↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/50

存在しない再開

 久遠玲司には、思い出せない約束がある。

 誰と交わしたのか。

 いつ交わしたのか。

 何を約束したのか。

 そのすべてを、忘れてしまった。

 ただ、時折夢を見る。

 夕暮れの公園。

 錆びついたブランコ。

 遠くで笑う子供たち。

 そして、誰かが泣いている。

 玲司はその子に手を伸ばす。

 大丈夫だよ、と声をかけようとする。

 けれど、いつもそこで目が覚めた。

 顔も、名前も、思い出せないまま。

     ◇

「……また、駄目か」

 天城魔術学院、高等部二年の教室。

 放課後の窓際で、玲司は小さく息を吐いた。

 机の上には一冊のノートが開かれている。

 表紙に書かれた文字は、《今日という日》。

 二週間前、玲司が自分でつけた名前だった。

 中には、思い出せなくなった出来事が書き留められている。

 朔夜と初めて出会った日。

 澪と遊んだ公園。

 三人で初めて学院の入学試験を受けた日のこと。

 そのほとんどが、他人から聞いた話だった。

『本日の記憶照合を終了しました』

 机の上に置かれた拳銃型魔術デバイスから、落ち着いた声が響く。

『新規の記憶回復は確認されませんでした』

「……そっか」

『ただし、直近十四日間の記憶保持率は安定しています。追加の欠落も認められません』

「それは、よかった」

 玲司は苦笑した。

 デバイスに搭載された固有AI、ノア。

 彼女は地下研究都市での事件以来、玲司の記憶状態を記録し続けていた。

 二週間前。

 玲司は、自分の根源魔術の正体を知った。

 《愚者の選択》(ロードアルカナ)。

 別世界に存在する自分の経験を読み込み、現在の自分に反映する能力。

 それは、経験のない少年に、熟練した戦士の技術を与える。

 だが、代償は大きかった。

 別世界の人生を深く読み込むほど、自分自身の記憶が曖昧になる。

 特に《存在読込》(オーバーロード)は危険だった。

 他人の人生を借りるのではない。

 別世界の自分を、現在の自分に重ねる。

 あのとき玲司は、確かに敵を倒した。

 しかし、その代わりに幼少期の思い出をいくつも失った。

「……ねえ、ノア」

『はい、玲司様』

「忘れた記憶って、もう戻らないのかな」

『現時点では判断できません』

「そうだよね」

『ですが、失われた記憶と同じ出来事を再び経験することは不可能でも、新しい記憶を形成することはできます』

 玲司は顔を上げた。

『それは、以前にも確認した事項です』

「……うん」

 あの日、澪が言ってくれた。

 忘れたなら、何度でも教えてあげる、と。

 朔夜も言ってくれた。

 また覚えればいい、と。

 玲司はノートを閉じた。

「今日はここまでにしよう」

『了解しました。なお、医療センターからの指示を再確認します。根源魔術の高負荷使用は禁止。通常魔術についても――』

「分かってるよ。必要最低限、でしょ?」

『はい。玲司様は過去二週間で三度、訓練制限を超過しかけています』

「……そこまで記録してるんだ」

『当然です』

 ノアの声には、どこか呆れたような響きがあった。

 玲司は小さく笑い、デバイスをホルスターへ収めた。

 教室には、もう誰もいない。

 窓の外では、夕日が校舎を赤く染めていた。

 帰ろう。

 そう思って鞄を持ち上げたときだった。

「……玲司?」

 背後から、声がした。

     ◇

 聞き覚えのない声だった。

 けれど。

 なぜか、懐かしかった。

 玲司は振り返る。

 教室の入り口に、一人の少女が立っていた。

 灰銀色の髪。

 肩より少し下まで伸びた髪が、夕日を受けて淡く輝いている。

 白い肌。

 細い手足。

 学院の制服に似た服を着ていたが、胸元の校章は見慣れない形だった。

 少女は、玲司を見るなり目を見開いた。

 そして。

「……やっと、見つけた」

 泣きそうな顔で笑った。

 玲司は動けなかった。

 その笑顔を、どこかで見た気がした。

 いや。

 見たことがあるはずがない。

「……君は?」

 少女の笑顔が、少しだけ曇る。

「ひどいな」

 彼女は一歩、教室へ入った。

「私のこと、忘れちゃった?」

「……ごめん。どこかで会ったことがある?」

「あるよ」

 即答だった。

「何回も。数えきれないくらい」

 少女は、当たり前のことを話すように続けた。

「玲司、昔から変わらないね。困ったとき、すぐ眉を下げるところ」

 玲司は思わず自分の眉に触れた。

 少女が小さく笑う。

「ほら。また」

「……僕の名前を知ってるんだ」

「当然でしょ」

 少女は首を傾げた。

「朔夜は元気? あの子、昔から無茶するから」

 玲司の表情が変わった。

「……朔夜を知ってるの?」

「知ってるよ。澪も」

 少女は懐かしそうに目を細めた。

「澪はまだ、玲司のこと『オタクくん』って呼んでる?」

 心臓が、一度だけ強く跳ねた。

 それは、知らない人間が偶然口にするには、あまりにも具体的な言葉だった。

「……君、いったい」

「ねえ、玲司」

 少女は質問を遮った。

「覚えてる?」

 その声が、わずかに震えた。

「昔、朔夜が泣いてたとき。玲司、一人で年上の子たちに向かっていったんだよ」

 玲司は息を呑んだ。

 その話は、つい最近、朔夜から聞いたばかりだった。

 自分が忘れてしまった思い出。

「何度も転んで、顔まで血だらけになって。それでも立ち上がったの」

 少女は笑った。

 けれど、その目は潤んでいた。

「私、怖くて何もできなかった。澪も泣いてて、朔夜なんてずっと震えてた」

 玲司の胸に、奇妙な痛みが走った。

 知らない。

 そんな場面は覚えていない。

 なのに。

 夕暮れの公園。

 砂埃。

 誰かの泣き声。

 一瞬だけ、そんな光景が脳裏を横切った。

「……っ」

『玲司様。脳活動に一過性の変動を確認』

 ノアの声が響く。

『根源魔術の自発的反応を検出しました。負荷は軽微ですが、注意してください』

 玲司は額を押さえた。

「……今のは」

「玲司?」

 少女が心配そうに近づく。

「大丈夫?」

「う、うん……」

 差し出された手。

 白く細い指先。

 それを見た瞬間、玲司はなぜか胸が苦しくなった。

 その手を、以前にも握ったことがある。

 そんな確信だけが、突然生まれた。

「……君の名前は?」

 少女は少し驚いたように瞬きした。

 そして、困ったように笑った。

「……そっか。本当に忘れちゃったんだ」

 玲司は何も言えなかった。

 少女は、ゆっくりと口を開く。

「私たち、昔は四人で一緒にいたんだよ」

 四人。

 玲司。

 朔夜。

 澪。

 そして。

「……君も?」

「うん」

 少女は頷いた。

「ずっと、一緒だった」

 その声は、嘘をついているようには聞こえなかった。

 むしろ、玲司が覚えていないことを、心から悲しんでいるようだった。

「……ごめん」

 玲司は俯いた。

「僕、本当に思い出せなくて」

「いいよ」

 少女は優しく言った。

「覚えてなくても」

 そして、もう一歩近づく。

「また、最初から――」

 そこで。

 教室の照明が消えた。

     ◇

 夕日まで消えた。

 窓の外が、黒く塗り潰される。

「……え?」

 玲司が顔を上げる。

『警告。周辺空間に黒魔術式の展開を確認』

 ノアの声が鋭くなった。

『玲司様。直ちにデバイスを構えてください』

 玲司は反射的にホルスターへ手を伸ばした。

 その瞬間。

 教室の後方。

 何もなかった空間に、黒い亀裂が走った。

 亀裂が縦に開く。

 そこから、一人の人影が現れた。

 黒い制服。

 無機質な白い仮面。

 両腕には、細い魔術回路が走っている。

 人間に似ている。

 だが、人間ではない。

 その足音には、重さがなかった。

『記録外存在を確認』

 仮面の奥から、機械的な声が響く。

『回収を開始する』

 少女の顔から血の気が引いた。

「……うそ」

 彼女は後ずさった。

「どうして……ここまで……」

「知ってるの?」

 玲司が尋ねる。

 しかし、少女は答えなかった。

 ただ、震える声で呟いた。

「……逃げて」

 次の瞬間。

 黒い人影が消えた。

『玲司様。回避!』

 ノアの警告。

 玲司は横へ跳ぶ。

 直後、机が真っ二つに裂けた。

「……っ!」

 黒い刃が、空間を切り裂いている。

 敵の右腕から伸びた魔術刃だった。

 玲司は床を転がり、拳銃型デバイスを構える。

「ノア、敵の情報!」

『黒魔術《アビス》系統の戦闘端末と推定。術式構造は未登録です』

「分かった!」

 引き金を引く。

 青白い魔術弾が放たれた。

 しかし、敵は首を傾けただけで回避した。

 速い。

 玲司は二射目を放とうとする。

 その瞬間。

 視界が、わずかに揺れた。

「……あれ?」

 玲司は教室の中央に立っていた。

 銃口は下を向いている。

 目の前には、黒い人影。

 だが。

 なぜ、自分はここにいる?

 さっきまで、何をしていた?

『玲司様! 左へ回避してください!』

「……え?」

 衝撃。

 玲司の身体が横へ吹き飛んだ。

 机に背中を打ちつけ、肺から空気が抜ける。

「が……っ!」

『直前四・二秒間の行動記憶に欠落を確認!』

 ノアが告げる。

『敵の攻撃には、短期記憶への干渉が伴っています!』

「……記憶?」

 玲司は歯を食いしばった。

 敵を見る。

 右腕を振り上げている。

 次は斜めから斬撃が来る。

 そう判断した。

 しかし。

 次の瞬間には、もう敵が目の前にいた。

「……っ!」

 避けた記憶がない。

 避けようとした記憶さえない。

 黒い刃が、玲司の頬を掠めた。

 血が飛ぶ。

『玲司様! 敵の術式は攻撃と同時に、直前の行動記憶を消去しています!』

「……そんなの、どうやって……!」

 戦えというのか。

 敵の動きを見ても、次の瞬間には忘れてしまう。

 攻撃を受けた理由が分からない。

 防御の失敗を、次に活かせない。

 経験が、積み重ならない。

 玲司の脳裏に、別世界の戦士たちの記憶がよぎった。

 《愚者の選択》(ロードアルカナ)。

 それを使えば、戦えるかもしれない。

 だが。

『玲司様。根源魔術の高負荷使用は推奨できません』

「……分かってる」

 また、忘れるかもしれない。

 大切な思い出を。

 大切な誰かを。

 玲司は奥歯を噛みしめた。

「……ノア」

『はい』

「君は、覚えていられる?」

 ノアは即答した。

『はい。現在、外部記録への逐次保存を実行しています』

「だったら……」

 玲司は銃を握り直した。

「僕が忘れても、君が教えて」

『了解しました』

 敵が動く。

『右後方から攻撃が来ます』

「……分かった!」

 玲司は考えるより先に身体を動かした。

 右へ踏み込む。

 敵の刃が、左肩のすぐ横を通り過ぎる。

 玲司は至近距離から発砲した。

 命中。

 黒い制服の胸元に火花が散る。

 しかし、敵は止まらない。

 左腕を伸ばしてくる。

 玲司は、それを見た。

 そして。

 忘れた。

「……あれ?」

『しゃがんでください!』

 玲司は反射的に膝を折った。

 頭上を黒い刃が通過する。

 髪が数本、宙に舞った。

「……危なかった」

『玲司様。現在の戦闘では、ご自身の記憶による判断を最小限にしてください』

「……うん」

『私の指示を信頼してください』

 玲司は小さく頷いた。

「信じるよ」

 敵が再び迫る。

『左へ二歩』

 玲司は動く。

『銃口を上方十五度』

 構える。

『発砲』

 魔術弾が放たれる。

 敵の肩を撃ち抜いた。

 黒い火花。

 しかし、敵は体勢を崩しながらも前進する。

『右へ回避』

 玲司は床を蹴った。

 次の瞬間、また記憶が飛んだ。

 けれど。

『そのまま前進』

 声がある。

『三歩』

 身体が動く。

『発砲』

 引き金を引く。

 記憶が途切れても、ノアの声は途切れない。

 玲司は、ようやく理解した。

 敵は、記憶を奪う。

 だが。

 今この瞬間の判断まで、すべて奪えるわけではない。

 そして、自分には。

 忘れたことを、教えてくれる相棒がいる。

「……ノア」

『はい』

「次で、決めよう」

『了解しました。敵の動作傾向を解析します』

 黒い人影が、両腕を広げた。

 教室の床に、黒い魔術陣が浮かび上がる。

 その中心から、無数の刃が伸びた。

 逃げ場はない。

 玲司は息を呑んだ。

『玲司様。敵の攻撃直後、胸部魔術回路が一・八秒間露出します』

「……そこを撃てばいい?」

『はい。ただし、接近が必要です』

 玲司は一瞬だけ迷った。

 医療センターの警告。

 根源魔術の使用制限。

 失われた記憶。

 それらが脳裏をよぎる。

 けれど、もう決めていた。

 借り物の人生に頼らず、自分の足で戦う。

 あの日、朔夜と交わした約束だ。

「……行くよ」

『了解』

 玲司は走った。

 黒い刃が降り注ぐ。

『右』

 避ける。

『左』

 踏み込む。

『伏せてください』

 床を滑る。

 次の瞬間、視界が白く弾けた。

 また、記憶が飛ぶ。

 自分がどこにいるのか、分からない。

 けれど。

『玲司様。今です』

 ノアの声が響いた。

 玲司は顔を上げた。

 目の前に、敵の胸部。

 黒い装甲が開き、赤い魔術回路が露出している。

「……っ!」

 銃口を押しつける。

 引き金を引いた。

 閃光。

 轟音。

 魔術弾が、敵の胸部を貫いた。

 黒い人影が大きく仰け反る。

 全身の魔術回路が赤く明滅した。

『中枢回路の損傷を確認』

 ノアの声。

『敵戦闘能力、低下』

 しかし、端末は倒れなかった。

 仮面の奥から、壊れた機械のような声が漏れる。

『記録……外……存在……』

 玲司は銃を構え直した。

『回収……失敗……』

 黒い亀裂が、その身体を走った。

『対象……照合……』

 最後まで言い終えることなく。

 人影は、砕け散った。

     ◇

 静寂が戻った。

 教室の照明が点灯する。

 窓の外には、夕焼けが広がっていた。

 壊れた机。

 裂けた床。

 焦げた壁。

 戦闘の痕跡だけが残っている。

「……終わった?」

『敵反応の消失を確認。戦闘終了です』

 玲司は大きく息を吐いた。

 足が震えている。

 肩が痛い。

 頬から流れた血が、制服の襟を汚していた。

 それでも、生きている。

「……ノア、ありがとう」

『当然の任務です』

 玲司は小さく笑った。

「でも、助かったよ」

『……記録しておきます』

 その返答が少しだけ照れくさそうに聞こえて、玲司はまた笑った。

 そして。

「……あれ?」

 玲司は顔を上げた。

 教室を見回す。

 誰もいない。

「……あの子は?」

 灰銀色の髪の少女。

 ついさっきまで、ここにいたはずだった。

 しかし。

 教室には、玲司しかいなかった。

「……どこに行ったの?」

『周辺を走査します』

 数秒。

『……対象を検出できません』

「そんな……」

 玲司は教室の入り口へ駆け寄った。

 廊下を見渡す。

 誰もいない。

 階段にも、足音はない。

 まるで。

 最初から、少女など存在しなかったかのように。

「……ノア」

『はい』

「さっきの子、記録してるよね?」

『確認します』

 短い沈黙。

 そして。

『……玲司様』

 ノアの声が、わずかに変わった。

『少女の映像記録に異常が発生しています』

「……え?」

『該当時間帯の映像情報が、部分的に欠落しています』

 玲司は言葉を失った。

 敵は倒した。

 黒魔術式も消えた。

 なのに。

 少女の存在だけが、消えている。

「……どうして」

 玲司は呟いた。

 そのとき。

 足元に、何かが落ちていることに気づいた。

 小さなカードだった。

 拾い上げる。

 古びた学生証。

 端が擦り切れ、表面には細かな傷がついている。

 学院の校章。

 そして。

 写真。

 そこには、灰銀色の髪をした少女が写っていた。

 少し困ったように笑っている。

 間違いない。

 さっきの少女だ。

「……あった」

 玲司は思わず声を漏らした。

「ノア、これ……!」

『確認しました。物理媒体に少女の画像情報が存在します』

 玲司は学生証を握りしめた。

 名前の欄を見る。

 黒い文字が、はっきりと印字されていた。

 《篠宮透花》

「……篠宮、透花」

 玲司は、その名前を口にした。

 不思議な響きだった。

 初めて聞いたはずなのに。

 どこか、懐かしい。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

「……僕たち、本当に会ったことがあるのかな」

 答える者はいなかった。

 ただ、夕日が教室を赤く染めていた。

     ◇

 翌朝。

 玲司は、いつもより早く目を覚ました。

 昨夜は、ほとんど眠れなかった。

 夢を見た気がする。

 夕暮れの公園。

 錆びついたブランコ。

 誰かの泣き声。

 そして。

 灰銀色の髪。

「……透花」

 玲司は、枕元に置いた学生証へ手を伸ばした。

 昨日、何度も確認した名前。

 少女が確かに存在した証拠。

 それを見れば、少しは安心できると思った。

 しかし。

「……え?」

 玲司の指が止まった。

 学生証には、確かに名前が残っていた。

 《篠宮透花》

 けれど。

 写真が、違っていた。

 昨日まで、少女が写っていたはずの場所。

 そこには。

 誰もいなかった。

 ただ、人気のない校舎の廊下だけが写っている。

「……嘘、だろ」

 玲司は学生証を裏返した。

 もう一度、表に戻す。

 変わらない。

 少女の姿だけが、消えている。

『玲司様』

 枕元のデバイスから、ノアの声が響いた。

『昨夜保存した画像記録にも、同様の異常を確認しました』

「……ノア」

『はい』

「昨日、僕は……」

 玲司は喉を鳴らした。

「……本当に、あの子に会ったんだよね?」

 短い沈黙。

 そして、ノアは答えた。

『はい』

 その一言に、玲司はわずかに息を吐いた。

 けれど、続く言葉が彼の背筋を凍らせた。

『ただし、玲司様』

「……何?」

『現在の記録からは、少女がどのような人物だったのかを確認できません』

 玲司は、学生証を見つめた。

 篠宮透花。

 名前だけが残っている。

 顔も。

 声も。

 存在した証拠も。

 少しずつ、消えていく。

 それでも。

 玲司は、その名前を忘れたくなかった。

 なぜなら。

 昨日、少女が自分を見て笑ったとき。

 確かに、胸の奥で何かが動いたからだ。

 失われた記憶の向こう側で。

 誰かが、ずっと待っていたような。

 そんな気がした。

 玲司は学生証を握りしめた。

「……篠宮透花」

 もう一度、その名前を口にする。

 忘れないように。

 消えてしまわないように。

 そして、静かに呟いた。

「……君は、誰なんだ?」

 答えはなかった。

 ただ、朝日だけが。

 誰も写っていない写真を、白く照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。