最後の選択
世界が、折れ曲がった。
久遠玲司の目の前で、真っ直ぐだった通路が直角にねじれる。
壁が天井になり、床が壁になる。
そして次の瞬間、すべてが元に戻った。
『警告。空間座標に重大な異常を検出』
ノアの声が響く。
『世界線干渉装置の出力が制御限界を超過。施設全域で観測異常が発生しています』
「……つまり?」
『現在位置の特定が不可能です』
玲司は顔をしかめた。
「それ、かなりまずいんじゃ……」
『極めて深刻です』
背後で爆発音が響いた。
天井から巨大な鉄骨が落下する。
「玲司! 澪! 伏せろ!」
伊佐波朔夜が飛び出した。
赤魔術、生命錬成術式。
強化された脚力で床を蹴り、二人の前へ割り込む。
落下する鉄骨を蹴り飛ばした。
轟音。鉄骨が壁に突き刺さる。
「……っ、くそ!」
朔夜は右肩を押さえた。
黒い魔術師との戦闘で負った傷が、再び開いていた。
「朔夜、大丈夫!?」
「平気だ。それより走れ!」
三人は通路へ駆け込んだ。
非常灯が赤く点滅している。
施設内放送が、壊れた音声で警告を繰り返していた。
『緊急停止機構、応答なし』
『世界線接続率、上昇』
『隔離領域、崩壊』
玲司は走りながら、背後を振り返った。
巨大な黒い円環。
世界線干渉装置。
その中心で、黒と白の光が渦を巻いている。
装置から伸びる無数の術式が、施設全体へ広がっていた。
「ノア! 停止方法は?」
『制御中枢への直接アクセスが必要です』
「場所は?」
『装置の基部。現在位置から約百二十メートルです』
「なら、そこまで――」
玲司は言葉を止めた。
通路の先に、見覚えのある扉があった。
右側の壁に刻まれた傷。
床に落ちた薬莢。
そして、壊れた非常灯。
「……あれ?」
白瀬澪が首を傾げる。
「ねえ、ここさっき通らなかった?」
玲司は足を止めた。
間違いない。
数十秒前に通過した場所だった。
「……どうして」
『空間接続の異常を確認。進行方向と到達地点が一致していません』
ノアが告げる。
『現在の施設では、距離と方向が通常の意味を失っています』
「……冗談だろ」
朔夜が呟いた。
その瞬間。
通路の奥から、何かが這い出してきた。
◇
人間に似た輪郭。
だが、顔がない。
腕は四本。
脚は左右で長さが違い、背中から黒い管が伸びている。
人工供物だった。
それも、一体ではない。
天井から二体。
壁から三体。
床の亀裂から、さらに数体。
「……まだ残ってたのかよ!」
朔夜がデバイスを構えた。
青魔術、論理構築術式。
敵の術式反応が視界に展開される。
「八体。いや、九体か」
『玲司様、敵性反応が増加しています』
「朔夜、無理しないで!」
「無理しなきゃ死ぬだろ!」
朔夜が踏み込んだ。
緑魔術、原生循環術式。
炎が通路を横切り、人工供物の群れを分断する。
続けて赤魔術、生命錬成術式。
強化された拳が、先頭の一体を吹き飛ばした。
黒い身体が壁へ激突する。
しかし、別の個体が天井から飛びかかる。
朔夜は身を沈め、左足を軸に回転した。
蹴撃。
敵の胴体が折れ曲がる。
さらに青魔術で術式核を解析。
炎を一点に集中させ、核を焼き切った。
無駄のない連携。
だが、朔夜の呼吸は荒かった。
赤、緑、青。
三系統を切り替えるたびに、デバイスの残量表示が減っていく。
「……残り、二本」
朔夜が小さく呟いた。
サクリファイス・カートリッジ。
魔術を発動するための代償を供給する資源。
それが、もうほとんど残っていない。
「玲司! 装置を止める方法を探せ!」
「でも、朔夜が!」
「俺は大丈夫だ!」
朔夜は笑った。
血の滲んだ顔で。
「こういうときのために、鍛えてきたんだからな!」
玲司は唇を噛んだ。
朔夜は強い。
誰よりも努力してきた。
だが、無限に戦えるわけではない。
今、必要なのは。
彼にすべてを背負わせないことだった。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「装置の解析を続けて」
『了解しました』
玲司は銃を構え直した。
そして、朔夜の背後へ回り込む人工供物を撃ち抜いた。
「朔夜! 右後ろ!」
「助かる!」
朔夜が振り返る。
玲司は、その隙に装置へ視線を向けた。
黒い円環。
その基部に、無数の術式が集中している。
停止するには、あそこへ行かなければならない。
だが、どうやって。
◇
『解析結果を報告します』
ノアの声が響いた。
『世界線干渉装置は、複数の異なる存在情報を同時に観測することで稼働しています』
「……うん」
『現在、観測対象が制御限界を超過しています。通常の停止命令は受け付けられません』
「じゃあ、どうすれば?」
『観測基準を単一の世界線へ固定する必要があります』
玲司は息を呑んだ。
世界線。
異なる可能性。
それを扱う知識なら、心当たりがある。
別世界の研究者。
十一年もの歳月を世界線干渉理論へ費やした、自分。
あの記憶を読み込めば。
だが。
『玲司様』
ノアの声が、少しだけ低くなった。
『《存在読込》の再使用は推奨できません』
「……分かってる」
『現在も記憶情報の混線が残存しています。追加読込によって、自己同一性が回復不能となる危険があります』
玲司は、自分の手を見た。
さっきまで、朔夜の名前すら思い出せなかった。
澪の声がなければ、戻ってこられなかったかもしれない。
それなのに、また使うのか。
別世界の自分に頼るのか。
玲司の指が震えた。
「……僕がやるしか」
「違うよ」
すぐ隣から、声がした。
澪だった。
彼女は玲司の顔を覗き込んでいた。
「また、一人で全部やろうとしてる」
「……澪」
「オタクくんさ、そういうとこあるよね」
澪は困ったように笑った。
「誰かが困ってたら、すぐ自分が何とかしなきゃって思うの」
「でも、今は……」
「あーしも一緒にやる。オタクくんだけに背負わせない」
玲司は言葉を失った。
澪は、装置を見上げた。
「あーし、難しいことは分かんない」
彼女の指先に、淡い白い光が灯る。
「魔術の理論とか、並行世界とか。正直、ちんぷんかんぷん」
白魔術、神話顕現術式。
その光が、少しずつ広がっていく。
「でも、オタクくんが今、時間を必要としてることくらいは分かる」
「澪……?」
「だから」
澪は、玲司の手を握った。
「あーしが、時間を作る」
その瞬間。
天井が崩れた。
◇
巨大な亀裂が走る。
鉄骨が折れ、コンクリートが砕ける。
数十トンもの瓦礫が、三人の頭上へ落下した。
「澪!」
玲司が叫ぶ。朔夜が振り返る。
だが、間に合わない。
そのはずだった。
「――止まって!」
澪の声が響いた。
白い光が、施設全体へ広がる。
落下していた瓦礫が。
止まった。
空中で。
まるで、時間が切り取られたかのように。
砕けたガラスも。舞い上がった粉塵も。崩れかけた鉄骨も。
すべてが、静止していた。
「……何だ、これ」
朔夜が呆然と呟く。
『観測不能』
ノアの声が震える。
『術式構造を確認できません。代償消費も検出されていません』
澪は、苦しそうに息を吐いた。
「……長くは、無理かも」
額に汗が浮かぶ。
それでも、彼女は笑っていた。
「ほら、オタクくん」
玲司の背中を、軽く押す。
「今のうち!」
玲司は、頷いた。
「……ありがとう!」
走り出す。
朔夜が先行する。
静止した瓦礫の下を抜け、装置の基部へ向かう。
だが、そこにも人工供物が待ち構えていた。
三体。
黒い術式をまとい、通路を塞いでいる。
「玲司! 俺が道を開く!」
朔夜が最後のカートリッジを装填した。
赤。
緑。
青。
三色の術式が、同時に輝く。
青魔術で敵の位置を確定。
緑魔術で左右の退路を封鎖。
赤魔術で、正面へ突撃する。
一体目の核を拳で砕く。
二体目の脚を炎で焼き切る。
三体目が腕を伸ばした瞬間、朔夜は身体を捻った。
そして。
全力の蹴撃。
黒い身体が吹き飛び、壁へ激突した。
術式核が砕ける。
「……行け!」
朔夜が叫んだ。
玲司は、その横を駆け抜けた。
「ありがとう、朔夜!」
制御中枢へ。
あと、十メートル。
◇
『制御中枢への接続を確認』
ノアが告げる。
玲司の前に、青白い操作画面が浮かび上がった。
無数の術式。
無数の計算式。
そして、見たことのない制御言語。
「……分からない」
玲司は歯を食いしばった。
今の自分には、理解できない。
だが、知っている自分がいる。
別世界で研究者として生きた久遠玲司。
その経験を。
借りる。
「……ノア」
『はい』
「《技術読込》で、必要な知識だけを選ぶ」
『記憶混線の危険は残存しています』
「分かってる。でも、全部を重ねる必要はない」
玲司は目を閉じた。
無数の扉。
無数の人生。
その中から、一つを選ぶ。
研究者。
世界線干渉理論を追い続けた自分。
必要なのは、彼の人生ではない。
彼が積み重ねた知識だ。
《技術読込》。
瞬間。
数式が、意味を持ち始めた。
黒魔術による観測干渉。
存在情報の重複。
世界線の接続。
そして、停止条件。
「……見えた」
玲司は、画面へ手を伸ばした。
「ノア! 観測基準を一つに固定する!」
『基準世界線の指定が必要です』
「現在の天城市を基準に!」
『了解。座標照合を開始します』
だが。
画面が赤く染まった。
『警告。観測基準の固定に失敗』
「……何で!」
『装置内部に、未確認の存在情報が残留しています』
玲司は息を呑んだ。
画面に、無数の世界が映し出される。
崩壊した都市。
燃える学院。
死んだ朔夜。
動かない澪。
そして。
何度も敗北した、自分。
玲司の頭に激痛が走る。
「……っ!」
意識が引きずられる。
また、別世界の記憶へ。
また、誰かを失った過去へ。
だが。
「――玲司!」
朔夜の声がした。
「お前が今いるのは、ここだ!」
玲司は顔を上げた。
朔夜が、装置の手前で立っていた。
傷だらけで。
魔術もほとんど使い果たして。
それでも、こちらを見ていた。
「俺たちは、まだ生きてる!」
玲司の視界が揺れる。
さらに。
「オタクくん!」
澪の声。
白い光の向こうで、彼女が笑っていた。
「あーしも、ちゃんとここにいるから!」
玲司は、息を吸った。
そうだ。
別世界では、何度も失った。
何度も守れなかった。
けれど。
今、この世界では。
二人とも、生きている。
玲司は、ゆっくりと画面へ向き直った。
「……ノア」
『はい、玲司様』
「僕の現在の記憶を、観測基準に使える?」
『……解析中』
一秒。
二秒。
『可能です。ただし、玲司様自身の存在情報を基準点として固定する必要があります』
「それでいい」
『他世界の記憶との接続を、一時的に遮断します』
「……うん」
玲司は、頷いた。
別世界の自分たち。
その経験には、何度も助けられた。
これからも、必要になるかもしれない。
だが。
今、選ぶのは。
今ここにいる自分だ。
「……僕は、久遠玲司」
玲司は、操作画面へ手を置いた。
「天城魔術学院の二年生で」
青い術式が広がる。
「朔夜の親友で」
赤い警告表示が、一つ消える。
「澪の幼なじみで」
装置の回転が、少しずつ遅くなる。
「……そして」
玲司は、最後の操作を選択した。
「この世界で、二人と生きていきたい」
指が、画面へ触れた。
世界線干渉装置。
緊急停止。
実行。
◇
光が、消えた。
黒い円環の回転が止まる。
施設全体へ広がっていた術式が、次々に崩れていく。
壁が、元の位置へ戻る。
歪んでいた通路が、真っ直ぐになる。
空中で静止していた瓦礫が、ゆっくりと床へ落ちた。
そして。
静寂。
『……確認』
ノアの声が響く。
『世界線干渉装置、完全停止』
玲司は、しばらく動けなかった。
『地下研究施設の観測異常が収束しています』
ノアが続ける。
『人工供物の暴走反応も、順次消失』
玲司は、ゆっくりと息を吐いた。
「……終わった?」
『はい』
短い返答。
『作戦は成功です、玲司様』
その瞬間。
玲司の膝から力が抜けた。
「……あ」
倒れかけた身体を、朔夜が支えた。
「おっと」
「……朔夜」
「まったく。最後まで無茶しやがって」
朔夜は、疲れきった顔で笑った。
玲司も、力なく笑い返す。
「……朔夜だって」
「俺は鍛えてるからな」
「……そういう問題じゃないと思う」
二人は、思わず笑った。
そこへ。
「ちょっとー!」
澪が駆け寄ってきた。
「あーしを置いて二人で感動してない!?」
「……澪」
「もう! ほんっと心配したんだから!」
澪は、玲司の胸を軽く叩いた。
だが、その手は震えていた。
「……無事で、よかった」
小さな声。
玲司は、澪を見つめた。
そして、頷いた。
「……うん」
澪の手を、そっと握る。
「ありがとう」
澪は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、いつものように笑った。
「どーいたしまして、オタクくん」
朔夜が、二人の肩を軽く叩く。
「さて。感動してるところ悪いけど、さっさと脱出するぞ」
『同意します。施設の構造的損傷は依然として深刻です』
「……ですよね」
玲司は苦笑した。
三人は、出口へ向かって歩き始めた。
今度は、通路が元の場所へ戻ることはなかった。
背後で、停止した黒い円環が静かに沈黙している。
数えきれないほどの人生。
数えきれないほどの敗北。
その記憶は、まだ玲司の中に残っていた。
けれど。
それらが、今の玲司を決めるわけではない。
誰かの人生を借りることはできる。
誰かの技術を受け継ぐこともできる。
しかし。
最後の選択だけは。
自分自身で、しなければならない。
玲司は、前を歩く二人を見つめた。
朔夜。
澪。
どちらも、生きている。
今は、それだけで十分だった。
そして三人は、地上へ続く階段を上っていった。
長い夜が、ようやく終わろうとしていた。




