都市封鎖
天城市が封鎖されたのは、午前八時十七分のことだった。
その三分前まで、街はいつもどおりだった。
通勤客を乗せた自動運転バスが走り、駅前の大型モニターには新型魔術デバイスの広告が流れていた。魔術研究都市の朝としては、何の変哲もない光景だった。
異変は、一台のバスから始まった。
交差点の中央で、突然ブレーキがかかった。
後続車が急停止する。
クラクションが鳴り響いた。
運転席のない車内で、乗客たちが窓の外を見つめる。
横断歩道に、一人の男が立っていた。
病衣に似た白い服。裸足。俯いた顔。
信号が赤に変わっても、男は動かなかった。
やがて、男の右腕が持ち上がった。
肘が、逆方向へ折れ曲がる。
次いで、肩から黒い線が浮かび上がった。
線は皮膚の下を這い、胸部から首筋へ広がっていく。
誰かが悲鳴を上げた。
男の頭が、ゆっくりと持ち上がる。
顔には、目も鼻もなかった。
次の瞬間。
男の身体が、バスへ向かって跳躍した。
轟音。
車体の側面が大きく陥没する。
窓ガラスが砕け、乗客たちの悲鳴が交差点に響いた。
都市防衛システムが即座に反応した。
道路脇の防衛端末から青い障壁が展開される。
しかし、異形は止まらなかった。
黒い腕が障壁へ突き刺さる。
一度。
二度。
三度目の衝撃で、青い光が砕け散った。
直後、周辺の防衛端末が一斉に沈黙した。
交差点の信号が消える。
道路上の誘導表示が乱れる。
大型モニターに、赤い警告文が浮かび上がった。
『緊急警報。市内複数地点において未確認魔術災害が発生』
『市民は直ちに最寄りの避難施設へ移動してください』
その警告は、天城市の全域へ送信された。
だが、すでに遅かった。
北部研究区画。
中央商業区。
東部居住区。
そして、天城魔術学院の周辺。
四つの地区で、同時に黒い魔術反応が検出されていた。
◇
「……何、これ」
久遠玲司が異変に気づいたのは、一時間目の授業が始まる直前だった。
教室の窓から、黒い煙が見えていた。
遠くでサイレンが鳴っている。
一台ではない。
何台もの緊急車両が、同じ方向へ走っていた。
『玲司。緊急情報を受信しました』
机の上に置いた魔術デバイスから、ノアの声が響く。
『天城市内で複数の人工供物が暴走。都市防衛局は第三級魔術災害を宣言しました』
「……人工供物?」
『地下研究施設で確認された個体と、類似する黒魔術反応が検出されています』
玲司の背筋が冷たくなった。
数日前の地下施設。
再生する身体。
見えている位置と実際の位置が一致しない異形。
そして、自分へ向けられた朔夜の背中。
記憶が、一瞬だけ重なる。
「オタクくん?」
隣から声がした。
白瀬澪だった。
「顔、真っ青なんだけど」
「……大丈夫」
「それ、全然大丈夫じゃない人の顔だし」
澪は眉を寄せた。
玲司が言い返そうとした、そのとき。
教室の照明が赤く切り替わった。
『緊急避難指示。全生徒は教職員の誘導に従い、指定避難区画へ移動してください』
ざわめきが広がる。
「避難って、何があったんだよ」
「外で爆発したって!」
「中央区にも化け物が出たらしいぞ!」
誰かが携帯端末を操作する。
映し出された映像には、横転した車両と、道路を這う黒い異形が映っていた。
教室が静まり返る。
玲司には、その姿に見覚えがあった。
「……同じだ」
思わず呟く。
「地下施設にいたやつと……」
「玲司」
低い声がした。
振り返ると、伊佐波朔夜が立っていた。
その表情に、いつもの余裕はなかった。
「先生から連絡が来た。俺は防衛隊に合流する」
「……防衛隊?」
「ああ。学院周辺にも反応がある」
朔夜は窓の外へ視線を向けた。
「避難経路を確保しないと、全員が地下シェルターに入れない」
「僕も――」
「玲司」
朔夜が遮った。
「お前は澪と避難してくれ」
玲司は言葉を失った。
朔夜は続ける。
「地下施設で何があったか、忘れたわけじゃないだろ」
玲司の右手が、わずかに震えた。
朔夜を敵と誤認した。
あのとき、ノアが照準補助を停止していなければ。
自分は、親友を撃っていたかもしれない。
「……うん」
玲司は俯いた。
朔夜は、その肩へ手を置いた。
「お前を信用してないわけじゃない」
「……分かってる」
「だから、今は無理するな」
朔夜は小さく笑った。
「こっちは任せろ」
それだけ言い残し、教室を出ていった。
◇
午前八時三十六分。
天城魔術学院、中央指揮室。
「北門の防衛端末が停止! 東側も応答がありません!」
「都市防衛局からの増援は?」
「市内全域で交戦中。到着時刻は未定です!」
大型投影画面には、学院周辺の地図が表示されていた。
赤い点が、次々と増えていく。
未確認個体。
黒魔術反応。
そして、防衛システムの通信途絶地点。
朔夜は画面を見つめた。
「……敵の移動が妙ですね」
教員が振り返る。
「どういうことだ?」
「北側の個体は最短経路を使っていません。わざわざ防衛端末の少ない道路を通っています」
朔夜は地図の一点を指した。
「東側も同じです。偶然とは思えません」
「何者かが誘導していると?」
「可能性はあります」
朔夜は、青魔術、論理構築術式を起動した。
地図の上に細い光の線が走る。
道路幅。
障壁の配置。
避難経路。
敵の予測移動速度。
それらを重ね合わせた瞬間、朔夜の表情が変わった。
「……まずい」
「どうした?」
「このままだと、東門の避難経路が七分後に塞がれます」
教員が息を呑む。
「対処できるか?」
「俺一人では無理です」
朔夜は即答した。
そして、画面へ三本の線を引いた。
「赤魔術の適性者を東門へ。障壁が破られた場合の近接防衛を担当してもらいます」
次の線。
「緑魔術の適性者は北側道路へ。炎で敵の進路を制限してください。建物に燃え移らないよう、出力は最小限に」
最後の線。
「青魔術の適性者は各班の情報支援です。異形の術式反応を解析して、弱点と移動予測を共有する」
教員は、朔夜を見つめた。
「お前は?」
「北側と東側の接続地点へ行きます」
「そこが最も危険だぞ」
「分かっています」
朔夜は、デバイスを構えた。
「だから、俺が行きます」
◇
午前八時四十一分。
学院地下避難通路。
玲司は、澪とともに避難する生徒の列へ加わっていた。
通路には、数百人の生徒がいた。
泣いている一年生。
家族へ連絡する生徒。
不安そうに天井を見上げる者。
玲司は、黙って歩いていた。
『玲司。心拍数が上昇しています』
「……分かってる」
『記憶混線の再発を防ぐため、戦闘行為は避けるべきです』
「……うん」
ノアの判断は正しい。
朔夜の言葉も正しい。
自分が戦場へ出れば、また誰かを傷つけるかもしれない。
それなら、避難するべきだ。
そう考えていた。
そのとき。
通路の奥で、爆発音が響いた。
照明が明滅する。
悲鳴が上がった。
『警告。東側避難経路で防衛障壁の破損を検出』
ノアの声。
続いて、館内放送が流れた。
『東側通路は使用できません。避難中の生徒は西側経路へ――』
放送が途切れた。
人の流れが止まる。
「西側って、どっち!?」
「先生は!?」
「押さないで!」
混乱が広がった。
玲司は、澪の手を掴んだ。
「こっち」
「オタクくん?」
「西側の連絡通路がある。そっちなら――」
言いかけた瞬間。
小さな声が聞こえた。
「……お母さん」
玲司は振り返った。
避難列の外れ。
壁際に、一人の少女が座り込んでいた。
学院の生徒ではない。
近隣の住民だろう。
年齢は、七歳ほど。
膝から血を流し、動けなくなっていた。
周囲の人々は、避難することで精一杯だった。
少女は、誰にも気づかれていない。
玲司の足が止まった。
「……オタクくん?」
澪が振り返る。
玲司は、少女を見つめていた。
このまま進めば、安全な場所へ行ける。
朔夜との約束も守れる。
自分が誰かを傷つけることもない。
それが、正しい選択のはずだった。
だが。
少女が、もう一度呟いた。
「……助けて」
玲司は、走り出していた。
「オタクくん!」
澪の声が背後から響く。
玲司は少女の前へしゃがみ込んだ。
「大丈夫。立てる?」
少女は、首を振った。
「……足が、痛い」
「そっか」
玲司は、できるだけ穏やかに笑った。
「じゃあ、僕が運ぶよ」
少女を背負おうとした、そのとき。
通路の奥から、黒い腕が伸びた。
壁が砕ける。
粉塵が舞う。
異形だった。
長い腕。
不自然に曲がった関節。
胸部を走る黒い術式。
地下施設で見たものと、同じだった。
『警告。敵性個体を確認』
ノアが告げる。
『距離二十八メートル。接近中』
玲司は、少女を背中へ回した。
「……澪!」
「分かってる!」
駆け寄ってきた澪が、少女を受け取る。
「この子はあーしが連れてく!」
「お願い」
「オタクくんは!?」
玲司は、デバイスを構えた。
黒い銃身に、青い照準光が走る。
「……少しだけ、時間を稼ぐ」
澪が息を呑んだ。
「でも、朔夜が――」
「分かってる」
玲司は、頷いた。
「僕も、戦うのが怖い」
手は震えていた。
頭の奥では、知らない戦場の記憶が蠢いている。
また、自分が自分でなくなるかもしれない。
それでも。
目の前には、逃げ遅れた人がいた。
「……でも」
玲司は、引き金へ指をかけた。
「この子を置いていく方が、もっと怖いんだ」
異形が、跳躍した。
『敵性個体、急接近!』
ノアの警告。
玲司は、銃口を上げる。
だが、引き金は引かなかった。
まず、敵を見る。
腕の長さ。
着地点。
背後にいる避難民。
発砲すれば、弾が通路の奥へ抜ける。
危険だ。
ならば。
「ノア。低出力の拘束弾、使える?」
『使用可能。ただし、対象の拘束成功率は低いと推定』
「倒さなくていい」
玲司は、息を吸った。
「三秒だけ、止めたい」
『了解。拘束弾を装填』
銃口に、青い光が集まる。
異形が迫る。
玲司は、床を狙った。
発砲。
魔術弾が、異形の着地点へ命中する。
青い拘束線が広がり、黒い脚へ絡みついた。
異形の動きが止まる。
一秒。
二秒。
拘束線が、軋む。
「澪! 今!」
「うん!」
澪が、少女を抱えて走り出す。
玲司は、その背中を確認した。
そして、後退する。
三秒目。
拘束線が砕け散った。
異形が、再び動き出す。
『玲司。退避を推奨します』
「……うん」
玲司は、走った。
背後で、黒い腕が床を叩き砕く。
衝撃が、足元を揺らした。
それでも、振り返らなかった。
今の自分にできること。
それを、間違えないために。
◇
午前八時四十七分。
天城魔術学院、北東防衛線。
朔夜のデバイスに、緊急通信が入った。
『東側避難通路に敵性個体が侵入。避難民の一部が取り残されています』
「……東側?」
朔夜の表情が変わる。
そこには、玲司と澪がいるはずだった。
続いて、別の通信。
『避難通路内で魔術弾の発射を確認。発射者は――』
一瞬の間。
『久遠玲司』
朔夜は、目を閉じた。
「……あいつ」
呆れたように呟く。
だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
昔から、そうだった。
勝てるはずのない相手でも。
怖くて震えていても。
誰かが助けを求めれば、放っておけない。
だからこそ。
朔夜は、強くなろうと決めたのだ。
「……まったく」
朔夜は、デバイスを構え直した。
青い術式が展開される。
周囲の敵性反応が、光点となって浮かび上がった。
北側に八体。
東側に六体。
そして、学院へ向かってくる新たな反応。
十体。
二十体。
さらに、その後方にも。
朔夜は、静かに息を吐いた。
「……随分と、大勢で来たな」
右腕に赤い光。
左手に緑色の炎。
足元には、青い解析陣。
三色の魔術が、闇の中で輝いた。
通信機から、教員の声が響く。
『伊佐波! 敵の数が多すぎる! 一度後退しろ!』
朔夜は、前方を見つめた。
防衛線の向こう。
黒い異形の群れが、ゆっくりと姿を現していた。
その背後には、まだ避難を終えていない人々がいる。
そして、学院には。
玲司と澪がいる。
「……後退はできません」
朔夜は、静かに答えた。
『何を言っている!』
「ここを抜かれたら、避難経路が全部塞がれます」
赤い光が、強くなる。
「だから」
朔夜は、一歩踏み出した。
「ここで止めます」
異形の群れが、一斉に走り出した。
その瞬間。
天城市全域に、第二次緊急警報が響き渡った。
『都市防衛システム、広域機能停止』
『全市民に告ぐ』
『天城市は、これより完全封鎖区域へ移行します』
街を囲む巨大な防衛障壁が、赤く染まる。
外部へ通じる道路が閉鎖される。
鉄道が停止する。
空路が遮断される。
人口百万人を超える魔術研究都市は、巨大な檻となった。
そして、その内側で。
人間と異形の戦争が、始まろうとしていた。




