存在しない再開
久遠玲司には、思い出せない約束がある。
誰と交わしたのか。
いつ交わしたのか。
何を約束したのか。
そのすべてを、忘れてしまった。
ただ、時折夢を見る。
夕暮れの公園。
錆びついたブランコ。
遠くで笑う子供たち。
そして、誰かが泣いている。
玲司はその子に手を伸ばす。
大丈夫だよ、と声をかけようとする。
けれど、いつもそこで目が覚めた。
顔も、名前も、思い出せないまま。
◇
「……また、駄目か」
天城魔術学院、高等部二年の教室。
放課後の窓際で、玲司は小さく息を吐いた。
机の上には一冊のノートが開かれている。
表紙に書かれた文字は、《今日という日》。
二週間前、玲司が自分でつけた名前だった。
中には、思い出せなくなった出来事が書き留められている。
朔夜と初めて出会った日。
澪と遊んだ公園。
三人で初めて学院の入学試験を受けた日のこと。
そのほとんどが、他人から聞いた話だった。
『本日の記憶照合を終了しました』
机の上に置かれた拳銃型魔術デバイスから、落ち着いた声が響く。
『新規の記憶回復は確認されませんでした』
「……そっか」
『ただし、直近十四日間の記憶保持率は安定しています。追加の欠落も認められません』
「それは、よかった」
玲司は苦笑した。
デバイスに搭載された固有AI、ノア。
彼女は地下研究都市での事件以来、玲司の記憶状態を記録し続けていた。
二週間前。
玲司は、自分の根源魔術の正体を知った。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
別世界に存在する自分の経験を読み込み、現在の自分に反映する能力。
それは、経験のない少年に、熟練した戦士の技術を与える。
だが、代償は大きかった。
別世界の人生を深く読み込むほど、自分自身の記憶が曖昧になる。
特に《存在読込》(オーバーロード)は危険だった。
他人の人生を借りるのではない。
別世界の自分を、現在の自分に重ねる。
あのとき玲司は、確かに敵を倒した。
しかし、その代わりに幼少期の思い出をいくつも失った。
「……ねえ、ノア」
『はい、玲司様』
「忘れた記憶って、もう戻らないのかな」
『現時点では判断できません』
「そうだよね」
『ですが、失われた記憶と同じ出来事を再び経験することは不可能でも、新しい記憶を形成することはできます』
玲司は顔を上げた。
『それは、以前にも確認した事項です』
「……うん」
あの日、澪が言ってくれた。
忘れたなら、何度でも教えてあげる、と。
朔夜も言ってくれた。
また覚えればいい、と。
玲司はノートを閉じた。
「今日はここまでにしよう」
『了解しました。なお、医療センターからの指示を再確認します。根源魔術の高負荷使用は禁止。通常魔術についても――』
「分かってるよ。必要最低限、でしょ?」
『はい。玲司様は過去二週間で三度、訓練制限を超過しかけています』
「……そこまで記録してるんだ」
『当然です』
ノアの声には、どこか呆れたような響きがあった。
玲司は小さく笑い、デバイスをホルスターへ収めた。
教室には、もう誰もいない。
窓の外では、夕日が校舎を赤く染めていた。
帰ろう。
そう思って鞄を持ち上げたときだった。
「……玲司?」
背後から、声がした。
◇
聞き覚えのない声だった。
けれど。
なぜか、懐かしかった。
玲司は振り返る。
教室の入り口に、一人の少女が立っていた。
灰銀色の髪。
肩より少し下まで伸びた髪が、夕日を受けて淡く輝いている。
白い肌。
細い手足。
学院の制服に似た服を着ていたが、胸元の校章は見慣れない形だった。
少女は、玲司を見るなり目を見開いた。
そして。
「……やっと、見つけた」
泣きそうな顔で笑った。
玲司は動けなかった。
その笑顔を、どこかで見た気がした。
いや。
見たことがあるはずがない。
「……君は?」
少女の笑顔が、少しだけ曇る。
「ひどいな」
彼女は一歩、教室へ入った。
「私のこと、忘れちゃった?」
「……ごめん。どこかで会ったことがある?」
「あるよ」
即答だった。
「何回も。数えきれないくらい」
少女は、当たり前のことを話すように続けた。
「玲司、昔から変わらないね。困ったとき、すぐ眉を下げるところ」
玲司は思わず自分の眉に触れた。
少女が小さく笑う。
「ほら。また」
「……僕の名前を知ってるんだ」
「当然でしょ」
少女は首を傾げた。
「朔夜は元気? あの子、昔から無茶するから」
玲司の表情が変わった。
「……朔夜を知ってるの?」
「知ってるよ。澪も」
少女は懐かしそうに目を細めた。
「澪はまだ、玲司のこと『オタクくん』って呼んでる?」
心臓が、一度だけ強く跳ねた。
それは、知らない人間が偶然口にするには、あまりにも具体的な言葉だった。
「……君、いったい」
「ねえ、玲司」
少女は質問を遮った。
「覚えてる?」
その声が、わずかに震えた。
「昔、朔夜が泣いてたとき。玲司、一人で年上の子たちに向かっていったんだよ」
玲司は息を呑んだ。
その話は、つい最近、朔夜から聞いたばかりだった。
自分が忘れてしまった思い出。
「何度も転んで、顔まで血だらけになって。それでも立ち上がったの」
少女は笑った。
けれど、その目は潤んでいた。
「私、怖くて何もできなかった。澪も泣いてて、朔夜なんてずっと震えてた」
玲司の胸に、奇妙な痛みが走った。
知らない。
そんな場面は覚えていない。
なのに。
夕暮れの公園。
砂埃。
誰かの泣き声。
一瞬だけ、そんな光景が脳裏を横切った。
「……っ」
『玲司様。脳活動に一過性の変動を確認』
ノアの声が響く。
『根源魔術の自発的反応を検出しました。負荷は軽微ですが、注意してください』
玲司は額を押さえた。
「……今のは」
「玲司?」
少女が心配そうに近づく。
「大丈夫?」
「う、うん……」
差し出された手。
白く細い指先。
それを見た瞬間、玲司はなぜか胸が苦しくなった。
その手を、以前にも握ったことがある。
そんな確信だけが、突然生まれた。
「……君の名前は?」
少女は少し驚いたように瞬きした。
そして、困ったように笑った。
「……そっか。本当に忘れちゃったんだ」
玲司は何も言えなかった。
少女は、ゆっくりと口を開く。
「私たち、昔は四人で一緒にいたんだよ」
四人。
玲司。
朔夜。
澪。
そして。
「……君も?」
「うん」
少女は頷いた。
「ずっと、一緒だった」
その声は、嘘をついているようには聞こえなかった。
むしろ、玲司が覚えていないことを、心から悲しんでいるようだった。
「……ごめん」
玲司は俯いた。
「僕、本当に思い出せなくて」
「いいよ」
少女は優しく言った。
「覚えてなくても」
そして、もう一歩近づく。
「また、最初から――」
そこで。
教室の照明が消えた。
◇
夕日まで消えた。
窓の外が、黒く塗り潰される。
「……え?」
玲司が顔を上げる。
『警告。周辺空間に黒魔術式の展開を確認』
ノアの声が鋭くなった。
『玲司様。直ちにデバイスを構えてください』
玲司は反射的にホルスターへ手を伸ばした。
その瞬間。
教室の後方。
何もなかった空間に、黒い亀裂が走った。
亀裂が縦に開く。
そこから、一人の人影が現れた。
黒い制服。
無機質な白い仮面。
両腕には、細い魔術回路が走っている。
人間に似ている。
だが、人間ではない。
その足音には、重さがなかった。
『記録外存在を確認』
仮面の奥から、機械的な声が響く。
『回収を開始する』
少女の顔から血の気が引いた。
「……うそ」
彼女は後ずさった。
「どうして……ここまで……」
「知ってるの?」
玲司が尋ねる。
しかし、少女は答えなかった。
ただ、震える声で呟いた。
「……逃げて」
次の瞬間。
黒い人影が消えた。
『玲司様。回避!』
ノアの警告。
玲司は横へ跳ぶ。
直後、机が真っ二つに裂けた。
「……っ!」
黒い刃が、空間を切り裂いている。
敵の右腕から伸びた魔術刃だった。
玲司は床を転がり、拳銃型デバイスを構える。
「ノア、敵の情報!」
『黒魔術系統の戦闘端末と推定。術式構造は未登録です』
「分かった!」
引き金を引く。
青白い魔術弾が放たれた。
しかし、敵は首を傾けただけで回避した。
速い。
玲司は二射目を放とうとする。
その瞬間。
視界が、わずかに揺れた。
「……あれ?」
玲司は教室の中央に立っていた。
銃口は下を向いている。
目の前には、黒い人影。
だが。
なぜ、自分はここにいる?
さっきまで、何をしていた?
『玲司様! 左へ回避してください!』
「……え?」
衝撃。
玲司の身体が横へ吹き飛んだ。
机に背中を打ちつけ、肺から空気が抜ける。
「が……っ!」
『直前四・二秒間の行動記憶に欠落を確認!』
ノアが告げる。
『敵の攻撃には、短期記憶への干渉が伴っています!』
「……記憶?」
玲司は歯を食いしばった。
敵を見る。
右腕を振り上げている。
次は斜めから斬撃が来る。
そう判断した。
しかし。
次の瞬間には、もう敵が目の前にいた。
「……っ!」
避けた記憶がない。
避けようとした記憶さえない。
黒い刃が、玲司の頬を掠めた。
血が飛ぶ。
『玲司様! 敵の術式は攻撃と同時に、直前の行動記憶を消去しています!』
「……そんなの、どうやって……!」
戦えというのか。
敵の動きを見ても、次の瞬間には忘れてしまう。
攻撃を受けた理由が分からない。
防御の失敗を、次に活かせない。
経験が、積み重ならない。
玲司の脳裏に、別世界の戦士たちの記憶がよぎった。
《愚者の選択》(ロードアルカナ)。
それを使えば、戦えるかもしれない。
だが。
『玲司様。根源魔術の高負荷使用は推奨できません』
「……分かってる」
また、忘れるかもしれない。
大切な思い出を。
大切な誰かを。
玲司は奥歯を噛みしめた。
「……ノア」
『はい』
「君は、覚えていられる?」
ノアは即答した。
『はい。現在、外部記録への逐次保存を実行しています』
「だったら……」
玲司は銃を握り直した。
「僕が忘れても、君が教えて」
『了解しました』
敵が動く。
『右後方から攻撃が来ます』
「……分かった!」
玲司は考えるより先に身体を動かした。
右へ踏み込む。
敵の刃が、左肩のすぐ横を通り過ぎる。
玲司は至近距離から発砲した。
命中。
黒い制服の胸元に火花が散る。
しかし、敵は止まらない。
左腕を伸ばしてくる。
玲司は、それを見た。
そして。
忘れた。
「……あれ?」
『しゃがんでください!』
玲司は反射的に膝を折った。
頭上を黒い刃が通過する。
髪が数本、宙に舞った。
「……危なかった」
『玲司様。現在の戦闘では、ご自身の記憶による判断を最小限にしてください』
「……うん」
『私の指示を信頼してください』
玲司は小さく頷いた。
「信じるよ」
敵が再び迫る。
『左へ二歩』
玲司は動く。
『銃口を上方十五度』
構える。
『発砲』
魔術弾が放たれる。
敵の肩を撃ち抜いた。
黒い火花。
しかし、敵は体勢を崩しながらも前進する。
『右へ回避』
玲司は床を蹴った。
次の瞬間、また記憶が飛んだ。
けれど。
『そのまま前進』
声がある。
『三歩』
身体が動く。
『発砲』
引き金を引く。
記憶が途切れても、ノアの声は途切れない。
玲司は、ようやく理解した。
敵は、記憶を奪う。
だが。
今この瞬間の判断まで、すべて奪えるわけではない。
そして、自分には。
忘れたことを、教えてくれる相棒がいる。
「……ノア」
『はい』
「次で、決めよう」
『了解しました。敵の動作傾向を解析します』
黒い人影が、両腕を広げた。
教室の床に、黒い魔術陣が浮かび上がる。
その中心から、無数の刃が伸びた。
逃げ場はない。
玲司は息を呑んだ。
『玲司様。敵の攻撃直後、胸部魔術回路が一・八秒間露出します』
「……そこを撃てばいい?」
『はい。ただし、接近が必要です』
玲司は一瞬だけ迷った。
医療センターの警告。
根源魔術の使用制限。
失われた記憶。
それらが脳裏をよぎる。
けれど、もう決めていた。
借り物の人生に頼らず、自分の足で戦う。
あの日、朔夜と交わした約束だ。
「……行くよ」
『了解』
玲司は走った。
黒い刃が降り注ぐ。
『右』
避ける。
『左』
踏み込む。
『伏せてください』
床を滑る。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
また、記憶が飛ぶ。
自分がどこにいるのか、分からない。
けれど。
『玲司様。今です』
ノアの声が響いた。
玲司は顔を上げた。
目の前に、敵の胸部。
黒い装甲が開き、赤い魔術回路が露出している。
「……っ!」
銃口を押しつける。
引き金を引いた。
閃光。
轟音。
魔術弾が、敵の胸部を貫いた。
黒い人影が大きく仰け反る。
全身の魔術回路が赤く明滅した。
『中枢回路の損傷を確認』
ノアの声。
『敵戦闘能力、低下』
しかし、端末は倒れなかった。
仮面の奥から、壊れた機械のような声が漏れる。
『記録……外……存在……』
玲司は銃を構え直した。
『回収……失敗……』
黒い亀裂が、その身体を走った。
『対象……照合……』
最後まで言い終えることなく。
人影は、砕け散った。
◇
静寂が戻った。
教室の照明が点灯する。
窓の外には、夕焼けが広がっていた。
壊れた机。
裂けた床。
焦げた壁。
戦闘の痕跡だけが残っている。
「……終わった?」
『敵反応の消失を確認。戦闘終了です』
玲司は大きく息を吐いた。
足が震えている。
肩が痛い。
頬から流れた血が、制服の襟を汚していた。
それでも、生きている。
「……ノア、ありがとう」
『当然の任務です』
玲司は小さく笑った。
「でも、助かったよ」
『……記録しておきます』
その返答が少しだけ照れくさそうに聞こえて、玲司はまた笑った。
そして。
「……あれ?」
玲司は顔を上げた。
教室を見回す。
誰もいない。
「……あの子は?」
灰銀色の髪の少女。
ついさっきまで、ここにいたはずだった。
しかし。
教室には、玲司しかいなかった。
「……どこに行ったの?」
『周辺を走査します』
数秒。
『……対象を検出できません』
「そんな……」
玲司は教室の入り口へ駆け寄った。
廊下を見渡す。
誰もいない。
階段にも、足音はない。
まるで。
最初から、少女など存在しなかったかのように。
「……ノア」
『はい』
「さっきの子、記録してるよね?」
『確認します』
短い沈黙。
そして。
『……玲司様』
ノアの声が、わずかに変わった。
『少女の映像記録に異常が発生しています』
「……え?」
『該当時間帯の映像情報が、部分的に欠落しています』
玲司は言葉を失った。
敵は倒した。
黒魔術式も消えた。
なのに。
少女の存在だけが、消えている。
「……どうして」
玲司は呟いた。
そのとき。
足元に、何かが落ちていることに気づいた。
小さなカードだった。
拾い上げる。
古びた学生証。
端が擦り切れ、表面には細かな傷がついている。
学院の校章。
そして。
写真。
そこには、灰銀色の髪をした少女が写っていた。
少し困ったように笑っている。
間違いない。
さっきの少女だ。
「……あった」
玲司は思わず声を漏らした。
「ノア、これ……!」
『確認しました。物理媒体に少女の画像情報が存在します』
玲司は学生証を握りしめた。
名前の欄を見る。
黒い文字が、はっきりと印字されていた。
《篠宮透花》
「……篠宮、透花」
玲司は、その名前を口にした。
不思議な響きだった。
初めて聞いたはずなのに。
どこか、懐かしい。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……僕たち、本当に会ったことがあるのかな」
答える者はいなかった。
ただ、夕日が教室を赤く染めていた。
◇
翌朝。
玲司は、いつもより早く目を覚ました。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
夢を見た気がする。
夕暮れの公園。
錆びついたブランコ。
誰かの泣き声。
そして。
灰銀色の髪。
「……透花」
玲司は、枕元に置いた学生証へ手を伸ばした。
昨日、何度も確認した名前。
少女が確かに存在した証拠。
それを見れば、少しは安心できると思った。
しかし。
「……え?」
玲司の指が止まった。
学生証には、確かに名前が残っていた。
《篠宮透花》
けれど。
写真が、違っていた。
昨日まで、少女が写っていたはずの場所。
そこには。
誰もいなかった。
ただ、人気のない校舎の廊下だけが写っている。
「……嘘、だろ」
玲司は学生証を裏返した。
もう一度、表に戻す。
変わらない。
少女の姿だけが、消えている。
『玲司様』
枕元のデバイスから、ノアの声が響いた。
『昨夜保存した画像記録にも、同様の異常を確認しました』
「……ノア」
『はい』
「昨日、僕は……」
玲司は喉を鳴らした。
「……本当に、あの子に会ったんだよね?」
短い沈黙。
そして、ノアは答えた。
『はい』
その一言に、玲司はわずかに息を吐いた。
けれど、続く言葉が彼の背筋を凍らせた。
『ただし、玲司様』
「……何?」
『現在の記録からは、少女がどのような人物だったのかを確認できません』
玲司は、学生証を見つめた。
篠宮透花。
名前だけが残っている。
顔も。
声も。
存在した証拠も。
少しずつ、消えていく。
それでも。
玲司は、その名前を忘れたくなかった。
なぜなら。
昨日、少女が自分を見て笑ったとき。
確かに、胸の奥で何かが動いたからだ。
失われた記憶の向こう側で。
誰かが、ずっと待っていたような。
そんな気がした。
玲司は学生証を握りしめた。
「……篠宮透花」
もう一度、その名前を口にする。
忘れないように。
消えてしまわないように。
そして、静かに呟いた。
「……君は、誰なんだ?」
答えはなかった。
ただ、朝日だけが。
誰も写っていない写真を、白く照らしていた。




