消えた写真
写真には、三人しか写っていなかった。
「……おかしいな」
篠宮透花は、困ったように首を傾げた。
「ここに、私もいたはずなのに」
夕暮れの公園。
古びた掲示板に貼られた一枚の写真を前に、久遠玲司は言葉を失っていた。
写真に写っているのは、幼い頃の自分と、伊佐波朔夜、白瀬澪。
三人とも、笑っている。
けれど。
その隣にいるはずの少女だけが、どこにもいなかった。
◇
話は、一時間ほど前に遡る。
「写真?」
学院の演習準備室で、玲司は聞き返した。
「……うん」
透花は膝の上で手を重ねた。
顔色は先ほどより戻っている。
それでも、時折指先を擦り合わせる仕草が気になった。
「昔、みんなで撮った写真があるの」
「どこに?」
「公園」
透花は少しだけ笑った。
「覚えてない? 大きな滑り台があって、ブランコが二つ並んでるところ」
「あー!」
澪が声を上げた。
「それって、駅の向こうの公園じゃん!」
「……覚えてる?」
「もちろん! 小さい頃、よく遊んでたし」
澪は玲司を指差した。
「オタクくんなんか、あそこの滑り台から落ちて泣いてたよね」
「……それ、僕?」
「そ。あーしが慰めてあげたんだから」
「いや、泣いてたのは澪だろ」
朔夜が横から訂正する。
「玲司が落ちたのを見て、お前が大泣きしたんだ」
「ちょっ、そういう細かいことはいいじゃん!」
澪が頬を膨らませる。
玲司は二人のやり取りを眺めた。
その出来事を、彼自身は覚えていない。
失った幼少期の記憶。
そこに、透花がいるのだろうか。
「……それで、写真って?」
玲司が尋ねると、透花は頷いた。
「公園の改修記念で、みんなの写真を撮ったの。管理人のおじさんが、掲示板に飾ってくれて」
「そんなのあったっけ?」
澪が首を傾げる。
「……俺は覚えてる」
朔夜が答えた。
「ただし、撮ったのは三人だったはずだ」
透花の表情が曇る。
「……四人だよ」
「俺の記憶では三人だ」
朔夜の声は冷静だった。
だが、否定する口調ではない。
「だから、確認しに行こう」
透花が顔を上げた。
「……いいの?」
「ここで考えてても答えは出ないだろ」
玲司も頷いた。
「僕も見てみたい」
透花は小さく笑った。
「……ありがとう」
その笑顔を見たとき、玲司はまた胸の奥に奇妙な懐かしさを覚えた。
初めて会ったはずなのに。
ずっと昔から、その笑顔を知っているような気がした。
◇
公園は、記憶よりも小さかった。
少なくとも、朔夜はそう言った。
「……こんなに狭かったか?」
「子供の頃は何でも大きく見えるもんでしょ」
澪が笑う。
玲司は周囲を見渡した。
錆びたブランコ。
色褪せた滑り台。
砂場の隅に立つ、一本の桜の木。
どれも見覚えがあるようで、ない。
それでも、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……ここ」
透花が呟く。
彼女はブランコへ歩み寄った。
「よく、四人で遊んだよね」
その指先が、鎖に触れる。
「朔夜はいつも一番高く漕いで、澪が負けず嫌いで張り合って」
「え、あーしそんなことしてた?」
「してたよ」
透花はくすりと笑った。
「それで玲司は、危ないからやめようって」
「……言いそうだな、僕」
「言ってた」
透花は振り返る。
「でも、最後は玲司も一緒になって遊んでた」
玲司はブランコを見つめた。
風に揺れる鎖が、きい、と小さく鳴る。
一瞬。
その音が、別のものに聞こえた。
子供たちの笑い声。
誰かが名前を呼ぶ声。
そして。
――玲司、もっと高く!
「……っ」
玲司は額を押さえた。
『玲司様?』
腰のデバイスからノアの声がする。
「……大丈夫」
『脳波に軽微な変動を確認しました』
「……ちょっと、懐かしくなっただけ」
そう答えたものの、自分でも確信はなかった。
透花は心配そうにこちらを見ていた。
「……玲司?」
「うん。平気だよ」
玲司は笑ってみせた。
「それより、写真を探そう」
◇
写真は、まだ残っていた。
公園の奥。
管理棟の壁に取り付けられた、古い掲示板。
透明な保護板の内側に、何枚かの写真が飾られている。
運動会。
地域清掃。
夏祭り。
その中に、一枚だけ色褪せた集合写真があった。
「……これ」
透花が指差した。
「これだよ」
玲司は顔を近づけた。
写真の中央には、幼い朔夜。
その右側に澪。
左側には玲司がいる。
三人とも、満面の笑みを浮かべていた。
だが。
「……透花は?」
澪が呟いた。
写真には、三人しかいなかった。
透花は、しばらく黙っていた。
「……そんな」
かすれた声。
「……どうして?」
玲司は写真を見つめる。
確かに、妙なところがあった。
三人の間隔だ。
玲司と澪の間に、不自然な空白がある。
誰か一人が立てそうなほどの隙間。
しかも、玲司の左手は、何もない空間へ伸びていた。
まるで。
誰かの手を握っているかのように。
「……これ」
玲司は指差した。
「僕、何をしてるんだろう」
朔夜が覗き込む。
「……確かに変だな」
澪も顔を寄せた。
「ねえ、これって……」
言いかけて、口を閉じる。
透花は写真を見つめたまま、動かなかった。
「……私、ここにいたの」
小さな声だった。
「玲司の隣に」
彼女は自分の左手を見下ろす。
「……手、繋いでたんだよ」
玲司の胸が、強く締めつけられた。
何かを思い出しそうになる。
けれど、届かない。
記憶の奥に、薄い膜が張られているようだった。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「写真を調べられる?」
『光学走査を実施します』
青い光が、掲示板を照らした。
『画像の改変痕を検索中』
数秒後。
『通常の画像編集による加工痕は確認できません』
「……じゃあ、最初から三人だった?」
『その結論は早計です』
「……どういうこと?」
『画像表面に、微弱な魔術残留反応があります』
玲司は息を呑んだ。
「……魔術?」
『はい。ただし、既知の画像保存術式とは一致しません』
朔夜の目つきが変わる。
「……黒魔術か」
『可能性があります』
玲司は写真へ手を伸ばした。
「……触ってみてもいいかな」
「待て、玲司」
朔夜が制する。
「魔術反応があるなら危険だ」
「……うん。でも」
玲司は写真を見つめた。
何かが、そこにある。
そんな気がした。
自分が失った記憶。
透花が覚えている過去。
その答えが。
写真の向こう側に、隠れているような。
「……少しだけ」
玲司は保護板の隙間から写真の端へ指を伸ばした。
触れた。
その瞬間。
世界が、反転した。
◇
青い空。
白い雲。
夏の匂い。
玲司は、公園に立っていた。
目の前には、幼い自分。
その隣に朔夜と澪。
そして。
もう一人。
灰銀色の髪をした少女が、笑っていた。
四人。
確かに、四人いた。
「……透花?」
玲司は呟いた。
少女が振り返る。
けれど。
顔が、見えなかった。
輪郭はある。
髪も、服も、手足も。
なのに、顔だけが白く滲んでいる。
まるで、そこだけ切り取られたかのように。
少女が何かを言う。
声は聞こえない。
ただ、口元だけが動く。
――わすれないで。
そう言った気がした。
次の瞬間。
視界が、黒く染まった。
◇
「玲司!」
朔夜の声が響いた。
玲司は現実へ引き戻された。
しかし、足元が揺れている。
いや。
揺れているのは、世界そのものだった。
掲示板から黒い線が伸びていた。
蜘蛛の巣のように地面へ広がり、公園全体を覆っていく。
『警告。黒魔術式の起動を確認』
ノアの声が鋭くなる。
『玲司様、直ちに離脱してください!』
「……っ!」
玲司は後退した。
だが、遅かった。
黒い線が足元で弾ける。
次の瞬間、目の前に幼い朔夜が現れた。
「……玲司」
その声は、ひどく冷たかった。
「お前、俺を見捨てたよな」
玲司は息を呑んだ。
「……朔夜?」
幼い朔夜の顔が歪む。
「助けてくれるって言ったのに」
玲司の胸が痛んだ。
覚えていない。
けれど、何かが違う。
その瞬間。
「玲司、下がれ!」
本物の朔夜が飛び込んできた。
赤い魔術光が拳に宿る。
《アルス・カルニス》。
強化された一撃が、幻影を貫いた。
幼い朔夜の姿が、黒い粒子となって砕ける。
「……今のは?」
「幻影だ!」
朔夜は玲司の前に立った。
「記憶に干渉してくる!」
その背後で、澪が叫ぶ。
「ちょっと待って! あーしの方にも来てる!」
玲司が振り返る。
澪の前には、幼い玲司が立っていた。
その顔は、無表情だった。
「……澪」
幼い玲司が呟く。
「僕、もう君とは遊ばない」
「……っ」
澪の表情が凍る。
「……なに、それ」
幻影は続けた。
「君がいると、迷惑だから」
澪の肩が震えた。
玲司は思わず叫ぶ。
「澪! それ、僕じゃない!」
「……分かってる!」
澪は歯を食いしばった。
「分かってるけど……!」
その声は、少しだけ震えていた。
幻影が手を伸ばす。
澪の足元に、黒い鎖が現れた。
「……っ!」
玲司はデバイスを抜いた。
「ノア!」
『射線確保。魔術弾、使用可能です』
引き金を引く。
青白い光が走り、黒い鎖を撃ち砕いた。
澪が後退する。
「ありがと、オタクくん!」
「……うん!」
しかし、幻影は消えなかった。
むしろ、増えていく。
幼い玲司。
幼い朔夜。
幼い澪。
そして、顔の見えない少女。
四人の影が、公園を埋め尽くしていく。
『玲司様。周辺空間に認識干渉が拡大しています』
「……どうすれば?」
『術式の発動源を特定する必要があります』
「俺がやる!」
朔夜が一歩前へ出た。
右肩を庇いながら、左手を掲げる。
青い魔術光が、指先から広がった。
世界解析術式。
解析術式が空間を走る。
「……見えた」
朔夜の瞳が細くなる。
「発動源は掲示板じゃない」
「……え?」
「写真そのものだ!」
玲司は振り返った。
掲示板の中で、古い写真が黒く染まり始めている。
三人の顔が、ゆっくりと消えていく。
「……まずい!」
玲司は駆け出そうとした。
しかし、足が止まった。
目の前に、もう一人の自分が現れたからだ。
幼い玲司。
その顔には、何の感情もなかった。
「……忘れちゃえばいいんだよ」
幻影が言う。
「覚えてなければ、苦しくない」
玲司の胸が、強く締めつけられた。
忘れる。
その言葉が、何よりも怖かった。
魔術師との戦いで失った記憶。
思い出せなくなった幼少期。
そして、今も少しずつ欠けていく自分自身。
「……違う」
玲司は呟いた。
「……忘れたくない」
幻影が笑う。
「でも、もう忘れてるじゃないか」
その言葉に、玲司は一瞬だけ動けなくなった。
事実だった。
自分は、忘れている。
大切だったはずの何かを。
誰かを。
それでも。
「……だから、取り戻したいんだ」
玲司はデバイスを握り直した。
「忘れたままでいいなんて、思わない」
幻影が手を伸ばす。
玲司は引き金を引いた。
魔術弾が、幼い自分の胸を貫く。
幻影は、音もなく崩れ落ちた。
◇
『玲司様。術式の構造解析を提案します』
ノアの声が響く。
『通常の干渉解除では、記録媒体そのものを破壊する危険があります』
「……写真が消える?」
『はい』
玲司は歯を食いしばった。
それだけは避けたい。
あの写真は、透花が自分の過去を確かめるために見つけたものだ。
そこに彼女が写っていなくても。
何かの手掛かりが残っているかもしれない。
「……別の方法は?」
『記録解析に特化した技術の使用が考えられます』
玲司は息を呑んだ。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)
別世界の自分が持つ経験を読み込む根源魔術。
だが、その使用には危険が伴う。
とくに、存在そのものを読み込む《存在読込》(オーバーロード)は、今の玲司には禁じられていた。
「……技術だけなら?」
『《技術読込》(スキルロード)であれば、負荷を限定できる可能性があります。ただし、安全性は保証できません』
玲司は頷いた。
「……分かった」
デバイスを構える。
「ノア、必要な技術を探して」
『了解しました』
視界の端に、青い文字が浮かぶ。
複数の世界線。
無数の経験。
その中から、ひとつの技術が選び出される。
『適合候補を検出』
『記録媒体干渉解析技術』
『接続を開始します』
玲司の意識に、知らない知識が流れ込んできた。
複雑な魔術回路。
記録情報の構造。
黒魔術による認識改変の仕組み。
理解したことのないはずの理論が、頭の中で組み上がっていく。
「……っ」
こめかみに痛みが走った。
だが、耐えられる。
玲司は写真を見つめた。
黒い術式が、見えた。
写真の表面に刻まれた、細い魔術回路。
その中心に、小さな結節点がある。
「……見つけた」
玲司は呟いた。
「朔夜! 写真の右下!」
「……右下?」
「そこに、術式の核がある!」
朔夜は青魔術を集中させた。
「……確認した!」
その直後。
黒い幻影が一斉に襲いかかる。
「オタクくん!」
澪が叫んだ。
白い光が、彼女の手元に集まる。
神話顕現術式。
柔らかな光が三人を包み込み、幻影の動きを一瞬だけ鈍らせた。
「今!」
玲司はデバイスを構えた。
狙うのは写真そのものではない。
右下の、ごく小さな術式核。
そこだけを切り離す。
「……ノア!」
『射撃補正完了』
引き金を引く。
青白い魔術弾が走った。
写真の右下に、光が突き刺さる。
黒い線が弾けた。
次の瞬間。
公園を覆っていた幻影が、一斉に砕け散った。
◇
静寂が戻った。
風が吹く。
ブランコが、きい、と鳴った。
「……終わった?」
澪が息を吐く。
『黒魔術式の停止を確認しました』
ノアが答えた。
『周辺の認識干渉も解除されています』
玲司は膝に手をついた。
頭が痛い。
だが、意識ははっきりしている。
「……玲司、大丈夫か?」
朔夜が近づいてくる。
「……うん」
「無理するなよ」
「……分かってる」
玲司は顔を上げた。
掲示板の写真。
そこには、まだ三人が写っていた。
幼い玲司。
幼い朔夜。
幼い澪。
そして。
誰もいない空白。
「……戻らないんだ」
玲司は呟いた。
透花が、ゆっくりと近づいてくる。
写真を見つめる。
長い沈黙。
やがて。
「……そっか」
彼女は小さく笑った。
「……やっぱり、私いないんだね」
その声が、ひどく寂しかった。
「……透花」
玲司は何か言おうとした。
けれど、言葉が見つからなかった。
写真には、確かに三人しかいない。
それが、目の前の事実だった。
透花はしばらく写真を見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……私、ちゃんと覚えてるのに」
玲司は顔を上げた。
「みんなで遊んだことも」
透花の声が震える。
「写真を撮ったことも」
彼女は自分の胸元を押さえた。
「……玲司が、手を繋いでくれたことも」
玲司は何も言えなかった。
透花は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……なのに、どうして」
その瞳に、涙が浮かぶ。
「どうして、私だけいないの?」
玲司は、そっと手を伸ばした。
透花の手を取る。
冷たい。
やはり、驚くほど冷たかった。
「……分からない」
玲司は正直に答えた。
「僕にも、まだ分からない」
透花は俯いた。
「……でも」
玲司は続けた。
「僕、見たんだ」
透花が顔を上げる。
「……何を?」
「写真に触れたとき、四人で笑ってるところが見えた」
透花の瞳が揺れる。
「……四人?」
「うん」
玲司は頷いた。
「君も、そこにいた」
透花は息を呑んだ。
「……ほんと?」
「……うん」
玲司は少しだけ言葉を詰まらせた。
「ただ、顔ははっきり見えなかった」
透花の表情が曇る。
玲司は続けた。
「だから、まだ確かなことは言えない」
それでも。
「……君が嘘をついてるとは、思わない」
透花の目から、涙が一粒こぼれた。
「……玲司」
彼女は、握られた手を見つめた。
「……ありがとう」
玲司はその手を、少しだけ強く握り返した。
写真に写っていなくても。
記録が残っていなくても。
今、目の前にいる少女の涙だけは。
決して、偽物には見えなかった。
◇
帰り道。
夕陽が、四人の影を長く伸ばしていた。
玲司は歩きながら、ノートを開く。
今日の出来事を書き留めるためだった。
『公園の写真には、三人しか写っていなかった。』
『黒魔術による干渉を確認。解除後も写真は変化なし。』
『《愚者の選択》によって、四人の光景を見た。』
そこまで書いて、ペンを止める。
四人。
確かに、四人いた。
けれど。
あれは本当に、自分の記憶だったのだろうか。
それとも。
別世界の自分が見た光景だったのだろうか。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「さっきの映像、記録できてる?」
『一部のみ保存されています』
「……見せて」
玲司の視界に、小さな映像が浮かぶ。
公園。
幼い三人。
そして、もう一人。
だが。
四人目の少女の顔だけが、黒く塗り潰されていた。
『玲司様』
「……なに?」
『先ほどの光景について、ひとつ報告があります』
玲司は足を止めた。
『あの映像は、現在の玲司様の記憶領域から取得されたものではありません』
「……え?」
『《愚者の選択》(ロードアルカナ)による接続反応と同期していました』
玲司の背筋が冷たくなった。
「……それって」
『別世界の記憶が流入した可能性があります』
玲司は言葉を失った。
透花が語る、四人の幼少期。
自分が見た、四人の光景。
それらは、本当にこの世界の出来事なのだろうか。
玲司は前を歩く透花を見た。
澪と並んで歩きながら、彼女は小さく笑っている。
その笑顔は、どこか儚かった。
玲司はノートを閉じた。
まだ、答えは出ない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
写真には、三人しか写っていなかった。
それでも。
今、夕陽の下を歩いているのは。
確かに、四人だった。




