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愚者の帰還

 世界を救った少年は、幼なじみと初めて出会った日のことを忘れていた。

     ◇

 地下研究都市の崩壊から、三日が経った。

 天城市を覆っていた非常警戒態勢は、段階的に解除されつつあった。

 黒魔術によって暴走した人工供物は、すべて活動を停止。地下研究施設は都市防衛局の管理下に置かれ、関係者以外の立ち入りが全面的に禁止された。

 事件の詳細は、まだ公表されていない。

 世界線干渉装置。

 異なる世界からの人格干渉。

 人工供物を利用した禁忌実験。

 どれも、社会を揺るがしかねない情報だった。

 そして、その中心にいた少年は。

「……痛い」

 天城魔術学院附属医療センターのベッドで、情けない声を漏らしていた。

『疼痛反応を確認。右上腕部の筋損傷が回復していません』

「分かってるよ、ノア……」

『昨日も同じ動作で疼痛を訴えています』

「……そうだったっけ」

『はい。昨日は三回です』

「数えなくてもいいから……」

 久遠玲司は、ゆっくりと腕を下ろした。

 たったそれだけで、筋肉が悲鳴を上げる。

 別世界の自分から借りた戦闘技術。

 それを再現するには、今の身体はあまりにも未熟だった。

 検査では筋損傷、神経系の過負荷、魔術回路の一時的な機能低下が確認されている。

 だが、最も深刻なのは別の問題だった。

『玲司様。記憶検査を再開します』

「……うん」

『昨日の夕食を覚えていますか』

「えっと……焼き魚?」

『正解です』

 玲司は小さく息を吐いた。

『では、十年前の六月十二日。白瀬澪様と初めて会話した場所は?』

「…………」

 答えられなかった。

 玲司は窓の外へ視線を向ける。

 青い空。

 校舎の屋根。

 見慣れた学院の風景。

 そのどれもが、確かに自分の知っているものだった。

 なのに。

 思い出そうとすると、別の光景が割り込んでくる。

 雨の降る戦場。

 白衣を着た女性。

 崩壊した研究施設。

 そして、冷たくなった澪の身体。

「……分からない」

 玲司は呟いた。

「澪と初めて話した場所が、思い出せない」

『記憶領域の混線が継続しています』

「……そうだよね」

『ただし、現在の玲司様の自己認識は安定しています』

 ノアは少し間を置いた。

『記憶の欠落と、人格の消失は同義ではありません』

 玲司は、思わずデバイスを見つめた。

「……ノアって、たまに優しいよね」

『事実を報告しただけです』

「うん」

 玲司は小さく笑った。

「ありがとう」

     ◇

 翌日。

 玲司は退院した。

 とはいえ、完全復帰ではない。

 当面の魔術実技は禁止。

 激しい運動も禁止。

 根源魔術の使用も、医療センターから強く制限されている。

 それでも、学院の正門をくぐった瞬間、玲司は妙な安心感を覚えた。

 登校する生徒たち。

 校舎へ続く並木道。

 遠くから聞こえる訓練場の爆発音。

 何もかもが、以前と同じだった。

「――玲司!」

 声がした。

 振り返ると、伊佐波朔夜が駆け寄ってきた。

「退院、おめでとう!」

「……ありがとう、朔夜」

「身体はどうだ?」

「まだ、ちょっと痛いかな」

「だろうな。お前、最後はほとんど立ててなかったし」

「……朔夜も人のこと言えないと思う」

「俺はもう治った」

 朔夜は胸を張った。

 だが、右肩にはまだ固定具が巻かれている。

 玲司がそこを見ると、朔夜は露骨に目を逸らした。

「……まあ、八割くらいは」

「全然治ってないじゃないか」

「細かいことはいいんだよ」

 二人は笑った。

 その笑い声が、不意に途切れる。

 玲司が、足を止めたからだ。

「……朔夜」

「ん?」

「一つ、聞いてもいい?」

「何だ?」

 玲司は、少し迷った。

 だが、隠し続けることはできなかった。

「……僕たちが、初めて友達になった日のこと」

 朔夜の表情が変わった。

「覚えてる?」

「……ああ」

「どんな日だったっけ」

 短い沈黙。

 風が、並木道の葉を揺らした。

「……お前」

 朔夜が、ゆっくりと口を開く。

「忘れたのか?」

 玲司は頷いた。

「……ごめん」

 朔夜は何も言わなかった。

 その沈黙が、玲司には苦しかった。

 朔夜にとって、大切な記憶だということは知っている。

 昔、いじめられていた朔夜を、自分が助けた。

 それがきっかけで、二人は友達になった。

 出来事そのものは覚えている。

 けれど。

 どんな場所だったのか。

 何を言ったのか。

 朔夜が、どんな顔をしていたのか。

 思い出せない。

「……ごめん。僕、忘れちゃったことがあるんだ」

 玲司は俯いた。

「大事なことだったはずなのに」

 朔夜は、しばらく黙っていた。

 やがて。

「……なんだ、そんなことか」

「……え?」

「だったら、また覚えればいい」

 玲司は顔を上げた。

 朔夜は、いつものように笑っていた。

「俺は覚えてるからな」

「……でも」

「お前、あのとき三人相手に喧嘩売ったんだぞ」

「……三人?」

「そう。しかも、全員お前よりでかかった」

 朔夜は楽しそうに続ける。

「で、当然のように負けた」

「……うん」

「鼻血出して、地面に転がって。それでも立ち上がったんだ」

 玲司は、黙って聞いていた。

「俺が『もういい』って言ったら、お前、何て言ったと思う?」

「……分からない」

「『まだ、君が泣いてるから』だってさ」

 玲司は息を呑んだ。

 朔夜は、少し照れくさそうに笑った。

「……格好悪いだろ?」

「……うん」

「でも、俺には格好よく見えたんだ」

 朔夜の声が、静かになった。

「だから、強くなろうと思った」

 玲司は、彼の右肩を見た。

 赤魔術、生命錬成術式(アルス・カルニス)。

 緑魔術、原生循環術式(アニマ)。

 青魔術、論理構築術式(ロゴス)。

 学院屈指の実力者。

 努力の天才。

 そのすべてが、あの日から始まった。

「……ごめん、朔夜」

 玲司は、もう一度謝った。

「僕、その日のことを……」

「だから、謝るなって」

 朔夜は玲司の額を軽く小突いた。

「俺は忘れてない。それで十分だろ」

 そして、少しだけ真剣な顔になる。

「それに、今のお前も同じことをすると思うぞ」

「……え?」

「勝てない相手がいても、誰かが困ってたら助けに行く」

 朔夜は肩をすくめた。

「そういう馬鹿だろ、お前は」

 玲司は、何も言えなかった。

 忘れてしまった記憶。

 取り戻せないかもしれない時間。

 それでも。

 今の自分を、信じてくれる人がいる。

「……ありがとう」

「おう」

 朔夜は笑った。

「じゃあ、教室行くか」

     ◇

「――ちょっと待ったぁ!」

 背後から声が飛んできた。

 二人が振り返る。

 そこには、白瀬澪が立っていた。

 腰に手を当て、頬を膨らませている。

「二人して先に行くとか、ひどくない!?」

「いや、澪が遅かったんだろ」

「女子には準備ってものがあるの!」

「いつも寝坊してるだけだろ」

「朔夜、そういうとこだぞー!」

 いつもの言い合い。

 玲司は、思わず笑ってしまった。

「……おはよう、澪」

 澪は玲司を見ると、表情を柔らかくした。

「おはよ、オタクくん」

 そして、少しだけ声を落とす。

「……身体、大丈夫?」

「うん。まだ痛いけど」

「そっか」

 澪は安心したように息を吐いた。

 だが、すぐに玲司の顔を覗き込んだ。

「……で?」

「……え?」

「あーしに何か言うこと、ない?」

「……退院しました?」

「それは知ってる!」

 澪は頬を膨らませた。

「もう。あんなに心配させたんだから、もうちょっと何かあるでしょ」

「……ごめん」

「そうじゃなくてさ」

 澪は、少し困ったように笑った。

「……また一緒に学校来られて、嬉しいとか」

 玲司は目を丸くした。

 そして、ゆっくりと頷く。

「……うん」

 自然と、言葉が出た。

「僕も、嬉しい」

 澪は一瞬だけ固まった。

「……っ」

「……澪?」

「な、何でもない!」

 彼女は慌てて顔を逸らした。

「オタクくん、そういうの急に言うの禁止!」

「……ええ?」

 朔夜が隣で笑いを堪えていた。

「……青春だな」

「朔夜は黙ってて!」

 澪の声が、朝の並木道に響いた。

     ◇

 昼休み。

 三人は、学院の屋上にいた。

 以前からよく集まっていた場所だ。

 澪が持ってきた菓子を広げ、朔夜が購買のパンを食べている。

 玲司は、二人の会話を聞きながら空を見上げていた。

 青い空。

 流れる雲。

 平和な昼休み。

 だが、胸の奥には小さな空白があった。

「……ねえ、澪」

「んー?」

「僕たちが初めて会った日のこと、覚えてる?」

 澪の手が止まった。

「……覚えてるよ」

「……そっか」

「どしたの?」

 玲司は、少しだけ俯いた。

「……僕、思い出せなくなっちゃった」

 澪は何も言わなかった。

 玲司は続ける。

「覚えてることもあるんだ。でも、ところどころ抜けてて……」

 言葉を探す。

「別世界の記憶は、嫌になるくらい残ってるのに」

 知らない戦場。

 知らない人生。

 知らない誰かの死。

 そんなものばかりが、鮮明だった。

「……大事なことから、忘れていくみたいで」

 玲司の声が、小さくなる。

 そのとき。

 澪が、玲司の額を指で弾いた。

「いたっ」

「もー!」

 澪は、わざと大きな声を出した。

「そんな顔しないの!」

「……澪?」

「あーしが何回でも教えてあげる。オタクくんとの思い出、全部」

 玲司は、彼女を見つめた。

「……全部?」

「そ。ぜーんぶ」

 澪は指を折り始める。

「初めて会った日でしょ。初めて一緒に帰った日。オタクくんが迷子になった日」

「……迷子?」

「あと、あーしの誕生日忘れて大変なことになった日!」

「……それは忘れててよかったかもしれない」

「よくない!」

 澪は笑った。

 けれど、その目は真剣だった。

「忘れたなら、また思い出作ればいいじゃん」

「……また?」

「うん」

 澪は、玲司の隣に座った。

「昨日までのこと、全部覚えてなくたってさ」

 彼女は空を見上げる。

「明日からのことは、まだ何も決まってないでしょ?」

 玲司は、ゆっくりと頷いた。

 そうだ。

 別世界の自分たちは、何度も敗北した。

 大切な人を失った。

 守れなかった。

 その記憶は、今も玲司の中にある。

 けれど。

 この世界の未来まで、決まったわけではない。

「……うん」

 玲司は、小さく笑った。

「そうだね」

「でしょ?」

 澪は満足そうに頷いた。

「だから、これからいっぱい遊ぼ!」

「……勉強は?」

「それは朔夜に任せる!」

「おい!」

 朔夜が抗議する。

 澪は笑い、玲司もつられて笑った。

 何でもない昼休み。

 けれど、玲司にはそれが何よりも大切に思えた。

     ◇

 放課後。

 玲司は、学院の訓練場に立っていた。

 まだ実技は禁止されている。

 だから、今日は見学だけだ。

 目の前では、朔夜が魔術デバイスを構えていた。

 青魔術、論理構築術式(ロゴス)。

 術式の展開。

 緑魔術、原生循環術式(アニマ)。

 炎の生成。

 赤魔術、生命錬成術式(アルス・カルニス)。

 身体強化。

 三系統の切り替えは、相変わらず鮮やかだった。

 だが、玲司には分かる。

 その動きの一つ一つが、長い訓練の積み重ねによって成立していることを。

 朔夜は天才だ。

 それは間違いない。

 けれど、才能だけであそこまで強くなったわけではない。

「……朔夜」

「ん?」

 訓練を終えた朔夜が振り返る。

「僕も、強くなりたい」

 朔夜は目を丸くした。

「……今さら何言ってんだ?」

「今まで、僕は別世界の自分に頼ってた」

 玲司は、自分の手を見つめた。

「誰かが何年もかけて身につけた技術を、借りることができた」

 それは、確かに強力な能力だった。

 けれど。

「僕自身は、何も積み重ねてなかったんだ」

「……玲司」

「だから、これからは」

 玲司は顔を上げた。

「僕自身も、努力したい」

 朔夜は、しばらく黙っていた。

 そして。

「……ははっ」

 笑った。

「何だよ、それ」

「……変かな」

「いや」

 朔夜は首を振った。

「やっと、その気になったかと思ってさ」

 玲司は、少しだけ驚いた。

「……待っててくれたの?」

「当たり前だろ」

 朔夜は、右手を差し出した。

「明日から、また訓練だな」

 玲司は、その手を見つめた。

 昔。

 自分は、朔夜に手を差し伸べたらしい。

 その日のことは、まだ思い出せない。

 けれど。

 今度は、朔夜が自分に手を差し伸べている。

「……うん」

 玲司は、その手を取った。

「よろしく、朔夜」

「おう!」

 強く握り返される。

 その瞬間。

「ちょっとー!」

 訓練場の入口から、澪の声が響いた。

「あーし抜きで何か始めようとしてない!?」

「いや、ただの訓練だぞ?」

「じゃあ、あーしも参加!」

「澪、実技苦手だろ」

「応援担当!」

「……それ参加って言うのか?」

「言うの!」

 三人の笑い声が、夕暮れの訓練場に広がった。

 玲司は、二人を見つめた。

 朔夜。

 澪。

 そして、自分。

 別世界では、何度も失ったもの。

 何度も守れなかったもの。

 けれど、今はここにある。

 玲司は、静かに思った。

 もう、誰かの人生を借りるだけでは終わらない。

 これからは、自分自身の人生を積み重ねていく。

 失敗するかもしれない。

 また、何かを失うかもしれない。

 それでも。

 自分で選ぶ。自分で歩く。自分で、未来を決める。

『玲司様』

 ノアの声が響いた。

『本日の活動記録を保存しますか?』

 玲司は、少しだけ考えた。

 そして、笑った。

「……うん」

 夕陽が、三人の影を長く伸ばしていた。

「保存して」

『了解しました』

 短い電子音。

『記録名を指定してください』

 玲司は、二人を見つめた。

 朔夜が笑っている。

 澪が手を振っている。

 何でもない、いつもの放課後。

 だからこそ。

 忘れたくないと思った。

「……今日という日で」

『記録名《今日という日》』

 ノアが応答する。

『保存しました』

 玲司は、ゆっくりと歩き出した。

 失った記憶は、まだ戻らない。

 自分の能力のすべても、理解できていない。

 事件の背後にいた人物も、まだ見つかっていない。

 それでも。

 今は、帰ろう。

 二人と一緒に。

 明日もまた、ここへ来るために。

 愚者は、戦場から帰還した。

 そして。

 ようやく、自分自身の人生を歩き始めた。

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