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18/51

僕ではない僕

 久遠玲司は、何度も人を殺していた。

 銃で撃った。剣で斬った。首を絞めた。爆薬で吹き飛ばした。

 そのどれもが、鮮明だった。

 引き金の重さ。刃が骨に当たる感触。命を奪った直後の、どうしようもない静けさ。

 すべて覚えている。

 けれど。そのどれ一つとして、玲司が経験したことではなかった。

     ◇

『玲司様。聞こえていますか』

 声がした。

『玲司様。応答してください』

 聞き慣れた声。

 ノアだ。

 玲司は目を開けようとした。

 しかし、瞼が動かない。

 代わりに見えたのは、燃える街だった。

 空は赤く染まり、崩壊した建物の間を黒煙が流れている。

 玲司は銃を握っていた。

 いや、違う。これは自分の手ではない。

 傷だらけで、節くれ立った、大人の男の手。

「隊長!」

 背後から声がした。振り返る。

 血まみれの軍服を着た青年が、壁にもたれていた。

「……エリオット?」

 名前が、自然と口から出た。知っている。

 彼はエリオット。

 三年間、同じ部隊で戦った仲間。くだらない冗談ばかり言って、いつも上官に怒られていた男。

 昨日、故郷に残した妹の話をしていた。

 そして。今日、死ぬ。

「隊長、先に行ってください」

 青年が笑った。

「俺は、もう……」

「黙れ!」

 玲司は叫んだ。自分でも驚くほど、低い声だった。

「まだ助かる! 俺が――」

 爆発。青年の姿が消えた。熱風が顔を焼く。

 玲司は手を伸ばした。

 しかし、その指が何かに触れることはなかった。

 ――また、守れなかった。

 その後悔まで、知っていた。

     ◇

 景色が切り替わる。白い研究室。机の上には無数の論文。

 壁一面のモニターには、複雑な魔術回路が表示されている。

 玲司は椅子に座っていた。

 右手にはペン。左手には、冷めきったコーヒー。

 時計は午前三時を示していた。研究を始めて、十一年。

 あと少しだった。あと少しで、完成する。

 世界線干渉理論。

 異なる世界に存在する同一人物の情報を、こちらの世界へ転写する技術。

 その最終段階。

 玲司はモニターへ手を伸ばした。

 画面には、一人の少女が映っていた。

 白瀬澪。

 病室のベッドに横たわり、目を閉じている。

 心電図の波形は、すでに平坦だった。

「……違う」

 玲司は呟いた。

「まだ、終わってない」

 画面を切り替える。別の世界。別の研究結果。別の可能性。

 どこかに、彼女を救える方法があるはずだ。

 だが、表示される結果は変わらなかった。

 ――対象、死亡。

 ――介入失敗。

 ――世界線収束。

「……ふざけるな」

 玲司は机を叩いた。

「何のために、ここまで……!」

 その瞬間。

 研究室の扉が開いた。

 誰かが立っている。

 黒い外套。

 顔は見えない。

 その人物が、静かに告げた。

「まだ、選択肢は残っている」

 玲司は振り返った。

「……誰だ?」

 答えはなかった。

 代わりに。

 研究室の照明が、すべて消えた。

     ◇

 次に見えたのは、血だった。

 赤い血。床に広がる血。

 その中心に、誰かが倒れている。

 伊佐波朔夜。玲司の親友。

 その胸には、深い傷があった。

 玲司は、剣を握っていた。

 刃先から、血が滴っている。

「……なんで」

 玲司は呟いた。

 違う。自分じゃない。こんなことをするはずがない。

 朔夜を殺すなんて。

 しかし。記憶は、否定を許さなかった。

 朔夜は敵だった。

 あの世界では、そうだった。

 世界を守るために戦い、最後には互いの信念が衝突した。

 何度も説得した。何度も戦った。

 そして。

 最後に、玲司が勝った。

 勝ってしまった。

「……玲司」

 朔夜が、血を吐きながら笑った。

「お前は……間違ってない」

「喋るな!」

「……でもな」

 朔夜は、震える手を伸ばした。

「俺は……お前を、止めたかった」

 その手が、床へ落ちた。

 玲司は、動けなかった。

 親友の死体を見下ろしながら。

 自分が正しかったのか、分からなくなっていた。

 そして。

 その記憶の中にいる玲司は、確かに思っていた。

 ――これでよかった。

 その確信が。

 今の玲司には、何より恐ろしかった。

     ◇

「……っ!」

 玲司は、跳ね起きた。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 規則的な電子音。

 医療施設だった。

 ベッドの横には、点滴台。

 左腕には、生体情報を監視するためのセンサーが取り付けられている。

『意識の回復を確認』

 ノアの声がした。

『玲司様。現在地を認識できますか』

「……ここは」

『天城魔術学院附属医療センターです』

 玲司は、荒い呼吸を繰り返した。

 身体中が汗で濡れている。

 心臓が、痛いほど速く打っていた。

『適応型兵器との戦闘終了後、玲司様は意識を失いました』

「……そう、だった」

『現在、身体機能に重大な異常は確認されていません。ただし、神経活動には継続的な乱れが認められます』

 玲司は、右手を見た。

 細い指。

 傷の少ない手のひら。

 十七歳の少年の手。

 なのに。

 その手には、まだ剣を握っていた感覚が残っていた。

「……ノア」

『はい』

「僕は、誰?」

 短い沈黙。

『久遠玲司様です』

「……そうだよね」

『十七歳。天城魔術学院高等部二年生。登録された生体情報と一致しています』

 玲司は、目を伏せた。

「……でも、違うんだ」

『何がでしょうか』

「僕には、何十年も生きた記憶がある」

 声が震えた。

「戦争に行った。研究をした。人を殺した。朔夜を……」

 言葉が詰まる。

「……朔夜を、殺した」

『それらは別世界の記憶である可能性が高いと考えられます』

「分かってる!」

 思わず、声を荒らげた。

 玲司は、すぐに口を閉じた。

「……ごめん」

『謝罪は不要です』

 ノアの声は、いつもと変わらなかった。

 それが、少しだけありがたかった。

「……分かってるんだ。頭では」

 玲司は、膝を抱えた。

「でも、思い出せるんだよ」

 エリオットの笑顔。

 研究室で過ごした十一年間。

 朔夜を殺した瞬間。

 そして。

 澪の死。

 どれも、夢のように曖昧ではない。

 昨日の出来事よりも鮮明だった。

「……僕は、久遠玲司なのかな」

 玲司は、呟いた。

「それとも、たくさんの久遠玲司が混ざった、別の何かなのかな」

 ノアは、すぐには答えなかった。

 やがて。

『私には、人格の同一性を完全に証明する方法がありません』

「……そっか」

『ですが』

 玲司が顔を上げる。

『現在の玲司様が苦痛を感じていることは、確認できます』

 玲司は、黙った。

『そして、その苦痛を軽減することが、私の役割です』

 少しだけ。

 胸の奥が、緩んだ。

 そのときだった。

 病室の扉が開いた。

     ◇

「オタクくん!」

 澪だった。

 制服のまま、息を切らしている。

 その後ろには、朔夜もいた。

「……澪」

 名前を呼んだ瞬間。

 視界が、揺れた。

 白い研究室。

 病室のベッド。

 動かない少女。

 平坦な心電図。

 ――対象、死亡。

「……来ないで!」

 玲司は、叫んでいた。

 澪の足が止まる。

「……え?」

「来ないで……!」

 玲司は、頭を抱えた。

 目の前にいる澪。

 生きている。

 笑っている。

 それなのに。

 別の記憶では、彼女は死んでいる。

 その二つが、同時に存在していた。

「……お願いだから」

 玲司の声が、掠れた。

「……もう、死なないで」

 澪の表情が変わった。

 驚き。

 戸惑い。

 そして。

 何かを理解したような、静かな顔。

「……オタクくん」

 澪は、ゆっくりと近づいた。

「……来ないでって、言ったのに」

「うん」

 澪は、頷いた。

「でも、来ちゃった」

 玲司の前に、しゃがみ込む。

 そして。

 その手を、握った。

 温かかった。

 驚くほど、温かかった。

「……ほら」

 澪が、小さく笑う。

「あーし、生きてるよ」

 玲司は、手を見つめた。

 柔らかな指。

 伝わってくる体温。

 確かな鼓動。

「……でも」

「でも?」

「……僕、君が死ぬところを、知ってる」

 澪の指が、わずかに強くなる。

「……そっか」

 それだけだった。

 否定もしない。

 無理に笑い飛ばしもしない。

 ただ、玲司の手を握っている。

「……僕は、何度も君を救えなかった」

「うん」

「……何度も、失敗した」

「うん」

「……だから、怖いんだ」

 玲司は、俯いた。

「……また、同じことになるんじゃないかって」

 澪は、少しだけ考えた。

 そして。

「ねえ、オタクくん」

 玲司が顔を上げる。

「それって、今のオタクくんが経験したこと?」

「……違う」

「じゃあ、今のあーしは?」

「……生きてる」

「でしょ?」

 澪は、笑った。

 いつもの、少し得意げな笑顔。

「だったら、今はそれでよくない?」

 玲司は、何も言えなかった。

「過去が何個あってもさ。あーしには、今ここにいるオタクくんしか見えないし」

 澪は、玲司の手を両手で包んだ。

「どんなオタクくんでも、あーしはちゃんと分かるよ」

 玲司の目から、涙が零れた。

「……どうして」

「ん?」

「……どうして、そんなこと言えるの」

 澪は、少しだけ困ったように笑った。

「だってさ」

 そして。

「オタクくんって、昔からそうじゃん」

「……え?」

「自分のことになると、すぐ分かんなくなるくせに」

 澪は、指先で玲司の手を軽く叩いた。

「誰かが困ってると、考えるより先に動いちゃう」

 玲司は、息を止めた。

「それ、ずっと変わってないよ」

     ◇

「……俺も、そう思う」

 朔夜が、口を開いた。

 病室の入口に立っていた彼が、ゆっくりと近づいてくる。

 玲司は、反射的に身を強張らせた。

 血。

 剣。

 倒れた親友。

 ――これでよかった。

 記憶が、再び流れ込む。

「……朔夜」

「ああ」

「……僕、君を」

「知ってる」

 朔夜は、静かに言った。

「さっき、医師から聞いた。別世界の記憶が混ざってるんだろ」

 玲司は、頷いた。

「……僕は、君を殺した」

「……そうか」

 朔夜は、少しだけ目を伏せた。

 しかし。

 次の瞬間には、玲司の隣へ立っていた。

「でも、俺は生きてる」

 玲司は、顔を上げた。

「……え?」

「ほら」

 朔夜は、自分の胸を軽く叩いた。

「心臓、動いてるだろ」

「……でも」

「それに」

 朔夜は、玲司を見た。

「俺が知ってる玲司は、昔から変わらない。勝てない相手にも、誰かのために立ち向かう馬鹿だ」

 玲司は、目を見開いた。

 朔夜は、笑った。

「覚えてるか? 小学校の頃」

 玲司は、首を傾げた。

「……何を?」

「俺が、上級生に絡まれてたときのこと」

 玲司の脳裏に、小さな記憶が浮かぶ。

 校舎裏。

 三人の上級生。

 泣きそうになっている少年。

 そして。

 その前に立つ、小さな自分。

「……あ」

「お前、勝てるわけないのに飛び込んできたんだよ」

 朔夜は、懐かしそうに笑った。

「しかも、最初の一発で殴られて、鼻血出してさ」

「……そんなこと、あったね」

「俺、あのとき思ったんだ」

 朔夜は、玲司の肩へ手を置いた。

「……こいつ、馬鹿だなって」

 玲司は、思わず笑いそうになった。

「……ひどいな」

「事実だろ」

 朔夜も笑った。

 しかし、すぐに真剣な表情へ戻る。

「でも、同時に思った」

 その声は、静かだった。

「……俺も、こうなりたいって」

 玲司は、息を呑んだ。

「だから、強くなろうと思った」

 朔夜は、玲司を見つめた。

「お前がまた誰かを守ろうとしたとき、今度は俺が隣に立てるように」

 玲司の胸が、締めつけられた。

 知らなかった。

 朔夜が、そんなふうに思っていたなんて。

「……玲司」

 朔夜は、言った。

「お前がどんな記憶を持ってても、俺には関係ない」

「……でも」

「俺が知ってるのは、今ここにいるお前だ」

 そして。

「……そいつを、俺は信じてる」

     ◇

 玲司は、目を閉じた。

 無数の記憶が、頭の中を流れている。

 戦争。研究。殺人。後悔。喪失。

 別世界の自分たちが生きた、無数の人生。

 それらは、消えない。

 消すことも、できない。

 けれど。玲司は、ゆっくりと目を開いた。

 目の前には、澪がいる。

 隣には、朔夜がいる。

 そして。手の中には、二人の温もりがある。

 今、この瞬間。

 自分は、ここにいる。

「……ノア」

『はい』

「僕の名前、もう一回教えて」

『久遠玲司様です』

「……うん」

 玲司は、頷いた。

「僕は、久遠玲司」

 言葉にすると、少しだけ実感が湧いた。

「天城魔術学院の、二年生」

『はい』

「朔夜の、友達で」

 朔夜が、笑った。

「親友だろ」

「……うん」

 玲司は、少しだけ笑った。

「……澪の、幼なじみで」

 澪が、得意げに胸を張る。

「そうそう。あーしの大事なオタクくん」

 玲司は、深く息を吸った。

 そして。

「……僕は、僕だ」

 小さく、呟いた。

 別世界の自分が、どれほど強くても。

 どれほど多くの人生を生きていても。

 どれほど大きな罪を背負っていても。

 今ここにいる自分まで、同じになる必要はない。

 玲司は、二人を見つめた。

「……ありがとう」

 澪が笑う。

「どういたしまして」

 朔夜も、頷いた。

「気にすんな」

 その瞬間。

 玲司の中で、何かが静かに定まった。

 借りた記憶は、消えない。

 けれど。

 それをどう使うかは、自分が決める。

 誰を守るのか。

 何のために戦うのか。

 どんな未来を選ぶのか。

 その答えだけは。

 別世界の誰にも、譲らない。

     ◇

 病室の窓から、夕日が差し込んでいた。

 崩壊した都市の一部が、遠くに見える。

 まだ、戦いは終わっていない。

 人工供物の暴走。

 黒魔術の実験。

 そして、自分の能力を知る何者か。

 すべてが、どこかで繋がっている。

 玲司は、窓の外を見つめた。

「……ノア」

『はい』

「さっきの記憶、保存できてる?」

『一部のみ記録されています』

「……調べたいことがあるんだ」

『何でしょうか』

 玲司は、少しだけ迷った。

 そして。

「……澪がいた研究室」

 澪の表情が、わずかに変わった。

「……あーし?」

 玲司は、頷いた。

「別世界の記憶の中に、澪がいた」

 朔夜が、眉を寄せる。

「……どういうことだ?」

「分からない。でも……」

 玲司は、拳を握った。

「……あの研究室、ただの研究施設じゃなかった」

 白い部屋。

 無数のモニター。

 そして。

 画面に表示されていた文字。

 ――《始原の奇跡》。

「……何かが、隠されてる」

 玲司は、静かに言った。

「僕の能力と、澪のこと。たぶん、両方に関係してる」

 朔夜は、しばらく黙っていた。

 やがて。

「……だったら、調べよう」

 玲司が振り返る。

「……いいの?」

「当たり前だろ」

 朔夜は、笑った。

「お前一人で抱え込ませるつもりはない」

 澪も、玲司の手を握り直した。

「あーしも行く」

「……でも、危ないよ」

「知ってる」

 澪は、真っ直ぐに玲司を見た。

「でも、あーしのことなんでしょ?」

 玲司は、答えられなかった。

 澪は、少しだけ笑った。

「だったら、あーし抜きで決めないでよ」

 その言葉に、玲司は頷いた。

「……うん」

 三人は、窓の外を見つめた。

 夕日に染まる天城市。

 崩れた建物。

 遠くで響く警報。

 そして。

 その向こうにある、まだ知らない真実。

 玲司は、静かに息を吐いた。

 もう、逃げない。

 別世界の記憶からも。

 自分自身からも。

 そして。

 これから訪れる、どんな未来からも。

 彼は、目を逸らさないと決めた。

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