存在しない生徒
篠宮透花という生徒は、存在しない。
それが、天城魔術学院の公式記録が示した結論だった。
「……やっぱり、ないな」
伊佐波朔夜が端末から顔を上げた。
放課後の学院資料室。
窓のない部屋には、古い書架と閲覧用端末が整然と並んでいる。空調の低い唸りだけが、静かな室内に響いていた。
「過去十年間の在籍者名簿、転入記録、卒業者一覧。全部調べたが、篠宮透花という名前は一件もない」
「……そうなんだ」
久遠玲司は、手元の学生証を見つめた。
名前は残っている。
篠宮透花。
だが、写真には誰も写っていない。
昨日まで確かに存在した少女の姿だけが、綺麗に消えていた。
「ねえ、それってさ」
隣から白瀬澪が覗き込む。
「そもそも偽物の学生証って可能性はないの?」
「俺も考えた」
朔夜は端末に学生証の拡大画像を表示した。
「ただ、校章の刻印も識別回路も本物だ。しかも、現行の学生証とは規格が違う」
「古いやつってこと?」
「ああ。七年前に廃止された形式だ」
「七年前?」
玲司が顔を上げる。
「でも、あの子は僕たちと同じくらいの年齢に見えたよ」
「だから妙なんだ」
朔夜は画面を切り替えた。
「七年前の学生証なら、今の俺たちが持ってるはずがない。少なくとも、普通の入学手続きじゃ発行されない」
「じゃあ、誰かが昔の学生証を使って……」
「そこまでは分からない」
朔夜は腕を組んだ。
「問題は、これが本物なら発行履歴が残っているはずだってことだ」
『補足します』
玲司の腰に収められた拳銃型魔術デバイスから、ノアの声が響いた。
『学生証の識別回路には、製造時に固有番号が付与されます。通常、発行管理記録と照合することで所有者を特定できます』
「ノア、調べられる?」
『学院の許可された照会範囲では、該当番号を確認できません』
「……また、ないんだ」
『はい。ただし、番号そのものは正規の形式です』
玲司は小さく息を吐いた。
名前がある。
学生証もある。
なのに、発行した記録がない。
まるで、少女の存在だけが世界から切り取られているようだった。
「……もっと古い記録は?」
玲司が尋ねると、朔夜は部屋の奥を指さした。
「電子化される前の資料が、あっちにあるらしい」
重そうな扉。
その横には《旧資料保管室》と書かれた金属板が取りつけられていた。
「閲覧許可は取った。行ってみよう」
「おっ、さすが朔夜!」
澪が立ち上がる。
「こういうとき頼りになるよねー。オタクくんとは大違い」
「……僕、そんなに頼りない?」
「えー? そんなことないよ?」
澪はにっこり笑った。
「オタクくんにはオタクくんのいいところがあるし」
「……例えば?」
「んー……」
澪は少し考えた。
「困ってる女の子を放っておけないところ?」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!」
朔夜が苦笑する。
「お前ら、調査する気あるのか?」
「あるある。めっちゃある」
澪は笑いながら扉へ向かった。
玲司もその後を追う。
ただ、胸の奥には小さな不安が残っていた。
もし、本当に何も見つからなかったら。
あの少女は、いったい何者なのだろう。
◇
旧資料保管室には、紙の匂いが満ちていた。
壁一面の書架。
積み重なった保存箱。
古い魔術式の封印が施された書類棚。
電子記録への移行以前、学院で使用されていた資料が保管されているらしい。
「うわ、すっご……」
澪が目を丸くした。
「こういうの、まだ残ってるんだ」
「魔術関連の資料は、電子化できないものもあるからな」
朔夜は書架の番号を確認した。
「特に古い黒魔術の記録は、媒体そのものに術式が残ってる場合がある」
「え、何それ。触ったら呪われる系?」
「可能性はゼロじゃない」
「そこはゼロって言ってよ!」
澪が慌てて手を引っ込める。
玲司は思わず笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
書架の奥。
薄暗い通路の向こうに、誰かが立っていた。
灰銀色の髪。
白い肌。
見覚えのある制服。
「……あ」
少女が顔を上げた。
玲司と目が合う。
そして、驚いたように瞬きした。
「……玲司?」
その声を聞いた瞬間、胸が強く跳ねた。
「……篠宮さん?」
少女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「よかった。覚えててくれたんだ」
玲司は動けなかった。
昨日、突然現れて。
自分たちの幼なじみだと名乗り。
黒い戦闘端末に襲われたあと、姿を消した少女。
篠宮透花が、目の前に立っていた。
「……君、どこに行ってたの?」
「え?」
「昨日、急にいなくなったから……」
透花は困ったように首を傾げた。
「昨日?」
「うん。教室で会ったでしょ?」
「……ああ」
透花の表情が、わずかに曇った。
「ごめんね。あのあと、ちょっと怖くなっちゃって」
「怖く?」
「うん」
彼女は胸元を押さえた。
「追いかけてくる人がいたから」
玲司は息を呑んだ。
やはり、昨日の戦闘端末は彼女を狙っていたのだ。
「……あれは、何だったの?」
「分からない」
透花は首を横に振った。
「でも、ずっと探されてる気がするの」
「誰に?」
「……分からない」
その答えは、嘘には聞こえなかった。
むしろ、本人も何かに怯えているようだった。
「玲司」
背後から朔夜が声をかけた。
「その子が?」
「……うん」
玲司は頷いた。
「篠宮透花さん」
透花は朔夜を見た。
そして、ぱっと表情を明るくした。
「……朔夜!」
彼女は駆け寄ろうとして、足を止めた。
「……あ」
朔夜は困惑していた。
透花の笑顔が、少しずつ消える。
「……そっか」
彼女は小さく呟いた。
「朔夜も、覚えてないんだ」
「悪い」
朔夜は率直に答えた。
「俺には、君と会った記憶がない」
「……うん」
透花は俯いた。
「そうだよね」
「でも、話は聞いてる。玲司たちと昔から知り合いだったって?」
「……うん」
透花は頷く。
そのときだった。
「……ねえ」
澪が、二人の間に顔を出した。
「もしかして、透花ちゃん?」
透花の顔が上がる。
「……澪!」
次の瞬間、彼女は澪へ駆け寄った。
「久しぶり!」
「わっ!」
透花は澪の両手を握った。
澪は目を白黒させる。
「え、ちょ、ちょっと待って!」
「元気だった? 髪、伸びたね!」
「え、う、うん……?」
「昔はもっと短かったのに」
透花は嬉しそうに笑った。
「でも、似合ってる。すごく可愛い」
「……あ、ありがと」
澪は珍しく調子を崩していた。
いつもなら初対面の相手にも物怖じしない。
けれど今は、透花の勢いに完全に押されている。
「……ねえ、透花ちゃん」
「何?」
「あーしたち、本当に会ったことあるの?」
透花の笑顔が止まった。
「……え?」
「ごめん。あーしも、全然覚えてなくて」
透花は、ゆっくりと手を離した。
「……そっか」
その声は、驚くほど小さかった。
「……みんな、忘れちゃったんだね」
玲司は胸が痛んだ。
目の前の少女は、三人に会えたことを心から喜んでいた。
なのに。
誰一人として、彼女を覚えていない。
「……篠宮さん」
玲司は一歩近づいた。
「よかったら、話を聞かせてくれないかな」
透花が顔を上げる。
「僕たちが、昔どういう関係だったのか」
「……信じてくれるの?」
「まだ、分からない」
玲司は正直に答えた。
「でも、知りたいんだ」
透花はしばらく玲司を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……うん」
◇
「最初に四人で遊んだのは、駅の近くの公園だったよ」
古い閲覧机を囲んで、透花は話し始めた。
「大きな滑り台があって、ブランコが二つあって。あと、変な形のジャングルジム」
「……それ、城南公園か?」
朔夜が尋ねる。
「そう! 覚えてる?」
「公園は知ってる。昔、よく遊んでたからな」
透花の表情が明るくなる。
「でしょ!」
彼女は嬉しそうに続けた。
「朔夜、あそこの滑り台から落ちたことあるんだよ」
「……は?」
「玲司が慌てて駆け寄って、澪が泣きそうになって」
「待て」
朔夜が眉を寄せた。
「俺が落ちたのは滑り台じゃない」
「……え?」
「ジャングルジムだ」
透花の表情が止まった。
「……そう、だったっけ?」
「ああ。あのときは玲司も一緒に登ってた」
玲司は二人を見比べた。
自分には、その記憶がない。
けれど、朔夜ははっきり覚えているようだった。
「……私、滑り台だと思ってた」
透花が小さく呟く。
「でも、他は合ってるんだよね?」
「玲司が駆け寄ってきたのは本当だ」
朔夜は頷いた。
「ただ、澪は泣いてなかったぞ」
「え?」
「むしろ俺に怒ってた。危ないところに登るからだって」
「……あー」
澪が手を叩いた。
「それ、覚えてる!」
透花が顔を上げる。
「本当?」
「うん。朔夜、めっちゃ怒られてたよね」
「……お前、昔から容赦なかったからな」
「だって危なかったじゃん!」
三人の間に、小さな笑いが生まれた。
しかし。
透花だけは、少し困ったように笑っていた。
「……そっか」
彼女は呟いた。
「ちょっと、違うんだね」
玲司は、その言葉を聞き逃さなかった。
違う。
透花は、間違えたとは言わなかった。
まるで、別の出来事を覚えているかのように。
「……他にも、覚えてることある?」
玲司が尋ねる。
透花は頷いた。
「うん。いっぱいあるよ」
彼女は指を折りながら話し始めた。
「四人で一緒に帰った道。雨の日に傘が足りなくて、玲司と私が相合傘したこと」
「……えっ?」
澪が反応した。
「相合傘?」
「うん」
「オタクくんと?」
「そうだよ」
透花は不思議そうに首を傾げた。
「澪もいたでしょ?」
「……いた、の?」
澪が玲司を見る。
玲司は慌てて首を振った。
「ぼ、僕も覚えてないから!」
「……ふーん」
澪は目を細めた。
「オタクくん、昔からそういうことしてたんだ?」
「だから覚えてないって!」
朔夜がため息をついた。
「お前ら、話が進まないぞ」
透花は小さく笑った。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「……あとね」
彼女は続ける。
「玲司が朔夜を助けた日」
室内の空気が変わった。
朔夜の表情が引き締まる。
「……それも知ってるのか」
「うん」
透花は頷いた。
「玲司、すごく怖がってた」
玲司は目を伏せた。
覚えていない。
それでも、朔夜を助けたという事実は知っている。
「でも、逃げなかった」
透花の声が、少しだけ柔らかくなる。
「何度倒されても立ち上がって、朔夜の前に立ったの」
玲司の胸が、微かに痛んだ。
その光景が、見える気がした。
夕暮れ。
砂埃。
泣いている誰か。
そして、震える自分の手。
「……玲司はね」
透花は微笑んだ。
「昔から、そういう子だったんだよ」
玲司は何も言えなかった。
自分の知らない自分を、少女が知っている。
それが、怖かった。
けれど同時に。
少しだけ、嬉しかった。
◇
「……ねえ、透花ちゃん」
澪が口を開いた。
「一つ聞いていい?」
「うん」
「あーしが、オタクくんって呼び始めた日のことも覚えてる?」
透花は、ぱっと笑った。
「もちろん!」
「……本当?」
「うん。あの日、玲司が図書室で魔術の本を読んでたんだよね」
玲司は顔を上げた。
澪も、少し驚いたようだった。
「澪がそれを見て、『うわ、オタクくんじゃん』って」
「……あー」
澪が小さく声を漏らす。
「それ、なんか覚えてるかも」
「でしょ?」
透花は嬉しそうに身を乗り出した。
「それから、ずっとオタクくんって呼ぶようになったんだよ」
「……うん」
澪は頷きかけた。
しかし、すぐに眉を寄せた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや……違う」
澪は首を振った。
「あーしが最初にオタクくんって呼んだの、図書室じゃないよ」
「……え?」
「たしか、玲司の家」
透花の表情が止まった。
「……家?」
「うん。玲司がゲームの攻略本を山ほど並べててさ」
澪は少し笑った。
「それ見て、オタクくんって呼んだんだよ」
朔夜も頷いた。
「ああ。俺もその場にいた」
「……そう、なんだ」
透花は俯いた。
玲司は、彼女の指先が微かに震えていることに気づいた。
「……篠宮さん?」
「……ごめん」
透花は小さく笑った。
「私、また間違えちゃったみたい」
「……ううん」
玲司は首を振った。
「間違えることくらい、誰にでもあるよ」
「……でも」
透花は唇を噛んだ。
「私、ちゃんと覚えてるのに」
その声には、確かな困惑があった。
「図書室だったんだよ」
玲司は息を呑んだ。
「玲司が窓際で本を読んでて、澪が後ろから覗き込んで」
透花は、必死に言葉を重ねる。
「朔夜は隣で宿題してて、私は……」
そこで、言葉が止まった。
「……私は」
透花の目が揺れる。
「……何してたんだっけ」
沈黙。
玲司は、彼女の顔を見つめた。
透花は何かを思い出そうとしていた。
けれど、思い出せない。
まるで、そこだけ記憶に穴が開いているようだった。
「……ごめんね」
透花は俯いた。
「私、変だよね」
誰も答えられなかった。
玲司は、胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。
彼女の話は、嘘には聞こえない。
けれど、事実とも一致しない。
それなのに。
話を聞くたびに、懐かしさだけが強くなっていく。
図書室。
窓際。
魔術の本。
笑う澪。
宿題をする朔夜。
そして。
その隣に、もう一人。
誰かがいたような気がした。
『玲司様』
ノアの声が響く。
『根源魔術の微弱な反応を検出しました』
「……え?」
『現在、玲司様の魔術回路に外部記憶との共鳴が発生しています』
玲司は息を止めた。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界の自分の経験を読み込む能力。
その魔術が、何もしていないのに反応している。
「……ノア」
『はい』
「今のって……」
『詳細は不明です。ただし、篠宮透花様の発話内容と反応時刻が一致しています』
玲司は透花を見た。
少女は、不安そうにこちらを見つめている。
「……玲司?」
その声を聞いた瞬間。
玲司の脳裏に、知らない光景が浮かんだ。
夕暮れの図書室。
窓際の机。
笑っている澪。
呆れた顔の朔夜。
そして。
灰銀色の髪の少女が、玲司の隣に座っていた。
「……っ!」
玲司は額を押さえた。
光景は、一瞬で消えた。
「玲司!」
朔夜が立ち上がる。
「大丈夫か?」
「……うん」
玲司は息を整えた。
「大丈夫」
嘘だった。
今の光景は、何だったのか。
失った記憶なのか。
それとも。
最初から、自分のものではない記憶なのか。
玲司は透花を見つめた。
彼女もまた、玲司を見つめていた。
その瞳には、期待と不安が入り混じっている。
「……玲司」
透花が、小さく尋ねた。
「……少しは、思い出した?」
玲司は答えられなかった。
思い出した、と言えば。
彼女はきっと喜ぶだろう。
けれど。
それが本当に自分の記憶なのか、分からない。
「……ごめん」
玲司は静かに答えた。
「まだ、分からない」
透花の表情が曇る。
それでも、彼女は小さく頷いた。
「……そっか」
そして、無理に笑った。
「……大丈夫。まだ時間はあるもんね」
その言葉を聞いたとき。
玲司は、なぜか胸がざわついた。
まだ時間はある。
本当に、そうなのだろうか。
透花は笑っていた。
けれど、その顔色は、先ほどより少しだけ白くなっていた。
◇
透花が席を外したあと、朔夜が低い声で言った。
「……どう思う?」
「分からない」
玲司は正直に答えた。
「でも、嘘をついてるようには見えない」
「俺もそう思う」
朔夜は腕を組んだ。
「ただ、記憶が一致しないのは気になる」
「……うん」
「玲司。お前の能力が反応したんだよな?」
「そうみたい」
朔夜は考え込んだ。
「別世界の記憶、か……」
玲司は顔を上げた。
「……朔夜?」
「いや、可能性の話だ」
朔夜は首を振った。
「お前の《愚者の選択》(ロードアルカナ)は、別世界の自分の経験を読み込む。だったら、あの子が語っている記憶も……」
「……別世界のもの?」
「そういう可能性もある」
玲司は黙り込んだ。
もし、そうなら。
透花の記憶は、嘘ではない。
ただ、この世界の出来事ではないだけだ。
けれど。
そんなことが、本当にあり得るのだろうか。
「……ねえ」
澪が口を開いた。
「あーし、ちょっと気になることがあるんだけど」
「何だ?」
朔夜が尋ねる。
「透花ちゃんさ」
澪は、少女が出ていった扉を見つめた。
「……なんで、あーしたちのこと探してたんだろ」
玲司は息を呑んだ。
「……どういうこと?」
「だって、昔の友達に会いたいだけなら、もっと普通に来ればよくない?」
澪は続けた。
「でも、あの子、なんか必死だったじゃん」
玲司は思い出した。
昨日の教室。
透花が最初に口にした言葉。
――やっと、見つけた。
あれは、偶然再会した相手に向ける言葉ではなかった。
ずっと探していた。
何かから逃げながら。
それでも、玲司たちに会おうとしていた。
「……確かに」
玲司が呟く。
そのとき。
『玲司様』
ノアの声が響いた。
『確認を推奨します』
「……何?」
『篠宮透花様の生体反応について、通常の人間とは異なる傾向を検出しました』
玲司は顔を上げた。
「……異なる?」
『詳細解析には、より近距離での測定が必要です』
ノアは一拍置いた。
『ただし、現在の測定結果には、説明困難な点があります』
「……何が?」
『体表温度が、周囲の環境温度に対して異常に低い状態です』
玲司は扉を見つめた。
透花は、さっきまでそこにいた。
笑っていた。
話していた。
昔の思い出を、嬉しそうに語っていた。
けれど。
その身体には、何かが起きている。
「……ノア」
『はい』
「今のこと、記録しておいて」
『了解しました』
玲司は学生証を握りしめた。
存在しない生徒。
誰も覚えていない幼なじみ。
この世界にはない記憶。
そして、異常な身体。
少女の謎は、深まるばかりだった。
それでも。
玲司は、もう一度彼女に会いたいと思った。
なぜなら。
透花が笑ったとき。
その笑顔を見て、確かに胸が温かくなったからだ。
たとえ、その理由が分からなくても。
たとえ、彼女の記憶が本物ではなかったとしても。
今、目の前にいる少女が悲しんでいることだけは、確かだった。
玲司は、静かに立ち上がった。
「……探そう」
朔夜が顔を上げる。
「何を?」
「篠宮さんのこと」
玲司は答えた。
「本当に、どこから来たのか」
澪が微笑む。
「……うん」
朔夜も頷いた。
「ああ。最後まで調べよう」
三人は、資料室の扉へ向かった。
その向こうで。
誰にも聞こえないほど小さな声が、漏れた。
「……よかった」
扉の陰。
透花は、壁に手をついて立っていた。
呼吸が、少しだけ荒い。
指先は、氷のように冷たかった。
「……まだ」
彼女は胸元を押さえた。
「……まだ、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして、震える足で歩き始めた。
彼女は知らなかった。
自分の身体が、すでに限界へ向かっていることを。
そして。
自分が覚えている思い出の中に、この世界で起きた出来事が一つもないことを。




