少女の願い
人間と、人間ではないもの。
その境界は、どこにあるのだろう。
生まれ方か。
身体の構造か。
それとも、心を持っているかどうか。
久遠玲司は、その答えを知らなかった。
ただ、目の前の少女が泣いていたとき、自分は彼女を助けたいと思った。
その気持ちだけは、間違いなく本物だった。
◇
「……人工供物?」
翌朝。
学院の旧演習棟、その一室に伊佐波朔夜の低い声が響いた。
机の上には、玲司の拳銃型魔術デバイスが置かれている。
空中に投影された青白い画面には、複雑な魔術回路の立体構造が浮かんでいた。
『正確には、人工供物に使用される生体魔術回路と高い類似性が認められます』
ノアが説明する。
『現段階で、篠宮透花様が人工供物であると断定することはできません』
「……でも、可能性は高いんだよね」
『はい』
玲司は唇を噛んだ。
昨夜、ノアから告げられた事実。
それを一晩考え続けた。
眠れなかった。
目を閉じるたび、透花の笑顔が浮かんだからだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
白瀬澪が机に身を乗り出す。
「あーし、話についていけてないんだけど! 人工供物って、あの人工供物?」
「……他に何があるんだ」
「そういう意味じゃないし!」
澪は朔夜を睨んだ。
「だって、透花は普通の女の子じゃん!」
その言葉に、玲司は顔を上げた。
普通の女の子。
確かに、そう見える。
昨日はココアを飲んで笑っていた。
澪から毛布を受け取って、嬉しそうにしていた。
そして、玲司に約束を求めた。
あれが、人工供物だというのか。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「人工供物について、もう一度説明してくれる?」
『承知しました』
画面が切り替わる。
そこに映し出されたのは、人間の身体を模した模式図だった。
『人工供物とは、魔術行使に伴う代償を肩代わりさせる目的で製造される、生体資源の総称です』
玲司は頷いた。
知識としては知っている。
学院でも習った。
魔術には代償が必要だ。
術式の規模や性質によって、使用者は魔力だけでなく、生体機能や神経活動などに負荷を受ける。
人工供物は、その一部を外部に転嫁するために作られた。
『通常の人工供物は、独立した人格を持たないことを前提として設計されています』
ノアが続ける。
『自律的な意思決定を必要としないため、高度な認知機能は制限されます』
「……つまり」
澪が眉をひそめる。
「自分で考えたり、しゃべったりしないってこと?」
『基本的には、その認識で問題ありません』
「……じゃあ、おかしいじゃん」
澪は即答した。
「透花、めっちゃしゃべるよ?」
「そこが問題なんだ」
朔夜が腕を組む。
「普通の人工供物なら、あんなふうに会話はできない。まして、自分の過去を語るなんて」
「……うん」
玲司は頷いた。
「それに、透花は自分で決めてる」
「決める?」
「昨日、僕に約束してほしいって言ったんだ」
玲司は、昨夜の会話を思い出す。
忘れないという約束。
そして、忘れてしまっても見捨てないという約束。
「あれは、誰かに命令された言葉じゃないと思う」
玲司は静かに続けた。
「透花自身が考えて、僕に聞いたんだ」
朔夜は少し考え込んだ。
「……そうだな」
やがて、頷く。
「少なくとも、俺たちが見てきた透花は、自分の意思で行動している」
「でしょ!」
澪が勢いよく頷いた。
「昨日だって、あーしがココア渡したら、ちゃんとお礼言ってくれたし!」
「それだけで判断するのは危険だ」
「分かってるってば!」
澪は頬を膨らませた。
「でもさ、普通に笑ったり泣いたりする子を、いきなり人工供物って言われても……」
その声が、小さくなる。
「……なんか、嫌じゃん」
玲司は何も言わなかった。
同じことを考えていたからだ。
◇
『追加情報があります』
ノアの声に、三人が顔を上げた。
『篠宮透花様の魔術回路には、通常の人工供物と異なる特徴が確認されています』
画面に、二つの立体構造が並んだ。
左側は一般的な人工供物。
右側は透花のものだ。
「……全然違うように見えるけど」
澪が首を傾げる。
「外側の構造は似てる。でも、内側が違うな」
朔夜が画面を拡大する。
右側の回路には、無数の細い線が絡み合っていた。
まるで、複雑な神経網のようだった。
『通常の人工供物では、生体維持と代償受容に必要な回路が中心となります』
ノアが説明する。
『しかし、篠宮透花様には、それ以外の情報処理回路が存在します』
「……情報処理?」
『はい。記憶情報の保持、照合、統合に関与すると推定される構造です』
玲司は息を呑んだ。
記憶。
その言葉が、妙に引っかかった。
「……透花が、僕たちの昔のことを知っているのと関係があるのかな」
『可能性はあります。ただし、現時点では因果関係を確認できません』
朔夜が顎に手を当てる。
「……記憶を保持するための人工回路か」
その言葉に、玲司の胸がざわついた。
記憶を保持する。
人工供物。
そして、黒魔術。
三つの言葉が、ひとつの事件を思い起こさせた。
「……朔夜」
「ああ」
朔夜も気づいたらしい。
「地下研究都市の事件だ」
玲司は頷いた。
地下研究都市で遭遇した黒魔術師たち。
彼らは、人工供物を利用した危険な実験を行っていた。
単なる代償の肩代わりではない。
人格への干渉。
記憶の操作。
そして、人間の精神を魔術的に扱う研究。
玲司自身も、その事件で別世界の記憶に干渉され、自分という存在が揺らぐ恐怖を味わった。
「……あの研究と、関係してるのかもしれない」
玲司が呟く。
朔夜は頷いた。
「可能性はある。人工供物に記憶情報を保持させる研究が続いていたなら、透花のような個体が存在してもおかしくない」
「……でも」
澪が口を挟む。
「それって、誰かが透花を作ったってこと?」
その言葉に、部屋が静まり返った。
作った。
人間に対して使うには、あまりにも冷たい言葉だった。
「……まだ分からない」
玲司は答えた。
「身体に人工的な回路があるからって、全部が人工的に作られたとは限らないし」
『その通りです』
ノアが補足する。
『既存の人体に人工回路を移植した可能性も排除できません』
「……そっか」
澪は少しだけ安心したように息を吐いた。
しかし、朔夜の表情は険しいままだった。
「どちらにしても、普通じゃない」
「……うん」
「それに、もうひとつ気になることがある」
朔夜は画面を指差した。
「ここの回路、途中で切れてるように見えないか?」
玲司は目を凝らした。
確かに、透花の回路には不自然な空白があった。
細い線が、何かに接続されるはずだった場所で途切れている。
『外部接続端子と推定されます』
ノアが答える。
「……外部?」
『はい。対象の魔術回路は、何らかの外部装置との接続を前提としている可能性があります』
「今は繋がってないんだよな?」
『接続は確認されていません』
朔夜は眉をひそめた。
「それが体調不良の原因かもしれないな」
玲司の胸が締めつけられた。
冷たい手。
めまい。
突然の疲労。
透花の身体は、何かを失ったまま動いているのかもしれない。
「……ノア」
『はい』
「今の状態って、危険なの?」
『現時点の情報では、危険度を正確に算出できません』
「……そう」
『ただし、継続的な体温低下と魔術回路の不安定性が認められます。早急な精密検査を推奨します』
玲司は頷いた。
今度こそ、医療センターへ連れていく方法を考えなければならない。
彼女を怖がらせずに。
そして、彼女の意思を無視せずに。
◇
「……みんな、何してるの?」
突然、扉の向こうから声がした。
三人が振り返る。
そこには、透花が立っていた。
灰銀色の髪が、朝の光を受けて淡く輝いている。
昨日より顔色は少し良さそうだった。
けれど、肩にはまだ毛布を掛けていた。
「と、透花!」
澪が慌てて立ち上がる。
「おはよ! よく眠れた?」
「……うん。ちょっとだけ」
透花は微笑んだ。
「みんなの声が聞こえたから、来ちゃった」
「そっかそっか!」
澪は素早く机の上の投影画面を消そうとした。
しかし。
「……それ、私?」
透花が画面を指差した。
そこには、彼女の魔術回路が表示されたままだった。
澪の動きが止まる。
玲司も、言葉を失った。
「……私の身体、調べてたんだ」
透花は静かに言った。
怒っている様子はなかった。
ただ、少しだけ寂しそうだった。
「……何か、分かった?」
玲司は朔夜を見た。
朔夜は何も言わず、玲司に視線を返した。
決めるのは、お前だ。
そう言われている気がした。
玲司は息を吸った。
「……透花」
「……うん」
「君の魔術回路に、普通とは違う構造があるみたいなんだ」
透花は黙って聞いていた。
「人工的な回路と似ている部分があって……」
玲司は言葉を選ぶ。
「でも、まだ何も確定してない」
「……人工的?」
「うん」
透花は、自分の手を見つめた。
白く、細い指。
少しだけ震えている。
「……そっか」
小さく呟く。
「だから、私……」
そこで言葉が途切れた。
「……透花?」
「……ううん。何でもない」
透花は笑った。
けれど、その笑顔はどこか不自然だった。
「……私、変なのかな」
玲司は胸が痛くなった。
「……そんなことない」
「でも、私だけ、みんなと違うんでしょ?」
「……それは」
玲司は答えられなかった。
違う。
確かに、違う部分がある。
それを否定することはできない。
けれど。
「……透花」
玲司は、ゆっくりと言った。
「身体の構造が違うからって、君が変だとは思わないよ」
透花が顔を上げる。
「……本当?」
「うん」
玲司は頷いた。
「僕だって、普通じゃない力を持ってる」
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界の自分の経験を読み込む根源魔術。
その力は、玲司自身の記憶を削る。
自分が何者なのかさえ、分からなくなることがある。
「……だから、普通かどうかなんて、僕には分からない」
玲司は苦笑した。
「でも、透花が透花だってことは、分かる」
透花の瞳が揺れた。
「……どうして?」
「だって、君は昨日、僕に約束してほしいって言ったでしょ」
「……うん」
「それは、君が自分で考えて、自分で選んだことだと思うから」
玲司は続けた。
「誰かに命令されたわけじゃない」
透花は黙っていた。
「君が何者なのか、まだ分からない。でも、今ここにいる君が、何を考えて、何を感じてるのかは、ちゃんと知りたい」
透花の目に、涙が浮かんだ。
「……玲司」
「……うん」
「……私、怖い」
小さな声だった。
「自分のこと、何も分からなくなるのが」
玲司は頷いた。
「……うん」
「もし、私が本当に普通の人間じゃなかったら……」
透花は俯いた。
「……みんな、私のこと、嫌いになる?」
その瞬間。
「ならない!」
澪が叫んだ。
透花が驚いて顔を上げる。
「ならないから!」
澪は透花の両手を握った。
「だって、透花は透花じゃん!」
「……澪」
「人工とか普通とか、そんなの関係ないし!」
澪は真剣な顔で続ける。
「あーし、昨日の透花と友達になったんだよ?」
透花の目が見開かれた。
「昨日、ココア飲んで、笑って、明日一緒に朝ごはん食べようって約束したじゃん!」
「……うん」
「だったら、それでいいじゃん!」
澪はにっこり笑った。
「少なくとも、あーしはそう思ってる!」
透花の目から、涙がこぼれた。
「……ありがとう」
「泣かない泣かない!」
澪は慌ててハンカチを取り出した。
「ほら、朝ごはん! 約束したでしょ!」
透花は涙を拭いながら笑った。
「……うん」
朔夜も小さく息を吐く。
「俺も同意見だ」
「……朔夜?」
「お前が何者かは調べる必要がある。でも、それと俺たちがお前をどう扱うかは別の話だ」
朔夜は真剣な顔で言った。
「少なくとも、俺はお前を実験材料として扱うつもりはない」
透花は、しばらく何も言えなかった。
やがて、小さく頷く。
「……ありがとう」
◇
その後、四人は学院の食堂へ向かった。
透花は澪の隣で、温かいスープを飲んでいた。
朔夜は端末で調査資料を確認している。
玲司は、その光景を見つめていた。
普通の朝だった。
誰かと一緒に食事をして。
くだらない話をして。
笑い合う。
それだけの時間。
けれど、透花にとっては、きっと特別なものなのだろう。
『玲司様』
ノアの声が、玲司だけに届くように小さく響いた。
「……なに?」
『昨夜の解析結果について、補足があります』
「……うん」
『篠宮透花様の魔術回路には、通常の人工供物には存在しない高度な記憶処理構造が確認されています』
玲司は頷いた。
『また、その構造の一部に、黒魔術《深淵接触術式》による干渉痕跡が認められます』
玲司の手が止まった。
「……黒魔術?」
『はい』
ノアは続けた。
『地下研究都市で回収された術式記録と、部分的な一致が確認されました』
玲司は息を呑んだ。
やはり。
あの事件と、繋がっている。
「……ノア」
『はい』
「透花のこと、もっと調べよう」
『承知しました』
「でも」
玲司は、透花を見た。
澪に何か言われて、困ったように笑っている。
その表情は、どこからどう見ても普通の少女だった。
「……絶対に、本人の意思を無視しない」
ノアは一瞬、沈黙した。
『……了解しました』
玲司は小さく頷いた。
人工的に作られた身体。
不自然な魔術回路。
消された存在記録。
そのすべてが、透花の正体を示しているのかもしれない。
けれど。
それだけで、彼女のすべてが決まるわけではない。
玲司は、そう信じたかった。
そのとき。
「オタクくん!」
澪の声が響いた。
「何ぼーっとしてんの! 透花が話しかけてるよ!」
「……え?」
玲司は慌てて顔を上げた。
透花が、少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。
「……玲司」
「……うん?」
「……今日も、一緒にいてくれる?」
玲司は、迷わず頷いた。
「……もちろん」
透花は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、玲司は思った。
たとえ彼女が人工的に作られた存在だったとしても。
今、ここにいる彼女を、偽物だとは思えない。
なぜなら。
彼女は、自分の意思で笑っているのだから。
そして、その笑顔を守りたいと願う自分もまた、確かにここにいる。
それだけは、誰にも否定させたくなかった。
しかし。
玲司は、まだ知らなかった。
透花の存在を巡る異変が、すでに学院全体へ広がり始めていることを。
昨日まで当たり前だった日常が、少しずつ書き換えられようとしていることを。
そして。
次に失われるのが、透花の記録だけとは限らないことを。




