覚えていない約束
人は、忘れてしまった約束を守れるのだろうか。
久遠玲司は、その答えを知らなかった。
ただ、ひとつだけ分かっている。
覚えていないという理由で、誰かを傷つけてしまうことがある。
そして、失った記憶は、謝ったところで戻ってこない。
◇
「はい、これ!」
白瀬澪が差し出したのは、湯気の立つ紙コップだった。
「特製ホットココア! あーしが愛情込めて作りました!」
「……自動販売機で買っただけだろ」
伊佐波朔夜が即座に突っ込む。
「細かいこと言わない! 渡すときの気持ちが大事なの!」
「便利な理屈だな」
「朔夜にはあげないから!」
「別に頼んでない」
「じゃあ、これもあーしの!」
「二本買った意味は?」
いつものやり取りだった。
玲司は思わず笑いかける。
けれど、その隣に座る少女は、少しだけ戸惑った顔をしていた。
篠宮透花。
灰銀色の髪をした、存在の記録を持たない少女。
彼女は差し出されたココアを、両手で受け取った。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
澪はにっこり笑う。
「ちゃんと飲んでね。今日、ずっと寒そうだったし」
「……うん」
透花は紙コップに口をつけた。
小さく息を吐く。
「……あったかい」
その言葉を聞いて、玲司は少しだけ安心した。
しかし。
透花の指先は、まだ白かった。
夕方の公園で握った手。
あの異常な冷たさが、どうしても頭から離れない。
『玲司様』
腰の拳銃型デバイスから、ノアの声が響く。
『対象の体温低下は継続しています。医療機関での精査を推奨します』
「……うん」
玲司は小さく答えた。
透花は医療センターを怖がっている。
無理に連れていけば、また逃げ出してしまうかもしれない。
だからといって、放っておける状態でもない。
「……透花」
玲司が声をかけると、少女が顔を上げた。
「明日、もう一度、身体のことを相談させてほしい」
「……病院?」
「うん。でも、いきなり連れていったりしない。どうすれば安心して診てもらえるか、一緒に考えたいんだ」
透花は紙コップを見下ろした。
しばらくして、小さく頷く。
「……分かった」
「ありがとう」
「……お礼を言うのは、私の方だよ」
透花は微笑んだ。
「玲司たち、ずっと私のことを考えてくれてるから」
その笑顔に、玲司は返す言葉を失った。
自分たちは、まだ何も解決できていない。
彼女の過去も。
消えた写真も。
身体の異常も。
分からないことばかりだった。
◇
夜九時を過ぎた頃。
学院の旧演習棟は、すっかり静まり返っていた。
透花の身元が確認できるまで、朔夜が学院の管理担当者と交渉し、使用していない宿泊用の待機室を一晩借りられることになった。
事情は伏せている。
少なくとも、透花を追ってきた黒い戦闘端末の存在が明らかになるまでは、彼女の居場所を不用意に広めるべきではない。
「俺は明日の朝、学院の保管記録をもう一度調べる」
朔夜は端末を操作しながら言った。
「写真の魔術式と、記録保管室で遭遇した戦闘端末。両方に共通する術式があるはずだ」
「……分かった」
「お前は休めよ、玲司」
「うん」
「返事だけじゃなくて、本当に休め」
朔夜の視線が鋭くなる。
「今日も《愚者の選択》(ロードアルカナ)を使っただろ」
「……技術読込だけだよ」
「それでも負荷はある」
朔夜は自分の右肩に軽く触れた。
「俺も無茶をして痛い目を見た。お前まで同じことをするな」
玲司は苦笑する。
「……朔夜に言われると、説得力があるね」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
「お前な」
朔夜は呆れたように息を吐いた。
その表情は、少しだけ柔らかかった。
一方、澪は透花のために毛布を抱えていた。
「はい、これも持ってって!」
「……こんなに?」
「寒いんでしょ? だったら多い方がいいじゃん」
「でも、澪の分は……」
「あーしは平気! 体温高いから!」
「……体温の問題なのかな」
透花が小さく笑う。
澪も笑った。
「そうそう! その顔!」
「……え?」
「透花、笑ってる方がかわいいよ」
透花は目を丸くした。
それから、少しだけ頬を赤らめる。
「……ありがとう」
「よし! じゃ、明日も一緒に朝ごはん食べよ!」
「……明日?」
「そ。パンでもおにぎりでも、好きなの選んでいいから!」
透花は何か言いかけた。
しかし、結局何も言わず、頷いた。
「……うん」
玲司は、その様子を見ていた。
明日。
何気ない言葉だった。
けれど、透花はその一言を、まるで大切なものを受け取ったような顔で聞いていた。
◇
皆が部屋を離れたあと。
玲司は廊下の窓際で、ノートを開いていた。
今日の出来事を、忘れないために。
公園。
写真。
黒魔術。
四人の幻影。
そして、透花の顔だけが見えなかったこと。
ペンを動かすたび、胸の奥が重くなった。
自分の記憶ではないかもしれない。
ノアは、そう言っていた。
あの光景が別世界の自分の経験だとすれば、透花が覚えている思い出は何なのだろう。
彼女の話が本当なのか。
それとも、誰かに作られた記憶なのか。
どちらにしても。
玲司には、確かめる方法がなかった。
「……玲司?」
背後から声がした。
振り返る。
透花が立っていた。
肩には、澪が渡した毛布。
その下から、灰銀色の髪がこぼれている。
「……眠れない?」
玲司が尋ねると、透花は頷いた。
「……ちょっとだけ」
「寒い?」
「……それも、あるけど」
透花は窓の外を見た。
夜の学院。
遠くに見える街の灯り。
その光景を、どこか懐かしそうに眺めていた。
「……玲司は、まだ起きてたんだ」
「うん。今日のことを書いてた」
「……ノート?」
「忘れないように」
透花の表情が、わずかに変わった。
「……そっか」
彼女は玲司の隣に立った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
遠くで時計の針が進む音がする。
やがて、透花が口を開いた。
「……ねえ、玲司」
「うん?」
「昔のこと、ひとつだけ話してもいい?」
玲司は頷いた。
「……聞きたい」
透花は小さく息を吸った。
「……あの公園でね」
窓の外を見つめたまま、話し始める。
「私、昔、泣いたことがあるの」
「……どうして?」
「みんなが、私のことを忘れちゃう夢を見たから」
玲司は顔を上げた。
「……夢?」
「うん」
透花は頷く。
「夢の中でね、澪も、朔夜も、玲司も……みんな、私のことを知らないって言うの」
その声は、穏やかだった。
けれど、指先は毛布を強く握っていた。
「何度名前を呼んでも、振り向いてくれなくて」
玲司は息を呑んだ。
それは。
今、彼女が置かれている状況と、あまりにも似ていた。
「……それで、目が覚めたあと、公園で泣いてたの」
「……一人で?」
「うん」
透花は少し笑った。
「そしたら、玲司が来てくれた」
玲司の胸が、かすかに痛んだ。
「……僕が?」
「うん。何も聞かずに、隣に座ってくれた」
透花は目を閉じる。
その光景を、今もはっきり覚えているようだった。
「私が泣き止むまで、ずっと」
玲司は黙っていた。
自分なら、そうするだろうか。
きっと、する。
泣いている誰かを見つけたら、放っておけない。
それが、自分の知っている自分だった。
「……それでね」
透花が続ける。
「私、玲司に聞いたの」
「……何を?」
透花はゆっくりと目を開けた。
そして、玲司を見つめる。
「もし、みんなが私を忘れても」
その声が、少しだけ震えた。
「玲司だけは、絶対に忘れないって」
玲司は、言葉を失った。
透花は微笑んだ。
「……そう言ってくれたんだよ」
夜の廊下に、静寂が落ちた。
玲司は何も答えられなかった。
覚えていない。
そんな約束をした記憶は、どこにもなかった。
けれど、透花は覚えている。
その言葉を、ずっと大切にしてきたのだろう。
だからこそ。
今、彼女はこんなにも苦しそうな顔をしている。
「……ごめん」
玲司は呟いた。
「僕、その約束を覚えてない」
透花は小さく首を振った。
「……うん。知ってる」
「……本当に、ごめん」
「謝らないで」
透花は笑おうとした。
「玲司が悪いわけじゃないから」
その言葉が、余計につらかった。
玲司は拳を握った。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界の自分の経験を読み込む力。
その力を使えば、あの約束をした自分の記憶に触れられるのかもしれない。
けれど。
その代償として、今の自分が失われるかもしれない。
誰かを思い出すために、別の誰かを忘れる。
そんなことを繰り返していたら、いつか何も残らなくなる。
「……ねえ、玲司」
透花が小さく呼んだ。
「……うん」
「もう一回だけ、お願いしてもいい?」
玲司は顔を上げた。
透花は、泣きそうな顔で笑っていた。
「……もう一回、約束してくれる?」
その言葉は、あまりにも小さかった。
それでも、玲司にははっきり聞こえた。
「今度こそ、私のこと……忘れないって」
玲司は、すぐには答えられなかった。
約束してあげたい。
そう思った。
きっと、簡単なことだ。
頷いて、忘れないと言えばいい。
それだけで、透花は安心するかもしれない。
けれど。
玲司は知っていた。
記憶は、意志だけでは守れない。
どれほど大切に思っていても。
どれほど忘れたくなくても。
失われるときは、失われてしまう。
あの戦いで、玲司はそれを思い知った。
覚えているはずだった思い出が、いつの間にか欠けていた。
幼い頃の自分。
朔夜と過ごした日々。
澪と交わした言葉。
失って初めて、大切だったと気づくものもある。
だから。
守れるか分からない約束を、軽々しく口にしたくなかった。
「……透花」
玲司は静かに言った。
「忘れないって約束は、今の僕にはできない」
透花の表情が、凍りついた。
「……そっか」
小さな声。
「……そう、だよね」
彼女は俯いた。
毛布を握る指が、震えている。
「……ごめんね。変なこと聞いて」
「……違う」
玲司は首を振った。
「そうじゃないんだ」
透花は顔を上げない。
「僕は、君のことを忘れたくない」
玲司は続けた。
「本当に、そう思ってる」
「……でも」
「うん。忘れないって言い切ることはできない」
玲司は一度、言葉を切った。
そして。
「でも、忘れてしまっても、君を見捨てない」
透花が顔を上げた。
「……え?」
「もし、僕が君のことを忘れても」
玲司は、まっすぐ彼女を見つめた。
「君が困っていたら、助ける」
透花の瞳が揺れる。
「君が泣いていたら、話を聞く」
玲司は小さく笑った。
「君が一人でいたら、隣に座る」
透花の唇が震えた。
「……それって」
「たぶん、昔の僕もそうしたんだと思う」
玲司は頷いた。
「覚えていなくても、今の僕はそうしたい」
それは、記憶とは違う。
失われた過去でもない。
今、この瞬間の自分が選んだ答えだった。
「……それなら、約束できる」
透花は、しばらく動かなかった。
やがて。
「……ずるいよ」
小さく呟いた。
「……玲司って、昔からそう」
涙が、一粒こぼれた。
「……私が欲しい言葉とは、ちょっと違うこと言うんだから」
「……ごめん」
「謝らないでってば」
透花は涙を拭った。
それから、笑った。
今度は、ちゃんと笑っていた。
「……でも、ありがとう」
玲司も微笑んだ。
「……うん」
透花は、そっと手を差し出した。
「……じゃあ」
玲司はその手を見つめた。
「……もう一回、友達になってくれる?」
玲司は少しだけ驚いた。
そして。
「……もちろん」
その手を取った。
冷たい手だった。
けれど、透花は嬉しそうに笑っていた。
「……よかった」
彼女は小さく呟く。
「……今度は、ちゃんと覚えていたいな」
玲司は何も言わなかった。
ただ、その手を握り返した。
◇
透花を待機室へ送り届けたあと。
玲司は一人、廊下を歩いていた。
窓の外には、夜の街が広がっている。
遠くの灯りが、星のように瞬いていた。
『玲司様』
ノアの声が響く。
「……なに?」
『先ほどの会話を記録しました』
「……うん」
『約束の内容も保存されています』
玲司は足を止めた。
「……ありがとう」
『ただし、ひとつ確認させてください』
「……何?」
『玲司様は、ご自身の記憶が失われる可能性を理解した上で、あの約束をされたのですか?』
玲司は少し考えた。
「……うん」
『合理的ではありません』
「……そうかな」
『対象の存在記録は不安定です。今後、認識干渉が再発した場合、玲司様が対象を識別できなくなる可能性があります』
「……分かってる」
『その場合、約束を履行できる保証はありません』
玲司は窓の外を見た。
「……ノア」
『はい』
「もし、僕が透花のことを忘れたら」
少しだけ、声が詰まった。
「そのときは、教えてくれる?」
短い沈黙。
『……可能な限り』
「うん」
『ただし、私の記録も干渉を受ける可能性があります』
「……そうだね」
玲司はノートを取り出した。
新しいページを開く。
そして、ゆっくりと書き込んだ。
『篠宮透花』
『灰銀色の髪。寒がり。ココアが好き。』
『昔のことを覚えている少女。』
少し考えて、最後に一行を加える。
『忘れてしまっても、見捨てない。』
玲司はペンを置いた。
これで、十分とは思わない。
けれど、何もしないよりはいい。
『玲司様』
「……うん?」
『手書き記録の保存を推奨します』
「……分かってる」
『それと』
ノアの声が、わずかに変わった。
『対象の身体に関する追加解析が完了しました』
玲司は顔を上げた。
「……透花の?」
『はい』
「……何か分かった?」
『複数の異常を確認しています』
玲司の表情が引き締まる。
「……教えて」
『対象の魔術回路は、通常の人体構造と一致しません』
玲司は息を呑んだ。
「……どういうこと?」
『生体反応は存在します。心拍、呼吸、神経活動も確認されています』
「……うん」
『しかし、魔術回路の配置が不自然です』
ノアは続けた。
『通常、人間の魔術回路は成長過程で形成され、個人差を持ちます』
「……それが?」
『対象の回路には、人工的な接続構造が複数確認されています』
玲司は黙り込んだ。
人工的な接続。
その言葉に、嫌な予感がした。
「……ノア」
『はい』
「それって、何かの手術を受けたってこと?」
『現時点では断定できません』
ノアの声は冷静だった。
『ただし、既知の人工魔術回路と照合した結果、高い類似性が確認されました』
「……何と?」
一瞬。
ノアが沈黙した。
玲司の胸が、不自然に高鳴る。
そして。
『玲司様』
ノアが告げた。
『対象の魔術回路に、人工供物と同種の構造を確認しました』
玲司は、言葉を失った。
◇
人工供物。
その言葉を、玲司は知っていた。
魔術の代償を肩代わりさせるために作られた、人造の生体資源。
自我を持たないことを前提に製造される存在。
それが、一般に知られている人工供物だった。
けれど。
透花は、違う。
笑っていた。
泣いていた。
昔の思い出を語っていた。
そして。
玲司に、約束を求めた。
「……そんな」
玲司は呟いた。
「……透花が?」
『現段階では、対象が人工供物であると断定することはできません』
ノアは続ける。
『しかし、回路構造の一致率は高く、偶然の類似とは考えにくい状態です』
玲司は拳を握った。
冷たい手。
突然のめまい。
医療センターを拒絶した理由。
窓のない白い部屋。
機械の音。
そして。
病院に行ったら、連れ戻される。
透花の言葉が、頭の中で繋がっていく。
「……ノア」
『はい』
「もし、本当に人工供物だったら」
玲司は、震える声で尋ねた。
「……透花は、どうなるの?」
ノアは、すぐには答えなかった。
『詳細な検査が必要です』
「……うん」
『ただし、一般的な人工供物は、長期的な自律生存を前提として設計されていません』
玲司の背筋が冷たくなった。
長期的な自律生存。
その言葉の意味を、理解したくなかった。
「……それって」
玲司は、続きを言えなかった。
ノアも、答えなかった。
ただ、静かな廊下に、機械の低い駆動音だけが響いていた。
玲司は振り返った。
廊下の先。
透花が眠っている待機室。
その扉は、閉ざされている。
つい先ほどまで、彼女は笑っていた。
明日の朝、澪と一緒にご飯を食べると約束していた。
それなのに。
彼女の身体には、何かが起きている。
玲司は、ゆっくりとノートを開いた。
最後の一行。
『忘れてしまっても、見捨てない。』
その文字を、じっと見つめる。
そして、静かに呟いた。
「……約束したんだ」
誰に聞かせるでもなく。
「……今度こそ」
玲司はノートを閉じた。
夜の廊下を、冷たい風が通り抜ける。
遠くで、時計が十時を告げた。
その音は、どこか不吉に響いた。
玲司は、まだ知らない。
透花の身体に残された時間が、どれほど短いのか。
彼女が何者なのか。
なぜ、自分たちの記憶を持っているのか。
そして。
彼女を救うために、どれほど残酷な選択を迫られるのか。
ただ、ひとつだけ。
玲司は決めていた。
たとえ過去を思い出せなくても。
たとえ、彼女が何者だったとしても。
今、目の前にいる少女を。
見捨てることだけは、しない。




