束したらしい。

 ならば。

 今度は、その約束を果たす番だった。

     ◇

 地下への入口は、廃棄された熱供給施設の裏手にあった。

 錆びたフェンス。

 剥がれ落ちた警告標識。

 都市の中心部からわずか数キロしか離れていないというのに、周囲には人の気配がなかった。

「……ここ、本当に入るの?」

 澪が顔をしかめる。

「もう少し、こう……秘密基地っぽい感じを想像してたんだけど」

「秘密基地に期待しすぎだろ」

 朔夜が端末を取り出した。

 青い光が指先に集まる。

 青魔術《論理構築術式(ロゴス)》

 錆びた扉の表面に解析式が走った。

「電子錠は死んでる。けど、奥に別の認証術式があるな」

「解除できる?」

「時間をくれ」

 朔夜が左手で術式を展開する。

 青い線が複雑に交差し、扉の内部構造を浮かび上がらせた。

 玲司は、その様子を見守った。

 以前の朔夜なら、もっと素早く処理していただろう。

 今は一つ一つの式を慎重に確認している。

 御影に奪われた記憶。

 失われた戦闘経験。

 その影響は、まだ残っていた。

 けれど、朔夜の指は止まらなかった。

「……よし」

 小さな電子音。

 扉が、重い音を立てて開いた。

「開いた!」

「当たり前だ」

 朔夜は得意げに笑った。

 その笑顔に、玲司は少しだけ安心した。

     ◇

 地下通路は、想像以上に深かった。

 壁には古い配管が走り、足元には乾いた埃が積もっている。

 非常灯はほとんど消えていた。

 玲司は拳銃型デバイスを構えた。

「ノア。周囲の反応は?」

『生体反応なし。ただし、深部に微弱な魔術活動を検出しています』

「御影の術式?」

『断定できません。しかし、黒魔術《深淵接触術式(アビス)》に類似する波形です』

 玲司は息を整えた。

 御影征司。

 あの男は、記憶を奪う。

 しかも、玲司の《技術読込》(スキルロード)にまで偽の経験を混入させた。

 ここで戦闘になれば、能力を使うこと自体が危険になる。

「……今回は、できるだけ《愚者の選択》(ロードアルカナ)を使わない」

 玲司が言うと、朔夜が頷いた。

「それでいい。解析は俺がやる」

「あーしは防御担当ね」

 澪が指を鳴らした。

 白い光が、その手の周囲に小さく舞う。

 白魔術《神話顕現術式(ミュトス)》

 祝福と守護を象徴する術式。

「オタクくんは、無茶しないこと!」

「……うん」

「返事が弱い!」

「……分かった」

「よろしい!」

 澪が笑った。

 玲司も、つられて少し笑う。

 その直後。

『玲司様。前方に空間異常を検出』

 三人が足を止めた。

 通路の先。

 壁の一部が、黒く揺らいでいる。

「……これ、壁じゃないな」

 朔夜が青い解析式を伸ばした。

 光が壁に触れる。

 すると、表面が水面のように波打った。

「認識阻害だ。物理的な壁に見せかけてる」

「通れるの?」

「ああ。ただし、術式の向こう側は解析できない」

 玲司は一歩前へ出た。

 黒い壁へ手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間。

 頭の奥で、何かが弾けた。

 ――おかえり。

 知らない声。

 懐かしい響き。

 玲司は反射的に手を引いた。

「……っ!」

『玲司様。神経活動に一時的な異常を検出しました』

「大丈夫?」

 澪が駆け寄る。

「……うん。声が聞こえただけ」

「声?」

「誰かに、おかえりって」

 朔夜の表情が険しくなった。

「記憶干渉かもしれない。気をつけろ」

 玲司は頷いた。

 今の声が、本物なのか。

 それとも、誰かが作った偽物なのか。

 分からない。

 だからこそ。

 確かめなければならなかった。

 三人は、黒い壁を通り抜けた。

     ◇

 そこには、巨大な地下施設が広がっていた。

「……何、これ」

 澪が呟いた。

 天井まで届く円筒形の装置。

 その周囲に並ぶ、無数の透明な記憶媒体。

 青白い光が、暗闇の中でゆっくりと明滅している。

 まるで、星空だった。

 ただし。

 その一つ一つに保存されているのは、星ではない。

 人間の記憶だった。

『施設名称を確認』

 ノアの声が響く。

『旧第七記憶保管区』

 玲司は息を呑んだ。

 夢で見た場所。

 少女が泣いていた、あの装置。

 目の前の光景は、夢とほとんど同じだった。

「……本当に、あったんだ」

 玲司は呟いた。

 朔夜が近くの端末を調べる。

「記憶保存装置……それも、普通の医療用じゃない」

「どういうこと?」

「通常の記憶補助装置なら、個人の脳活動を記録する程度だ。けど、これは……」

 朔夜は画面を見つめた。

「保存された記憶を、別の媒体へ転写する構造になってる」

「……転写?」

「ああ。記録するだけじゃない。移し替えるんだ」

 玲司は、透明な媒体を見上げた。

 中では、光の粒子が絶えず流れている。

 誰かの思い出。

 誰かの人生。

 それが、ここに保存されている。

 玲司は、無意識に胸元の紙片へ触れた。

 篠宮透花。

 その名前が、頭から離れなかった。

     ◇

「……見つけた」

 朔夜の声に、玲司は振り返った。

「何を?」

「施設の研究記録だ」

 端末の画面には、古い研究資料が並んでいた。

 人工供物。

 記憶保持。

 人格統合。

 黒魔術干渉。

 玲司は、その単語を見つめた。

「……人工供物」

 地下研究都市で見たものと同じ。

 魔術の代償として製造され、消費される存在。

 通常は自我を持たない。

 生きるためではなく、使われるために作られた身体。

 その研究が、ここでも行われていた。

「……待って」

 澪が画面の一部を指差した。

「これ、名前じゃない?」

 そこには、複数の識別番号が並んでいた。

 そのうちの一つ。

 《記憶保持実験体・第七系列》

 《個体識別名:篠宮透花》

 玲司の呼吸が止まった。

「……透花」

 名前を口にする。

 紙片に書かれていた名前。

 夢の中で呼んだ名前。

 それが、目の前の記録に存在していた。

 玲司は画面へ近づいた。

「……ノア。詳細を開いて」

『承知しました』

 研究記録が展開される。

 《製造分類:特殊人工供物》

 《用途:高密度記憶情報の保持》

 《長期自律稼働:非推奨》

 《外部生体維持装置:必須》

 玲司は、一行ずつ読んだ。

 そして、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

「……本当に、人工供物だったんだ」

 澪は何も言わなかった。

 朔夜も、黙って画面を見つめている。

 玲司は、さらに下へ視線を移した。

 《実験目的》

 《異なる世界線から取得した人間の記憶情報を、単一の生体媒体へ安定保存する》

「……え?」

 玲司は、思わず声を漏らした。

 世界線。

 その単語を、彼は知っていた。

 《愚者の選択》(ロードアルカナ)。

 別世界の自分の経験を読み込む根源魔術。

 その能力と、同じ概念。

「……どうして、こんな研究が」

 玲司は呟いた。

 朔夜が眉を寄せる。

「理論上は、世界線ごとに異なる情報を取得する技術が存在するらしい。でも、実用化は不可能に近いはずだ」

「じゃあ、これは……」

「少なくとも、研究者たちは可能だと考えていたんだろうな」

 玲司は画面を見つめた。

 その下に、さらに記録が続いていた。

 《保存対象:複数》

 《記憶情報の重複および競合を確認》

 《統合処理を継続》

 そして。

 《人格形成反応を検出》

 玲司は、息を止めた。

「……人格?」

『玲司様。対象個体に、通常の人工供物には存在しない自己認識反応が記録されています』

「……つまり」

 玲司は、ゆっくりと言葉を探した。

「記憶を保存するための身体に……心が生まれた?」

『記録上は、その可能性が示されています』

 澪が、唇を噛んだ。

「……ひどい」

 その声は、小さかった。

「人の思い出を入れるためだけに、身体を作ったってこと?」

 誰も答えなかった。

 玲司は、画面の文字を見つめた。

 記憶。

 人格。

 人工供物。

 そこには、人間の人生を扱っているという感覚がなかった。

 ただの情報。

 ただの実験。

 ただの装置。

 けれど。

 その中で、誰かが生まれた。

 篠宮透花。

 玲司は、まだ彼女を思い出せない。

 それでも。

 その名前を、ただの実験番号だとは思えなかった。

     ◇

『玲司様。追加記録を検出しました』

 ノアの声が響いた。

「……何?」

『個体識別名「篠宮透花」に関連する、未分類の記憶データです』

 画面が切り替わる。

 無数の記録番号。

 その横には、保存された記憶の断片を示す小さな画像が並んでいた。

 公園。

 教室。

 夕暮れの帰り道。

 どこにでもある、ありふれた風景。

 玲司は、その一枚を見た瞬間、胸を押さえた。

「……っ!」

 古い公園。

 ブランコ。

 夕焼け。

 そして。

 四つ並んだ、小さな影。

 顔は見えない。

 誰なのかも分からない。

 けれど。

 玲司の頭の奥で、何かが強く反応した。

『玲司様。根源魔術回路に微弱な共鳴を検出』

「……《愚者の選択》(ロードアルカナ)?」

『はい。ただし、能力は発動していません』

 玲司は画面から目を離せなかった。

 知らないはずの光景。

 それなのに。

 どこか懐かしい。

 まるで、自分がそこにいたことがあるような。

「……ノア」

『はい』

「この記録、再生できる?」

『可能です。ただし、記憶情報の再生には、認識干渉の危険があります』

 朔夜が即座に口を挟んだ。

「待て。ここで不用意に再生するな」

「……でも」

「分かってる。手掛かりが欲しいんだろ」

 朔夜は端末へ視線を戻した。

「まず、保存形式を解析する。安全な方法があるかもしれない」

 玲司は、しばらく画面を見つめていた。

 そして、ゆっくりと頷いた。

「……分かった」

 今は、焦るべきではない。

 御影は、記憶を利用して人を操る。

 この施設そのものが、罠である可能性もある。

 だから。

 慎重に進まなければならない。

 そのときだった。

 施設の奥から、低い機械音が響いた。

 ――ゴウン。

 玲司たちが振り返る。

 巨大な円筒形装置。

 その内部で、青白い光が一斉に明滅した。

『警告。施設内の魔術活動が急激に上昇しています』

「……何?」

 朔夜が端末を操作する。

「おい、待て。記憶媒体が……」

 画面の数字が、異常な速度で変化していた。

 保存された記憶情報が、次々と読み込まれている。

 誰かが。

 この施設を、起動した。

『玲司様。中央制御装置から、外部への記憶情報転送を確認しました』

「……転送先は?」

『不明です』

 玲司は、巨大な装置を見上げた。

 その中心。

 黒い光が、ゆっくりと渦を巻き始めている。

 そして。

 突然、施設全体に声が響いた。

『記憶照合を開始します』

 無機質な声。

 どこかで聞いたことがある。

『侵入者三名を確認』

 澪が身構えた。

「……これ、絶対まずいやつじゃん」

『保存記録との照合を開始』

 玲司はデバイスを構えた。

「ノア。防御準備」

『承知しました』

 その瞬間。

 床に、黒い魔術回路が広がった。

 壁が歪む。

 天井が遠ざかる。

 施設の風景が、少しずつ別のものへ変わっていく。

「……何だ、これ!」

 朔夜が青魔術を展開する。

 しかし、解析式は途中で途切れた。

『警告。空間認識に異常を検出』

 玲司は、足元を見下ろした。

 さっきまで金属だった床が、木製の廊下に変わっていた。

 窓の外には、夕焼け。

 遠くから、子供たちの笑い声。

 そして。

 誰かが、玲司の名前を呼んだ。

「……玲司」

 少女の声。

 玲司は、ゆっくりと顔を上げた。

 廊下の先。

 灰銀色の髪をした少女が立っていた。

 その顔は、まだ見えない。

 けれど。

 少女は、確かに笑っていた。

「……やっと、来てくれたんだね」

 玲司は息を呑んだ。

 その声を、知っている。

 忘れてしまったはずなのに。

 知っている。

「……透花?」

 少女が、小さく頷いた。

 玲司は、一歩踏み出した。

 その瞬間。

『玲司様! 前方の人物像は実体ではありません!』

 ノアの警告が響いた。

 玲司は足を止めた。

 少女の笑顔が、ゆっくりと歪む。

 その背後。

 無数の黒い影が、廊下の奥から現れた。

 そして、施設全体に声が響いた。

『記憶再生領域への接続を確認』

『防衛機構を起動します』

 玲司は、デバイスを握り直した。

 目の前にいる少女は、偽物かもしれない。

 けれど。

 その向こうに、本物の透花がいる。

 玲司は、そう信じた。

「……行こう」

 朔夜と澪が、玲司の隣に並ぶ。

 そして三人は、記憶の中へ足を踏み入れた。


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