僕ではない僕
久遠玲司は、何度も人を殺していた。
銃で撃った。剣で斬った。首を絞めた。爆薬で吹き飛ばした。
そのどれもが、鮮明だった。
引き金の重さ。刃が骨に当たる感触。命を奪った直後の、どうしようもない静けさ。
すべて覚えている。
けれど。そのどれ一つとして、玲司が経験したことではなかった。
◇
『玲司様。聞こえていますか』
声がした。
『玲司様。応答してください』
聞き慣れた声。
ノアだ。
玲司は目を開けようとした。
しかし、瞼が動かない。
代わりに見えたのは、燃える街だった。
空は赤く染まり、崩壊した建物の間を黒煙が流れている。
玲司は銃を握っていた。
いや、違う。これは自分の手ではない。
傷だらけで、節くれ立った、大人の男の手。
「隊長!」
背後から声がした。振り返る。
血まみれの軍服を着た青年が、壁にもたれていた。
「……エリオット?」
名前が、自然と口から出た。知っている。
彼はエリオット。
三年間、同じ部隊で戦った仲間。くだらない冗談ばかり言って、いつも上官に怒られていた男。
昨日、故郷に残した妹の話をしていた。
そして。今日、死ぬ。
「隊長、先に行ってください」
青年が笑った。
「俺は、もう……」
「黙れ!」
玲司は叫んだ。自分でも驚くほど、低い声だった。
「まだ助かる! 俺が――」
爆発。青年の姿が消えた。熱風が顔を焼く。
玲司は手を伸ばした。
しかし、その指が何かに触れることはなかった。
――また、守れなかった。
その後悔まで、知っていた。
◇
景色が切り替わる。白い研究室。机の上には無数の論文。
壁一面のモニターには、複雑な魔術回路が表示されている。
玲司は椅子に座っていた。
右手にはペン。左手には、冷めきったコーヒー。
時計は午前三時を示していた。研究を始めて、十一年。
あと少しだった。あと少しで、完成する。
世界線干渉理論。
異なる世界に存在する同一人物の情報を、こちらの世界へ転写する技術。
その最終段階。
玲司はモニターへ手を伸ばした。
画面には、一人の少女が映っていた。
白瀬澪。
病室のベッドに横たわり、目を閉じている。
心電図の波形は、すでに平坦だった。
「……違う」
玲司は呟いた。
「まだ、終わってない」
画面を切り替える。別の世界。別の研究結果。別の可能性。
どこかに、彼女を救える方法があるはずだ。
だが、表示される結果は変わらなかった。
――対象、死亡。
――介入失敗。
――世界線収束。
「……ふざけるな」
玲司は机を叩いた。
「何のために、ここまで……!」
その瞬間。
研究室の扉が開いた。
誰かが立っている。
黒い外套。
顔は見えない。
その人物が、静かに告げた。
「まだ、選択肢は残っている」
玲司は振り返った。
「……誰だ?」
答えはなかった。
代わりに。
研究室の照明が、すべて消えた。
◇
次に見えたのは、血だった。
赤い血。床に広がる血。
その中心に、誰かが倒れている。
伊佐波朔夜。玲司の親友。
その胸には、深い傷があった。
玲司は、剣を握っていた。
刃先から、血が滴っている。
「……なんで」
玲司は呟いた。
違う。自分じゃない。こんなことをするはずがない。
朔夜を殺すなんて。
しかし。記憶は、否定を許さなかった。
朔夜は敵だった。
あの世界では、そうだった。
世界を守るために戦い、最後には互いの信念が衝突した。
何度も説得した。何度も戦った。
そして。
最後に、玲司が勝った。
勝ってしまった。
「……玲司」
朔夜が、血を吐きながら笑った。
「お前は……間違ってない」
「喋るな!」
「……でもな」
朔夜は、震える手を伸ばした。
「俺は……お前を、止めたかった」
その手が、床へ落ちた。
玲司は、動けなかった。
親友の死体を見下ろしながら。
自分が正しかったのか、分からなくなっていた。
そして。
その記憶の中にいる玲司は、確かに思っていた。
――これでよかった。
その確信が。
今の玲司には、何より恐ろしかった。
◇
「……っ!」
玲司は、跳ね起きた。
白い天井。
消毒液の匂い。
規則的な電子音。
医療施設だった。
ベッドの横には、点滴台。
左腕には、生体情報を監視するためのセンサーが取り付けられている。
『意識の回復を確認』
ノアの声がした。
『玲司様。現在地を認識できますか』
「……ここは」
『天城魔術学院附属医療センターです』
玲司は、荒い呼吸を繰り返した。
身体中が汗で濡れている。
心臓が、痛いほど速く打っていた。
『適応型兵器との戦闘終了後、玲司様は意識を失いました』
「……そう、だった」
『現在、身体機能に重大な異常は確認されていません。ただし、神経活動には継続的な乱れが認められます』
玲司は、右手を見た。
細い指。
傷の少ない手のひら。
十七歳の少年の手。
なのに。
その手には、まだ剣を握っていた感覚が残っていた。
「……ノア」
『はい』
「僕は、誰?」
短い沈黙。
『久遠玲司様です』
「……そうだよね」
『十七歳。天城魔術学院高等部二年生。登録された生体情報と一致しています』
玲司は、目を伏せた。
「……でも、違うんだ」
『何がでしょうか』
「僕には、何十年も生きた記憶がある」
声が震えた。
「戦争に行った。研究をした。人を殺した。朔夜を……」
言葉が詰まる。
「……朔夜を、殺した」
『それらは別世界の記憶である可能性が高いと考えられます』
「分かってる!」
思わず、声を荒らげた。
玲司は、すぐに口を閉じた。
「……ごめん」
『謝罪は不要です』
ノアの声は、いつもと変わらなかった。
それが、少しだけありがたかった。
「……分かってるんだ。頭では」
玲司は、膝を抱えた。
「でも、思い出せるんだよ」
エリオットの笑顔。
研究室で過ごした十一年間。
朔夜を殺した瞬間。
そして。
澪の死。
どれも、夢のように曖昧ではない。
昨日の出来事よりも鮮明だった。
「……僕は、久遠玲司なのかな」
玲司は、呟いた。
「それとも、たくさんの久遠玲司が混ざった、別の何かなのかな」
ノアは、すぐには答えなかった。
やがて。
『私には、人格の同一性を完全に証明する方法がありません』
「……そっか」
『ですが』
玲司が顔を上げる。
『現在の玲司様が苦痛を感じていることは、確認できます』
玲司は、黙った。
『そして、その苦痛を軽減することが、私の役割です』
少しだけ。
胸の奥が、緩んだ。
そのときだった。
病室の扉が開いた。
◇
「オタクくん!」
澪だった。
制服のまま、息を切らしている。
その後ろには、朔夜もいた。
「……澪」
名前を呼んだ瞬間。
視界が、揺れた。
白い研究室。
病室のベッド。
動かない少女。
平坦な心電図。
――対象、死亡。
「……来ないで!」
玲司は、叫んでいた。
澪の足が止まる。
「……え?」
「来ないで……!」
玲司は、頭を抱えた。
目の前にいる澪。
生きている。
笑っている。
それなのに。
別の記憶では、彼女は死んでいる。
その二つが、同時に存在していた。
「……お願いだから」
玲司の声が、掠れた。
「……もう、死なないで」
澪の表情が変わった。
驚き。
戸惑い。
そして。
何かを理解したような、静かな顔。
「……オタクくん」
澪は、ゆっくりと近づいた。
「……来ないでって、言ったのに」
「うん」
澪は、頷いた。
「でも、来ちゃった」
玲司の前に、しゃがみ込む。
そして。
その手を、握った。
温かかった。
驚くほど、温かかった。
「……ほら」
澪が、小さく笑う。
「あーし、生きてるよ」
玲司は、手を見つめた。
柔らかな指。
伝わってくる体温。
確かな鼓動。
「……でも」
「でも?」
「……僕、君が死ぬところを、知ってる」
澪の指が、わずかに強くなる。
「……そっか」
それだけだった。
否定もしない。
無理に笑い飛ばしもしない。
ただ、玲司の手を握っている。
「……僕は、何度も君を救えなかった」
「うん」
「……何度も、失敗した」
「うん」
「……だから、怖いんだ」
玲司は、俯いた。
「……また、同じことになるんじゃないかって」
澪は、少しだけ考えた。
そして。
「ねえ、オタクくん」
玲司が顔を上げる。
「それって、今のオタクくんが経験したこと?」
「……違う」
「じゃあ、今のあーしは?」
「……生きてる」
「でしょ?」
澪は、笑った。
いつもの、少し得意げな笑顔。
「だったら、今はそれでよくない?」
玲司は、何も言えなかった。
「過去が何個あってもさ。あーしには、今ここにいるオタクくんしか見えないし」
澪は、玲司の手を両手で包んだ。
「どんなオタクくんでも、あーしはちゃんと分かるよ」
玲司の目から、涙が零れた。
「……どうして」
「ん?」
「……どうして、そんなこと言えるの」
澪は、少しだけ困ったように笑った。
「だってさ」
そして。
「オタクくんって、昔からそうじゃん」
「……え?」
「自分のことになると、すぐ分かんなくなるくせに」
澪は、指先で玲司の手を軽く叩いた。
「誰かが困ってると、考えるより先に動いちゃう」
玲司は、息を止めた。
「それ、ずっと変わってないよ」
◇
「……俺も、そう思う」
朔夜が、口を開いた。
病室の入口に立っていた彼が、ゆっくりと近づいてくる。
玲司は、反射的に身を強張らせた。
血。
剣。
倒れた親友。
――これでよかった。
記憶が、再び流れ込む。
「……朔夜」
「ああ」
「……僕、君を」
「知ってる」
朔夜は、静かに言った。
「さっき、医師から聞いた。別世界の記憶が混ざってるんだろ」
玲司は、頷いた。
「……僕は、君を殺した」
「……そうか」
朔夜は、少しだけ目を伏せた。
しかし。
次の瞬間には、玲司の隣へ立っていた。
「でも、俺は生きてる」
玲司は、顔を上げた。
「……え?」
「ほら」
朔夜は、自分の胸を軽く叩いた。
「心臓、動いてるだろ」
「……でも」
「それに」
朔夜は、玲司を見た。
「俺が知ってる玲司は、昔から変わらない。勝てない相手にも、誰かのために立ち向かう馬鹿だ」
玲司は、目を見開いた。
朔夜は、笑った。
「覚えてるか? 小学校の頃」
玲司は、首を傾げた。
「……何を?」
「俺が、上級生に絡まれてたときのこと」
玲司の脳裏に、小さな記憶が浮かぶ。
校舎裏。
三人の上級生。
泣きそうになっている少年。
そして。
その前に立つ、小さな自分。
「……あ」
「お前、勝てるわけないのに飛び込んできたんだよ」
朔夜は、懐かしそうに笑った。
「しかも、最初の一発で殴られて、鼻血出してさ」
「……そんなこと、あったね」
「俺、あのとき思ったんだ」
朔夜は、玲司の肩へ手を置いた。
「……こいつ、馬鹿だなって」
玲司は、思わず笑いそうになった。
「……ひどいな」
「事実だろ」
朔夜も笑った。
しかし、すぐに真剣な表情へ戻る。
「でも、同時に思った」
その声は、静かだった。
「……俺も、こうなりたいって」
玲司は、息を呑んだ。
「だから、強くなろうと思った」
朔夜は、玲司を見つめた。
「お前がまた誰かを守ろうとしたとき、今度は俺が隣に立てるように」
玲司の胸が、締めつけられた。
知らなかった。
朔夜が、そんなふうに思っていたなんて。
「……玲司」
朔夜は、言った。
「お前がどんな記憶を持ってても、俺には関係ない」
「……でも」
「俺が知ってるのは、今ここにいるお前だ」
そして。
「……そいつを、俺は信じてる」
◇
玲司は、目を閉じた。
無数の記憶が、頭の中を流れている。
戦争。研究。殺人。後悔。喪失。
別世界の自分たちが生きた、無数の人生。
それらは、消えない。
消すことも、できない。
けれど。玲司は、ゆっくりと目を開いた。
目の前には、澪がいる。
隣には、朔夜がいる。
そして。手の中には、二人の温もりがある。
今、この瞬間。
自分は、ここにいる。
「……ノア」
『はい』
「僕の名前、もう一回教えて」
『久遠玲司様です』
「……うん」
玲司は、頷いた。
「僕は、久遠玲司」
言葉にすると、少しだけ実感が湧いた。
「天城魔術学院の、二年生」
『はい』
「朔夜の、友達で」
朔夜が、笑った。
「親友だろ」
「……うん」
玲司は、少しだけ笑った。
「……澪の、幼なじみで」
澪が、得意げに胸を張る。
「そうそう。あーしの大事なオタクくん」
玲司は、深く息を吸った。
そして。
「……僕は、僕だ」
小さく、呟いた。
別世界の自分が、どれほど強くても。
どれほど多くの人生を生きていても。
どれほど大きな罪を背負っていても。
今ここにいる自分まで、同じになる必要はない。
玲司は、二人を見つめた。
「……ありがとう」
澪が笑う。
「どういたしまして」
朔夜も、頷いた。
「気にすんな」
その瞬間。
玲司の中で、何かが静かに定まった。
借りた記憶は、消えない。
けれど。
それをどう使うかは、自分が決める。
誰を守るのか。
何のために戦うのか。
どんな未来を選ぶのか。
その答えだけは。
別世界の誰にも、譲らない。
◇
病室の窓から、夕日が差し込んでいた。
崩壊した都市の一部が、遠くに見える。
まだ、戦いは終わっていない。
人工供物の暴走。
黒魔術の実験。
そして、自分の能力を知る何者か。
すべてが、どこかで繋がっている。
玲司は、窓の外を見つめた。
「……ノア」
『はい』
「さっきの記憶、保存できてる?」
『一部のみ記録されています』
「……調べたいことがあるんだ」
『何でしょうか』
玲司は、少しだけ迷った。
そして。
「……澪がいた研究室」
澪の表情が、わずかに変わった。
「……あーし?」
玲司は、頷いた。
「別世界の記憶の中に、澪がいた」
朔夜が、眉を寄せる。
「……どういうことだ?」
「分からない。でも……」
玲司は、拳を握った。
「……あの研究室、ただの研究施設じゃなかった」
白い部屋。
無数のモニター。
そして。
画面に表示されていた文字。
――《始原の奇跡》。
「……何かが、隠されてる」
玲司は、静かに言った。
「僕の能力と、澪のこと。たぶん、両方に関係してる」
朔夜は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……だったら、調べよう」
玲司が振り返る。
「……いいの?」
「当たり前だろ」
朔夜は、笑った。
「お前一人で抱え込ませるつもりはない」
澪も、玲司の手を握り直した。
「あーしも行く」
「……でも、危ないよ」
「知ってる」
澪は、真っ直ぐに玲司を見た。
「でも、あーしのことなんでしょ?」
玲司は、答えられなかった。
澪は、少しだけ笑った。
「だったら、あーし抜きで決めないでよ」
その言葉に、玲司は頷いた。
「……うん」
三人は、窓の外を見つめた。
夕日に染まる天城市。
崩れた建物。
遠くで響く警報。
そして。
その向こうにある、まだ知らない真実。
玲司は、静かに息を吐いた。
もう、逃げない。
別世界の記憶からも。
自分自身からも。
そして。
これから訪れる、どんな未来からも。
彼は、目を逸らさないと決めた。




