記憶を奪う魔術師
人は、昨日の自分を疑わない。
昨日食べたもの。昨日交わした言葉。昨日まで好きだったもの。
それらが本当に存在したのか、いちいち確かめたりはしない。
だからこそ。
誰かが昨日を書き換えても、ほとんどの人間は気づかない。
――書き換えられる側に、回ったことさえ。
◇
「……見つけた」
玲司が足を止めたのは、学院の旧研究棟へ続く連絡通路だった。
放課後の校舎には、まだ生徒たちの声が響いている。
だが、この通路だけは妙に静かだった。
『玲司様。昨日検出された記憶干渉の通信経路と、現在位置が一致しました』
腰のホルスターに収まった拳銃型デバイスから、ノアの声がする。
「ここが発信源?」
『正確には中継地点です。干渉術式そのものは、さらに外部へ接続されています』
「……つまり、誰かがここを使って学院に干渉してる」
『その推測を支持します』
玲司は通路の奥を見つめた。
昨日、クラスメイトの朝倉美咲が別人のように変わっていた。
性格も、成績も、交友関係も。
そして、誰もその変化に気づかなかった。
ノアの隔離記録だけが、以前の彼女を覚えていた。
調査を続けた結果、同様の異常は七人にまで広がっていた。
いや。
七人しか確認できなかった、というべきかもしれない。
「玲司!」
背後から声がした。
振り返ると、朔夜と澪が駆け寄ってくる。
その後ろには、透花の姿もあった。
「一人で先に行くな」
「……ごめん。ノアが反応したから」
「だからって、単独行動は危険だろ」
朔夜はそう言いながら、右肩を軽く回した。
先日の負傷は、まだ完全には治っていない。
玲司はその動作を見て、少しだけ眉をひそめた。
「……朔夜、無理しないで」
「お前に言われたくない」
「……それは、そうかも」
「そこ納得しちゃうんだ」
澪が苦笑した。
いつもなら、それで少し空気が和らぐ。
だが、今日は違った。
「……玲司」
透花が小さく袖を引いた。
「どうしたの?」
「ここ……知ってる気がする」
玲司は通路の奥を見た。
旧研究棟。
現在はほとんど使用されていない、古い施設だ。
「来たことがあるの?」
「分からない。でも……」
透花は胸元を押さえた。
「この先に行っちゃいけないって、そんな気がする」
その顔色は悪かった。
玲司が声をかけようとした、そのとき。
「それは、正しい判断だ」
知らない声が響いた。
◇
通路の先。
閉ざされていたはずの扉が、音もなく開いた。
現れたのは、一人の男だった。
年齢は四十代ほど。
灰色のスーツに、黒い手袋。
整えられた髪と、感情の読めない目。
研究者にも、教師にも見える。
だが、その男には決定的に異質なものがあった。
黒い光。
男の足元で、細い魔術回路が脈打っている。
「初めまして、と言うべきかな」
男は穏やかに微笑んだ。
「久遠玲司君」
玲司の背筋が強張った。
「……僕の名前を?」
「もちろん知っている。君たちのことは、以前から観測していた」
男の視線が、順番に移る。
玲司。
朔夜。
澪。
そして。
透花で止まった。
「ようやく見つけたよ」
透花が一歩後ずさる。
「……誰?」
「覚えていないのか」
男は少しだけ残念そうに首を傾けた。
「それは困ったな。記憶の保持機能に、想定以上の不具合が生じているらしい」
「……何を言ってるの?」
透花の声が震えた。
玲司は彼女の前に立つ。
「あなたは……誰ですか」
男は玲司を見た。
「御影征司」
短く名乗る。
「旧第七記憶保管区の管理責任者だ。専門は黒魔術《深淵接触術式》による記憶干渉と、その保存技術」
朔夜の表情が険しくなる。
「旧第七記憶保管区……?」
「知っているのか?」
「名前だけだ。地下研究都市の外縁にあった、閉鎖済みの研究施設だったはず」
「よく調べている」
御影は感心したように頷いた。
「もっとも、閉鎖されたのは表向きの話だがね」
玲司は拳を握った。
研究施設。
黒魔術。
記憶干渉。
そして、人工供物。
嫌な予感が、ひとつの形になり始めていた。
「……学院の記憶を書き換えていたのは、あなたですか」
「書き換えた?」
御影は小さく笑った。
「少し違う。私は、記録の整合性を調整しているだけだ」
「整合性……?」
「人間の記憶は不完全だ。忘却し、誤認し、都合よく解釈する。ならば、そこに適切な情報を与えることは、必ずしも悪ではないだろう?」
「……朝倉さんは、昨日まで別の人でした」
「そうだろうね」
御影はあっさり認めた。
「彼女に関する記憶の一部を置換した。適性の高い被験者だったよ」
玲司は息を呑んだ。
「……実験だったんですか」
「検証と言ってほしいな」
その言葉に、澪が一歩踏み出した。
「ちょっと待ってよ! 人の思い出を勝手に変えて、検証って何!?」
「感情的だね、白瀬澪君」
御影は穏やかなままだった。
「だが安心したまえ。彼女たちは、以前の自分を失ったことに苦痛を感じていない」
「それは……忘れさせられてるからでしょ!」
「その通り」
御影は、まるで正解を褒める教師のように頷いた。
「だからこそ、記憶の改変は成立する」
玲司は、ぞっとした。
この男は、理解していないわけではない。
理解したうえで、人間の記憶を道具として扱っている。
「……透花に、何をしたんですか」
玲司が尋ねる。
御影の目が、わずかに細くなった。
「それを説明する前に、返却してもらいたいものがある」
男は透花へ手を差し出した。
「こちらへ来なさい」
透花は動かなかった。
「……嫌」
「君の意向は、判断材料にならない」
「……嫌だって、言ってる」
透花の声が震える。
御影は小さく息を吐いた。
「困ったものだ。やはり自律判断機能が過剰に発達している」
玲司は、透花を庇うように立った。
「……連れて行かせません」
「君には関係のない話だよ」
「関係あります」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「透花は……僕たちの友達です」
御影は数秒間、玲司を見つめた。
そして、静かに告げた。
「その少女は、長期生存を前提として製造されていない」
空気が止まった。
◇
「……え?」
透花が呟いた。
御影は淡々と続ける。
「人工供物の身体は、本来、魔術の代償として消費されることを前提に設計される。長期間の自律活動は想定されていない」
玲司の頭に、いくつもの光景が浮かんだ。
透花の冷たい手。
突然のめまい。
立っていられなくなるほどの疲労。
医療センターを拒んだ、怯えた表情。
「研究施設の維持装置から離れた時点で、身体の崩壊は始まっている」
「……崩壊?」
玲司は聞き返した。
「生体組織と魔術回路の維持機構が、正常に働いていない。君たちも異常な低体温を確認したはずだ」
玲司は答えられなかった。
事実だった。
ノアも、透花の魔術回路に異常を検出している。
「……治療できないのか?」
ようやく絞り出した声に、御影は首を横に振った。
「通常の医療では不可能だ」
「赤魔術《生命錬成術式》なら……」
「生体組織を修復しても、維持機構そのものが機能していなければ意味がない。破損した容器に水を注ぎ続けるようなものだ」
玲司は唇を噛んだ。
「……じゃあ、どうすれば」
「施設へ戻す。それが最も合理的だ」
御影は透花へ視線を向けた。
「ただし、現在の記憶状態を維持したままでは、安定化は難しい」
「……どういう意味?」
透花が尋ねる。
「記憶領域の初期化が必要になる可能性が高い」
透花の顔から、血の気が引いた。
「……初期化?」
「不要な情報を消去し、魔術回路への負荷を軽減する」
「それって……」
透花の唇が震える。
「私の思い出を、消すってこと?」
「必要な処置だ」
「……嫌」
小さな声だった。
「……そんなの、嫌だよ」
玲司は彼女の手を握った。
冷たい。
以前よりも、さらに。
「……他の方法は?」
御影は答えない。
「他の方法は、ないんですか」
「現状では、実用的な代替手段は存在しない」
玲司の胸が締めつけられた。
そして、御影は最後の事実を告げた。
「残された時間は、およそ三十日」
誰も動かなかった。
澪が息を呑む。
朔夜の拳が固く握られる。
透花は、何かを言おうとして。
声を失った。
「……三十日?」
ようやく、掠れた声が漏れる。
「……私、あと三十日で……」
御影は否定しなかった。
それが、何より残酷だった。
玲司は透花を見た。
彼女は笑おうとしていた。
いつものように。
何でもないことのように。
けれど、うまく笑えなかった。
「……そっか」
透花は呟いた。
「だから、ずっと……寒かったんだ」
玲司は何も言えなかった。
彼女の手を、強く握ることしかできなかった。
◇
「話は終わりだ」
御影が言った。
「対象を引き渡してもらおう」
「……断ります」
玲司は即答した。
御影の眉が、わずかに動く。
「君は理解していない。私の施設でなければ、彼女は生存できない」
「……それでも」
玲司は透花を見た。
彼女は、怯えている。
死ぬことだけではない。
自分の記憶を消されることに。
「……透花が嫌がってる」
「本人の希望より、生存の確保を優先すべきだ」
「だったら、本人が納得できる方法を探します」
「時間の無駄だよ」
「……無駄かどうかは、まだ分かりません」
御影は静かに目を閉じた。
「残念だ」
次の瞬間。
通路の照明が、一斉に消えた。
『警告。黒魔術《深淵接触術式》反応、急速増大』
ノアの声と同時に、床が黒く染まる。
魔術回路。
幾重にも重なった円環が、玲司たちを囲んでいた。
「全員、下がれ!」
朔夜が叫ぶ。
青い光が走った。
青魔術《論理構築術式》。
床に広がる黒い回路を解析し、危険な接続点を浮かび上がらせる。
「玲司! 右側の回路を切れ!」
「……分かった!」
玲司は拳銃型デバイスを引き抜いた。
赤い魔術光が腕を包む。
赤魔術《生命錬成術式》。
筋出力を補助し、反動に耐える身体を作る。
玲司は引き金を引いた。
銃声。
魔術弾が床を撃ち抜く。
黒い回路が砕けた。
しかし。
「なるほど」
御影は、まったく動じていなかった。
「君が《愚者の選択》の保持者か」
玲司の心臓が跳ねた。
「……どうして、それを」
「観測していたと言っただろう?」
御影が指を鳴らす。
黒い光が、玲司の視界を横切った。
『玲司様。精神干渉を検出』
直後。
玲司の頭に、知らない記憶が流れ込んできた。
銃声。
瓦礫。
血の匂い。
知らない戦場。
だが、その感覚には覚えがあった。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界の自分が持つ経験を読み込む、玲司の根源魔術。
その記憶領域が、外側から触れられている。
「……っ!」
玲司は膝をついた。
『玲司様。読込経路に異常を確認。外部からの情報混入が発生しています』
「……何を、したんですか」
御影は淡々と答えた。
「少しだけ、君の記憶に触れた」
その声に、恐怖より先に怒りが湧いた。
「……勝手に……!」
「興味深い能力だ。別の人生を経験した自分から、技術を借りる。だが、その技術を本物だと保証するものは何だろうね?」
玲司は答えられなかった。
御影が、再び指を鳴らした。
通路の奥から、黒い人型端末が二体現れる。
『回収命令を受領』
『障害対象の排除を開始』
「透花を守れ!」
朔夜が前に出た。
右肩の痛みを堪えながら、青魔術で敵の動きを解析する。
「玲司、左を頼む!」
「……うん!」
玲司は立ち上がった。
敵は二体。
朔夜が一体を引き受ける。
残る一体を、玲司が止めなければならない。
だが。
『警告。敵機の戦闘性能は、現在の玲司様を上回ります』
ノアが告げる。
玲司は奥歯を噛んだ。
ここで負ければ、透花が連れて行かれる。
その先に待つのは、記憶の初期化だ。
玲司は息を吸った。
「……技術読込」
魔術回路が起動する。
選択したのは、別世界で市街地戦闘を経験した兵士の技術。
視界が鮮明になる。
呼吸が整う。
敵の姿勢。
重心。
射線。
すべてが、自然と理解できた。
――右へ誘導し、壁際で射撃。
玲司は床を蹴った。
敵が接近する。
その腕が振り下ろされる。
玲司は半歩右へ。
そして。
壁際に追い込まれた。
「……え?」
違う。
この位置では、回避できない。
敵の腕が迫る。
『玲司様! その判断は誤りです!』
ノアの警告。
だが、遅かった。
衝撃。
「ぐっ……!」
玲司の身体が壁に叩きつけられる。
肺から空気が抜けた。
視界が揺れる。
おかしい。
読み込んだ技術では、確かに回避できるはずだった。
玲司は床に手をついた。
そのとき、御影の声が聞こえた。
「どうしたのかね?」
男は静かに微笑んでいた。
「君の選んだ経験は、間違っていなかったはずだろう?」
玲司の血の気が引く。
御影は続けた。
「正しい経験の中に、ひとつだけ偽の判断を混ぜる。それだけで、人間は簡単に間違える」
「……まさか」
「君の能力は、非常に優秀だ」
御影は指を立てた。
「だが、借り物の記憶に依存する限り、君はその記憶を疑えない」
玲司は息を呑んだ。
自分の最大の武器。
別世界の経験。
それが、敵の手によって書き換えられている。
――ならば。
今、自分の頭にある判断のうち、どれが本物なのか。
分からない。
◇
「玲司!」
澪の声が響いた。
白い光が、玲司の前に広がる。
白魔術《神話顕現術式》。
淡い防護膜が、敵の追撃を受け止めた。
「オタクくん! しっかりして!」
「……ごめん」
「謝るのはあと!」
澪の声が震えていた。
玲司は立ち上がろうとする。
だが、足が動かない。
痛みではない。
恐怖だった。
また間違えるかもしれない。
今度こそ、誰かを傷つけるかもしれない。
『玲司様。技術読込の継続を推奨しません』
「……でも」
『現在の読込情報は、信頼性を保証できません』
敵が防護膜を殴りつける。
白い光に亀裂が走った。
澪が歯を食いしばる。
「……っ、長くは持たない!」
その瞬間。
緑の光が床を走った。
緑魔術《原生循環術式》。
床の隙間から伸びた蔓が、敵の脚を絡め取る。
「玲司!」
朔夜だった。
すでに一体目を撃退し、こちらへ駆けつけていた。
「借りた経験を見るな!」
「……え?」
「目の前を見ろ!」
朔夜が叫ぶ。
「お前が今、何を見てるかだ!」
玲司は顔を上げた。
敵の右腕。
損傷した関節。
床に伸びた蔓。
そして、澪の防護膜。
今、目の前にあるもの。
それだけは、偽の記憶ではない。
「……ノア」
『はい』
「技術読込、停止」
『承知しました』
頭の中から、戦場の記憶が消える。
代わりに、静けさが戻った。
玲司は銃を構える。
自分の目で、狙う。
「……朔夜、三秒だけ」
「任せろ!」
青い光。
青魔術《論理構築術式》が敵の魔術回路を解析する。
「右膝の接続点!」
玲司は引き金を引いた。
銃声。
魔術弾が敵の関節を貫く。
黒い端末が崩れ落ちた。
その背後で、御影が小さく拍手した。
「素晴らしい」
玲司は息を切らしながら、男を睨んだ。
「……まだ、終わってません」
「いや。今日はここまでにしよう」
御影が指を鳴らす。
黒い魔術回路が、通路全体に広がった。
朔夜が即座に解析を試みる。
「……まずい、転移術式じゃない!」
玲司が目を見開く。
「……じゃあ、何?」
「認識阻害だ!」
次の瞬間。
御影の姿が、視界から消えた。
いや。
消えたのではない。
そこにいたはずの男を、認識できなくなった。
『玲司様。対象の視覚情報が欠落しています』
「……っ!」
玲司は銃を構え直す。
だが、照準を合わせる相手がいない。
御影の声だけが、通路に残った。
「久遠玲司君」
穏やかな声だった。
「君の能力は、実に興味深い」
玲司は歯を食いしばった。
「……待ってください!」
「いずれ、また会おう」
声が遠ざかる。
「そのときまでに、考えておくといい」
玲司は動けなかった。
御影の最後の言葉が、耳に残る。
「君が信じている記憶は、本当に君自身のものなのかね?」
そして。
黒い光が、完全に消えた。
◇
通路に静寂が戻った。
玲司は、ゆっくりと銃を下ろした。
敵はいない。
御影もいない。
残されたのは、壊れた戦闘端末と、床に刻まれた黒い術式の痕跡だけだった。
「……逃げられたな」
朔夜が呟く。
「……うん」
玲司は頷いた。
身体が痛む。
だが、それ以上に。
胸の奥が、ひどく重かった。
「……透花」
玲司が振り返る。
透花は、澪に支えられて立っていた。
顔色は青白い。
けれど、泣いてはいなかった。
「……玲司」
「……大丈夫?」
透花は少しだけ笑った。
「……うん」
嘘だと分かった。
その笑顔は、あまりにも弱々しかった。
「……三十日、だって」
透花が呟く。
玲司は答えられなかった。
「……私、そんなに長く生きられないんだね」
澪が透花の肩を抱いた。
「まだ決まったわけじゃないじゃん!」
「……でも」
「でも、じゃない!」
澪の声が震えた。
「あーしたち、まだ何も試してないでしょ!」
透花は目を伏せた。
玲司は、ゆっくりと彼女の前に立った。
「……透花」
少女が顔を上げる。
「……僕は、諦めない」
透花の瞳が揺れた。
「……でも、方法が」
「……今は、分からない」
玲司は正直に答えた。
「でも、探す」
その言葉に、透花は小さく息を呑んだ。
「……君の記憶を消さなくても、生きられる方法を」
玲司は、彼女の冷たい手を握った。
「……絶対に、探すから」
透花は、何も言わなかった。
ただ、玲司の手を握り返した。
その力は、驚くほど弱かった。
けれど。
確かに、生きている人間の手だった。
◇
『玲司様』
ノアの声が、静かに響いた。
『御影征司の発言について、解析結果を報告します』
「……うん」
『透花様の生体維持機能に関する説明は、現在確認されている異常と整合しています』
玲司は目を閉じた。
やはり、嘘ではなかった。
『ただし、余命三十日という数値については、独立した検証が必要です』
「……分かった」
『また、御影征司による記憶干渉は、玲司様の技術読込経路へ直接作用していました』
玲司は、拳銃型デバイスを見つめた。
自分が信じてきた力。
別世界の自分が積み重ねた経験。
それは、確かに玲司を何度も救ってきた。
だが。
今日、その力は玲司を殺しかけた。
「……ノア」
『はい』
「もし、また同じことをされたら……」
言葉が途切れた。
ノアは、少しだけ間を置いて答えた。
『玲司様』
「……うん」
『私の外部記録も、完全ではありません』
玲司は息を呑んだ。
『ですが、少なくとも私は、玲司様が今この瞬間に何を選んだかを記録できます』
玲司は、静かに目を伏せた。
記憶は、書き換えられる。
経験は、偽物にできる。
過去は、奪われる。
それでも。
今、自分が何を選ぶか。
それだけは、まだ誰にも奪われていない。
玲司は透花を見た。
少女は、澪に支えられながら、こちらを見つめていた。
その瞳には、恐怖があった。
不安があった。
そして、ほんの少しだけ。
希望があった。
玲司は拳を握った。
――三十日。
それが本当なら。
残された時間は、あまりにも短い。
けれど。
まだ、終わっていない。
玲司は、そう自分に言い聞かせた。
その隣で。
朔夜が、右肩を押さえていた。
顔色が悪い。
「……朔夜?」
玲司が声をかける。
朔夜は顔を上げた。
「……なんでもない」
そう答えた。
けれど、その表情はどこか奇妙だった。
玲司を見る目に、一瞬だけ。
知らない感情が浮かんでいた。
怒り。
いや。
もっと深い、何か。
「……朔夜?」
玲司がもう一度呼ぶ。
朔夜は、すぐに視線を逸らした。
「……帰るぞ」
それだけ言って、歩き出す。
玲司は、その背中を見つめた。
何かがおかしい。
けれど、何がおかしいのか分からない。
そのとき。
ノアが、小さく告げた。
『玲司様』
「……なに?」
『伊佐波朔夜様の魔術回路に、微弱な黒魔術《深淵接触術式》反応を確認しました』
玲司の心臓が、嫌な音を立てた。
『先ほどの戦闘中、御影征司による記憶干渉を受けた可能性があります』
玲司は、朔夜の背中を見つめた。
親友。
幼い頃から、何度も一緒に過ごしてきた。
その記憶が。
今、誰かの手によって書き換えられようとしている。
玲司は、まだ知らなかった。
次に奪われるのが、朔夜にとって最も大切な思い出であることを。




