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知らないはずの名前

 少女の顔だけが、消えていた。

「……どういうこと?」

 久遠玲司は、手の中の学生証を見つめていた。

 昨日までは、確かに写っていた。

 灰銀色の髪。透き通るような白い肌。少し寂しそうな、けれど人懐っこい笑顔。

 その少女の姿が、写真から綺麗に消えている。

 残っているのは、誰も立っていない校舎の廊下だけだった。

 名前の欄には、今も文字がある。

 ――篠宮透花。

 玲司は指先でその名前をなぞった。

「ノア。昨日の記録は?」

『現在、照合中です』

 机の上に置かれた黒い拳銃型魔術デバイスから、澄んだ声が返ってくる。

『昨日十六時四十二分、玲司様は本教室において身元不明の少女と接触。その後、黒魔術式の戦闘端末と交戦しました』

「少女の映像は?」

『記録されていません』

「……え?」

『正確には、記録領域が存在します。しかし、映像情報のうち少女に該当する部分のみ欠落しています』

 玲司は眉を寄せた。

「消されたってこと?」

『可能性はあります。ただし、通常の情報消去とは異なります。映像上の欠損箇所には、不自然な補完処理が確認されています』

「補完……?」

『最初から、そこに誰もいなかったかのように』

 玲司は学生証を握り直した。

 昨日の戦闘を思い出す。

 突然消えた照明。

 黒い制服の戦闘端末。

 数秒前の出来事を忘れさせる不可解な攻撃。

 そして、戦闘が終わったときには姿を消していた少女。

 夢だったのではない。

 右腕には、敵の攻撃を受けたときの擦過傷が残っている。

 それなのに、少女が存在した証拠だけが消えていた。

『玲司様』

「……何?」

『確認事項があります。昨日の少女の顔を、現在も正確に思い出せますか?』

「もちろん」

 即答しかけて、玲司は口を閉じた。

 灰銀色の髪。

 白い肌。

 笑顔。

 そこまでは覚えている。

 だが、目の形は?

 鼻筋は?

 笑ったとき、どちらの頬にえくぼができただろう。

「……あれ?」

 記憶の中の少女は、確かに笑っている。

 なのに、顔の細部だけが曖昧だった。

 玲司の背中を、冷たいものが伝った。

 また、忘れている。

 あの地下施設で、別世界の自分を読み込みすぎたときと同じように。

『玲司様。呼吸数が上昇しています』

「……大丈夫」

 そう答えながら、玲司は学生証を鞄にしまった。

 大丈夫なはずがなかった。

 自分の記憶が、どこまで信用できるのか。

 玲司には、もう分からなかった。

     ◇

「篠宮透花?」

 伊佐波朔夜は、聞き慣れない名前を繰り返した。

「知らないな」

「……やっぱり」

「どうした。新しい知り合いか?」

「それが……」

 昼休み。

 玲司は学院の中庭で、朔夜と向かい合っていた。

 地下研究都市の事件から約二週間。

 学院は平常授業を再開していたが、あちこちに修復工事の跡が残っている。

 朔夜の右肩にも、まだ薄い固定具が巻かれていた。

 それでも本人は気にする様子もなく、購買で買ったパンを頬張っている。

「昨日、会ったんだ。その子に」

「どこで?」

「教室」

「で?」

「僕たちの幼なじみだって言われた」

 朔夜の手が止まった。

「……俺たちの?」

「うん。僕と朔夜と澪。それから、その子の四人で、昔は一緒にいたって」

 朔夜は数秒考え込んだ。

「悪い。心当たりがない」

「そうだよね」

「お前の記憶が抜けてるのは知ってる。けど、俺まで忘れてるっていうのは……」

「うん」

 玲司も、そこが引っかかっていた。

 自分が忘れているだけなら、説明はつく。

 《存在読込》(オーバーロード)の反動で、幼少期の記憶をいくつか失っている。

 だが、朔夜は違う。

 彼は、玲司と出会った日のことを今でも覚えていた。

 玲司自身が忘れてしまった出来事を、つい先日、教えてくれたばかりだ。

「その子、昔のことを知ってたんだ」

「どんな?」

「僕が子供の頃、誰かを助けようとして怪我したこととか」

 朔夜の表情が変わった。

「……それ、俺のことか?」

「分からない。でも、たぶん」

「俺がいじめられてた頃の話なら、知ってる奴は少ないぞ」

 朔夜はパンの袋を畳んだ。

「名前、もう一回言ってくれ」

「篠宮透花」

「……篠宮」

 朔夜は目を閉じた。

 何かを探すように、しばらく沈黙する。

 しかし、やがて首を横に振った。

「駄目だ。思い出せない」

「そっか」

「ただ、気になるな」

「何が?」

「そいつが本当に俺たちを知ってるなら、どうして今まで姿を見せなかった?」

 玲司は答えられなかった。

 それは、自分も聞きたかったことだ。

 少女は、ようやく会えたという顔をしていた。

 ずっと探していた相手を見つけたような。

 けれど、なぜ今なのか。

 なぜ、誰も彼女を覚えていないのか。

「その学生証、見せてくれ」

 玲司は鞄から学生証を取り出した。

 朔夜は写真を見て、眉をひそめる。

「……誰も写ってないぞ」

「昨日は写ってたんだ」

「本当に?」

「うん」

 朔夜は学生証を裏返した。

「天城魔術学院の旧式だな。発行形式は本物に見える」

「分かるの?」

「昔、学院の資料整理を手伝ったことがある。細かい仕様は覚えてる」

 さすがだ、と玲司は思った。

 朔夜は、こういうところでも努力を惜しまない。

「ただし、これだけじゃ本人が在籍してた証拠にはならない」

「……うん」

「調べよう」

 朔夜はあっさり言った。

「え?」

「学院の記録だ。名前があるか確認すればいい」

「でも、朔夜。肩がまだ……」

「資料を読むのに肩は使わないだろ」

「……それは、そうだけど」

「それに」

 朔夜は少しだけ笑った。

「お前がそんな顔してるの、放っておけないからな」

 玲司は返す言葉を失った。

 昔、朔夜を助けたときの自分も、同じようなことを考えていたのだろうか。

 覚えていない。

 それでも、不思議と嬉しかった。

     ◇

「え、何それ。めっちゃ怖くない?」

 白瀬澪は、玲司の話を聞くなり目を丸くした。

「知らない女の子が突然現れて、幼なじみですって? しかも写真から消えた?」

「……うん」

「オタクくん、それ普通に怪談じゃん」

「僕も、そう思う」

「いや、そこは否定してよ!」

 澪が大げさに肩を落とす。

 放課後の教室。

 窓から差し込む西日が、三人の机を橙色に染めていた。

 授業が終わったばかりの教室には、まだ数人の生徒が残っている。

 そんな日常の光景が、玲司には少しだけありがたかった。

「で、その子の名前は?」

「篠宮透花」

「……とうか?」

「うん」

 澪は小さく首を傾げた。

「聞いたことないなぁ」

「そっか……」

「でもさ、オタクくん」

「何?」

「知らない女の子と二人きりで教室にいたってこと?」

「え?」

「しかも、その子が昔の約束とか語り始めたわけ?」

「……うん」

 澪はじっと玲司を見つめた。

「ふーん」

「……澪?」

「別に?」

 明らかに別に、という顔ではなかった。

 朔夜が横で小さく笑う。

「お前、今そこ気にするところか?」

「気にしてないし!」

「そうか?」

「そうだし!」

 澪は頬を膨らませた。

 玲司は困惑しながら二人を見比べる。

 何かまずいことを言ったのだろうか。

『玲司様。現在の会話について、補足説明が必要ですか?』

 机の上のデバイスからノアの声が響く。

「……いや、いい」

『承知しました。なお、玲司様の状況判断能力については、引き続き改善の余地があると考えられます』

「ノアまで……」

 澪が吹き出した。

「あはは! ノアちゃん、分かってるじゃん!」

『ありがとうございます、澪様』

 いつものやり取り。

 いつもの三人。

 玲司の肩から、少しだけ力が抜けた。

 しかし。

「……そういえば」

 澪が、ふと呟いた。

「その子、どんな見た目だったの?」

「えっと……灰銀色の髪で」

「……銀色の髪?」

 澪の声が変わった。

 玲司は顔を上げる。

「うん。長さは肩より少し下くらいで、肌が白くて……」

「……なんか」

 澪は言いかけて、口を閉じた。

「澪?」

「……聞いたことある気がする」

 玲司の胸が跳ねた。

「本当?」

「うん……いや、分かんない」

 澪は額に指を当てた。

「なんだろ。昔、そんな子がいたような……」

「思い出せる?」

「ちょっと待って」

 澪は目を閉じる。

 教室の喧騒が遠ざかった。

 玲司は息を潜めた。

 数秒。

 十秒。

 澪の眉が、少しずつ寄っていく。

「……あれ?」

 彼女が小さく呟く。

「変だな」

「どうした?」

 朔夜が尋ねる。

「なんか、思い出せそうなのに……」

 澪は目を開けた。

「……駄目。全然出てこない」

「無理しなくていいよ」

 玲司が言うと、澪は困ったように笑った。

「ごめんね、オタクくん」

「ううん」

「でも、ほんとに変なの」

「……何が?」

「その子のこと、知らないはずなんだよ」

 澪は窓の外へ目を向けた。

「なのに、名前を聞いたとき……」

 そこで言葉を切る。

「……なんか、寂しくなった」

 玲司は何も言えなかった。

 澪自身も、自分の感情を説明できないようだった。

「変だよね。会ったこともない子なのに」

 彼女は笑おうとした。

 けれど、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。

     ◇

 学院の在籍記録に、篠宮透花という生徒はいなかった。

 それが、その日の夕方に得られた結論だった。

 学生管理端末の検索結果は、何度試しても同じ。

 《該当者なし》。

 名前の漢字を変えても、読みだけで検索しても結果は変わらない。

「転校生の記録にもないな」

 朔夜が端末を操作する。

「過去の在籍者は?」

「今閲覧できる範囲にはない。古い記録は別の保管室だ」

「……そっか」

 玲司は学生証を取り出した。

 名前は、まだ残っている。

 篠宮透花。

 この名前だけが、少女の存在を証明していた。

『玲司様。提案があります』

「何?」

『現時点で確認できる情報を、複数の形式で保存することを推奨します』

「また消されるかもしれないから?」

『はい。特に、電子記録以外の保存方法が有効である可能性があります』

 玲司は鞄からノートを取り出した。

 そして、最初のページに名前を書いた。

 篠宮透花。

 灰銀色の髪。

 白い肌。

 僕たちの幼なじみだと名乗った少女。

 昨日、教室で会った。

 黒い戦闘端末に襲われた。

 戦闘後、姿を消した。

 書き終えて、玲司はペンを止めた。

 何か、もう一つ。

 大切なことを忘れている気がした。

「……ノア」

『はい』

「昨日、あの子は僕に何か言ってたよね」

『複数の発話が確認されています』

「最後に」

 ノアは少し間を置いた。

『戦闘開始直前の発話記録には、欠損があります』

「……そっか」

 玲司は目を閉じた。

 少女の声を思い出す。

 柔らかくて、どこか懐かしい声。

 あの子は、何と言っていた?

 ――やっと、見つけた。

 ――私たち、昔は四人で一緒にいたんだよ。

 そして。

 もう一つ。

 何かを言いかけていた。

 玲司は目を開けた。

「……朔夜」

「どうした?」

「僕、やっぱり調べたい」

「分かってる」

「澪も……」

「あーしも付き合うよ」

 澪はいつもの笑顔を浮かべた。

「だって、気になるじゃん。その子が何者なのか」

 玲司は頷いた。

 そのときだった。

『玲司様』

 ノアの声が、わずかに低くなる。

『保存記録に異常を検出しました』

「……え?」

『昨日の戦闘記録について、追加の欠損が発生しています』

「追加?」

『はい。少女の音声記録が、現在進行形で消失しています』

 玲司は息を呑んだ。

 昨日の記録が、今も消され続けている。

「止められる?」

『試みています。しかし、干渉元を特定できません』

「……そんな」

 玲司は慌ててノートを見た。

 自分で書いた文字は、そこに残っている。

 篠宮透花。

 名前は消えていない。

 玲司はそのページを強く押さえた。

 もし、この文字まで消えてしまったら。

 もし、少女の顔も、声も、名前も、すべて忘れてしまったら。

 自分は、彼女が存在したことさえ分からなくなるのだろうか。

 そのとき、澪がぽつりと呟いた。

「……ねえ、オタクくん」

「……何?」

「その子、もしかして」

 澪は言いかけて、首を振った。

「……ううん。何でもない」

「澪?」

「ごめん。変なこと考えちゃった」

 澪は笑った。

 けれど、その指先は、制服の裾を強く握っていた。

 玲司は気づいてしまった。

 澪も、何かを恐れている。

 本人にさえ、理由の分からない何かを。

 窓の外では、夕日が沈み始めていた。

 玲司はノートを閉じる。

 そこには、知らないはずの少女の名前が残っている。

 誰も覚えていない少女。

 記録から消された少女。

 それなのに、なぜか懐かしい少女。

 玲司は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 ――本当に、僕はあの子を知らないのだろうか。

 答えは出なかった。

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 少女は昨日、玲司を見て笑った。

 ずっと会いたかった人に、ようやく会えたような顔で。

 そして玲司は、その笑顔を見たとき。

 ほんの一瞬だけ。

 自分も、彼女を待っていたような気がしたのだ。

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