敗者たちの記憶
最初に消えたのは、男の右腕だった。
いや、消えたように見えただけだ。
久遠玲司の視界から、黒い腕が突然失われた。
『玲司様、右方より高密度魔術反応!』
「えっ――」
振り向くより早く、見えない何かが腹部を打ち抜いた。身体が浮き、肺から空気が押し出される。
「玲司!」
伊佐波朔夜が踏み込んだ。
赤魔術、生命錬成術式。
強化した身体で玲司を受け止め、そのまま床を滑って後退する。
「……っ、げほっ!」
「生きてるか!」
「な、なんとか……」
「なら立て。次が来る!」
玲司が顔を上げる。
そこにいたのは、もはや人間ではなかった。
かつて玲司を襲撃した黒い魔術師。大量の人工供物を取り込んだ身体は、異形へ変貌していた。
背中から伸びる腕は六本。だが、数え直せば四本、瞬きすれば八本へ変わる。関節は逆方向へ折れ曲がり、腕の長さも一定しない。
足元に影はなく、数メートル離れた場所で黒い影だけが動いていた。
「……認識干渉か」
朔夜が青魔術、論理構築術式を展開する。
「実体位置、前方十二メートル。いや、九メートル……十五メートル?」
『対象の存在座標が観測ごとに変動しています。通常の位置予測は不可能です』
黒い魔術師が腕を持ち上げた。
「さあ、久遠玲司。見せてみろ。お前が、どこまで到達したのかを」
次の瞬間、床が爆ぜた。
◇
「澪、下がって!」
白瀬澪が後退した直後、足元を黒い腕が貫いた。
「ちょっ、どこから出てきたの、これ!」
「見えてる場所を信じるな!」
朔夜が緑魔術、原生循環術式を放つ。炎が男を包むが、その身体をすり抜けた。
「そこじゃない!」
朔夜は炎の揺らぎから実体を見抜き、左へ跳んだ。
赤魔術、生命錬成術式による加速。
拳が何もない空間へ突き刺さる。
歪んだ空間から男の胴体が現れ、黒い装甲に亀裂が走った。
「……当たった!」
しかし、男の骨格が液体のように変形し、朔夜の拳を包み込む。
六本の腕が一斉に向けられた。
『危険!』
三発の銃声。
玲司の魔術弾が腕を撃ち抜き、拘束が緩む。
朔夜は後退したが、黒い爪が右肩を掠めた。包帯が裂け、血が飛ぶ。
「朔夜!」
「問題ない! 玲司、あいつの身体は攻撃を受ける瞬間に構造が変わる!」
「分かった!」
玲司は目を閉じた。
無数の扉。無数の人生。
《愚者の選択》。
別世界で十年以上戦い続けた兵士の経験を選ぶ。
《技術読込》。
銃の重量、遮蔽物、敵の射線。戦場の情報が整理されていく。
「ノア、弾道補正!」
『了解しました』
玲司は朔夜の炎を遮蔽物にして右へ回り込んだ。
狙うのは腕の付け根。変形する瞬間、わずかに動きが鈍る。
四発の魔術弾が黒い腕を撃ち抜いた。
だが、切断面から新しい腕が生える。
「……嘘だろ」
「戦術は悪くない。だが、足りない」
玲司の背後に黒い影が立ち上がった。
衝撃。
玲司は床へ叩きつけられた。
◇
朔夜の炎が追撃を止める。
玲司は転がって距離を取った。
『肋骨損傷の疑いがあります。身体活動の制限を推奨します』
「……今は無理だよ」
兵士では駄目だった。
ならば、次の扉。
《技術読込》。
幾千もの試合を経験した格闘家。
玲司は銃を左手へ持ち替え、迫る腕の内側へ踏み込んだ。関節を取り、男の身体を崩す。
成功した。
だが、次の瞬間、関節が消えた。
腕が骨格のない帯状の組織へ変わり、玲司の手首へ巻きつく。
引き寄せられた先で、男の胸部が裂けた。
内部には無数の黒い結晶が並んでいる。
「玲司!」
朔夜の蹴撃が男の側頭部を吹き飛ばす。
玲司を引き戻し、二人は床を転がった。
「馬鹿! 近づきすぎだ!」
「ご、ごめん!」
「謝るのは後だ!」
男の頭部が再生していく。
玲司は、朔夜を見た。
あれほど負傷しているのに、彼は戦場全体を見ている。玲司が失敗するたび、必ず助けに来る。
だが、その身体も限界に近かった。
「……次は、研究者だ」
玲司は再び扉を開いた。
魔術研究に人生を費やした自分。
黒魔術。存在干渉。観測による状態の確定。
「……そうか」
男は単純に身体を変形させているのではない。
観測された情報に合わせて、存在状態そのものを変えている。
ならば、観測を固定すればいい。
「ノア! 青魔術の観測補助を最大出力に!」
『対象の情報密度が高すぎます』
「一瞬でいい!」
解析線が男へ集中した。
その瞬間、男がこちらを見た。
「……それも、知っている」
黒い術式が反転する。
玲司の視界が暗転した。
『警告! 観測情報が逆流しています!』
脳の奥で、何かが弾けた。
◇
そこは、戦場だった。
赤い空。崩れた建物。燃え上がる炎。
玲司は泥の中に膝をついていた。
目の前には、胸に大きな穴を開けた朔夜が倒れている。
「……おい。起きろよ、朔夜」
口から出たのは、低く擦れた大人の声だった。
「……頼むから」
抱き起こした身体は冷たかった。
この世界の玲司は、何度も救命処置を試みていた。
そして、すべて失敗した。
視界が割れる。
次の世界。
天城市が燃えていた。
空には巨大な黒い円環。街路には人工供物が溢れ、学院が崩壊している。
右腕を失った玲司が、瓦礫の上から最後の一発を撃った。
だが、届かない。
黒い光が都市を呑み込んだ。
次の世界。
白い研究室。透明な培養槽。
その中に、澪が横たわっていた。
「……澪。お願いだ……」
何年も研究し、何千もの仮説を試した。
それでも、彼女は目を覚まさない。
次の世界。
病院の廊下。
玲司は古びた写真を握っていた。
そこには笑う澪と、幼い自分が写っている。
だが、もう澪はいなかった。
視界が割れる。
また。
無数の世界。無数の人生。
朔夜を失った世界。街を守れなかった世界。仲間を殺した世界。何も選べず逃げ続けた世界。
そして、どの世界でも。
澪は死んでいた。
「……やめろ」
玲司の声は届かない。
兵士。研究者。魔術師。殺人者。逃亡者。英雄。誰にも知られず死んだ者。
すべて久遠玲司だった。
そして、誰も大切なものを守れなかった。
◇
「玲司!」
朔夜の声が、水の底から聞こえるようだった。
「おい! 返事しろ!」
玲司は目を開けた。
地下研究施設。黒い魔術師。燃え上がる炎。
現実へ戻っていた。
しかし、身体が動かない。
『外部情報と記憶情報の区別が不安定です』
「……僕は」
玲司は自分の手を見た。
十七歳の手。
なのに、存在しない傷跡の感触がある。右腕を失った記憶も、誰かを抱いて泣いた記憶も。
全部、自分のものだった。
けれど、全部自分のものではなかった。
「……僕は、何を借りてるんだ……?」
黒い魔術師が近づく。
「理解したか。お前が見ているものの意味を」
「……あの世界の僕たちは……」
玲司は言葉を失った。
彼らは勝者ではなかった。
未来を変えられず、守れず、何度も選択を誤った者たち。
玲司が借りていたのは、敗者たちの記憶だった。
「……そうか」
玲司は息を吐いた。
ずっと勘違いしていた。
別世界には、自分より優れた人生を生きた玲司がいる。その力を借りれば、誰かを守れるはずだと。
だが、彼らも失敗し、後悔し、自分と同じように弱かった。
それでも。
敗北したということは、その瞬間まで戦っていたということだ。
守れなかったということは、守ろうとしたということだ。
そして、失敗した者にしか分からないことがある。
「……だったら」
玲司はゆっくりと立ち上がった。
「まだ、終わってない」
男が足を止める。
「……何?」
「僕は、まだ負けてない」
玲司は銃を握り直した。
「みんなが失敗したなら、その失敗を使えばいい。同じ間違いをしなければいい。守れなかった理由を覚えていればいい」
男の口元が、わずかに動いた。
「……そうだ」
ほとんど聞こえない声。
「それでいい」
◇
「玲司! 何をする気だ!」
朔夜が叫ぶ。
玲司の意識の奥では、無数の扉が開いていた。
これまでは一つの世界から必要な技術だけを読み込んでいた。
だが、そのさらに奥には、別の扉がある。
経験だけではない。
人格、記憶、感情、生きてきた人生そのものを、自分へ重ね合わせる力。
戻れなくなるかもしれない。
自分が誰なのか、分からなくなるかもしれない。
それでも、目の前には守りたい人たちがいた。
「……ノア。僕の意識を監視していて」
『意図を確認できません』
「もし僕が、僕じゃなくなりそうだったら……呼び戻して」
『現在の記憶混線率は危険域です。これ以上の読込は自己同一性の喪失につながる可能性があります』
「分かってる」
『推奨できません』
「それでも、やる」
玲司は目を閉じ、扉を開いた。
《存在読込》。
瞬間、世界が砕けた。
◇
頭蓋骨の内側を無数の針で刺されるような激痛。
玲司は膝をついた。
『警告! 未確認の根源魔術発動を検出! 記憶領域への異常な情報流入を確認!』
別世界の人生が流れ込む。
戦場。研究室。病院。廃墟。学院。
知らない街と、知っている顔。
朔夜。澪。
何度も失う。
玲司は歯を食いしばった。
全部は要らない。
今必要なのは、敵を倒す経験と、仲間を守る判断。
無数の人生から、一人を選ぶ。
ある世界の久遠玲司。
彼は優れた兵士でも、特別な魔術師でもなかった。
だが、誰よりも多くの敗北を記録していた。
仲間が死んだ理由。退路を失った原因。敵の攻撃を読み違えた瞬間。
そのすべてを書き残し、次の戦いでは同じ失敗を繰り返さなかった。
それでも最後は仲間を守りきれず、戦場で命を落とした。
だが、積み重ねた失敗は消えていない。
玲司は、その人生を選んだ。
《存在読込》。
意識が重なる。
呼吸が変わる。視線が変わる。
敵だけでなく、味方の位置、退路、遮蔽物、攻撃の順番までが一つの図として浮かび上がった。
『玲司様! 自己同一性の維持が困難です! 直ちに発動を停止してください!』
玲司は顔を上げた。
「……まだだ」
声が、わずかに低くなっていた。
自分の声なのに、自分のものではない。
「……まだ、僕が選ぶ」
◇
黒い魔術師が動いた。
八本の腕が一斉に伸びる。
「朔夜、左へ三歩!」
朔夜が反射的に従う。
直後、立っていた場所を黒い腕が貫いた。
「今度は右! 炎を床に!」
「分かった!」
緑魔術、原生循環術式。
床を這う炎によって、男の足元の影が歪んだ。
「……そこか!」
朔夜が赤魔術、生命錬成術式で踏み込み、胴体へ拳を叩き込む。
男は身体を変形させて受け流した。
「今!」
玲司の魔術弾が、男の背後の床へ命中する。
術式が弾け、黒い影が途切れた。
「……何をした?」
玲司は答えない。
認識干渉は完全ではない。
存在位置をずらすためには周囲の術式への干渉が必要で、そこにはわずかな遅延がある。
別世界の自分が何度も仲間を失って得た知識。
玲司は、それを今の戦場へ適用していた。
「朔夜! 次は上から!」
「了解!」
青魔術で術式変動を解析し、緑魔術で上方に炎の障壁を作る。
黒い腕が炎へ触れ、実体位置が浮かんだ。
朔夜が跳ぶ。
赤魔術による蹴撃が肩の装甲を砕いた。
「……まだだ!」
男の背中から新たな腕が伸びる。
「二秒後、右腕が来る!」
朔夜は迷わず身体を沈め、頭上を通過した腕を掴んだ。
赤魔術で関節を固定し、緑魔術の炎を流し込む。
「……ぐああああっ!」
初めて男が苦痛の声を上げた。
「ノア! 敵の術式核を探して!」
『解析開始』
絶えず変化する身体。
しかし、変わらない場所が一つだけあった。
取り込んだ人工供物から流れ込む魔術的な代償。
そのすべてが集中する、胸部の奥。
「……見つけた」
玲司は銃を構えた。
◇
黒い魔術師の身体は、崩壊と再生を繰り返していた。
それでも無数の腕が襲いかかる。
朔夜は青魔術で軌道を読み、赤魔術で回避し、緑魔術の炎で迎撃する。
だが、右肩の傷が限界に達していた。
「……っ!」
膝が落ちる。
黒い腕が迫った。
「朔夜!」
その瞬間、白い光が差し込んだ。
「――いい加減にしてよ!」
澪だった。
両手を広げ、黒い腕を睨みつける。
「あーしの友達に、これ以上何すんの!」
白魔術、神話顕現術式
淡い光が指先から広がり、黒い腕を一瞬だけ止めた。
「澪、下がって!」
「分かってる!」
澪は後退する。
白い光が消え、黒い腕が再び動き始めた。
しかし、朔夜はすでに立ち上がっていた。
「……助かった!」
「あとでちゃんとお礼言ってよね!」
「何回でも言う!」
朔夜は笑い、最後のカートリッジを装填した。
赤、緑、青。
三つの術式が同時に展開される。
「玲司! お前が道を作れ!」
「……僕が、決める!」
朔夜が踏み込む。
緑の炎が退路を塞ぎ、青魔術が術式変動を捉える。
赤魔術が身体を限界まで加速させた。
「右上、三本!」
朔夜が回避する。
「次、左下!」
炎が弾ける。
「今!」
朔夜の拳が胸部へ突き刺さった。
黒い装甲が砕け、赤黒い光が露出する。
術式核。
『射撃可能』
玲司は引き金を引いた。
魔術弾が一直線に飛び、核を貫いた。
◇
音が消えた。
黒い魔術師の身体が崩れ始める。
腕が落ち、装甲が砕け、黒い術式が砂のように散っていく。
「……見事だ」
男が呟いた。
「ようやく……ここまで……」
玲司は銃を下ろさない。
「……お前は、何を知ってるんだ」
「……いつか、分かる」
「待て! 澪のことを教えろ! お前たちの目的を!」
男の身体が崩れていく。
「……彼女を……」
「……何?」
続く言葉はなかった。
黒い粒子が空間へ溶け、何も残らなくなった。
勝った。
人工供物事件の中心にいた男を、ようやく倒した。
だが、達成感はなかった。
「……玲司?」
朔夜の声がした。
玲司は振り向いた。
そこには黒髪の少年が立っていた。
傷だらけの制服。血を流す右肩。
とても大切な人のはずだった。
なのに。
「……誰?」
朔夜の表情が凍りついた。
「……は?」
知っている。
何度も一緒に笑い、喧嘩し、助けられた。
それなのに名前が出てこない。
「……ごめん。君の名前……何だっけ……?」
『警告。自己同一性の維持に重大な異常を確認』
知らない記憶が流れ込む。
戦場。研究室。病院。廃墟。
どれが本当の記憶なのか、分からない。
「……僕は、誰なんだ……?」
膝が崩れた。
その瞬間。
「――オタクくん!」
聞き慣れた声が響いた。
明るくて、少し強引で、いつも自分をからかう声。
澪が駆け寄り、玲司を抱きしめた。
「オタクくん!」
「……澪?」
「そう! あーし! 白瀬澪! オタクくんの幼なじみ!」
玲司の記憶が揺れる。
幼い頃の夕焼け。
転んで泣いていた自分の手を引き、少しお姉さんぶって笑う少女。
「……ほら、オタクくん。ちゃんと帰ってきてよ」
「……帰る?」
「そう。あーしたちのところに」
澪が手を握った。
別世界の記憶が少しずつ遠ざかる。
戦場の匂いが消え、研究室の冷たさが薄れ、知らない人々の声が静かになる。
「……僕は」
玲司の声が震えた。
「……久遠、玲司」
「うん」
「天城魔術学院の……二年生で……」
「うん」
「……澪の、幼なじみで……」
「そうだよ」
玲司は顔を上げた。
その向こうに、傷だらけの朔夜が立っている。
必死に名前を探した。
「……さく……」
朔夜の目が見開かれる。
「……朔夜」
朔夜は大きく息を吐いた。
「……馬鹿野郎。本気で焦っただろ……」
「……ごめん」
「謝るな。戻ってきたなら、それでいい」
朔夜の手が玲司の肩に置かれた。
玲司は二人を見つめる。
澪。朔夜。
別世界の自分たちは、何度も大切な人を失った。
だが、今この世界では二人とも生きている。
まだ終わっていない。
未来は決まっていない。
選ぶのは別世界の誰かではなく、今ここにいる自分だ。
玲司は二人の手を握った。
「……ありがとう。僕を、見つけてくれて」
「当たり前じゃん」
澪が笑う。
「何回でも見つけてやるよ」
朔夜も疲れた顔で笑った。
その瞬間、地下研究施設の奥から低い振動が響いた。
床が揺れ、天井から破片が落ちる。
『緊急警告。世界線干渉装置の制御系に重大な異常を検出』
巨大な黒い円環。
その中心で赤い光が点滅していた。
『制御者の生体反応消失により、装置が暴走を開始しました』
円環が回転し、空間が歪む。
床の黒い術式が一斉に発光した。
『このままでは施設全体の崩壊が予測されます』
「……まだ終わらないのかよ」
朔夜が舌打ちする。
澪が玲司の手を握り直した。
「オタクくん、立てる?」
玲司は頷いた。
頭は痛い。身体も限界だった。
それでも。
「……うん」
銃を拾い上げる。
「まだ、やれる」
朔夜が笑った。
「だったら、最後まで付き合うぞ」
「もちろん、あーしもね」
澪も隣へ並んだ。
三人は暴走する巨大な装置を見上げた。
敗者たちの記憶は、まだ玲司の中にある。
だが、それはもう、彼を縛る鎖ではなかった。
失敗を知っている。
後悔を知っている。
守れなかった痛みを知っている。
だからこそ、次は違う選択ができる。
玲司は一歩踏み出した。
まだ誰も選んだことのない未来へ。




