冷たい手
冷たい。
それが、玲司の最初の感想だった。
腕の中で崩れ落ちた透花の手は、まるで冬の屋外に長時間放置されていたかのように冷え切っていた。
「透花! しっかりして!」
呼びかけても返事がない。
灰銀色の髪が頬にかかり、閉じた瞼は微動だにしなかった。
「オタクくん、透花ちゃんは!?」
澪が駆け寄ってくる。
「急に倒れて……!」
「ちょっと見せて!」
澪は透花の顔を覗き込み、その頬に触れた。
「……冷たっ」
いつもの明るい声が消えた。
「なにこれ。手も顔も、すっごく冷たいんだけど」
『玲司様。対象の生命徴候を確認します』
「ノア、お願い!」
『非接触走査を開始』
拳銃型デバイスの側面に、青い光が走った。
数秒。
その短い時間が、ひどく長く感じられた。
『心拍を検出。呼吸も確認できます』
「……よかった」
『ただし、末梢体表温が著しく低下しています。循環状態にも異常の疑いがあります』
「危険なの?」
『現時点では断定できません。医療設備による精密検査を推奨します』
玲司は透花を抱え直した。
彼女の身体は軽かった。
制服越しに伝わる体温も、妙に乏しい。
「朔夜、医療センターに――」
「待て」
朔夜が制した。
「その前に、ここを出るぞ」
周囲を見渡す。
倒れた書架。散乱した資料。黒い端末の残骸。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいていた。
「学院警備だ。事情を説明するにしても、ここじゃ危険だ」
「……うん」
玲司は頷いた。
そのとき。
「……だめ」
小さな声が聞こえた。
腕の中で、透花の瞼が震えている。
「……透花?」
「……行っちゃ、だめ」
彼女は薄く目を開いた。
焦点の定まらない瞳が、玲司を見上げる。
「……どこにも、連れていかないで」
その声は、怯えた子供のようだった。
◇
旧資料保管室から二つ離れた、使われていない演習準備室。
朔夜が学院警備へ状況を報告している間、玲司と澪は透花を長椅子に寝かせていた。
幸い、透花の意識は戻っていた。
ただし、顔色は悪いままだ。
「はい、これ」
澪が紙コップを差し出す。
「自販機で買ってきた。あったかいやつ」
「……ありがとう」
透花は両手で受け取った。
けれど、指先が震えている。
紙コップを持つことさえ、少し辛そうだった。
「持てる?」
「……うん。大丈夫」
そう答えた直後、カップが傾いた。
「あっ」
玲司が慌てて支える。
幸い、中身はこぼれなかった。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
玲司はカップを机に置いた。
「無理しないで」
透花は俯いた。
膝の上で握り合わせた手が、小さく震えていた。
澪はその隣に腰を下ろす。
「ねえ、透花ちゃん。こういうこと、前にもあった?」
「……こういうこと?」
「急に倒れたり、ふらふらしたり」
透花は少し考えた。
「……うん」
玲司が顔を上げる。
「いつから?」
「分からない」
「……分からない?」
「気づいたら、そうなってたから」
透花は困ったように笑った。
「最初は、ちょっと疲れやすいだけだったの。少し歩くと息が上がって、たまに目の前が暗くなって」
「それって、いつ頃から?」
「……最近、かな」
曖昧な答えだった。
「昨日は?」
「昨日も、少し」
「一昨日は?」
「……たぶん」
玲司は眉を寄せた。
昨日も、一昨日も。
それなのに、誰にも相談していなかった。
「……病院には行った?」
透花は首を横に振った。
「一度も?」
「……うん」
「どうして?」
問いかけた途端、透花の表情が変わった。
微笑みが消える。
膝の上の指が、ぎゅっと握られた。
「……行けないから」
「行けない?」
「……私、身分証明できないし」
玲司は言葉に詰まった。
確かに、彼女の学院在籍記録は存在しない。
学生証はある。
しかし、写真は消えてしまった。
それが本人のものだと証明する手段もない。
「でも、緊急なら診てもらえるよ」
「……そう、なの?」
「うん。少なくとも、診察をお願いすることはできる」
透花は少しだけ安心したように見えた。
だが。
「……それでも、嫌」
はっきりと拒絶した。
玲司は瞬きをする。
「……どうして?」
透花は答えなかった。
代わりに、部屋の扉を見つめる。
まるで、誰かが入ってくるのを恐れているように。
「透花ちゃん?」
澪が声をかける。
透花は唇を噛んだ。
「……病院に行ったら」
かすれた声。
「きっと、連れ戻される」
室内が静まり返った。
◇
「……連れ戻される?」
玲司は聞き返した。
「誰に?」
「……分からない」
「どこに?」
「……それも、分からない」
透花は俯いた。
「でも、嫌なの」
声が震える。
「白い部屋に、戻りたくない」
玲司の胸がざわついた。
「……白い部屋?」
透花は頷いた。
「明るくて、静かで……ずっと、機械の音がしてる」
彼女は目を閉じた。
「目を開けても、窓がなくて。誰かが話してる声だけが聞こえて……」
「……誰か?」
「男の人、だったと思う」
透花の呼吸が浅くなる。
「でも、顔が思い出せない」
澪がそっと背中に手を添えた。
「無理に思い出さなくていいよ」
「……ごめん」
「だから、謝んなくていいって」
澪は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
透花の怯え方が、あまりにも切実だったからだ。
玲司は考える。
白い部屋。
機械の音。
窓のない場所。
そして、彼女を回収しようとした黒い戦闘端末。
無関係とは思えなかった。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「さっきの端末、何か分かった?」
『残骸から取得できた情報は限定的です』
「……そう」
『ただし、通常の学院警備用端末とは設計思想が異なります』
「どういうこと?」
『対象の制圧よりも、記憶情報の照合と回収を優先する構造です』
玲司は透花を見た。
少女は不安そうに、こちらを見つめ返している。
『また、第三個体は篠宮透花様への接触後、識別処理に矛盾を生じさせました』
「……やっぱり、透花を探してたんだよね」
『その可能性は高いと考えられます。ただし、回収命令の発信元は不明です』
誰かが、彼女を探している。
そして、彼女自身はその誰かを恐れている。
それだけは確かだった。
玲司は透花の目線に合わせて、椅子を引き寄せた。
「……透花」
「……なに?」
「君が嫌がってる場所に、無理やり連れていくつもりはないよ」
透花の瞳が揺れた。
「……ほんと?」
「うん」
「……でも」
彼女は自分の手を見下ろした。
「私、変なんだよ」
「……変?」
「みんなが覚えてないことを覚えてるし、私の名前はどこにもなくて」
透花は笑おうとした。
「それに、こんなふうに倒れちゃう」
その笑顔は、ひどく痛々しかった。
「……私、本当にここにいていいのかな」
玲司は答えられなかった。
彼女が何者なのか。
どこから来たのか。
何ひとつ分かっていない。
それでも。
「……いていいと思う」
気づけば、そう答えていた。
透花が顔を上げる。
「……どうして?」
「君が、ここにいるから」
玲司は自分でも不器用な答えだと思った。
けれど、ほかの言葉が見つからなかった。
「僕たちが覚えてないからって、君がいなくなるわけじゃないし」
「……玲司」
「それに、今は身体のことを考えないと」
玲司は少しだけ身を乗り出した。
「病院が怖いなら、別の方法を探そう。でも、診てもらわずに大丈夫だって決めるのは危ないよ」
透花は黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……うん」
その返事に、玲司は少しだけ安堵した。
◇
「で、結局どうする?」
朔夜が戻ってきたのは、それから十分ほど後だった。
右肩を庇うように制服の襟を直しながら、部屋へ入ってくる。
「警備への説明は?」
「済ませた。端末の残骸は学院側が回収する」
「……透花のことは?」
「名前は出してない」
朔夜は短く答えた。
「正体不明の第三者を狙う端末が現れた、とだけ報告した」
玲司は目を見開いた。
「……いいの?」
「本当のことだろ」
「……それは、そうだけど」
「問題は、これからだ」
朔夜は透花へ視線を向けた。
「身体の具合は?」
「……少し、よくなった」
「そうか」
朔夜は頷いた。
「なら、ひとつ確認したい」
透花が顔を上げる。
「お前、今どこで生活してる?」
「……え?」
「家だよ。帰る場所はあるのか?」
透花は口を開いた。
だが、言葉が出てこない。
「……それは」
しばらくして、彼女は小さく首を振った。
「……分からない」
朔夜の表情が険しくなる。
「分からないって、住所が?」
「……うん」
「家族は?」
「……覚えてない」
玲司は息を呑んだ。
透花は膝の上で指を絡めた。
「玲司たちと遊んだことは、覚えてるの」
ぽつり、ぽつりと話し始める。
「公園も、学校も、帰り道も」
けれど。
「そのあと、どこに帰ったのかが……思い出せない」
玲司は何も言えなかった。
四人で過ごしたという幼少期。
その記憶は、驚くほど鮮明だった。
なのに、彼女自身の生活については曖昧なまま。
思い出が、途中で途切れている。
「……最近は、どこで寝てたの?」
澪が尋ねる。
「……駅の近くとか」
「駅?」
「人があんまり来ないところ」
澪の表情が固まった。
「……ちょっと待って」
透花は不思議そうに首を傾げる。
「……どうしたの?」
「どうしたの、じゃないって!」
澪は思わず声を上げた。
「そんなとこで寝てたら、身体壊すじゃん!」
「……でも」
「でもじゃない!」
透花がびくりと肩を震わせる。
澪は慌てて口を押さえた。
「あ……ごめん。怒ってるわけじゃなくて」
少しだけ声を落とす。
「心配してるの」
透花は目を瞬かせた。
「……心配?」
「そ。めちゃくちゃ心配」
澪は真剣な顔で続けた。
「寒いところで寝て、ちゃんと食べてるかも分かんなくて、そのうえ倒れるとか」
「……ごめんね」
「謝らなくていいから!」
また声が大きくなる。
澪は深呼吸した。
「……とにかく、今日は一人にできない」
朔夜も頷く。
「同感だ」
玲司は透花を見た。
「……どうかな。僕たちと一緒に、もう少し休まない?」
「……いいの?」
「うん」
透花は三人を順番に見つめた。
やがて、泣きそうな顔で笑った。
「……ありがとう」
その声は、とても小さかった。
◇
夕方。
学院の窓から差し込む光が、橙色に変わっていた。
透花は長椅子に座り、澪が持ってきた温かい飲み物を少しずつ口にしている。
先ほどより顔色は戻っていた。
それでも、玲司には気になることがあった。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「透花の身体、もう少し詳しく調べられる?」
『可能な範囲であれば』
「お願い」
『了解しました。非接触走査を再開します』
玲司はデバイスを机に置いた。
青い光が、静かに点滅する。
『体表温、前回測定時より上昇』
「……よかった」
『ただし、通常の生体反応とは異なる変動を確認しています』
玲司は眉を寄せた。
「……異なる?」
『魔術回路の活動に、周期的な低下が見られます』
「魔術回路?」
『はい。通常、魔術師の回路活動は使用魔力や身体状態によって変化します。しかし、篠宮透花様の場合は――』
ノアの声が止まった。
「……ノア?」
『失礼しました。測定値に不整合が発生しました』
「……どういうこと?」
『一部の解析結果が取得直後に消失しています』
玲司の背筋が冷たくなった。
まただ。
学生証の写真。
学院の記録。
そして、ノアの保存データ。
透花に関する情報だけが、少しずつ消えていく。
「……記録しておいて」
『承知しました。ただし、保存の完全性は保証できません』
「……分かってる」
玲司は鞄からノートを取り出した。
昨日から続けている、手書きの記録。
ページを開く。
そこには、透花について分かったことが書かれていた。
名前。
灰銀色の髪。
四人で過ごしたという幼少期。
存在しない在籍記録。
黒い追跡者。
そして。
玲司は新しい一行を書き加えた。
『透花の手は、異常に冷たかった。』
ペンを止める。
何気なく顔を上げると、透花がこちらを見ていた。
「……玲司」
「……なに?」
「それ、何を書いてるの?」
「君のこと」
透花は目を丸くした。
「……私の?」
「うん。忘れないように」
その言葉に、透花はしばらく黙っていた。
そして。
「……そっか」
小さく笑った。
「……嬉しいな」
玲司は少しだけ照れくさくなって、視線をノートへ戻した。
「……まだ、分からないことばかりだけど」
「……うん」
「ちゃんと調べるから」
透花は頷いた。
けれど、その表情にはどこか寂しさが残っていた。
「……ねえ、玲司」
「……何?」
「もし、調べても何も出てこなかったら?」
玲司は顔を上げた。
「……え?」
「私がここにいた証拠が、ひとつも見つからなかったら」
透花は自分の手を見つめた。
「……そのときは、どうする?」
玲司は答えに迷った。
彼女の記憶を信じるべきなのか。
記録を信じるべきなのか。
今はまだ、判断できない。
それでも。
「……それなら」
玲司はノートを閉じた。
「これから証拠を作ればいいんじゃないかな」
透花が瞬きをする。
「……これから?」
「うん」
玲司は少し考えてから続けた。
「少なくとも、今日のことは本当だから」
透花は目を見開いた。
「僕たちは今日、ここで話した。朔夜も澪も、君のことを知ってる」
玲司はノートを軽く叩いた。
「それは、消えないように残しておく」
透花は何も言わなかった。
ただ、じっと玲司を見つめていた。
やがて。
「……玲司って」
彼女は小さく笑った。
「昔から、そういうところ変わらないね」
「……そうかな」
「うん」
透花は窓の外へ目を向けた。
「誰かが困ってると、自分のことなんか後回しにしちゃう」
玲司は返事ができなかった。
それは、澪や朔夜にも何度か言われたことだった。
けれど、初めて会ったはずの少女に言われると、不思議な感覚がした。
懐かしい。
そんなはずはないのに。
どこかで、同じ言葉を聞いたことがあるような。
「……ねえ」
透花が、そっと手を差し出した。
「……もう一回、手を握ってくれる?」
玲司は戸惑った。
「……手?」
「うん」
透花は少し恥ずかしそうに笑う。
「さっき、倒れたとき……玲司が支えてくれたでしょ」
「……うん」
「あのとき、安心したの」
彼女の指先が、わずかに震えた。
「……だから、もう一回だけ」
玲司は少し迷ってから、その手を取った。
冷たい。
やはり、驚くほど冷たかった。
透花は目を閉じた。
「……あったかい」
小さな声だった。
玲司は、その手を握り返した。
自分の体温が、少しでも伝わればいいと思った。
だが。
ふと、気づく。
透花の手は、ずっと冷たいままだった。
温かい飲み物を飲んでも。
暖房の効いた部屋で休んでも。
自分が握っていても。
まるで、その身体の奥に、熱を作る何かが足りないかのように。
玲司は不安を覚えた。
けれど、その理由は分からない。
透花は目を開き、穏やかに笑った。
「……ありがとう、玲司」
その笑顔を見て、玲司は何も言えなくなった。
ただ。
この手を離してはいけない。
そんな気がした。
◇
その夜。
学院の旧資料保管室では、回収された戦闘端末の残骸が調査されていた。
黒く焼け焦げた装甲。
砕けた魔術回路。
そして、内部に残されていた、ごく小さな記録媒体。
学院の調査担当者が解析を試みる。
しかし、端末を接続した瞬間。
画面が暗転した。
数秒後。
黒い背景に、白い文字が浮かび上がる。
『回収対象:識別不能』
『記憶照合:失敗』
『存在記録:不一致』
調査担当者は眉を寄せた。
「……何だ、これ」
次の瞬間。
画面に、新しい文字が現れた。
『対象の生体維持状態を確認』
『外部補助:未接続』
『警告』
『自律維持限界まで――』
そこで、表示が途切れた。
記録媒体が小さく発熱し、内部回路が焼き切れる。
調査担当者は慌てて接続を解除した。
画面は、二度と点灯しなかった。
残されたのは、最後まで表示されなかった警告だけ。
そして、その頃。
学院から離れた場所で。
篠宮透花は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いていた。
「……寒い」
両手を胸元へ引き寄せる。
けれど、指先は温まらない。
「……どうして、こんなに寒いんだろう」
その問いに答える者は、まだいなかった。




