魔術師の真意
扉の向こうには、夜があった。
地下百八十メートル。
太陽の光など届くはずのない場所に、漆黒の空間が広がっている。
天井は見えない。壁も見えない。
ただ、床に刻まれた無数の黒い術式だけが、心臓の鼓動に合わせるように明滅していた。
「……ここが、最深部?」
久遠玲司は、魔術デバイスを構えたまま足を止めた。
『施設構造図と照合。最深区画への到達を確認しました』
ノアの声が、静寂に響く。
『ただし、内部空間の測定値に異常があります。視認できる空間と実際の容積が一致しません』
「……また黒魔術か」
伊佐波朔夜が呟いた。
その右肩には、澪が巻いた応急処置用の包帯がある。先ほどの防衛兵器との戦闘で傷口が開き、白い布には赤い染みが広がっていた。
それでも、朔夜は先頭に立っている。
「無理しないでよ、朔夜」
白瀬澪が言った。
「さっきから顔色悪いし。あーし、結構本気で心配してるんだけど」
「分かってる。無茶はしない」
「さっきも同じこと言ってたじゃん」
「……今回は本当だ」
「信用ゼロなんですけど」
いつもなら笑えるやり取りだった。
だが、玲司は笑えなかった。
空間の奥から、何かがこちらを見ている。
そんな感覚が、ずっと消えない。
玲司は銃を握り直した。
「……誰かいる」
その瞬間。
乾いた拍手が響いた。
一度。二度。三度。
「見事だ」
闇の奥から、男の声がした。
「多重術式防衛兵器を突破するとは。想定を上回る結果だ」
黒い床に、足音が落ちる。
やがて、一人の男が姿を現した。
漆黒の外套。顔の上半分を覆う仮面。
そして、指先から首筋まで這い上がる、黒い術式。
玲司は息を呑んだ。
「……お前」
忘れるはずがない。
人工供物事件の現場で遭遇した男。
旧市街の連絡橋で、自らの肉体を異形へ変えて襲いかかってきた魔術師。
何度も玲司の前に現れ、その能力を試し続けてきた存在。
「久しぶりだな、久遠玲司」
男は穏やかに言った。
「いや、先ほど会ったばかりだったか」
朔夜が一歩前へ出る。
「ふざけた挨拶はいい。両手を見える位置に出せ」
「相変わらず警戒心が強い」
「お前にだけは言われたくないな」
朔夜の左手に青い術式が浮かぶ。
男は抵抗しなかった。
ただ、三人を順番に見つめた。
玲司。
朔夜。
そして、澪。
澪へ視線が移った瞬間、男の動きが止まった。
「……やはり、来たか」
「何?」
澪が眉をひそめる。
「何なの、その反応。あーしのこと知ってるわけ?」
「……知っている」
男は答えた。
「少なくとも、君が思っている以上には」
玲司の背筋が冷たくなる。
「澪に何をした?」
「私は何もしていない」
「じゃあ、どうして澪を知ってるんだ!」
男は答えない。
代わりに、ゆっくりと両腕を広げた。
「まずは、君たちに見せたいものがある」
男の足元で黒い術式が回転した。
空間が明るくなる。
玲司は、思わず息を止めた。
◇
闇だと思っていた場所には、無数の透明な円筒が並んでいた。
天井まで伸びる培養槽。
内部を満たす淡い青色の液体。
その中に、人間に似た何かが浮かんでいる。
腕の長さが違う個体。
顔のない個体。
胴体から複数の脚が伸びた個体。
そして、人間とほとんど変わらない姿をした個体。
数十。
いや、数百。
「……人工供物」
朔夜が低く呟いた。
『生体反応を多数検出。人工供物と推定されます。ただし、通常の製造規格から大幅に逸脱しています』
玲司は、培養槽へ近づいた。
透明な壁の向こうで、一体の人工供物が浮かんでいる。
少年の姿をしていた。
年齢は、自分と同じくらいに見える。
目を閉じ、静かに眠っている。
その胸部には、黒い術式が刻まれていた。
「……この子たちは」
「実験体だ」
男が答えた。
「黒魔術による存在干渉。人工供物という自我を持たない器へ、別の世界の情報を接触させる」
「……別の世界?」
「そうだ」
男は、玲司を見た。
「君の能力と、よく似た現象だろう?」
玲司の心臓が跳ねた。
《愚者の選択》。
平行世界の自分が生きた経験を読み込む、玲司の根源魔術。
その仕組みを、男は最初から知っていた。
「……やっぱり、お前たちは僕の能力を調べていたんだな」
「調べていた?」
男は、わずかに首を傾げた。
「違う」
そして、告げた。
「我々は、君を育てていた」
玲司は言葉を失った。
「……何?」
「最初の襲撃。人工供物の暴走。魔術犯罪者との戦闘。地下施設での実験体解放。そして、都市全域における大規模な混乱」
男は指を折りながら数えた。
その声は、研究成果を報告する学者のように淡々としていた。
「すべて、君の成長を促すために必要な段階だった」
静寂。
玲司は、男の言葉を理解できなかった。
いや。
理解したくなかった。
「……待って」
ようやく声が出た。
「都市の暴走も……お前たちが?」
「そうだ」
「人工供物が街中に現れたのも?」
「我々が引き起こした」
「学院が襲われたのも……?」
「計画の一部だ」
玲司の指が震え始めた。
脳裏に、光景が浮かぶ。
炎に包まれた街。崩壊する建物。逃げ惑う人々。血を流して倒れた防衛隊員。
澪が必死に支えた、崩れ落ちる六階建ての建物。
あの下には、逃げ遅れた人々がいた。
澪が奇跡を起こさなければ、助からなかったかもしれない。
そのすべてが。目の前の男たちによって、意図的に引き起こされた。
「……ふざけるな」
玲司の口から、低い声が漏れた。
「何だって?」
「ふざけるなって言ってるんだ!」
銃口が持ち上がる。
ノアが警告を発する。
『玲司様。心拍数が急上昇しています』
だが、玲司には聞こえなかった。
「そのために、街の人たちを危険にさらしたのか!」
叫びが、巨大な空間に反響した。
「何の関係もない人たちが、どれだけ怖い思いをしたと思ってるんだ! 怪我をした人もいる! 死にかけた人だって!」
男は黙って聞いていた。
「僕の能力を調べたいなら、僕だけを狙えばよかっただろ!」
玲司は一歩踏み出した。
「どうして、あんなことをしたんだ!」
男は、少しだけ目を伏せた。そして。
「必要な犠牲だった」
そう言った。
玲司の中で、何かが切れた。引き金に指がかかる。
「玲司!」
朔夜が腕を掴んだ。
玲司は振り返らない。
「離して、朔夜!」
「落ち着け!」
「落ち着けるわけないだろ!」
朔夜は、玲司の腕を強く握った。
「分かってる。俺だって、今すぐ殴りたい」
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「でも、ここで撃ったら何も聞き出せない」
玲司は歯を食いしばった。
数秒後。
ようやく銃口を下ろした。
男は、その一部始終を観察していた。
「……感情の制御は、まだ不完全か」
「黙れ」
朔夜が言った。
普段の軽さは、一切なかった。
「お前が何を考えてるかなんて、もうどうでもいい」
青い術式が、男の足元へ伸びる。
「一つだけ答えろ」
朔夜は、真正面から男を睨んだ。
「誰がお前に命令した?」
◇
男は、すぐには答えなかった。
代わりに、背後の巨大な装置へ視線を向ける。
培養槽のさらに奥。
黒い円環が、幾重にも重なって浮かんでいた。
その中心には、何もない。
何もないはずなのに、玲司にはそこに深い穴が開いているように見えた。
覗き込めば、二度と戻れない。
そんな錯覚を覚える。
『世界線干渉装置と推定。稼働状態を確認しました』
ノアが告げる。
『ただし、通常の魔術理論では説明できない観測値が含まれています』
「……あの装置を使って、僕の能力を?」
玲司が尋ねる。
「装置は補助にすぎない」
男は答えた。
「異なる世界へ接触する技術なら、我々も一定の成果を得ている。だが、それは不完全だ」
男は玲司へ向き直る。
「他者の存在を重ねれば、人格は崩壊する。人工供物へ情報を流し込めば、肉体が耐えられず異形化する」
培養槽の中で、黒い術式が明滅した。
「だが、君は違う」
「……僕が?」
「君は別世界の自分を選び、その経験を取り込むことができる。しかも、自我を維持したまま」
玲司は、思わず目を伏せた。
維持できている。
本当に、そうだろうか。
知らない戦場の記憶。
殺したことのない人間の感触。
失ったことのない仲間への悲しみ。
あの医療センターで、自分が誰なのか分からなくなった恐怖。
玲司は、それを忘れていなかった。
「……そんなに都合のいい力じゃない」
「だからこそ、完成させる必要がある」
男の声に、初めて熱が宿った。
「君はまだ、入り口に立っただけだ」
澪が一歩前へ出た。
「ねえ」
男の視線が動く。
「さっきから、オタクくんのことばっかり話してるけどさ」
澪は、培養槽を見渡した。
「この研究、あーしとも関係あるんでしょ?」
男は沈黙した。
「分かるよ。あーしを見たとき、あんた、明らかに変だったもん」
「……君は」
男が何かを言いかける。
だが、そこで口を閉じた。
「……答えられない」
「何それ」
「私の口から語ることは許されていない」
澪の表情から、笑みが消えた。
「許されてないって、誰に?」
男は答えない。
「自分のことなのに、あーしには知る権利もないわけ?」
「……すまない」
その一言に、玲司は違和感を覚えた。
男は、街の人々を危険にさらしたことを謝らなかった。
人工供物を実験に使ったことも。
玲司の人生を勝手に操作したことも。
それなのに。
澪に対してだけは、謝罪した。
「……お前たちの上に、誰かいるんだな」
玲司が尋ねる。
男は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
「そいつは、僕の能力を知っているのか?」
「ああ」
「澪のことも?」
「……知っている」
「何者なんだ」
男は、わずかに顔を上げた。
その瞳には、奇妙な感情が浮かんでいた。
恐怖。
敬意。
そして、どこか痛ましいほどの忠誠。
「私には、あの方のすべてを理解することはできない」
男は言った。
「だが、命令は一つだけだった」
黒い円環が、低く唸る。
空間全体が、わずかに震えた。
男は、玲司を真っ直ぐに見つめる。
「世界を救うために、久遠玲司を完成させろ」
玲司は息を止めた。
世界を救う。
あまりにも大きな言葉だった。
「……世界を?」
「そうだ」
「僕の能力で?」
「そうだ」
「……何から救うんだ」
男は答えなかった。
玲司は、さらに問いかける。
「何が起きるんだ? どうして僕じゃなきゃいけない?」
沈黙。
「澪と、何の関係があるんだ!」
男の指が、わずかに動いた。
だが、口は開かない。
玲司は気づいた。
この男は、答えを知らないのではない。
知っていて、話さないのだ。
「……教えてくれよ」
玲司は、絞り出すように言った。
「僕たちは、何と戦ってるんだ……?」
男は、しばらく玲司を見つめていた。
そして、静かに首を振った。
「今の君には、まだ早い」
◇
カチリ、と音がした。
朔夜が顔を上げる。
「玲司、下がれ」
「……え?」
「こいつ、何かする」
青魔術、論理構築術式が展開する。
男の足元から、黒い術式が伸び始めていた。
それは床を這い、周囲の培養槽へ接続していく。
一つ。二つ。十。二十。
無数の円筒が、同時に明滅した。
『警告。人工供物の生体反応が急激に変化しています』
ノアが告げる。
『複数の培養槽から、同一の魔術反応を検出』
「……何をする気だ!」
玲司が叫ぶ。
男は、ゆっくりと仮面へ手をかけた。
「ここまで来た君たちには、敬意を表しよう」
仮面が外れる。
その下にあったのは、ひどく疲れた男の顔だった。
頬は痩せこけ、目の下には深い隈が刻まれている。
そして、首筋から顎にかけて、黒い術式が脈打っていた。
「私は、これまで多くの実験を見てきた」
男は言った。
「失敗した人工供物。人格を失った研究者。別の世界の記憶に耐えられず、壊れていった者たち」
玲司は銃を構えた。
「だったら、どうして続けたんだ!」
「……止められなかった」
男の口元が歪む。
「いや。止めようとしなかった、というべきか」
足元の黒い術式が、男の脚へ這い上がった。
「我々が行ってきたことは、決して許されない」
男は、自分の右手を見つめた。
「それでも、あの方が見ている未来を知ったとき、私は……」
言葉が途切れる。
玲司は、眉をひそめた。
「……未来?」
男は答えない。
代わりに、右腕を持ち上げた。
黒い術式が皮膚の下で膨張する。
骨が軋む音。
筋肉が不自然に盛り上がる。
指が裂け、一本の腕から、さらに二本の腕が伸びた。
「……っ!」
澪が息を呑む。
周囲の培養槽に亀裂が走った。
ガラスが砕ける。
青白い液体が床へ流れ出す。
内部に浮かんでいた人工供物が、黒い光の粒子となって崩れ始めた。
その粒子が、男の身体へ吸い込まれていく。
『危険。複数の人工供物から、魔術的な代償供給を確認』
ノアの声が鋭くなる。
『対象の生体構造が急速に変質しています!』
「朔夜!」
「分かってる!」
朔夜が赤魔術、生命錬成術式を発動する。
負傷した右肩を庇いながら、玲司と澪の前へ立った。
男の背中が裂ける。
そこから、黒い腕が伸びた。
一本。二本。四本。
関節の位置が変わる。
身体の輪郭が揺らぐ。
見えている姿と、床に落ちる影が一致しない。
以前、連絡橋で戦ったときとは違う。
あのときは、まだ人間の形を保っていた。
だが今は。
人間という存在そのものが、別の何かへ書き換えられていく。
「……これが、最後の実験か」
朔夜が低く呟いた。
男の顔は、すでに半分が黒い装甲に覆われていた。
それでも、声だけは人間のままだった。
「久遠玲司」
男が呼ぶ。
「君の力は、まだ完成していない」
玲司は、銃口を向けた。
「……完成なんか、させない」
「それでは困る」
黒い腕が、ゆっくりと広がる。
「君には、すべてを失った世界を越えてもらわなければならない」
玲司の心臓が、嫌な音を立てた。
すべてを失った世界。
その言葉が、脳裏に眠る記憶を刺激する。
炎上する街。倒れた朔夜。白い研究室。
動かなくなった澪。
「……どうして」
玲司の声が震えた。
「どうして、お前がそれを知ってるんだ……?」
男は、答えなかった。
ただ、ゆっくりと笑った。
その笑みは、勝利を確信した者のものではない。
何かを諦め、それでも進むしかなくなった者の笑みだった。
「ならば、最後の試練を始めよう」
次の瞬間。
黒い術式が、最深部全体へ広がった。
空間が歪む。床が軋む。天井のない闇から、無数の黒い腕が垂れ下がる。
玲司の視界に、ノアの警告が赤く点滅した。
『緊急警告。対象の魔術出力、測定上限を超過』
朔夜が拳を握る。
澪が、玲司の隣へ立つ。
玲司は、銃を構え直した。
逃げるつもりはなかった。
だが、胸の奥に一つだけ、消えない疑問が残っていた。
世界を救うために、自分を完成させる。
もし、それが本当なら。
いったい、どんな未来が待っているというのだろう。
そして。
その未来で、澪はどうなってしまうのだろう。
答えは、まだない。
ただ、目の前の怪物が動き始める。
玲司は、引き金に指をかけた。
今度こそ、すべてを終わらせるために。




