努力では届かないもの
最初の一撃は、朔夜が最も得意とする角度から放たれた。
右斜め上、三十二度。
青魔術《論理構築術式》による軌道演算を経て、死角へ滑り込む精密な射撃。
朔夜は反射的に身を沈めた。
青白い魔術弾が頭上を掠め、背後の壁を穿つ。
「……おいおい」
朔夜の額を冷たい汗が伝った。
「そこまで真似するのかよ」
第三演習室。
つい先ほどまで無人だった訓練場の中央に、黒い人影が立っていた。
人間とほぼ同じ体格。
顔には目も鼻もなく、滑らかな黒い装甲が覆っている。
その右手には、朔夜のものと酷似した魔術デバイス。
そして何より。
構えが、同じだった。
重心の置き方。
左足の開き。
右肩を庇う、わずかな癖まで。
『戦闘記録照合完了』
人影の胸部から、無機質な音声が響く。
『対象、伊佐波朔夜』
『戦闘技術再現率、九十八・七パーセント』
「……俺の記録を盗んだってわけか」
『対象の行動予測を開始』
朔夜は奥歯を噛みしめた。
次の瞬間、人影が踏み込んだ。
速い。
だが、速さそのものは問題ではない。
朔夜には、その動きに見覚えがあった。
左への踏み込みから、右への切り返し。
敵の回避方向を限定し、青魔術の拘束式で仕留める。
自分が何百回も練習した連携だ。
「だったら!」
朔夜は右手を振り抜いた。
青い光が走る。
拘束式を先に展開し、敵の進路を塞ぐ。
しかし。
『予測済み』
人影は、朔夜が術式を完成させるより早く跳んだ。
拘束を回避。
空中で身体を捻り、赤い魔術光を右腕へ集中させる。
「……っ!」
赤魔術《生命錬成術式》。
筋出力を補助した拳が、朔夜の腹部へ突き刺さった。
「がっ……!」
身体が浮いた。
床を転がり、二度、三度と跳ねる。
肺から空気が押し出された。
朔夜は片膝をつき、咳き込む。
痛い。
だが、それ以上に腹立たしかった。
今の攻撃は、知っていた。
知っていたはずなのに。
防げなかった。
『対象の反応速度、過去記録比七十三パーセント』
人影が告げる。
『戦闘能力の低下を確認』
「……うるせえよ」
朔夜は立ち上がった。
右肩に鋭い痛みが走る。
地下研究施設で負った傷。
まだ完治していない。
それでも、デバイスを構え直した。
「俺の技を使ってるくせに……偉そうにするな」
黒い人影は答えなかった。
ただ、朔夜と同じように構えた。
◇
訓練場の外では、警報が鳴り響いていた。
『第三演習室、隔離障壁作動中』
ノアの声に、玲司は足を止めた。
目の前には、閉ざされた鋼鉄の扉。
透明な確認窓の向こうで、青い閃光が弾けている。
「朔夜!」
玲司は扉を叩いた。
反応はない。
『玲司様。内部の戦闘端末が隔離機構を不正起動しています』
「解除できる?」
『学院の管理系統へ接続を試みています。ただし、外部からの解除には時間を要します』
「……そんな」
確認窓の向こうで、朔夜が吹き飛ばされた。
玲司は拳銃型デバイスを握りしめた。
「ノア、障壁を撃って壊せない?」
『推奨しません。隔離障壁は外部攻撃に対し、内部への反射処理を行う構造です』
下手に攻撃すれば、朔夜を傷つける。
玲司は歯を食いしばった。
そのとき、背後から足音が響いた。
「オタクくん!」
澪だった。
透花も一緒にいる。
「朔夜は!?」
「……中にいる。でも、扉が開かなくて」
澪は確認窓へ駆け寄った。
その顔から血の気が引く。
「……何、あれ」
黒い人影。
そして、朔夜と同じ動き。
透花が小さく息を呑んだ。
「……あの人形」
「知ってるの?」
玲司が尋ねる。
透花は首を振った。
「分からない。でも……」
彼女は胸元を押さえた。
「見たことがある気がする」
その声は、震えていた。
◇
朔夜は三度目の攻撃を受け止めた。
赤い光が両腕で弾ける。
衝撃が骨まで響いた。
「……っ、ぐ!」
人影が追撃する。
朔夜は後退しながら青魔術を展開した。
視界に、敵の軌道予測が浮かぶ。
右。
左。
次は、低い位置からの突進。
分かる。
今度こそ、読めた。
「そこだ!」
朔夜は左足を軸に回転した。
しかし、敵は突進しなかった。
逆に、朔夜の回転が終わる位置へ先回りする。
「な……!」
緑色の魔術光が床を走った。
緑魔術《原生循環術式》。
演習室の床材に含まれる有機繊維が急速に伸長し、朔夜の足首へ絡みつく。
完全に、自分の戦術だった。
相手の回避を誘導し、着地点を拘束する。
朔夜が何度も使ってきた連携。
それを、自分が受けている。
『対象の回避行動、予測と一致』
人影の右腕が赤く輝く。
『攻撃を実行』
「……くそっ!」
朔夜は咄嗟に赤魔術を発動した。
脚部の筋出力を引き上げ、拘束を引き千切る。
だが、間に合わない。
拳が右肩を捉えた。
激痛。
視界が白く染まる。
「があっ!」
朔夜は壁へ叩きつけられた。
デバイスが床を滑る。
右腕が、上がらない。
呼吸をするだけで肩が痛んだ。
『対象の戦闘継続能力、低下』
人影が歩み寄る。
『過去記録に基づく戦闘行動の再現を継続』
朔夜は顔を歪めた。
過去記録。
その言葉が、胸に突き刺さった。
自分が何年もかけて積み上げたもの。
誰よりも早く訓練場に来て。
誰よりも遅く帰って。
何度も失敗して。
ようやく身につけた技術。
それを、目の前の人形は一瞬で使いこなしている。
しかも、自分より正確に。
「……冗談じゃねえ」
朔夜は床に手をついた。
立ち上がろうとして、膝が崩れた。
その瞬間。
記憶が、また揺らいだ。
雨の日。
泥だらけの自分。
背を向ける玲司。
『僕には、関係ないから』
違う。
そんなこと、言うはずがない。
なのに。
胸が痛んだ。
裏切られたという怒りが、また湧き上がる。
「……やめろ」
朔夜は頭を押さえた。
「今は……邪魔するな!」
黒い人影が停止した。
『情動反応の増大を確認』
『記憶干渉、正常に機能』
朔夜は顔を上げた。
「……てめえ」
ようやく分かった。
この人形は、単に自分の技を真似しているのではない。
御影が植え付けた偽の記憶。
そこから生まれる怒り。
判断を鈍らせる恐怖。
それらを利用して、自分を追い詰めている。
『対象の精神的安定性、低下』
人影がデバイスを向けた。
『排除を開始』
◇
「朔夜!」
玲司の声が、隔離障壁越しに響いた。
朔夜は、かすかに顔を上げた。
確認窓の向こう。
玲司が必死に何かを叫んでいる。
その隣には、澪と透花。
皆、自分を助けようとしていた。
なのに。
玲司の顔を見た瞬間、怒りが湧いた。
――お前は、俺を見捨てた。
――今さら助けるふりをするな。
「……黙れ」
朔夜は呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
玲司なのか。
偽の記憶なのか。
それとも。
そんな感情に振り回される、自分自身なのか。
人影が魔術弾を放った。
朔夜は転がって回避する。
床が爆ぜた。
破片が頬を切り裂く。
次の攻撃。
さらに次。
逃げるたびに、敵は先回りする。
朔夜が選ぶ動きを、すべて知っている。
当然だった。
自分の過去なのだから。
朔夜は、ようやく理解した。
このままでは勝てない。
過去の自分が積み重ねた技術を、いくら再現しても。
目の前の敵は、そのすべてを知っている。
しかも、今の自分は記憶干渉によって技術の一部を失っている。
勝負にならない。
ならば。
「……だったら」
朔夜は、ゆっくりと立ち上がった。
右肩が痛む。
呼吸も荒い。
足も震えている。
それでも。
「……今から、作ればいい」
人影が首を傾げた。
『発言の意味を解析できません』
朔夜は笑った。
「だろうな」
床に落ちたデバイスを左手で拾う。
いつもとは違う持ち方。
重心も、構えも、何もかも違う。
慣れない感覚だった。
当然だ。
こんな構えで戦ったことはない。
人影が解析を開始する。
『対象の戦闘姿勢、過去記録と不一致』
「……そうだよ」
朔夜は左足を前に出した。
「俺だって、初めてなんだからな」
◇
最初の攻撃は、失敗した。
朔夜は左手で青魔術を展開した。
だが、演算が遅れる。
人影が接近し、赤魔術の拳を叩き込んできた。
朔夜は左腕で受けた。
骨が軋む。
「……っ!」
そのまま後退する。
失敗。
だが、今の攻撃で分かったことがある。
左手では、いつもの演算速度が出ない。
ならば、術式を簡略化する。
朔夜は次の攻撃に備えた。
青い光が、足元に広がる。
複雑な軌道予測はしない。
敵の動きを、たった二つに絞る。
前へ来るか。
後ろへ下がるか。
それだけ。
人影が踏み込んだ。
「……前か!」
朔夜は即座に横へ跳んだ。
攻撃を回避。
しかし、敵は追撃してくる。
速い。
朔夜は左手を振った。
緑魔術《原生循環術式》。
床の有機繊維が伸びる。
だが、敵の足首には届かない。
『拘束失敗』
「知ってるよ!」
朔夜は叫んだ。
狙ったのは、敵の足ではない。
自分の足元だった。
伸びた繊維が、朔夜の左足を引っ張る。
身体が強引に横へ滑った。
敵の拳が空を切る。
『予測外の移動を確認』
「……よし!」
朔夜は床を転がりながら、次の術式を組み立てた。
青魔術《論理構築術式》
敵の攻撃を解析するのではない。
自分の身体の移動速度を計算する。
緑魔術《原生循環術式》で足場を変化させ、赤魔術《生命錬成術式》で筋出力を補助する。
三つの術式を、同時に使う。
だが。
「……っ、ぐ!」
右肩に激痛が走った。
術式が崩れる。
人影が接近。
朔夜の腹部へ蹴りを叩き込んだ。
「がはっ!」
身体が床を滑った。
失敗。
また失敗。
けれど。
朔夜は、笑っていた。
「……そうか」
痛みに顔を歪めながら、呟く。
「……同時じゃ、駄目なんだな」
赤魔術《生命錬成術式》で身体を補助する。
青魔術《論理構築術式》で演算する。
緑魔術《原生循環術式》で環境を操作する。
これまでは、それぞれの術式を完成させてから連携させていた。
だが、今の自分には、その精密な制御ができない。
ならば。
順番を変える。
完成させるのではなく、途中でつなぐ。
朔夜は、ゆっくりと立ち上がった。
「……もう一回だ」
◇
『玲司様。隔離障壁の解除まで、残り四十秒です』
「……まだ、そんなに」
玲司は確認窓に手をついた。
朔夜が、何度も倒れている。
それでも、立ち上がる。
何度も。
何度も。
玲司は、唇を噛んだ。
助けたい。
今すぐ中へ入りたい。
だが、何もできない。
その無力感が、胸を締めつける。
「……オタクくん」
澪が隣に立った。
「……朔夜、まだ諦めてないよ」
玲司は顔を上げた。
確認窓の向こう。
朔夜が、再びデバイスを構えている。
その姿は、いつもと違っていた。
構えが低い。
右肩を使わず、左手を中心にしている。
動きも荒い。
洗練されていない。
けれど。
玲司には、その姿が懐かしく見えた。
幼い頃。
何度も失敗しながら、魔術を練習していた朔夜。
才能がないと笑われても。
うまくできなくても。
決して、諦めなかった少年。
玲司は、その姿を覚えていない。
記憶は欠けている。
それでも。
目の前の朔夜を見ていると、なぜか分かる気がした。
「……朔夜」
玲司は、小さく呟いた。
「……頑張れ」
◇
朔夜は、敵の動きを見つめていた。
人影が青魔術《論理構築術式》を展開する。
次に来るのは、拘束。
その後、赤魔術による近接攻撃。
いつもの連携だ。
朔夜は、あえて動かなかった。
『対象の回避行動を予測』
人影が踏み込む。
青い拘束式が、朔夜の足元へ広がった。
その瞬間。
朔夜は緑魔術を発動した。
床の有機繊維が、足元から伸びる。
ただし、敵を拘束するためではない。
自分の身体を、わずかに浮かせるためだ。
拘束式が空を切る。
人影の動きが、一瞬止まった。
『予測誤差を検出』
「……まだだ!」
朔夜は左手を振り抜いた。
青魔術《論理構築術式》。
敵の動きを解析する。
だが、すべてを読む必要はない。
今、敵がどちらへ重心を移すのか。
それだけを見ればいい。
右。
朔夜は即座に緑魔術を切り替えた。
床の繊維が、敵の右足を押し上げる。
『姿勢制御異常』
人影の身体が傾いた。
そこへ、赤魔術。
朔夜は左脚の筋出力を引き上げた。
床を蹴る。
身体が、弾丸のように前へ飛び出した。
人影が防御姿勢を取る。
当然だ。
朔夜の過去記録には、ここから左拳を叩き込む連携がある。
だが。
「……そっちじゃねえ!」
朔夜は拳を引いた。
代わりに、左足を床へ叩きつける。
緑魔術。
床の繊維が、敵の背後から跳ね上がった。
人影の両腕を絡め取る。
『拘束を確認』
敵は即座に赤魔術を展開した。
筋出力を上げ、拘束を引き千切ろうとする。
それも、予想通りだった。
「……知ってるよ」
朔夜は笑った。
「俺なら、そうする」
そして。
「だから、そこまで読めるんだ!」
青魔術回路が走った。
敵の赤魔術回路へ、干渉式を撃ち込む。
出力の流れを、ほんの一瞬だけ乱す。
それだけで十分だった。
拘束が、解けない。
『術式干渉を検出』
人影が暴れる。
朔夜は左手のデバイスを構えた。
照準は、敵の胸部。
そこに、魔術回路の集中点がある。
青魔術の解析が告げていた。
だが。
朔夜は、撃たなかった。
人影が首を傾げる。
『攻撃行動の停止を確認』
「……違うんだよ」
朔夜は呟いた。
「俺は、そこを狙わない」
デバイスの照準を、わずかに下げる。
敵の胸ではない。
足元。
そこに、緑魔術《原生循環術式》の術式核があった。
床を介して展開した拘束。
その根元へ、青魔術の干渉弾を撃ち込む。
床が、青く輝いた。
『環境術式の異常を検出』
次の瞬間。
緑魔術《原生循環術式》の繊維が、敵の身体を強く引き寄せた。
人影の重心が崩れる。
その胸部装甲が、わずかに開いた。
朔夜は、最後の赤魔術を発動した。
左腕の筋出力を引き上げる。
痛みが走る。
だが、構わない。
「……これで!」
朔夜は拳を振り抜いた。
赤い光が、黒い装甲へ突き刺さる。
衝撃。
亀裂。
そして。
「……終わりだ!」
人影の胸部が砕け散った。
内部の魔術回路が露出する。
朔夜は至近距離からデバイスを構えた。
青い魔術弾。
たった一発。
それが、敵の術式核を貫いた。
『戦闘記録……照合……不能』
人影が崩れ落ちる。
『対象の行動……予測……失敗』
黒い装甲が、音を立てて砕けた。
床に倒れた人影は、もう動かなかった。
朔夜は、荒い息を吐いた。
「……当たり前だろ」
デバイスを下ろす。
「今の俺は……お前の記録に、いないんだからな」
◇
隔離障壁が解除された。
扉が開く。
「朔夜!」
玲司が駆け込んできた。
その後ろには、澪と透花。
朔夜は、ゆっくりと振り返った。
玲司の顔が見える。
その瞬間。
また、胸の奥に怒りが湧いた。
雨の日。
背を向ける少年。
自分を見捨てたという、偽の記憶。
それは、まだ消えていない。
朔夜は、拳を握りしめた。
玲司が足を止める。
「……朔夜?」
朔夜は、しばらく黙っていた。
そして。
「……悪い」
小さく笑った。
「まだ、お前の顔を見ると腹が立つ」
玲司は、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
「でも」
朔夜は続けた。
「それで、お前を殴るかどうかは……俺が決める」
玲司が顔を上げた。
朔夜は、ゆっくりと息を吐いた。
「……今は、殴らない」
玲司は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……ありがとう」
「礼を言うなよ。変な話だろ」
「……でも、嬉しいから」
朔夜は、思わず目を逸らした。
「……お前、ほんと変わんねえな」
その言葉が、自然に出たことに驚いた。
過去の記憶は、まだ戻っていない。
玲司に助けられた日のことも。
努力を始めた理由も。
それでも。
今、目の前にいる玲司を見ていると。
少しだけ、胸の奥が温かくなった。
「……朔夜!」
澪が駆け寄ってきた。
「もう! ほんっと無茶しすぎ!」
「……悪い」
「悪いじゃないって! 右肩、また悪化してるでしょ!」
澪は怒りながらも、朔夜の腕を支えた。
透花も隣に立つ。
「……大丈夫?」
「ああ」
朔夜は頷いた。
「……なんとかな」
その瞬間。
膝から力が抜けた。
「うおっ!?」
「ちょ、朔夜!?」
澪が慌てて支える。
玲司も反対側から腕を取った。
「……無理しないで」
「……してねえよ」
「……嘘だよ」
「……うるせえ」
そんなやり取りをしながら。
朔夜は、少しだけ笑った。
◇
医療センターへ向かう途中。
ノアが静かに告げた。
『玲司様。先ほどの戦闘記録について、報告があります』
「……何?」
『伊佐波朔夜様の最終戦術は、過去の戦闘記録に存在しません』
玲司は足を止めた。
『三系統の魔術を逐次接続し、相手の予測行動を利用する即興戦術です』
「……朔夜が、今考えたんだね」
『はい』
玲司は、隣を歩く朔夜を見た。
右肩を庇いながら、澪に小言を言われている。
いつもの朔夜だった。
だが。
玲司には、その姿が少しだけ違って見えた。
記憶を奪われた。
技術を失いかけた。
自分の過去さえ、信じられなくなった。
それでも。
朔夜は、戦い続けた。
過去の自分に頼るのではなく。
今の自分で、答えを作った。
「……すごいな」
玲司は、小さく呟いた。
朔夜が振り返る。
「……何が?」
「……ううん。なんでもない」
「なんだよ、気持ち悪いな」
玲司は少しだけ笑った。
そのとき。
ノアの声が、再び響いた。
『玲司様。追加情報です』
「……うん?」
『破壊された戦闘端末の内部記録から、製造元を示す識別情報を検出しました』
玲司の表情が変わる。
『識別番号、七〇七』
『所属、旧第七記憶保管区』
その名前を聞いた瞬間。
透花が、足を止めた。
「……え?」
玲司が振り返る。
「……透花?」
透花は、胸元を押さえていた。
顔が青ざめている。
「……その名前」
声が震えていた。
「……知ってるの?」
玲司が尋ねる。
透花は、ゆっくりと首を振った。
「……分からない」
けれど。
その瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
「……でも」
透花は、消え入りそうな声で呟いた。
「……そこには、戻りたくない」
誰も、何も言えなかった。
廊下の窓から、夜の学院が見える。
その向こうに広がる街の地下。
どこかに。
透花が恐れる場所が、まだ存在している。
玲司は、静かにデバイスを握りしめた。
朔夜の記憶を奪った男。
透花を人工供物として扱う研究施設。
そして。
人間の過去を、自由に書き換える黒魔術。
それらすべてが、ひとつの場所へつながり始めていた。
玲司は、透花を見つめた。
彼女の手は、まだ冷たかった。
けれど。
その手を、誰かに渡すつもりはなかった。




