澪の奇跡
世界が止まった。
少なくとも、久遠玲司にはそう見えた。
落下する鉄骨。砕け散る窓ガラス。崩壊する建物。
そのすべてが、空中で静止していた。
そして、その中心に。
白瀬澪が立っていた。
◇
――三分前。
「オタクくん! こっち!」
澪の声に、玲司は振り返った。
天城市北東地区。
学院の防衛線から数百メートル離れた商業区画では、避難誘導が続いていた。
道路には放置された車両が並び、遠くでは黒い煙が上がっている。
先ほどまで朔夜とともに戦っていた玲司は、避難通路の安全確認を任されていた。
「澪! どうしてここに!?」
「あーしだって避難誘導くらいできるし!」
「でも、危ないよ!」
「それ、オタクくんが言う?」
返す言葉がなかった。
澪は少しだけ笑うと、すぐに真剣な表情へ戻った。
「それより、あっち。まだ人がいる」
指さした先には、六階建ての複合施設があった。
一階部分が崩れ、建物全体が道路側へ傾いている。
その入口で、女性が泣き叫んでいた。
「お願いします! 娘が、まだ中に!」
玲司は走り出した。
『警告。対象建造物の構造安定性が著しく低下しています』
「ノア、中に何人いる?」
『熱源反応、四名。成人二名、未成年二名と推定』
「救助経路は?」
『北側非常口が使用可能。ただし、倒壊までの予測時間は――』
ノアの声が途切れた。
建物の奥で、轟音が響いた。
黒い腕が、外壁を突き破る。
異形だった。
建物内部に侵入した人工供物が、支柱を破壊していた。
「……っ!」
玲司はデバイスを構えた。
「朔夜! 聞こえる!?」
『玲司? どうした!』
「避難施設に異形がいる! 中に四人、取り残されてる!」
『位置を送れ! すぐ向かう!』
「分かった!」
通信を切る。
玲司は、建物へ向かおうとした。
だが、その腕を澪が掴んだ。
「待って、オタクくん」
「澪?」
「……あれ、もう倒れるよ」
澪の視線を追う。
建物の中央に、亀裂が走っていた。
支柱が折れる。床が沈む。そして。
建物全体が、ゆっくりと傾き始めた。
◇
「――玲司!」
朔夜が到着したのは、建物の外壁が崩れ始めた瞬間だった。
赤い光をまとった朔夜が、道路を駆け抜ける。
「中に四人だな!」
「うん! でも、もう――!」
「まだだ!」
朔夜はデバイスを構えた。
青魔術、論理構築術式
建物の構造を解析する。
視界に、無数の赤い警告が浮かび上がった。
『主要支持構造、破断』
『荷重分散機構、機能停止』
『倒壊予測――八秒』
「……八秒か」
朔夜は歯を食いしばった。
赤魔術で突入する。
救助対象を抱える。
外へ運び出す。
だが、四人。
八秒では足りない。
「玲司! 俺が中へ入る! お前は出口を確保しろ!」
「分かった!」
朔夜が走る。
その瞬間。
建物の内部から、黒い触手が伸びた。
「――っ!」
朔夜は身を捻った。
触手が道路を叩き割る。
続いて、異形の巨体が外壁を突き破った。
全長二メートルを超える、黒い人工供物。
胸部には複数の術式核。
その腕が、朔夜へ振り下ろされる。
「邪魔だ!」
赤魔術による拳撃。
異形が吹き飛ぶ。
しかし、倒れない。
砕けた腕が、瞬く間に再生していく。
『倒壊予測、残り五秒』
ノアの声。
玲司の心臓が跳ねた。
「朔夜!」
「分かってる!」
朔夜は緑魔術、原生循環術式を起動した。
炎が異形を包む。
その隙に、建物へ向かう。
だが。天井が落ちた。巨大な鉄骨が、入口を塞ぐ。
内部から、悲鳴が聞こえた。
「助けて!」
幼い声だった。
玲司は、考えるより先に走り出していた。
『警告。接近を中止してください!』
「でも!」
『残り三秒!』
玲司は、別世界の記憶を探った。
災害救助に従事した自分。
崩壊した都市で生存者を救った自分。
瓦礫の中を進んだ自分。
しかし。どの記憶にも、三秒で四人を救う方法はなかった。
どれほど優れた技術でも。
どれほど豊富な経験でも。
時間そのものは、増やせない。
「……間に合わない」
玲司の口から、声が漏れた。
そのとき。
「――やだ」
背後から、澪の声がした。
◇
澪は、動けなかった。
目の前で建物が崩れていく。
中には、まだ人がいる。
小さな女の子が、泣いている。
玲司が走っている。
朔夜も、必死に手を伸ばしている。
でも、届かない。間に合わない。そんなことは、誰が見ても分かった。
それでも。
「……やだよ」
澪は、震える手を握りしめた。
怖かった。逃げたかった。足がすくんでいた。
自分には、朔夜のような魔術は使えない。
玲司のように、危険へ飛び込む勇気だってない。
いつも、二人の後ろにいた。
危ないから下がっていろと言われれば、笑って頷いた。
心配をかけたくなくて、平気なふりをした。
でも。
それが、嫌だった。
「……なんで」
声が震える。
「なんで、いつも二人ばっかり……!」
崩れる建物。
走る玲司。
伸ばされた朔夜の手。
そして。
助けを求める、小さな声。
「……助けたい」
澪は、一歩踏み出した。
「お願い……」
もう一歩。
「誰でもいいから……!」
涙が、頬を伝った。
「――あの子たちを、助けさせてよ!」
その瞬間。
白い光が、溢れた。
◇
音が消えた。
玲司は、思わず足を止めた。
目の前で。
落下していた鉄骨が、止まっていた。
砕けたガラス片が、空中に浮かんでいる。
崩壊しかけた壁が、あり得ない角度のまま静止していた。
「……え?」
風は吹いている。
遠くのサイレンも聞こえる。
自分の心臓も動いている。
時間が止まったわけではない。
ただ。
崩れるはずだったものだけが、崩れていなかった。
『……異常』
ノアの声が震えたように聞こえた。
『建造物の荷重状態に、説明不能な変化を検出』
「ノア……?」
『支持構造は破断しています。にもかかわらず、落下が発生していません』
玲司は、ゆっくりと振り返った。
そこに、澪がいた。
両手を前へ伸ばしている。
指先が、小刻みに震えていた。
その周囲に、淡い白色の光が漂っている。
「……澪?」
呼びかけても、返事はない。
澪は、ただ建物を見つめていた。
「……早く」
掠れた声。
「オタクくん……早く、助けて……!」
玲司は、我に返った。
「朔夜!」
「ああ!」
二人は同時に走り出した。
朔夜が赤魔術で鉄骨の隙間を抜ける。
玲司は、ノアの誘導に従って内部へ突入した。
『右側、三メートル。生体反応二名』
「いた!」
倒れた棚の下に、母親と幼い少女がいた。
「動けますか!?」
「は、はい……!」
「こっちです!」
玲司が少女を抱き上げる。
母親を支え、出口へ向かう。
その横を、朔夜が駆け抜けた。
「残り二人は俺が運ぶ!」
「お願い!」
朔夜は奥の部屋へ飛び込み、負傷した男性と少年を抱えた。
赤魔術で脚力を強化。
一気に出口へ向かう。
しかし。
空中に静止していた鉄骨が、わずかに動いた。
ぎしり。
建物全体が、軋む。
「……っ!」
澪が、苦しそうに顔を歪めた。
白い光が、薄れていく。
『警告。異常な支持状態が崩壊しつつあります』
「澪!」
玲司が叫ぶ。
澪は、震えながら笑った。
「……だい、じょうぶ」
その声は、まったく大丈夫そうではなかった。
「……あーし、まだ……」
指先から、白い光が零れる。
「……離さない、から……!」
玲司は、走った。
少女を抱えたまま、出口へ飛び出す。
続いて母親。
そして、朔夜が二人を抱えて飛び出した。
「全員出た!」
その声が響いた瞬間。
澪の膝が、崩れた。
白い光が、消える。
次の瞬間。
轟音。
建物が、崩壊した。
◇
土煙が、道路を覆った。
砕けたコンクリートが、地面へ降り注ぐ。
玲司は少女を母親へ預けると、すぐに振り返った。
「澪!」
道路の端。
澪が、座り込んでいた。
玲司は駆け寄った。
「澪! 大丈夫!?」
「……あは」
澪は、顔を上げた。
いつものように、笑おうとしていた。
けれど、その唇は震えていた。
「……やっば。ちょっと、足に力入んないかも」
「無理しないで!」
「……オタクくん、声でかい」
玲司は、言葉を失った。
澪の手を握る。
冷たかった。
それなのに、彼女の額には汗が浮かんでいた。
「……今の、何?」
玲司が尋ねる。
澪は、首を傾げた。
「……分かんない」
「分からないって……」
「ほんとに、分かんないんだって」
澪は、自分の手を見つめた。
「ただ、助けたいって思っただけ」
そのとき。
ノアが、静かに告げた。
『先ほどの現象について、解析結果を報告します』
「……うん」
『白魔術、神話顕現術式に類似した波長を検出しました』
玲司の目が見開かれる。
「……白魔術?」
奇跡に関わる、極めて希少な魔術系統。
通常の術式理論では、完全に説明できない現象を引き起こすとされている。
だが。
『異常があります』
「……何?」
『術式の起動過程を確認できません』
ノアは続けた。
『サクリファイス・カートリッジの消費も検出されていません』
「……そんな」
玲司は、澪を見た。
澪は、魔術デバイスを持っていない。
術式も構築していない。
それなのに。
崩壊する建物を、止めた。
『観測結果に対応する代償消費を確認できません』
ノアの声が、静かに響いた。
玲司は、背筋が冷たくなるのを感じた。
魔術には、代償が必要だ。
何かを得るためには、何かを差し出さなければならない。
それが、代償律
この世界の魔術を支える、絶対の原則。
だが、澪の力には。
その代償が、見当たらなかった。
◇
「……澪」
玲司は、静かに口を開いた。
「どうして、あんなことを……」
澪は、少しだけ目を伏せた。
「……怒ってる?」
「違うよ!」
玲司は、慌てて首を振った。
「ただ、危なかったから……!」
「……そっか」
澪は、ゆっくりと笑った。
いつもの、少しお姉さんぶった笑顔。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
「……あーしだってさ」
小さな声。
「あーしだって、オタクくんたちに守られてるだけじゃ嫌なんだよ」
玲司は、何も言えなかった。
「二人とも、いつも勝手に危ないことして」
澪は、俯いた。
「……あーしだけ、何にもできなくて」
握りしめた手が、震える。
「……怖かったんだよ」
玲司は、息を呑んだ。
澪は、顔を上げた。
「オタクくんが、いつか帰ってこなくなるんじゃないかって」
その言葉に。
玲司の脳裏を、見知らぬ記憶がよぎった。
血に染まった制服。
冷たい手。
動かなくなった澪。
――違う。
玲司は、強く目を閉じた。
今、目の前にいる澪は、生きている。
ちゃんと、笑っている。
ちゃんと、手を握り返してくれている。
「……ごめん」
玲司は、呟いた。
「……僕、澪の気持ち、ちゃんと考えてなかった」
澪は、少し驚いた顔をした。
そして。
「……ほんとだよ、もう」
小さく笑った。
「だから、次からはちゃんと相談してよね」
「……うん」
「一人で全部背負おうとしないこと」
「……うん」
「あと、あーしのこと、勝手に弱いって決めつけないこと」
玲司は、少しだけ笑った。
「……分かった」
澪は、満足そうに頷いた。
そのとき。
「……お前ら」
背後から、朔夜の声がした。
二人が振り返る。
朔夜は、腕を組んで立っていた。
その表情は、どこか呆れていた。
「……俺もいるんだけど」
澪が、目を丸くする。
そして。
「……あはっ!」
笑った。
玲司も、つられて笑う。
朔夜は、ため息をついた。
「……まったく」
けれど、その口元には。
小さな笑みが浮かんでいた。
◇
数分後。
救助された四人は、医療班へ引き渡された。
少女は、母親に抱きしめられながら泣いていた。
その姿を見て、澪は安堵したように息を吐いた。
「……よかった」
玲司は、隣に座った。
「……うん」
澪は、自分の手を見つめた。
もう、白い光は出ていない。
何度試しても、何も起こらなかった。
「……ねえ、オタクくん」
「何?」
「あーし、何したんだろ」
玲司は、少し考えた。
けれど、答えは見つからなかった。
「……分からない」
「……そっか」
澪は、空を見上げた。
灰色の雲の向こうに、わずかな青空が見えていた。
「……でも」
澪は、微笑んだ。
「助けられたなら、よかった」
玲司は、その横顔を見つめていた。
そして、思った。
あの白い光は。
魔術だったのだろうか。
それとも。
この世界の理屈では説明できない、何かだったのだろうか。
答えは、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
今日。
白瀬澪は、四人の命を救った。
そして。
久遠玲司は、初めて知った。
守りたいと思っていた少女もまた。
誰かを守るために、必死に手を伸ばしていたのだと。




