少女がいない世界
最初に異変に気づいたのは、澪だった。
「……あれ?」
学院の医療センター。
朔夜の診察が終わるのを待っていた玲司は、隣から聞こえた声に顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、なんかさ。あーし、誰かと一緒に来なかったっけ?」
澪は首を傾げていた。
待合室には、玲司と澪の二人しかいない。
廊下の向こうでは、医療用の搬送端末が静かに行き交っている。
「誰かって……」
玲司は答えかけた。
そして、言葉が止まった。
誰だっただろう。
朔夜が負傷した第三演習室。
隔離障壁が解除され、皆で彼を助け起こした。
あのとき、確かに誰かがいた。
玲司の隣に。
澪の後ろに。
もう一人。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「さっき、演習室にいたのは何人?」
『確認します』
短い沈黙。
『玲司様、白瀬澪様、伊佐波朔夜様の三名です』
「……三人?」
『はい』
玲司は眉を寄せた。
おかしい。
何かがおかしい。
けれど、その理由が分からない。
「ねえ、オタクくん」
澪が、少し困ったように笑った。
「あーし、変なこと言ってる?」
「……ううん」
玲司は首を振った。
「僕も、誰かいた気がする」
そのとき。
待合室の照明が、一瞬だけ暗くなった。
ぱちり、と小さな音がした。
玲司の耳の奥で、誰かが囁いた気がした。
――忘れて。
次の瞬間。
その声を聞いたことさえ、曖昧になっていた。
◇
診察室から出てきた朔夜は、右肩を固定されていた。
「二週間は激しい運動禁止だとさ」
「当たり前じゃん!」
澪が即座に噛みつく。
「そもそも、なんで一人で戦ってたわけ!?」
「俺が聞きたいよ。訓練場に入ったら、いきなり襲われたんだからな」
「だからって、あんなボロボロになるまで!」
「途中で逃げられなかったんだよ!」
二人の言い合いを聞きながら、玲司は医療センターの出口へ向かった。
その途中、ふと立ち止まる。
自動販売機。
温かい飲み物が並んでいる。
ココア。
その文字を見た瞬間、胸の奥が妙に痛んだ。
「……ココア」
玲司は呟いた。
誰かが、好きだった。
そんな気がする。
寒がりで。
手が冷たくて。
温かい飲み物を両手で包むように持つ、誰か。
けれど。
顔が浮かばない。
「オタクくん?」
澪が振り返った。
「どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
玲司は歩き出した。
背後で、自動販売機の照明が明滅した。
その光に照らされて、玲司の影が床へ伸びる。
影は、三つ。
最初から、三つしかなかった。
◇
翌朝。
玲司は、机の上に置かれた一冊のノートを見つめていた。
見慣れた黒い表紙。
自分の筆跡で、いくつもの記録が書き込まれている。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)を使用した日。
失った記憶。
朔夜と澪から聞いた、幼い頃の出来事。
忘れてしまったことを、もう一度忘れないためのノート。
玲司はページをめくった。
途中に、不自然な空白があった。
三ページ分。
紙が抜き取られたわけではない。
ただ、何も書かれていない。
「……ここ、何か書いてなかったっけ」
玲司は指先で紙を撫でた。
うっすらと、筆圧の跡がある。
文字を書いた痕跡。
けれど、インクだけが消えていた。
『玲司様。何かお探しですか』
「……昨日まで、ここに何か書いてあった気がするんだ」
『記録を照合します』
ノアが沈黙する。
一秒。
二秒。
そして。
『……異常を検出』
玲司の指が止まった。
「何?」
『昨夜二十二時以前の一部記録に、欠損が発生しています』
「欠損?」
『はい。記録の削除履歴は存在しません。しかし、保存されていたはずの情報が参照できません』
玲司は息を呑んだ。
ノアの記録は、玲司自身の記憶とは独立している。
だからこそ、これまで頼りにしてきた。
自分が忘れても、ノアは覚えている。
その前提が、崩れていた。
「……復元できる?」
『試みます』
玲司はノートを握りしめた。
『……申し訳ありません。現時点では不可能です』
胸の奥が冷たくなった。
誰かが、何かを消している。
それも。
自分たちの記憶だけではない。
記録まで。
◇
「知らないけど?」
教室で尋ねた女子生徒は、あっさりと答えた。
「灰銀色の髪の女の子? そんな子、うちのクラスにいた?」
「……在籍していたかは、分からないんだけど」
玲司は言葉を選んだ。
「最近、学院で見かけなかった?」
「うーん。知らないなあ」
女子生徒は隣の友人へ顔を向けた。
「ねえ、そんな子いたっけ?」
「いないでしょ。目立つ髪色だし、いたら覚えてるって」
二人は笑った。
悪意はない。
本当に、何も知らない顔だった。
玲司は礼を言って、その場を離れた。
廊下では澪が別の生徒に話を聞いていた。
「……そっか。ありがとね!」
明るく手を振る。
しかし、玲司と目が合うと、その笑顔が消えた。
「……駄目」
「こっちも」
「誰も覚えてないって」
澪は腕を組んだ。
「でもさ、変じゃない?」
「……うん」
「あーし、昨日まで誰かと話してた気がするんだよね。すっごく大事なこと」
玲司は黙って聞いた。
「その子、たぶん……」
澪は目を閉じた。
何かを探すように、眉を寄せる。
「……駄目だ」
目を開けた。
「顔が出てこない」
玲司も同じだった。
名前も。
声も。
何も思い出せない。
それなのに。
誰かがいなくなったという感覚だけが、消えなかった。
◇
昼休み。
玲司たちは学院の記録保管室へ向かった。
ノアの案内で、過去数週間の監視映像を確認する。
画面には、玲司と澪と朔夜が映っていた。
廊下を歩く三人。
教室で話す三人。
古い公園で撮影された三人。
どの映像にも、ほかの少女はいない。
「……待って」
澪が画面を指差した。
「ここ、おかしくない?」
映像の中で、澪が笑っていた。
玲司と朔夜の間に立ち、楽しそうに話している。
だが。
視線の向きがおかしい。
誰もいない場所を見ている。
しかも、何度も頷いている。
「……あーし、誰と喋ってんの?」
澪の声が震えた。
玲司は映像を巻き戻した。
同じ場面。
澪が笑う。
誰もいない場所へ手を伸ばす。
そして。
何かを渡していた。
小さな紙袋。
中身は見えない。
「……ノア」
『はい』
「映像の欠損は?」
『検出されません』
「でも、ここには誰かいたはずだよ」
『その可能性は否定できません』
玲司は画面を見つめた。
人間の記憶だけなら、書き換えられるのかもしれない。
映像だけなら、加工できるのかもしれない。
けれど。
その両方が同じように変わっている。
誰かが、存在そのものを消そうとしている。
「……御影」
玲司は、その名前を口にした。
黒魔術《深淵接触術式》。
記憶干渉。
旧第七記憶保管区。
そして、人工供物。
すべてがつながっている。
だが。
何が奪われたのかさえ、分からない。
◇
放課後。
玲司は、自分の端末に保存された写真を開いた。
最近撮影した画像。
学院の廊下。
公園。
教室。
医療センター。
どれも、三人しか写っていない。
そのうちの一枚に、玲司は目を止めた。
公園のベンチ。
自分が座っている。
隣には、誰もいない。
なのに。
玲司は、その空席へ身体を傾けていた。
まるで。
誰かの話を聞いているように。
「……誰だったんだろう」
玲司は呟いた。
その瞬間。
端末の画面が乱れた。
写真の一部に、黒いノイズが走る。
そして。
空席の輪郭が、わずかに歪んだ。
「……っ!」
玲司は画面へ顔を近づけた。
そこに、誰かがいる。
そう思った。
けれど。
次の瞬間には、何もなかった。
写真は、ただの三人の写真に戻っていた。
『玲司様。端末の画像データに不正な干渉を検出しました』
「……やっぱり」
『ただし、干渉元は特定できません』
玲司は端末を握りしめた。
思い出せない。
名前さえ。
それが、何より恐ろしかった。
◇
夜。
玲司は自室へ戻った。
机の上に、黒いノートを置く。
もう一度、最初からページをめくった。
朔夜。
澪。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
失った記憶。
そして。
何も書かれていない、三ページ。
玲司は、そこを何度も見返した。
紙に残った筆圧。
消えたインク。
何かが、そこにあった。
確かに。
「……ノア」
『はい』
「紙に残った筆圧から、文字を復元できる?」
『画像解析を試みます』
玲司はデバイスの照明を使い、紙の表面へ斜めから光を当てた。
わずかな凹凸が浮かび上がる。
ノアが解析を開始した。
『……文字列を検出』
玲司は息を止めた。
『ただし、判読可能な部分は限定的です』
「……それでもいい」
玲司は、かすれた声で言った。
「読んで」
短い沈黙。
そして。
『……「忘れてしまっても」』
玲司の心臓が跳ねた。
『……「見捨てない」』
その言葉。
どこかで、聞いた。
いや。
自分が、言った。
誰かに。
誰かへ、約束した。
けれど。
顔が浮かばない。
「……誰に?」
玲司は呟いた。
ノアは答えなかった。
玲司はページをめくった。
最後の一枚。
そこには、ほかのページとは違う筆圧の跡が残っていた。
強く。
何度も。
まるで、消されることを恐れるように。
玲司は指先で紙をなぞった。
そのとき。
ノートの裏表紙から、小さな紙片が落ちた。
「……え?」
玲司は拾い上げた。
折りたたまれた、白い紙。
開く。
そこには、黒いインクで文字が書かれていた。
自分の筆跡。
たった一行。
『篠宮透花を忘れるな』
玲司は、息を呑んだ。
「……しのみや、とうか」
声に出す。
知らない名前。
聞いたことがないはずの名前。
それなのに。
胸が、痛かった。
玲司は何度も読み返した。
篠宮透花。
篠宮透花。
篠宮透花。
けれど。
少女の顔は、浮かばなかった。
声も。
笑い方も。
何も。
「……誰なんだよ」
玲司は、紙を握りしめた。
「……僕は、誰を忘れたんだ」
返事はなかった。
◇
その夜。
玲司は夢を見た。
真っ白な廊下。
どこまでも続く、無機質な空間。
足元には、黒い影が流れている。
遠くで、誰かが泣いていた。
「……誰?」
玲司は歩き出した。
廊下の先。
一人の少女が立っていた。
灰銀色の髪。
白い服。
細い肩。
その姿を見た瞬間、玲司は足を止めた。
知っている。
そう思った。
けれど。
顔が、見えない。
そこだけが、ぼやけている。
「……君は」
玲司は声をかけた。
少女が振り返る。
何かを言おうとした。
しかし。
声が聞こえない。
口が動いている。
必死に。
何度も。
玲司は駆け寄った。
「……待って!」
少女の足元に、黒い光が広がる。
床から伸びた無数の細い線が、彼女の手首へ絡みついた。
少女が引きずられる。
廊下の奥へ。
暗闇の中へ。
「……っ!」
玲司は手を伸ばした。
届かない。
距離が縮まらない。
走っているのに。
少女は、どんどん遠ざかっていく。
「……待って!」
玲司は叫んだ。
「……君は、誰なんだ!」
少女が、立ち止まった。
ゆっくりと、顔を上げる。
涙が流れていた。
その瞬間だけ。
玲司には、彼女の声が聞こえた。
「……お願い」
小さな声。
震えている。
それでも。
確かに、届いた。
「……私を、見つけて」
玲司は、息を呑んだ。
少女が、泣いていた。
助けを求めていた。
なのに。
名前が分からない。
思い出せない。
玲司は、必死に手を伸ばした。
「……待って!」
その瞬間。
少女の背後に、巨大な装置が現れた。
天井まで届く、円筒形の構造物。
無数の記憶媒体が、内部で青白く輝いている。
その周囲を、黒い魔術回路が幾重にも取り巻いていた。
玲司は、その装置を見上げた。
どこかで見たことがある。
地下研究都市。
あの施設の、さらに奥。
記憶を保存し、加工し、書き換えるための装置。
そして。
装置の表面に、文字が刻まれていた。
《旧第七記憶保管区》
「……そこに、いるの?」
玲司は呟いた。
少女が、かすかに頷いた。
その瞬間。
黒い光が弾けた。
少女の姿が、消えた。
廊下が崩れる。
装置が遠ざかる。
世界が、暗闇に沈んでいく。
「……透花!」
玲司は叫んだ。
その名前が、なぜ口から出たのか分からなかった。
けれど。
確かに。
その名前を、呼ばなければならないと思った。
◇
玲司は、飛び起きた。
荒い息。
汗で濡れた額。
窓の外は、まだ暗かった。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「……今の夢、記録して」
『承知しました』
玲司は、机の上の紙片を見つめた。
『篠宮透花を忘れるな』
その文字は、まだ残っていた。
玲司は、紙片を握りしめた。
「……見つける」
誰に向けた言葉なのか。
まだ、分からない。
けれど。
「……絶対に、見つける」
その瞬間。
ノアが静かに告げた。
『玲司様。夢の内容に、既存の施設記録と一致する情報を確認しました』
「……何?」
『旧第七記憶保管区。地下研究都市に関連する、未調査の施設です』
玲司は顔を上げた。
『所在地の候補を特定しました』
デバイスの画面に、都市の地下構造図が表示される。
崩壊した研究都市の外縁。
閉鎖された地下区画。
そこに、赤い光点が灯った。
玲司は、その場所を見つめた。
名前を忘れた。
顔も忘れた。
思い出も、すべて失った。
それでも。
自分は、誰かと約束した。
忘れてしまっても、見捨てないと。
その約束だけは。
まだ、ここに残っている。
「……ノア」
『はい』
「明日の朝、朔夜と澪に連絡して」
『承知しました』
玲司は、窓の外を見つめた。
夜明け前の街。
その地下に、誰かがいる。
自分を待っている。
そう信じたかった。
玲司は、紙片をノートへ挟んだ。
今度こそ、なくさないように。
そして。
新しいページを開き、たった一行を書き加えた。
『篠宮透花を、必ず見つける。』
書き終えたとき。
窓の向こうで、夜が少しだけ薄くなっていた。




