昨日と違う教室
昨日まで、確かにそこにあったもの。
それが今日、別のものに変わっていたとして。
誰も変化に気づかなければ、何が起こるのだろう。
間違っているのは世界か。
それとも、自分の記憶か。
◇
「久遠、そこ邪魔」
「……え?」
朝の教室。
玲司は、聞き慣れない声に顔を上げた。
いや。
声そのものは知っている。
問題は、その声が発した言葉だった。
「聞こえなかった? 通れないんだけど」
目の前に立っていたのは、同じクラスの朝倉美咲だった。
肩まで伸びた黒髪。
学院指定の制服。
見慣れた顔。
けれど、その表情は、玲司の知っている彼女とはまるで違っていた。
「あ……ごめん」
玲司は慌てて通路を空けた。
美咲は返事もせず、そのまま通り過ぎていく。
玲司は思わず振り返った。
朝倉美咲。
クラスでも特におとなしい生徒だった。
人前で話すことが苦手で、授業中に指名されると顔を赤くする。
玲司と似たところがあり、何度か一緒に課題をしたこともある。
昨日だって、魔術理論の小テストについて相談されたばかりだ。
それなのに。
「美咲、おはよー!」
「おはよ。昨日の模擬戦、マジで疲れたんだけど」
「でも朝倉、また一位だったじゃん!」
「当然でしょ。負ける気しないし」
玲司は固まった。
模擬戦。
一位。
朝倉美咲が?
「……ノア」
玲司は小さく呟いた。
『はい、玲司様』
「……朝倉さんって、昨日の模擬戦に出てた?」
『いいえ』
即答だった。
『昨日実施された模擬戦に、朝倉美咲様の参加記録はありません』
「……だよね」
『補足します。朝倉美咲様は昨日、魔術理論の補習に参加されています』
玲司は頷いた。
そうだ。
昨日、彼女は補習に行くと言っていた。
だからこそ、模擬戦には参加していない。
それなのに。
「朝倉、昨日の最後の一撃すごかったよな!」
「でしょ? あれ、結構練習したんだよ」
周囲の生徒たちは、何の疑問も抱いていなかった。
まるで、それが昨日の事実であるかのように。
玲司の背筋に、冷たいものが走った。
◇
「……それ、本当か?」
昼休み。
玲司の話を聞いた朔夜は、険しい表情になった。
人気の少ない渡り廊下。
澪も隣で腕を組んでいる。
「うん。ノアの記録と、みんなの話が合わないんだ」
「……記録の誤りは?」
『確認済みです』
ノアが答える。
『昨日の模擬戦記録は、学院の公式記録と一致していました。ただし、今朝七時四十二分以降、学院側の情報に変更が発生しています』
「変更?」
『はい。朝倉美咲様が模擬戦で首位を獲得したという記録に置き換えられています』
朔夜が眉をひそめる。
「……記録の改竄か」
「でもさ」
澪が首を傾げた。
「それだけなら、誰かがデータを書き換えたってことじゃない?」
「……僕も最初はそう思った」
玲司は頷いた。
「でも、違うんだ」
「どういうこと?」
「朝倉さん本人だけじゃなくて、クラスのみんなが覚えてる」
玲司は、朝の光景を思い出す。
誰も不思議に思っていなかった。
誰も驚いていなかった。
まるで、昨日からずっとそうだったかのように。
「……記録だけじゃない。みんなの記憶まで変わってる」
澪の表情が強張った。
「……それって」
「ああ」
朔夜が低く答える。
「黒魔術の記憶干渉だろうな」
玲司は頷いた。
黒魔術《深淵接触術式》。
記憶や認識に干渉する、危険な魔術系統。
その存在は、すでに何度も目にしていた。
透花の記録が消えたこと。
写真から姿が消えたこと。
そして、記憶を奪う黒い戦闘端末。
すべてが繋がっているように思えた。
「……でも」
澪が不安そうに呟く。
「なんで朝倉さんなの?」
玲司は答えられなかった。
透花を狙っていたはずの黒魔術が、なぜ無関係なクラスメイトにまで及んでいるのか。
その理由が分からない。
「……調べよう」
朔夜が言った。
「まずは、どこまで変わっているのか確認する」
◇
午後の魔術理論。
異変は、さらに大きくなっていた。
「では、次の問題。朝倉」
「はい」
美咲が立ち上がる。
教師が提示したのは、複雑な魔術回路の解析問題だった。
通常なら、上級生でも苦戦する内容だ。
玲司も、すぐには答えが分からない。
しかし。
「第三接続点の位相を反転させれば、干渉波が相殺されます」
美咲は即答した。
教師が満足そうに頷く。
「正解だ。さすがだな」
教室に拍手が起こる。
玲司は、思わず朔夜を見た。
朔夜も、険しい表情で美咲を見つめている。
昨日までの朝倉美咲は、魔術理論が苦手だった。
特に、回路解析は何度も補習を受けていたはずだ。
それなのに。
「……ノア」
『はい』
「今の回答、昨日の朝倉さんにできたと思う?」
『過去の学習記録から推定すると、困難であった可能性が高いです』
「……だよね」
玲司は、机の下で拳を握った。
性格だけではない。
得意科目。
戦闘能力。
周囲からの評価。
すべてが変わっている。
まるで、別の人生を歩んできた人間に入れ替わったかのようだった。
授業が終わると、玲司は美咲に声をかけた。
「あ、朝倉さん」
「……なに?」
美咲が振り返る。
玲司は少しだけ言葉に詰まった。
何を聞けばいいのか。
どう聞けば、不自然に思われないのか。
「……昨日、僕と魔術理論の話をしたよね」
「は?」
美咲が眉をひそめる。
「してないけど」
「……え?」
「ていうか、久遠とそんなに話したことあったっけ?」
玲司の喉が詰まった。
昨日まで、確かに話していた。
何度も課題を手伝った。
彼女が苦手な問題を、一緒に解いた。
それなのに。
「……ごめん。勘違いだったかも」
玲司は小さく頭を下げた。
「変なの」
美咲はそう言って、友人たちのもとへ戻っていった。
玲司は、その背中を見つめた。
昨日までの彼女なら、そんな言い方はしなかった。
少なくとも、玲司の知っている朝倉美咲は。
◇
「……完全に変わってるな」
放課後。
旧演習棟の一室で、朔夜が資料を机に広げた。
そこには、朝倉美咲に関する情報が並んでいた。
学業成績。
模擬戦記録。
交友関係。
そして、過去の行事記録。
「昨日までの記録と、今日の記録が一致しない」
朔夜が説明する。
「しかも、変更されたのは直近の情報だけじゃない」
玲司は資料を覗き込んだ。
「……入学試験?」
「ああ」
朔夜が頷く。
「昨日までの朝倉は、魔術適性試験で平均以下だった」
「……うん」
「だが、今日の記録では、入学時から成績上位者になってる」
玲司は息を呑んだ。
過去まで変わっている。
単なる記録の改竄では説明できない。
「……じゃあ、朝倉さんの人生そのものが……」
「少なくとも、周囲が認識している過去は書き換えられてる」
朔夜は静かに答えた。
澪が不安そうに腕を抱く。
「……怖いね」
玲司は頷いた。
怖い。
その一言では足りないほどに。
もし、自分の過去が書き換えられたら。
朔夜と出会った記憶が消えたら。
澪と過ごした日々が、別のものになっていたら。
それでも、自分は自分でいられるのだろうか。
『玲司様』
ノアの声が響いた。
『追加解析が完了しました』
空中に、二つの記録が表示される。
昨日までの朝倉美咲。
そして、今日の朝倉美咲。
その差分が、赤い文字で強調されていた。
『変更は、特定の時刻に集中しています』
「……いつ?」
『本日午前七時四十二分です』
玲司は眉をひそめた。
「……朝、僕が教室に入る少し前だ」
『はい』
「その時間に、何かあったのか?」
朔夜が尋ねる。
『学院内の記録網に、不明な外部アクセスが確認されています』
画面が切り替わる。
複雑な通信経路の図。
その中心に、黒い点が表示された。
『アクセス元の特定には失敗しました。ただし、通信に含まれる魔術的特徴が、過去に遭遇した黒魔術式戦闘端末と部分的に一致しています』
玲司の背筋が凍った。
「……透花を追ってた、あの端末?」
『その可能性があります』
朔夜が低く呟く。
「……やっぱり繋がってるのか」
澪が玲司を見た。
「でも、透花じゃなくて朝倉さんが変わったのは、なんで?」
玲司は答えられなかった。
けれど、ひとつだけ分かったことがある。
透花の存在を消そうとしている何者かは、彼女だけを狙っているわけではない。
少なくとも、その魔術は他の人間にも作用している。
「……ノア」
『はい』
「他にも、同じような変化が起きてないか調べて」
『承知しました』
数秒後。
画面に、新たな警告が表示された。
『……玲司様』
ノアの声が、わずかに低くなる。
『追加の異常を確認しました』
「……え?」
『学院内の複数の生徒について、過去の記録と現在の記録に不一致が発生しています』
玲司は息を呑んだ。
「……何人?」
『現時点で、確認できたのは七名です』
「……七人?」
『はい。ただし、これは外部記録との比較が可能な対象に限られます』
玲司は画面を見つめた。
七人。
朝倉美咲だけではない。
すでに、複数の生徒の記憶が書き換えられている。
そして、その数は増えているのかもしれない。
「……これ、学院全体に広がってるってこと?」
澪の声が震えた。
ノアは答えた。
『その可能性は否定できません』
朔夜が立ち上がる。
「……まずいな」
玲司も頷いた。
透花の記録が消える。
写真から姿が消える。
そして今度は、他の人間の過去まで変わり始めた。
これは、単なる少女の失踪事件ではない。
もっと大きな何かが動いている。
玲司は、机の上の手帳を開いた。
そこには、自分の字で書かれた名前があった。
篠宮透花。
その下に、昨日書き加えた一文。
『忘れてしまっても、見捨てない。』
玲司は、その文字を指でなぞった。
今は、覚えている。
透花の顔も。
声も。
冷たい手の感触も。
けれど。
明日も覚えていられる保証は、どこにもなかった。
「……朔夜」
「なんだ?」
「もし、僕が何か忘れてたら……教えてほしい」
朔夜は玲司を見た。
少しだけ、表情が和らぐ。
「……当たり前だろ」
玲司は小さく頷いた。
澪も、無理に明るい声を出す。
「あーしもいるし! オタクくんが忘れたら、何回でも教えるから!」
「……ありがとう」
玲司は微笑んだ。
そのとき。
『警告』
ノアの声が響いた。
三人が同時に画面を見る。
『学院記録網に、新たな外部干渉を検出しました』
「……また?」
『はい』
画面に、黒い文字が浮かぶ。
《記憶照合開始》
続いて、複数の生徒の名前が表示された。
朝倉美咲。
別のクラスの生徒。
さらに、数名。
そして。
最後に、ひとつの名前が現れた。
《久遠玲司》
玲司の呼吸が止まった。
「……僕?」
『玲司様』
ノアの声が鋭くなる。
『対象の記憶情報に、外部からの照合要求を確認しました』
朔夜が身構える。
「玲司、デバイスを構えろ!」
玲司は反射的に拳銃型デバイスを掴んだ。
しかし。
何も起こらない。
攻撃もない。
魔術の発動もない。
ただ、画面の文字がゆっくりと変わった。
《照合完了》
《対象情報を確認》
《記憶干渉準備》
玲司の背筋を、冷たい汗が伝った。
誰かが。
自分の記憶を見ている。
そして。
次に書き換えられるのは、自分なのかもしれない。
玲司は、震える手で手帳を握りしめた。
そこに書かれた文字だけが、今の自分を繋ぎ止めているような気がした。
――篠宮透花を、忘れない。
いや。
忘れてしまっても。
必ず、見つける。
玲司は、そう心の中で繰り返した。
その瞬間。
画面に、最後の一文が表示された。
《記憶改変対象を選定しました》
《実行待機中》
そして、すべての表示が消えた。
教室の外では、いつもと変わらない放課後の喧騒が続いていた。
笑い声。
足音。
誰かを呼ぶ声。
昨日と同じ、ありふれた日常。
けれど。
玲司には、もう分かっていた。
この学院では今、誰かが人間の過去を書き換えている。
しかも、その誰かは。
玲司たちの存在に、気づいている。




