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親友の記憶

 親友を、憎んでいる。

 その感情がどこから生まれたのか、伊佐波朔夜には分からなかった。

 ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 久遠玲司は、自分を裏切った。

 幼い頃。

 あの雨の日。

 助けを求めた自分を、玲司は見捨てたのだ。

 ――違う。

 そんなことは、なかったはずだ。

 朔夜は頭を押さえた。

 記憶は、確かにそう告げている。

 だが、理性は否定していた。

 玲司は、そんな人間ではない。

 それを誰よりも知っているのは、自分のはずだった。

 なのに。

 胸の奥に渦巻く怒りだけが、どうしても消えてくれなかった。

     ◇

「……朔夜?」

 声をかけられた瞬間、朔夜の肩が跳ねた。

 学院の医療センター。

 白いカーテンに囲まれた簡易診察室で、朔夜は椅子に座っていた。

 右肩には応急処置が施されている。

 御影との戦闘で無理をしたせいだ。

 だが、問題はそこではなかった。

「……大丈夫?」

 玲司が心配そうに顔を覗き込む。

 その瞬間。

 朔夜の脳裏に、ひとつの光景が浮かんだ。

 雨。

 泥。

 倒れた自分。

 そして、背を向けて歩いていく少年。

『……ごめん。僕には、関係ないから』

 玲司の声だった。

「……っ!」

 朔夜は反射的に立ち上がった。

 椅子が床を擦り、耳障りな音を立てる。

「朔夜?」

「……近づくな」

 口から出た言葉に、自分自身が驚いた。

 玲司が足を止める。

「……え?」

「いや……」

 朔夜は額を押さえた。

「……悪い。今のは、違う」

 何が違うのか。

 説明できなかった。

 玲司はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……分かった」

 それだけだった。

 責めることも、問い詰めることもしない。

 いつもの玲司だ。

 だからこそ、朔夜は余計に苦しくなった。

 ――その顔をするな。

 胸の奥で、誰かが囁く。

 ――お前は、俺を見捨てたくせに。

「……くそっ」

 朔夜は拳を握りしめた。

『玲司様。伊佐波朔夜様の黒魔術《深淵接触術式(アビス)》反応が増大しています』

 玲司のデバイスから、ノアの声が響いた。

「……やっぱり、御影の術式が?」

『可能性は極めて高いと判断します。ただし、干渉対象は単純な記憶情報に限定されていません』

「……どういうこと?」

『記憶に付随する情動反応にも、異常が認められます』

 朔夜は顔を上げた。

「……つまり、俺は」

『事実と異なる記憶を保持している可能性があります。そして、その記憶に対応する感情も形成されていると推測されます』

 玲司が息を呑んだ。

「……そんな」

 朔夜は笑おうとした。

 だが、うまくいかなかった。

「……なるほどな」

 自分の中にある怒り。

 憎しみ。

 裏切られたという確信。

 それらすべてが、誰かに植え付けられたものだという。

 頭では理解できる。

 けれど。

 理解したところで、感情は消えてくれない。

     ◇

「……少し、二人にしてくれないか」

 朔夜が言うと、澪は心配そうに眉を寄せた。

「でも、朔夜……」

「頼む」

 いつもより強い口調だった。

 澪は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 それから、透花の肩に手を添える。

「……分かった。あーしたち、外にいるから」

 透花は朔夜を見つめていた。

 その表情には、何かを言いたそうな迷いがあった。

「……朔夜」

「なんだ?」

「……無理しないでね」

「ああ」

 短く答える。

 二人が出ていくと、診察室には玲司と朔夜だけが残された。

 静かだった。

 医療センターの廊下を歩く足音が、遠くに聞こえる。

 朔夜は窓の外を見つめた。

 夕暮れの学院。

 赤く染まった校舎。

 何度も見た景色のはずなのに、今日は妙に遠く感じた。

「……玲司」

「……うん」

「俺たち、いつから友達だった?」

 玲司は少しだけ目を見開いた。

「……小学校の頃、だと思う」

「だと思う、か」

「……ごめん。僕も、全部は覚えてなくて」

 玲司の声が小さくなる。

 第一巻の事件。

 《愚者の選択》(ロードアルカナ)。

 存在読込(オーバーロード)によって失われた、幼少期の記憶。

 玲司もまた、自分の過去を完全には思い出せない。

 朔夜は知っていた。

 それでも、尋ねずにはいられなかった。

「……俺が、お前に助けられた日」

 玲司の表情が変わる。

「……うん」

「覚えてるか?」

 沈黙。

 玲司は視線を落とした。

「……ごめん」

 その一言で。

 朔夜の胸に、黒い感情が湧き上がった。

 ――ほらな。

 ――やっぱり、覚えていない。

 ――お前にとっては、その程度の出来事だったんだ。

「……そうか」

 朔夜は俯いた。

 拳が震えている。

 玲司が何かを言おうとした。

 その瞬間。

「……ふざけるな」

 低い声が漏れた。

 玲司が顔を上げる。

「……朔夜?」

「……ふざけるなよ」

 止められなかった。

「俺にとっては……!」

 朔夜は言葉を詰まらせた。

 自分でも、何に怒っているのか分からない。

 ただ。

 胸の奥が、焼けるように熱かった。

「……俺にとっては、全部だったんだぞ!」

 玲司が息を呑む。

 朔夜は、そこでようやく自分が叫んでいることに気づいた。

「……っ」

 違う。

 こんなことを言いたかったわけじゃない。

 玲司は悪くない。

 記憶を失ったのは、玲司の意思ではない。

 分かっている。

 分かっているのに。

「……悪い」

 朔夜は顔を覆った。

「……今のは、俺じゃない」

 その言葉が、ひどく虚しく響いた。

     ◇

 朔夜には、ひとつだけ確かな記憶があった。

 幼い頃。

 自分は弱かった。

 人と話すことが苦手で、何をしても要領が悪かった。

 魔術の才能も、特別優れていたわけではない。

 周囲の子供たちから、からかわれることもあった。

 それがいつしか、いじめに変わった。

 物を隠される。

 突き飛ばされる。

 魔術の練習を邪魔される。

 誰にも相談できなかった。

 助けを求めることさえ、情けないと思っていた。

 そんな自分を。

 玲司が助けてくれた。

 ――はずだった。

 朔夜は目を閉じた。

 記憶の中に、雨の降る公園が浮かぶ。

 濡れた地面。

 泥だらけの制服。

 自分を囲む、数人の少年。

 その向こうに、玲司が立っている。

 小柄で、頼りなくて。

 人と話すとき、いつも少し俯いていた少年。

 朔夜は、その姿を覚えていた。

 だが。

 そこから先が、どうしても思い出せない。

 以前なら、玲司が駆け寄ってきたはずだった。

 震えながら、それでも自分を庇ってくれたはずだった。

 けれど今は。

 玲司が背を向ける。

 何も言わずに、去っていく。

 自分を置き去りにして。

 ――助けて。

 幼い自分が、手を伸ばす。

 ――玲司。

 少年は振り返らない。

 その背中が、遠ざかっていく。

「……違う」

 朔夜は呟いた。

「……違うだろ」

 記憶の中で、雨が降り続ける。

 何度思い返しても。

 玲司は、助けに来なかった。

     ◇

「……朔夜」

 玲司の声で、現実に引き戻された。

 いつの間にか、朔夜は椅子に座り直していた。

 額には冷たい汗が浮かんでいる。

「……ごめん。僕、何も覚えてなくて」

「謝るな」

 朔夜は即座に言った。

「お前が謝ることじゃない」

「……でも」

「違うんだ、玲司」

 朔夜は顔を上げた。

「俺は、分かってる」

 玲司が黙る。

「お前が俺を見捨てるわけないって、分かってるんだ」

 声が震えた。

「なのに……」

 朔夜は胸元を押さえた。

「お前の顔を見ると、腹が立つ」

 玲司の瞳が揺れた。

「理由も分からない。お前が何かしたわけでもない。なのに、どうしても……」

 朔夜は唇を噛んだ。

「……憎いんだ」

 言ってしまった。

 最も言いたくなかった言葉を。

 玲司は、何も言わなかった。

 ただ、静かに朔夜を見つめていた。

「……最低だろ」

 朔夜は自嘲する。

「親友だと思ってた相手に、こんなことを言うなんて」

「……朔夜」

「俺は、お前に助けられた」

 朔夜は続けた。

「それが俺の原点だった。あの日から、俺は変わろうと思ったんだ」

 弱い自分が嫌だった。

 何もできない自分が、許せなかった。

 だから努力した。

 魔術を学んだ。

 何度も失敗した。

 それでも諦めなかった。

 いつか、玲司の隣に立てるように。

 いつか、玲司を守れるように。

 それが、朔夜の願いだった。

「……なのに」

 朔夜は拳を握りしめた。

「その始まりを、思い出せない」

 玲司は目を伏せた。

 朔夜は、さらに言葉を重ねる。

「俺は、何のために強くなろうとしたんだ?」

 答えは、知っている。

 玲司を守るためだ。

 それなのに、その言葉が胸に落ちてこない。

 まるで、誰かの人生を聞かされているようだった。

「……分からないんだ」

 朔夜の声が掠れた。

「俺が、何を信じてここまで来たのか」

     ◇

 玲司は、何も言えなかった。

 朔夜がどれほど努力してきたのか。

 それは、知っている。

 青魔術《論理構築術式(ロゴス)》による解析。

 赤魔術《生命錬成術式(アルス・カルニス)》による身体補助。

 緑魔術《原生循環術式(アニマ)》による環境制御。

 三系統の魔術を使い分けるため、朔夜は誰よりも長く訓練場に残っていた。

 才能だけで身につけた技術ではない。

 何度も失敗し、何度も立ち上がった結果だ。

 その努力を、玲司は尊敬していた。

 だからこそ。

 朔夜が自分の過去を失って苦しんでいることが、ひどく辛かった。

「……朔夜」

 玲司は、ゆっくりと口を開いた。

「……僕も、怖いんだ」

 朔夜が顔を上げる。

「……何が?」

「……自分が、自分じゃなくなること」

 玲司は自分の手を見つめた。

 《愚者の選択》(ロードアルカナ)。

 別世界の自分を読み込む力。

 その能力を使うたびに、玲司は自分の輪郭が曖昧になっていく感覚を覚えていた。

 誰かの経験。

 誰かの感情。

 誰かの記憶。

 それらが、自分の中に流れ込んでくる。

 時には、自分が何者なのか分からなくなる。

「……僕も、昔のことを全部は覚えてない」

 玲司は続けた。

「朔夜と初めて会った日のことも、助けた日のことも……」

 言葉が途切れる。

 思い出そうとするほど、頭の奥が痛んだ。

「……でも」

 玲司は顔を上げた。

「覚えてなくてもいい」

 朔夜の表情が変わった。

「……何?」

「……全部、思い出せなくてもいいと思う」

 玲司は、少しだけ迷った。

 それでも、言葉を続けた。

「僕たちは、今も友達だよ」

 静かな声だった。

 強くもない。

 自信に満ちているわけでもない。

 けれど、玲司は朔夜から目を逸らさなかった。

「……僕は、そう思ってる」

 朔夜は、何も言えなかった。

 胸の奥で、何かが揺れた。

 温かいもの。

 懐かしいもの。

 だが。

 その直後。

 別の感情が、すべてを塗り潰した。

 ――嘘をつくな。

 ――お前は、俺を見捨てた。

 ――今さら、友達だなんて。

「……やめろ」

 朔夜は呟いた。

 玲司が目を見開く。

「……朔夜?」

「……やめてくれ」

 朔夜は立ち上がった。

「今、そんなことを言われても……」

 言葉が続かなかった。

 玲司の顔を見る。

 その表情が、ひどく優しく見えた。

 だからこそ、胸が痛んだ。

「……信じられないんだ」

 朔夜は、絞り出すように言った。

「お前のことを、信じたいのに」

 玲司は何も言わなかった。

 朔夜は視線を逸らした。

「……少し、一人にしてくれ」

     ◇

 医療センターを出ると、夕日はすでに沈みかけていた。

 朔夜は、人の少ない渡り廊下を歩いた。

 右肩が痛む。

 だが、その痛みさえ今はありがたかった。

 身体の痛みは、理由が分かる。

 傷があるから痛む。

 無理をしたから痛む。

 けれど。

 心の痛みには、理由がなかった。

「……くそ」

 朔夜は壁に背を預けた。

 自分は、玲司を傷つけた。

 それだけは、確かだった。

 御影の黒魔術。

 偽の記憶。

 植え付けられた感情。

 頭では理解している。

 それでも、玲司の顔を見ると怒りが湧く。

 その事実が、何より恐ろしかった。

 ――また、同じことをするのか。

 朔夜の脳裏に、別の記憶が浮かんだ。

 玲司を襲撃した、あの日。

 自分ではない何者かに、身体と意識を侵された。

 別世界の人格。

 その干渉によって、朔夜は親友へ刃を向けた。

 自分の意思ではなかった。

 だが、傷つけた事実は消えない。

 玲司が倒れた光景。

 自分の手が、彼へ向けられていた感覚。

 それらは、今も朔夜の中に残っている。

「……また、俺は」

 朔夜は震える手を見つめた。

「……あいつを、傷つけるのか」

 そのとき。

「……朔夜」

 背後から声がした。

 振り返ると、澪が立っていた。

 少し離れた場所には、透花もいる。

「……玲司は?」

「医療センターにいるよ」

 澪は答えた。

「ノアと、御影の術式を調べてる」

「……そうか」

 朔夜は視線を落とした。

 澪は隣に立った。

「……ねえ、朔夜」

「なんだ?」

「オタクくんのこと、嫌いになった?」

 朔夜は息を呑んだ。

 すぐには答えられなかった。

 澪は責めるような口調ではなかった。

 ただ、静かに尋ねていた。

「……分からない」

 朔夜は正直に答えた。

「嫌いなはずがない。なのに……」

 拳を握る。

「……顔を見ると、怒りが湧く」

 澪は少しだけ目を伏せた。

「……そっか」

「最低だろ」

「最低じゃないよ」

 澪は即答した。

「だって、それ、朔夜が望んだことじゃないじゃん」

「……でも、俺の感情だ」

「うん」

 澪は頷いた。

「だから、簡単に消せないんだと思う」

 朔夜は顔を上げた。

 澪は、夕暮れの空を見つめていた。

「あーしだって、オタクくんに腹立つことあるし」

「……お前は、いつもそうだろ」

「ちょっと! それどういう意味!?」

 思わず、朔夜の口元が緩んだ。

 澪も少し笑った。

 けれど、その笑顔はすぐに消えた。

「……でもさ」

 澪は続けた。

「腹が立つことと、嫌いになることって、同じじゃないと思うんだ」

 朔夜は黙って聞いていた。

「今の朔夜がオタクくんに怒ってるのは、本当なんでしょ?」

「……ああ」

「だったら、それを無理に嘘にしなくてもいいんじゃない?」

 澪は朔夜を見た。

「でも、その怒りをどうするかは、朔夜が決められるでしょ」

 朔夜は目を見開いた。

 澪は、いつものように少しだけ笑った。

「……あーしは、そう思うよ」

     ◇

 その夜。

 朔夜は学院の訓練場にいた。

 誰もいない室内。

 白い照明が、床を照らしている。

 朔夜はデバイスを起動した。

 青い光が、指先に集まる。

 青魔術《論理構築術式(ロゴス)》。

 目の前に、複数の解析式が浮かび上がった。

 魔術回路の構造。

 出力制御。

 演算補助。

 何度も繰り返してきた、基本的な術式。

 朔夜は深く息を吸った。

「……始めるか」

 青い光が走る。

 標的が現れた。

 朔夜は即座に解析を開始する。

 距離。

 角度。

 移動速度。

 予測軌道。

 すべて、いつも通りのはずだった。

 だが。

「……っ?」

 演算が、途中で止まった。

 何をすればいいのか、分からない。

 いや。

 分かるはずなのに、手順が浮かばない。

 朔夜は眉をひそめた。

「……おいおい」

 もう一度、術式を展開する。

 青い光が走る。

 解析式が浮かぶ。

 だが、途中で崩れた。

「……なんだよ、これ」

 朔夜は歯を食いしばった。

 もう一度。

 さらにもう一度。

 何度繰り返しても、結果は同じだった。

 記憶が、抜け落ちている。

 いや。

 記憶だけではない。

 積み重ねてきた技術の一部が、失われている。

 朔夜は、震える手を見つめた。

「……冗談だろ」

 努力してきた。

 何年も。

 何千回も。

 失敗して、修正して、また繰り返して。

 ようやく身につけた技術だった。

 その積み重ねが。

 今、指の隙間から零れ落ちていく。

 朔夜は、ゆっくりと拳を握った。

 そして。

 笑った。

「……なるほどな」

 乾いた笑いだった。

「……これが、御影の狙いか」

 玲司との思い出。

 強くなろうとした理由。

 積み重ねてきた努力。

 そのすべてを奪えば、自分は何もできなくなる。

 そう考えたのだろう。

 朔夜は、もう一度デバイスを構えた。

 青い光が、指先に灯る。

「……ふざけるな」

 低く呟く。

「俺が、何年かけてここまで来たと思ってる」

 標的が動き出す。

 朔夜は解析を試みる。

 だが、術式はまた崩れた。

 それでも。

 朔夜は、デバイスを下ろさなかった。

「……だったら」

 もう一度、青い光を集める。

「……最初から、やり直してやる」

 その声は、誰にも届かなかった。

 けれど。

 確かに、朔夜自身の言葉だった。

     ◇

 同じ頃。

 玲司は、自室でノアの解析結果を見つめていた。

『玲司様。伊佐波朔夜様に残留する黒魔術の干渉パターンについて、新たな情報が得られました』

「……何か分かったの?」

『はい。御影征司の術式は、単純な記憶の上書きではありません』

 玲司は顔を上げた。

『特定の記憶を欠落させ、その空白へ偽の経験を挿入しています』

「……それなら、偽物を消せば」

『問題は、記憶と感情が密接に結びついていることです』

 ノアは続けた。

『偽の記憶を除去しても、それによって形成された情動反応が残存する可能性があります』

 玲司は息を呑んだ。

「……じゃあ、朔夜は」

『仮に記憶を修復できたとしても、玲司様に対する怒りや不信感が、直ちに消失するとは限りません』

 玲司は、ゆっくりと目を伏せた。

 記憶を取り戻せば、すべて元通りになる。

 そう思っていた。

 けれど、違う。

 人間の心は、そんなに単純ではない。

「……ノア」

『はい』

「……僕に、できることはある?」

 少しの沈黙。

 そして。

『玲司様』

「……うん」

『記憶の修復方法については、引き続き解析が必要です』

 玲司は頷いた。

『ですが、ひとつだけ確かなことがあります』

「……なに?」

『伊佐波朔夜様は、現在も玲司様を傷つけることを恐れています』

 玲司は目を見開いた。

『これは、御影征司によって植え付けられた記憶とは別に、現在の言動から確認できる事実です』

 玲司は、しばらく黙っていた。

 朔夜は、自分を憎んでいる。

 それでも。

 自分を傷つけたくないと思っている。

 その矛盾が、胸の奥に残った。

「……そっか」

 玲司は、小さく呟いた。

「……それなら、まだ大丈夫だと思う」

『根拠をお聞かせください』

 玲司は少しだけ考えた。

 そして、答えた。

「……朔夜は、朔夜だから」

 ノアは、すぐには返答しなかった。

 やがて。

『……論理的な説明としては、不十分です』

「……うん」

『ですが、玲司様らしい回答だと判断します』

 玲司は、少しだけ笑った。

 窓の外には、夜の学院が広がっている。

 どこかで、朔夜も同じ空を見ているのだろうか。

 玲司は、静かに拳を握った。

 思い出せない過去がある。

 書き換えられた記憶がある。

 それでも。

 今、目の前にいる親友を信じることはできる。

 玲司は、そう思った。

 そのとき。

 ノアの声が、わずかに変わった。

『玲司様。緊急通知です』

「……え?」

『学院の訓練場に、未登録の魔術反応を検出しました』

 玲司の表情が強張る。

「……訓練場?」

『はい。現在、伊佐波朔夜様が使用中の施設です』

 玲司は立ち上がった。

『反応の構造は、先ほどの黒魔術式戦闘端末とは異なります』

「……じゃあ、何?」

 ノアは、一瞬だけ沈黙した。

 そして。

『対象は、伊佐波朔夜様の戦闘記録を参照しています』

 玲司の背筋が凍った。

『さらに、対象の魔術回路には、人工供物と類似した構造が確認されました』

 玲司はデバイスを握りしめた。

 朔夜がいる。

 一人で。

 記憶を失いかけたまま。

「……ノア、場所を!」

『訓練場第三演習室です』

 玲司は走り出した。

 廊下を駆け抜ける。

 階段を飛び降りる。

 頭の中に、嫌な予感が広がっていく。

 そして。

 訓練場の扉が、静かに開いた。

 その向こうに。

 朔夜と、まったく同じ構えを取る黒い人影が立っていた。

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