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もうひとりの僕

 白瀬澪が死んだ。

 それは、ある世界で起きた出来事だった。

 別の世界では、彼女は生きていた。

 十七歳の誕生日を迎え、幼なじみと笑い合い、何でもない日常を過ごしていた。

 だが、その世界でも。

 やがて、彼女は死んだ。

 事故だった。

 別の世界では病気。

 さらに別の世界では、魔術災害。

 死因も、場所も、年齢も異なる。

 それなのに。

 結末だけは、変わらなかった。

     ◇

 地下研究都市崩壊事件から、七日後。

 天城市の夜景を見下ろす高層建築の最上階に、一人の男がいた。

 室内は薄暗い。

 壁一面に並ぶ情報端末だけが、青白い光を放っている。

 画面に映っているのは、地下研究都市での戦闘記録だった。

 黒い拳銃型デバイスを構えた少年。

 久遠玲司。

 その隣で、三色の魔術を操る伊佐波朔夜。

 そして、二人の背後に立つ白瀬澪。

 男は、三人の姿を無言で見つめていた。

『最終戦闘記録の解析が完了しました』

 機械的な音声が響く。

『対象個体の根源魔術に、新たな発動段階を確認』

「……表示しろ」

 映像が切り替わる。

 異形化した黒魔術師。

 複数の腕。

 不規則に変化する肉体。

 その攻撃を前に、玲司が膝をついている。

 だが、次の瞬間。

 少年の動きが変わった。

 視線。

 呼吸。

 銃を構える角度。

 それまでとは明らかに異なる戦闘動作。

 別世界の経験を読み込み、現在の戦場へ適応させる。

 男は静かに呟いた。

「……《存在読込(オーバーロード)》」

『発動時、対象の自己同一性維持率が危険域まで低下しています』

「分かっている」

『記憶領域にも欠損が確認されました』

 男の指が止まった。

『特に、幼少期の自伝的記憶に影響が集中しています』

「…………」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、男は小さく息を吐いた。

「……やはり、そこから失うのか」

 その言葉には、奇妙な実感があった。

 まるで、同じ現象を以前にも経験したことがあるかのように。

     ◇

 男が端末を操作すると、別の記録が表示された。

 地下研究都市。

 人工供物の暴走。

 世界線干渉装置。

 黒魔術師の最終戦闘。

 そして、施設の崩壊。

『実験施設の完全消失を確認』

「構わない」

『人工供物の回収率は、想定値を大きく下回っています』

「……そうか」

『実行担当者の死亡も確認されています』

 画面に、黒い外套をまとった魔術師の姿が映る。

 彼は最期まで、自分の役割を信じていた。

 世界を救うために、久遠玲司を完成させる。

 その命令を疑わなかった。

「……忠実な男だった」

『計画の第一段階は成功と判定できます』

 男は答えなかった。

 画面の中では、異形化した魔術師が崩れ落ちている。

 その周囲には、破壊された人工供物の残骸が散乱していた。

 人間の形を失ったもの。

 自我を獲得したもの。

 生きたいと願ったもの。

 そのすべてが、実験のために利用された。

「……成功、か」

 男は呟いた。

「ずいぶん、都合のいい言葉だな」

『計画の達成条件を満たしています』

「ああ。そうだな」

 男は椅子にもたれた。

「……だが、あいつらにとっては違う」

 短い沈黙。

「自分が何のために生まれたのかも知らず、誰かの都合で命を使われた」

 男は目を閉じた。

「それを成功と呼べるなら、俺たちは随分と救いようがない」

『では、計画を中止しますか』

 男は答えなかった。

 長い沈黙の後。

「……いや」

 静かな声だった。

「まだ、終われない」

     ◇

 部屋の奥には、一つの扉があった。

 男が近づくと、複雑な認証術式が展開する。

 青い光が走り、続いて赤い紋様が浮かび上がる。

 最後に、黒い文字列が扉の表面を覆った。

『存在認証を開始します』

 男は黙って立っていた。

『認証完了』

 重い扉が開く。

 その先には、巨大な記録保管庫が広がっていた。

 壁。天井。床。

 無数の記録媒体が、空間を埋め尽くしている。

 それぞれに、異なる世界の識別番号が付けられていた。

 男は中央の端末へ歩み寄る。

「対象を検索」

『対象名を指定してください』

「……白瀬澪」

 瞬間。

 保管庫全体が、赤い光に染まった。

 数千。数万。

 数え切れないほどの記録が表示される。

 そこに並んでいたのは、同じ名前だった。

 白瀬澪。

 白瀬澪。

 白瀬澪。

 世界線識別番号だけが異なっている。

 そして、記録の末尾には、例外なく同じ文字が刻まれていた。

 《死亡確認》

 男は、その一つに触れた。

 映像が開く。

 雨の降る交差点。

 横転した車両。

 砕けたガラス。

 血に濡れた少女が、誰かの腕の中で笑っていた。

『……オタクくん』

 声が聞こえる。

『そんな顔、しないでよ』

 少女の声は、ひどく弱々しかった。

『あーし、楽しかったよ』

 そこで映像が途切れた。

 男は次の記録を開く。

 崩壊した都市。

 黒く染まった空。

 瓦礫の下から伸びる、白い腕。

 誰かが必死に瓦礫を掘り返している。

 だが、救い出された少女は、すでに息をしていなかった。

 次の世界。

 病室。

 次の世界。

 燃え上がる学院。

 次の世界。

 誰もいない海岸。

 次の世界。

 真っ白な実験室。

 何度映像を切り替えても、結末は変わらない。

 男は、静かに目を閉じた。

「……また、駄目だった」

 その声は、観測者のものとは思えなかった。

 記録を分析しているのではない。

 まるで、何度もその場に立ち会ってきたかのような。

 深い疲労が滲んでいた。

「……何を変えれば、よかったんだろうな」

 答える者はいなかった。

     ◇

 男は、机の引き出しを開いた。

 中には、一枚の写真が入っていた。

 古びた写真だった。

 端が擦り切れ、何度も折り畳まれた跡がある。

 写っているのは、三人の少年少女。

 中央には、明るく笑う白瀬澪。

 その隣に、少し照れくさそうな表情をした少年。

 そして、二人の肩に腕を回して笑う伊佐波朔夜。

 男は、その写真をしばらく見つめていた。

「……懐かしいな」

 指先が、写真の端をなぞる。

「お前は、いつも強引だった」

 誰に向けた言葉なのか。

 それは、明らかだった。

「人の予定なんて聞かないで、勝手に決めて……」

 男は小さく笑った。

「……でも、断れなかったんだよな」

 写真の中の澪は、楽しそうに笑っている。

 何も知らずに。

 自分の未来も。

 隣にいる少年が、これから何を失うのかも。

 男は、写真を裏返した。

 そこには、手書きの文字が残されていた。

 少し丸みを帯びた、少女らしい筆跡。

 『三人なら、どんな未来も怖くない!』

 男の表情が、わずかに歪んだ。

「……嘘つき」

 その声は、ひどく小さかった。

「怖かっただろうに」

 男は写真を伏せた。

 それ以上、見ていられなかった。

     ◇

『新たな観測結果があります』

 機械音声が響いた。

 男は顔を上げる。

「……何だ」

『現在の世界線において、白瀬澪の生存を確認』

「知っている」

『加えて、従来の観測結果と一致しない事象が発生しています』

 男の目が細くなった。

「……表示しろ」

 画面が切り替わる。

 地下研究都市崩壊の直前。

 世界線干渉装置が暴走し、空間そのものが歪んでいる。

 久遠玲司が倒れかける。

 伊佐波朔夜が、残された力で異形を迎撃している。

 そして。

 白瀬澪が、二人の前へ立った。

『あーしも一緒にやる。オタクくんだけに背負わせない』

 白い光が広がる。

 崩壊するはずだった空間が、一瞬だけ静止した。

 通常の魔術とは異なる現象。

 代償の消費も確認できない。

 男は、画面に身を乗り出した。

「……そこを拡大しろ」

『了解しました』

 映像が拡大される。

 白い光。

 その中心に立つ澪。

 男は、彼女の表情を見つめていた。

「……笑っている」

『はい』

「こんな状況で……」

 男は、何かを思い出そうとするように目を閉じた。

 そして。

「……そうか」

 かすかな声が漏れた。

「そういうことだったのか……?」

『何か判明しましたか』

「いや」

 男は首を振った。

「まだ、確証がない」

 しかし、その目には、先ほどまでとは異なる光が宿っていた。

 長い間、暗闇を歩き続けた者が、初めて遠くの灯りを見つけたような。

 そんな表情だった。

     ◇

 男は、別の映像を開いた。

 天城魔術学院。

 放課後の訓練場。

 そこには、三人の少年少女がいた。

 朔夜が赤魔術による身体強化を使っている。

 その動きを、玲司が真剣な表情で見つめていた。

 少し離れた場所では、澪が二人に向かって手を振っている。

 何でもない光景だった。

 何の変哲もない、平和な放課後。

 男は、その映像を見つめ続けた。

『対象個体は現在、根源魔術の使用を制限されています』

「……ああ」

『今後の成長速度は、これまでより低下すると予測されます』

「それでいい」

『しかし、計画の最終段階へ到達するには、さらなる能力の発達が必要です』

「急がせれば壊れる」

 男は即答した。

「今は、まだ早い」

『次の実験を延期しますか』

「……ああ」

 男は画面の中の玲司を見た。

 不器用な少年だった。

 自信がなく、他人の顔色ばかり窺っている。

 それなのに、誰かが傷つけば、自分のことなど忘れて飛び込んでいく。

 男は、その姿を見つめながら呟いた。

「……変わらないな」

 それは、奇妙な言葉だった。

 初めて観測した少年に対するものではない。

 長い年月を経て、懐かしい誰かと再会した人間の言葉だった。

「……何度、間違えても」

 男は小さく笑った。

「お前は、そうするんだな」

     ◇

 画面が切り替わる。

 数週間前の戦闘記録。

 地下訓練施設。

 久遠玲司が、一人の男と向かい合っている。

 あの日。

 玲司は、百回敗北した。

 格闘家の経験を選び。

 狙撃手の経験を選び。

 兵士の経験を選び。

 それでも、一度も勝てなかった。

 映像の中で、少年が叫ぶ。

『僕には、もっと強い自分がいるはずなのに……!』

 対する男は、静かに答えた。

『強い自分を選べば勝てると思うな。必要なのは、目の前の敵に勝てる自分だ』

 男は、その場面で映像を停止した。

 しばらく、画面を見つめる。

 そして、苦笑した。

「……偉そうなことを言ったものだ」

 あのときの少年は、何も知らなかった。

 目の前の男が、なぜ自分の能力を知っているのか。

 なぜ、読み込む技術の限界を理解しているのか。

 なぜ、どの選択をしても先回りされるのか。

 男は、すべてを説明しなかった。

 説明できなかったのかもしれない。

「……いつか、分かる」

 男は呟いた。

「いや」

 すぐに首を振る。

「……分からないままで、いてくれたらいい」

 その言葉には、矛盾があった。

 少年を成長させたい。

 だが、真実を知ってほしくない。

 救いたい。

 けれど、そのために傷つけている。

 男は、その矛盾を誰よりも理解していた。

     ◇

 男は立ち上がった。

 部屋の隅に置かれた鏡へ歩み寄る。

 鏡に映るのは、三十代ほどの男だった。

 黒い髪。痩せた頬。深い隈。

 疲労によって、年齢以上に老けて見える。

 男は、自分の顔を見つめた。

 しばらくして、右手を上げる。

 手の甲に、淡い光が浮かび上がった。

 複雑な魔術紋様。

 通常の術式とは異なる、個人固有の根源魔術の痕跡。

 それは、一瞬だけ奇妙な形を描いた。

 無数の線が分岐し、交差し、再び一つに収束する。

 まるで、数え切れない人生を一本の道へ束ねるように。

 男は、すぐに術式を消した。

「……まだ、使えるか」

 小さく呟く。

 その声には、安堵も喜びもなかった。

 ただ、確認するような響きがあった。

 男は鏡から目を逸らした。

 そして、机へ戻る。

 そこには、先ほどの写真が置かれていた。

 三人の少年少女。そのうちの一人。

 澪の隣に立つ少年の顔が、写真の傷によって半分ほど隠れている。

 男は、その部分を指でなぞった。

 何かを確かめるように。

 そして、静かに写真を伏せた。

     ◇

『確認事項があります』

 端末が告げた。

『現在の並行世界において、白瀬澪の生存が継続しています』

「……ああ」

『しかし、過去の観測記録と照合した結果、死亡へ至る事象の発生確率は依然として極めて高い状態です』

 男は答えなかった。

『既存の並行世界情報からは、対象の生存が継続する結末を確認できません』

「……分かっている」

『それでも計画を続行しますか』

 長い沈黙。

 男は、画面の中の澪を見つめた。

 彼女は笑っていた。

 何も知らずに。

 自分に何が待ち受けているのかも知らずに。

 男は、ゆっくりと目を閉じた。

「……続ける」

『了解しました』

 新たな観測記録が展開される。

 その中央には、一つの名前が表示されていた。

 《久遠玲司》

 男は、その文字を見つめた。

「……次は、もっと先まで行けるはずだ」

 画面の中では、少年が笑っている。

 まだ、自分がどこへ向かうのかも知らずに。

「……俺が辿り着けなかった場所まで」

 男は、静かに呟いた。

 そして、少しだけ苦しそうに笑った。

「……頼むぞ」

 その声は、誰に向けたものだったのか。

 少年へか。

 過去へか。

 それとも。

 もう二度と戻れない、自分自身の何かへか。

 答える者はいなかった。

     ◇

 夜が更けていく。

 天城市の灯りが、一つ、また一つと消えていく。

 男は最後に、端末へ一つの命令を入力した。

 《次段階観測――準備開始》

 静かな電子音が響く。

 無数の世界線の記録が、再び動き始めた。

 男は、机に置かれた写真をもう一度手に取った。

 白瀬澪。

 伊佐波朔夜。

 そして、もう一人。

 写真の中の少年は、少し照れくさそうに笑っていた。

 男は、その笑顔を長い間見つめていた。

 やがて。

「……今度こそ」

 小さな声が漏れた。

「今度こそ、間違えない」

 誰にも届かない、祈りのような声だった。

 そして、最後に。

 男は、誰もいない部屋で呟いた。

「……あのとき、お前の手を離さなければ」

 写真の中の澪は、何も答えなかった。

 男は目を閉じた。

 その表情は、ひどく疲れていた。

 けれど、諦めてはいなかった。

 世界が何度同じ結末を突きつけても。

 どれほど多くの選択が、敗北へつながっていても。

 まだ、終わらせるつもりはなかった。

 画面の中では、久遠玲司が笑っている。

 その隣で、白瀬澪が笑っている。

 そして。

 その光景を見つめる男の手元には、古びた写真が一枚。

 そこには、もう戻らない時間が閉じ込められていた。

 男は写真を伏せた。

 静かに立ち上がり、部屋を出ていく。

 誰もいなくなった室内で、情報端末だけが淡く光っていた。

 画面には、次の観測対象を示す文字列が残されている。

 《対象:久遠玲司》

 その下に、もう一つ。

 《最終目的:白瀬澪の生存》

 そして、最後の一行。

 《計画名:愚者の選択》

 まだ、誰も知らない。

 この計画を始めた男が、何を失ったのか。

 なぜ、少年の能力をそこまで熟知しているのか。

 なぜ、少女の死を繰り返し観測しているのか。

 そして。

 なぜ、あの少年を見つめるたびに。

 まるで、かつての自分を見ているような顔をするのか。

 すべての答えは、まだ闇の中にあった。

 ただ一つ。

 男の願いだけは、明確だった。

 ――白瀬澪を、救う。

 そのためなら、どんな代償でも払う。

 たとえ、その代償が。

 もう一人の少年の未来だったとしても。

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